喫茶店ローズ2話
硬貨を握る指に、じんわり汗が滲んでいた。
冷たい金属が、手のひらに貼りつく。
似ている。
形も、大きさも。
それでも、使えないことだけは、もう分かっている。
「……あの、これ……」
声が途中で止まった。
言葉を続ければ、ここが終わる気がした。
会計の話なのに、店を出るとか、そういう話じゃないのに。
レジの向こうで、アレクシアが自分を見ていた。
硬貨じゃない。
言い訳を考えている自分の顔を。
「通貨が違う、という顔ですね」
否定できなかった。
肯定するほどの覚悟もなかった。
厨房の方で、金属音がする。
包丁だ、と気づいて、思わずそちらを見る。
背の高い男がいた。
水色の髪を後ろで束ね、コックコートを着ている。
手にしている包丁は、よく研がれていて、動きが異様に正確だった。
目が合った瞬間、男はびくっと肩を跳ねさせた。
「す、すみません……! 危ないので、あの、近づかないでください……」
声は弱々しく、どこか怯えている。
威嚇も敵意もない。
「はぁ…。全く、オスカーは…。本当に臆病なんだから…」
と、アレクシアがため息をつく。
ただ必死に、自分の作業を守ろうとしているだけだった。
そのまま黙っていれば、どうなるんだろう、と思った瞬間、扉のベルが鳴る。
助かった、と思った。
理由は分からない。ただ、今じゃなくなったことに。
店内にベルの音が響いた。
木製の扉が開き、外の空気が一瞬だけ流れ込む。
「ただいま戻りました」
落ち着いた声がそう告げた。
続いて、少し遅れてもう一人。
「遅くなってすみません」
二人とも、手には紙袋を提げている。中身は食材だと、袋越しにも分かった。
アンナがぱっと顔を上げる。
「おかえりなさい、エリオ……」
言いかけて、言葉を止めた。
視線は、店内に立つ見慣れない少年に向いている。
アレクシアが短く説明する。
「新規のお客様。事情があって、少し話をしてるところ」
視線が一瞬だけ、自分に向いた。
それだけで十分だったのだろう。
二人は状況を察し、何も聞かずに少年の前へ歩み出る。
銀髪の男が、静かに一礼した。
「では…」柔らかく、しかし整った声。
「初めまして。私、エリオット・ハーヴィと申します」
続いて、黒髪の男も同じように頭を下げる。
「セドリック・ハーヴィと申します。よろしくお願いしますね」
どちらも使用人らしい丁寧な所作だったが、形式的すぎない温度があった。
セドリックが、少しだけ首を傾げる。
「えっと……貴方は?」
問われて、颯太は一瞬だけ言葉に詰まる。
名前を名乗るだけのはずなのに、胸の奥がざわついた。
「……高城、颯太です」
短く息を吐いてから続ける。
「高城颯太。十六です」
エリオットは目を細め、穏やかに頷いた。
「お若いのですね」
「ええ。……事情がおありのようですが」
その先は、踏み込まない。
問いかけでも、詮索でもない。ただの確認だった。
逃げ場がないと気づく。
ここにいる限り、いずれ話さなきゃいけない。
「あなた、害はない」
その言葉が、頭の中で遅れて反響する。
害があるかないかで判断される場所に、自分が立っていること自体が、現実感を持たない。
住み込み。
給料。
通貨の問題。
意味は分かる。
選択肢だということも分かる。
でも、選ぶ前提になる「帰る場所」が、どこにも浮かばない。
断る理由を探す。
家。
連絡先。
帰る方法。
どれも、途中で思考が止まる。
「……お願いします」
口が先に動いた。
頼むつもりだったかどうか、自分でも分からない。
断られたらどうしよう、と言い終えてから思った。
言ってしまったことは、もう戻らない。
店内が、何事もなかったように動き出す。
「今日は人参が安かったですよ」
その一言で、世界が元に戻った気がした。
自分のことなんて、もう議題じゃない。
「先に片付けますね」
視線が外される。
それが、追い出しじゃないことに、少し遅れて気づく。
オスカーの包丁の音が戻る。
布巾の擦れる音。
カップが置かれる音。
誰も、自分を見ていない。
でも、いなくなれとも言われていない。
立ち尽くしたまま、颯太は思う。
ここに居ていいのかどうか、まだ分からない。
けれど、居てもいい前提で世界が動いている。
それが一番、怖かった。
この時点で、颯太はまだ理解していない。
自分がなぜここにいるのか。
なぜ、この人たちが、これほど自然に受け入れているのか。
夕食の仕込みが始まると、店の空気が少しだけ変わった。
包丁の一定の音。
湯が沸く気配。
誰かが無言で棚を開け、閉める。
颯太は、邪魔にならない場所を探して壁際に寄った。
自分が立っているだけで、動線を塞いでしまいそうな気がして。
何もすることがない。
いや、正確には――何をしていいか分からない。
手伝います、という言葉が喉まで来て、引っ込む。
ここで何が必要で、何が余計なのか判断できない。
異世界だ。
頭では分かっているはずなのに、身体はまだ追いついていなかった。
オスカーが手際よく野菜を刻むのを、ぼんやり見る。
迷いがない。
包丁を持つ手だけが、別の人間みたいに落ち着いている。
自分には、ああいうものがない。
技術も、役割も、説明できる価値も。
「住み込みで働く気はありますか」
さっきの言葉が、少し遅れて胸に落ちてくる。
働く、という前提。
役に立つ、という前提。
それを期待されているわけじゃないと分かっていても、
何もできないままでいるのは、落ち着かなかった。
ここにいる理由が、宙ぶらりんのままだ。
それでも――
誰も、急かさない。
視線が刺さらない。
ため息も聞こえない。
「何もしない人間」として、今のところは扱われている。
それが、不思議と怖くなかった。
⸻
しばらくして、アレクシアが声をかけた。
「部屋、空いてるから。今日はそこで休みなさい」
命令でも、配慮でもない。
事務的な確認に近い口調。
頷くと、銀髪の男――エリオットが、さりげなく前に出た。
「こちらへどうぞ」
案内は簡潔だった。
廊下を曲がり、階段を上り、扉を一つ開ける。
部屋は狭い。
けれど、清潔で、ベッドがある。
扉が閉まる前、エリオットは一言だけ残した。
「無理に考えなくて大丈夫ですよ。今日は」
それだけ言って、去っていった。
一人になった部屋で、颯太はベッドに腰を下ろす。
きし、と小さく音が鳴る。
ここに来てから、初めて座った気がした。
靴を脱ぎ、床に揃える。
その動作が、妙に現実的だった。
帰れない。
分からない。
先も見えない。
それでも――
今日寝る場所は、ある。
颯太は仰向けになり、天井を見る。
知らない木目。知らない匂い。
けれど、目を閉じても大丈夫だと思えた。
安心、と呼ぶには小さすぎる。
ただ、「今夜は大丈夫だ」と思える程度のもの。
それで、十分だった。




