喫茶店ローズ10話「逃げ場を探す者の目ではないな」
まさかの10話です。
それまで黙っていた鷹司が、ゆっくりとカップを置いた。
音は小さい。けれど、その瞬間、店内の雑音が一段落ちたように感じられた。
視線だけが、颯太に向く。
鋭いのに、威圧ではない。刃を抜かない剣のような目。
「……なるほど」
それだけ。
誰もが続きを待つ空気の中、鷹司は言葉を足さない。
颯太の立ち方、視線の高さ、呼吸の間。
それらを一通り“見終えた”あとで、静かに告げる。
「逃げ場を探す者の目ではないな」
颯太は、思わず息を止めた。
褒められたわけではない。
責められたわけでもない。
ただ、見抜かれた。
ゴードンが口を挟もうとしたが、鷹司はそれを視線だけで制した。
「ここに居る理由が分からぬまま立っている。
だが――」
一拍。
「立ち去る覚悟も、まだ持っていない」
カップを持ち上げ、抹茶ラテを一口含む。
「それでよい」
断定だった。
颯太の胸の奥で、何かがほどける。
理解された、とは違う。
裁かれなかった、という感覚に近い。
鷹司はもう颯太を見ていない。
興味を失ったのではない。
“十分見た”のだ。
「若い異物は、場を澄ませることがある」
独り言のように呟いて、視線をエドワードへ戻す。
「さて。
今日は、妙に静かな朝だな」
それで終わり。
颯太は、自分の心臓の音が少しだけ落ち着いていることに気づく。
この人は、味方でも敵でもない。
だが――
少なくとも、自分を“ここに居てはならない存在”とは見なかった。
それだけで、十分だった。
ルシアンが、ぴたりと一歩前に出た。
ゴードンの肩口に、影が落ちる。
「旦那様。そろそろ仕事のお時間です」
声は低く、事務的。
感情は一切乗っていない。
ゴードンはアレクシアから名残惜しそうに手を離し、にっと笑った。
「今日はキャンセルだ。急ぎじゃねぇ」
その瞬間だった。
「……は?」
一音。
短く、乾いた声。
ルシアンの眉が、ほんのわずかに動く。
それだけで、空気が一段冷えた。
「“キャンセル”と仰いましたか」
確認だが、質問ではない。
訂正の余地を与えているだけの声音。
ゴードンは肩をすくめる。
「そうそう。可愛い店長さんと可愛い新人がいる日に、仕事なんてやってられるかよ」
その言葉が終わる前に。
「却下です」
即答だった。
ルシアンはゴードンの横に立ち、淡々と告げる。
「三件の商談、一件の視察、二件の署名。
すべて旦那様ご本人でなければ成立しません」
視線が、ちらりと颯太に流れる。
感情はない。ただの“情報確認”。
「それとも」
一拍。
「“喫茶店で遊んでいたため商機を逃した”と、後日ご説明なさいますか」
ゴードンが一瞬、黙る。
その沈黙を、鷹司が静かに切った。
「……美しくない判断だな」
ゴードンが舌打ちする。
「くっ……分かった分かった!」
立ち上がり、アレクシアに向かって指を立てる。
「また来るからな、アレクシアちゃん!
次は結婚指輪持ってくるから!」
「来なくていい」
即答。
ゴードンは笑い、ルシアンに引きずられるように出口へ向かう。
扉が閉まる直前、ルシアンが一度だけ振り返った。
視線は、颯太へ。
ほんの一瞬。
値踏みでも、警戒でもない。
――記録。
そういう目だった。
扉が閉まり、店内に静けさが戻る。
颯太は、息を吐く。
オスカーが、小さな声で呟いた。
「……嵐、過ぎましたね」
誰も否定しない。
ただ一人、鷹司だけがカップを持ち上げながら言った。
「いや」
一口。
「“通過”しただけだ」
颯太は、その意味をまだ知らない。




