2話 内心
前回の続き、路地裏からです
こんな生活から早く抜け出したいと思いながら、結局はいつもの道へ足が運ぶ。
夜気が滲む路地裏を抜け、看板の外れたアパートの前に立つと、
外壁を伝う雨水の跡とコンクリートのひびが、ずっと前からここが終わっていることを示していた。
軋む階段をゆっくり上がるたび、足元で埃が舞う。
いつか誰かが落とした錆びた鍵、タバコの吸殻、割れた瓶。
この街では誰も片付けないし、誰も気にしない。
扉はひどく重くて、いつも湿っているみたいに冷たい。
ゆっくり押し開けると、空気は外よりもさらに冷えていて、奥まで黒い廊下が吸い込むように伸びている。
近くにある電球が順に小さくパチパチと灯り、
蛍光色の光が、ひび割れた壁紙と汚れた床を照らした。
誰もいない。
誰もいないとわかっているのに、誰もいないと気づく。
カズヤは靴を脱ぐのも面倒で、廊下を歩いて台所に立つ。
冷蔵庫は古くて、動くたびに低く唸り声をあげる。
中には水と保冷剤だけが残っている。
それだけで生きていることを確認しているみたいだった。
保冷剤を取り出して怪我に当てる。
棚には二個だけのコップ。
水道の蛇口は錆びていて、出てくる水は金属の味がする。
水を汲み、コップを2つ両手で抱えて、
リビングと呼ぶにはあまりに虚しい四畳半へ戻る。
家具といえば、足の短い机と、いつ軋んでもおかしくない椅子がひとつ。
机の真ん中には家族写真だけが残っていて、埃だけは毎晩拭き取っている。
「……」
椅子に座ると、鉄の軋む音が壁を越えて隣室へ逃げていく。
コップに口をつける。冷たい水が喉を通っても、何も味はしなかった。
病室のユイの視界には、真白な天井しかない。
蛍光灯が何度も瞬いては消える。
ユイの意識は浅い眠りと、にぶい痛みを何度も行き来している。
眠るたび、過去の研究所の白い廊下が浮かぶ。
実験室の奥、花の匂い。
幼いカズヤの小さな手が、いつもドアの隙間から覗いていた。
人を救うはずだったのに――
あの研究は、檻になった。
誰かを救うはずが、誰かを縛り、誰かを壊した。
面会に来るたびに、カズヤの目の奥の光が小さくなっていくのを、
ユイだけが気づいていた。
「……ごめん……ね……」
吐息のような声が喉で消えていく。
せめてこの子だけは――
せめてこの子だけでも、あの街から自由にしたかった。
点滴の薬が静かに血に流れ込む。
天井の蛍光灯が小さく軋んで光るたびに、
ユイの意識はまた、音のない夢の底へ沈んでいく。
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