喫茶店ローズ番外編「今日は猫の日」
今日は猫の日ですね。
二月二十二日。
朝の仕込みが一段落し、厨房に静けさが戻る。
オスカーはボウルを抱えたまま、小さくため息をついた。
「……今日、猫の日なんですよね」
ぽつり。
返事をしたのは、背後に立つ巨大な影だった。
「そうですね」
振り返らなくても分かる。
ガブリエルだ。
白髪混じりの短髪を整え、修道服風の服をきちんと着こなしている。
二メートルの体が厨房にいると、単純に狭い。
「オスカー君は、猫がお好きなのですか?」
穏やかな声。
オスカーは少しだけ目を泳がせる。
「え、ええと……好き、です。小さい頃、近所の野良猫に餌あげてて……」
「それは、よいことです」
即答だった。
「神は、弱い存在を見過ごす者よりも、手を差し伸べる者を好まれます」
オスカーは、少しだけ笑う。
「ガブリエルさんって、ほんと神父みたいなこと言いますよね」
「元、です」
淡々と訂正。
そのまま、ガブリエルは腕を組む。
筋肉がぎゅ、と布を押し上げる。
「私は猫に触れたことが、ほとんどありません」
「えっ」
「体格のせいか、逃げられます」
真顔。
オスカーは一瞬きょとんとしたあと、吹き出した。
「た、確かに……ちょっと……迫力ありますもんね」
「自覚はあります」
落ち着いた声で言うが、どこか本気で残念そうだ。
「以前、撫でようとしたところ……威嚇されました」
「それは怖がってますね……」
「ええ。ですので、距離を守るようにしています」
オスカーは少し考えてから、そっと言う。
「たぶん、ゆっくりしゃがんで、目をじっと見ないで、手を低く出せば……」
「ほう」
ガブリエルは真面目に頷く。
「オスカー君は詳しいのですね」
「い、いや、その……ちょっとだけ」
そのとき、裏口の外から、かすかな鳴き声が聞こえた。
「……にゃ」
二人同時に止まる。
オスカーが顔を上げる。
「今の……」
ガブリエルも静かに扉を見る。
「神の導きでしょうか」
「いや偶然です」
即否定。
オスカーがそっと裏口を開けると、小さな三毛猫が一匹、ゴミ箱の近くに座っていた。
警戒気味に、こちらを見ている。
オスカーはゆっくりしゃがむ。
「大丈夫だよ……」
小さな声。
猫は逃げない。
背後から、巨大な影が近づく。
「ガブリエルさん、ちょ、ちょっと待っ――」
もう遅い。
二メートルの元神父が、ものすごく慎重にしゃがむ。
ぎし、と床が鳴る。
猫と、目が合う。
沈黙。
オスカーは息を止めた。
猫は――
逃げなかった。
代わりに、小さく一歩近づき、ガブリエルの差し出した指先の匂いを嗅ぐ。
ガブリエルの瞳が、ほんのわずかに見開かれた。
「……触れても、よろしいでしょうか」
「い、いまなら……!」
指先が、そっと猫の頭に触れる。
柔らかい毛並み。
猫は嫌がらない。
ガブリエルの声が、少しだけ低くなる。
「……温かい」
それは祈りの声より、ずっと素直だった。
オスカーは、その様子を見て、ほっと笑う。
「今日は、いい日ですね」
「ええ」
ガブリエルは静かに頷く。
「猫の日とは、実に尊い記念日です」
三毛猫は、しばらく撫でられたあと、ふらりと去っていった。
ガブリエルは立ち上がり、服の埃を払う。
「……また、来るでしょうか」
その声音は、どこか期待を含んでいた。
オスカーは、少し照れくさそうに笑う。
「たぶん。優しくされた場所は、覚えてますから」
ガブリエルは、ゆっくりと頷いた。
「では、私も覚えておきましょう」
厨房に戻る二人の背中は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。




