喫茶店ローズ番外編「私服について」
喫茶店ローズの扉が、静かに開いた。
午後の光が床に細く差し込み、店内には珈琲の香りと、ゆるやかな時間が流れている。
その静寂を、場違いな声が破った。
「――じゃーん」
軽い調子。
常連席で抹茶ラテを口に運んでいた鷹司の手が、止まる。
彼はゆっくりと顔を上げた。
そこに立っていたのは、白銀の髪を後ろで束ねた男――エドワード・ハーヴィー。
だが、いつもの燕尾服ではない。
黒のレザージャケット。開襟の黒シャツ。首元には無造作に巻かれたストール。銀のネックレスが光を拾っている。
七十年の歳月を重ねた男が、妙に若作りをしたような装いだった。
沈黙。
鷹司の琥珀色の瞳が、上から下へ、ゆっくりと彼をなぞる。
審美眼は、容赦がない。
「……その装いは何だ」
低く、整った声。
怒鳴らない。ただ一言で、空気が引き締まる。
エドワードは肩をすくめた。
「私服だ。問題でも?」
「大いにある」
即答だった。
鷹司はカップを静かに置く。その所作に無駄はない。
「軽い」
「服だぞ?」
「軽い」
繰り返す声音に、揺らぎはない。
「貴様の歩んできた年月が、一片も感じられぬ」
エドワードは片眉を上げた。
「人生を布切れに縫い込む趣味はない」
「違う」
鷹司は立ち上がる。背筋は真っ直ぐ、気配だけで場が静まる。
「装いは精神の形だ」
エドワードの前で足を止め、至近距離から見上げる。
「焦りは愚者の息。勝負の呼吸を乱すものだ」
「何の勝負だ」
「人生だ」
即答。
エドワードは鼻で笑った。
「大袈裟だな」
「貴様は勝利を追う男だ。合理と冷徹で盤面を支配する」
鷹司の視線が、ストールに落ちる。
「その軽さは、貴様らしくない」
静かだが、断罪のような響き。
「……若く見えると、孫娘に言われてな」
「似合わぬ」
即座に返る。
エドワードの蒼い瞳がわずかに細まる。
「容赦がないな」
「私は“美”を追う」
琥珀の瞳が揺るがない。
「美しくない勝利を嫌うように、美しくない姿も嫌う」
「美、か」
エドワードは小さく息を吐いた。
「勝てばいい。形などどうでもいい」
「それが貴様の弱さだ」
一瞬、空気が凍る。
エドワードの声は穏やかだった。
「死ね」
静かな毒。
だが鷹司は微動だにしない。
「その刃の鋭さは失われていない。安心した」
「何だと」
「だが、その格好は刃を鈍らせる」
鷹司は一歩下がる。
「貴様は老いたのではない。研ぎ澄まされたのだ」
静かな声。
「それを隠すな」
エドワードは、しばし黙った。
窓の外、風が木々を揺らす。
「……たまには、重さから逃げたくなる」
ぽつりと漏れた本音。
鷹司の表情が、ほんの僅かに柔らぐ。
「逃げるな」
短い言葉。
「貴様は重さを背負ってこそ、美しい」
エドワードは目を細める。
「褒めているのか、貶しているのか」
「事実を述べているだけだ」
静かな沈黙。
やがてエドワードは、ゆっくりとジャケットの襟を直した。
「……では次は、満足する装いで来よう」
「期待している」
鷹司は再び席に戻り、抹茶ラテを口に運ぶ。
「勝ち負けなど最早どうでもよい。ただ“美しい一打”を追っているだけだ」
エドワードは小さく笑った。
「面倒な男だ」
「互い様だ」
店内に再び静けさが戻る。
だが、その静けさの奥で。
二人の間には、確かに火花が散っていた。
服装一つで、ここまで言い合える。
それが彼らの、雅な戦いだった。




