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喫茶店ローズ12話 「颯太、よく逃げ切ったね。よかったよ…」

さてさて、このタイトルを言っている人物は、誰なのか?

――店に戻るまでの道が、やけに長く感じた。


颯太は無意識のうちに歩幅を早めていた。

走ってはいない。理由もなく走るのは、あの老人に負けた気がした。


けれど、胸の奥に残った感覚だけは消えない。


話しかけられただけだ。

名前を聞いただけだ。

それなのに、指先がまだ冷たい。


――「正しい形に、戻されるものだ」


意味は分からない。

分かりたくもない。

だが、あの言葉だけが、耳の奥に引っかかって離れなかった。


裏口の灯りが見えた瞬間、颯太は小さく息を吐いた。


扉を開ける。


店内は、もう閉店後の静けさだ。

テーブルは片付けられ、床は拭かれている。

紅茶とコーヒーが混じった、慣れ始めた匂い。


――帰ってきた。


その感覚が、思った以上に強かった。


「おかえり」


ソファーの方から、新聞を畳む音。

エドワードが、顔も上げずに言う。


「……遅かったな」


責める調子はない。

確認ですらない。


颯太は一瞬、言葉に詰まってから答えた。


「すみません。途中で、ちょっと……」


「ふうん」


それだけで終わった。


それ以上聞かれないことが、逆にありがたかった。


厨房から、布巾を絞る音。


「戻りましたか」


低く落ち着いた声。

ガブリエルだった。


「外は冷えますね。体、冷えていませんか」


その言葉に、ようやく自分が寒さを感じていたことに気づく。


「……少し」


「でしたら、白湯を用意します」


理由もなく、当たり前のように。


颯太は、その背中を見て、胸の奥が少し緩むのを感じた。

何も説明しなくていい。

何も証明しなくていい。


ここでは、それでいい。


カップを両手で包む。

湯気が、ゆっくりと立ち上る。


温かい。


――ああ、ちゃんと戻ってきたんだ。


そう思った瞬間、背中に残っていた冷たさが、少しだけ引いた。


アレクシアが、カウンター越しに颯太を見る。


「ゴミ捨て、ありがとう」


短い一言。


けれど、それは

「役割を果たした」という承認であり、

「もう中にいる」という合図だった。


「……はい」


それだけで、十分だった。


その夜、颯太は布団に潜りながら、目を閉じる。


昼間の出来事。

朝の慌ただしさ。

見知らぬ街。

見知らぬ人たち。


それでも――


少なくとも今は、追い出されていない。

ここに“居ていい”。


その事実が、何よりも重かった。


だが、眠りに落ちる直前。

ふと、思い出す。


白いローブ。

穏やかな笑顔。

底の見えない黒い瞳。


――アーサー。


名前を、心の中でなぞった瞬間。

理由もなく、胸がざわついた。


「……関わりたくない」


小さく呟いて、颯太は目を閉じる。


夜は静かだった。

あまりにも、静かすぎるほどに。


そして――

この静けさが、長くは続かないことを、

誰もまだ、口にしていない。

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