バス通学の園川さんと寮生の三牧くん
この春入学した高校は県北にあり、山と田んぼがあるだけの田舎なので交通の便はあまりよくない。そのため、大半の生徒は寮に入る者がほとんどだ。残りの一部は、わたしのように駅から出ている送迎バスで通っている。
とはいえ、駅から学校までの距離もそこそこあるので、バス通学でも軽く一時間はかかってしまうのだけど。
それでもわたしがこの高校に決めた理由は、県内随一の桜山があるから。
◇◇◇
あれは忘れもしない。一年前、家族と花見で訪れたときのことだ。
父が驚くぞと得意げに言った言葉のとおり、一面が見事に桜色で染まった山々は圧巻だった。春風で花びらが舞う様子がなんとも神秘的だったし、雄大な自然に囲まれた景色は、受験生となった自分にとって癒やし効果抜群だった。
後ろ髪を引かれる思いで駅までの道を歩いていると、紺のブレザーを着た高校生とすれ違った。
帰宅後、近くに高校があるのを知った。友達を誘って体験入学に行ったとき、校舎の裏手にある庭園を見つけて、ときめき指数は頂点に達した。
鉄柵の向こうには、色とりどりの花が咲き誇っていた。手入れが行き届いている庭園は西洋風で、芝生の上には左右対称の模様に沿って白い花が植えられていた。
学校案内の資料を持っていた友達いわく、緑地土木科が卒業研究のため毎年手を加えているらしい。年々どんどん豪華になっているのだとか。
薔薇のアーチをくぐり抜けた先には噴水があった。
高く吹き上げられる水しぶきの音が心地よく、休憩用のベンチも備え付けられ、こんなところで読書できたら最高ではないだろうかと夢見てしまう。
それまで白紙だった進路希望調査票に志望校を記入し、わたしは人生で一番勉学に励んだ。学校の宿題と塾で出された宿題をこなし、どうにか合格圏内まで順位を伸ばした。担任の先生は泣いて喜び、そこまで心配をかけていたと知らなかったわたしは困惑した。
かくして第一志望校にめでたく受かった、まではよかった。
しかしながら、わたしは朝がめっぽう弱い。
父や兄も同類だ。時間通りに起きられるのは、我が家の愛犬と母だけだ。それ以外の家族は母によって問答無用で叩き起こされる。大きな雪玉のように布団にくるまって熟睡していると、容赦なく布団から引き剥がされ、強烈な朝日を浴びせられる。
目がチカチカしながらベッドから起き上がり、のそのそと支度するのが毎朝の光景だ。
脳が覚醒するまで時間がかかるタイプで、寝ぼけながら朝ご飯を食べていると言っても過言ではない。現に兄は食べながら寝るという器用なことをやって毎朝、母に雷を落とされている。我が家は母がいないと誰一人、自力では起きられないのだ。
制服に着替えて姿見で全身チェックしてから時間を確認し、凍りつく。
時計の針は家を出る予定時間を過ぎており、わたしは尻尾を振る愛犬に見送られながら「いってきます!」と家を飛び出す。駅まで全力で走り、発車時間ギリギリで送迎バスに乗り込む。毎朝の光景なので、運転手さんにもしっかり顔を覚えられてしまった。
安堵と疲労感に包まれる中、後方の窓際の座席に座り込む。いつもの定位置だ。終着点は学校なので、バスに乗車すれさえすれば、もう心配はいらない。
学校に着くまで約一時間。
早起きはつらいけど、睡眠が至福の喜びのわたしにとって堂々と二度寝できる環境は天国だ。今日も走り疲れで襲ってくる睡魔にあらがうことなく、バスが山道をゆっくり上る心地よい揺れの中で爆睡していた。
いつもの感覚で、そろそろ学校に着く頃だと体が反応して目が覚めた。
「……んん?」
窓にもたれかかって寝ていたはずなのに、ひんやりとした窓ガラスとは違う温もりに違和感を覚える。
この抜群の安定感。頭を預けるのにちょうどよい肩の高さ。
その正体に感づき、驚いて飛び起きる。
あろうことか、わたしは男子生徒の肩にしっかりもたれる格好で寝ていたらしい。
「ご、ごめんなさい」
恥ずかしさのあまり、蚊の鳴くような声しか出なかった。それでも一応聞き取ってくれたみたいで、隣に座っていた男子が小さく会釈を返す。同じ高校生なのに、なんて優しい人なんだ。うちの兄なら小言が飛んでくるところだ。
バスが終点に着き、彼が先に降りていく。わたしもよろよろと起き上がり、後に続いた。
いつからもたれていたのか記憶にないけれど、意識のない人間はきっと重たかったはず。さぞかし邪魔だっただろうに、起きるまで耐えててくれて非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
うつむいていたから顔まではわからなかったが、同じ過ちを繰り返さないように気を引き締めなければならない。寮生のほうが多いので、バス通学の人間は結構絞られる。わたしは乗車後はすぐに寝るため、残念ながら顔はほとんど覚えていないけれど。
(今度は誰かに迷惑をかけないよう気をつけよう……!)
決意を胸に正門をくぐる。先ほどの男子生徒の背中はすでに小さくなっており、だいぶ距離が引き離されていた。かと思えば、後ろから寮生がわらわらと集団でやってきて、バス通学の生徒は飲み込まれていった。
◇◇◇
「……あれ……?」
翌日。揺れる車内で二度寝をしていたわたしは、既視感のある光景にさぁっと血の気が引く。あわてて身を起こすと、隣にいた男子生徒が身じろぎする。
なんとことだ。またしても、人様の肩を借りて夢の世界に旅立ってしまったなんて。二度はすまいと心に誓ったのに。
うつむきながら、心から謝罪する。
「すみませんでした……」
「大丈夫だよ。顔を上げて、園川さん」
「へ?」
きょとんとしていると、目の前にいたのは同じクラスの三牧くんだった。
温和な性格と中性的な顔立ちがクラスの女子のハートをつかみ、彼女たちが鑑賞用として密かに愛でている男子だ。確か女子たちの中で「爽やか王子」と呼ばれていた気がする。
教室でも伏せ目がちに本を読む姿は、写真に残しておきたいほど様になっていた。いつ妖精の森に誘われてもおかしくないという意見もおおむね同意だ。
けれども、個人的には王子様より天使のほうがしっくりくる。わたしが筆記用具を床にぶちまけたときも率先して拾ってくれ、それからも困ったときは何かと手助けしてくれるのだ。前世は天使に違いない。
三牧くんは長い睫毛を瞬かせ、優しく語りかける。
「睡眠は大事だよね。僕のことは背もたれだと思って、気兼ねなく寄りかかってほしいな。園川さんは羽みたいに軽いから全然気にならないし」
「……で、でも読書の邪魔に……」
「ならないよ。園川さんの安眠のために役に立てるなら本望だから」
「え、え?」
聞き間違いかと思って目を白黒させると、三牧くんは読んでいた文庫をパタンと閉じ、優しく言い添える。
「僕の肩でよかったら、いくらでも貸すよ。僕は読書に集中する。君は睡眠時間を確保できる。二人とも時間を有効活用できるなんて、いいことしかないよ?」
「……そ、そうかな」
「うん」
穏やかな笑みとともに肯定されて、しばらく悩む。
どうやら社交辞令というわけでもなさそうだ。本人が嫌がっていないなら、かたくなに申し出を断るのも角が立つ気がする。
「じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」
「いつでもどうぞ」
すべての罪を許すような落ち着いた声音に、わたしは曖昧に頷いた。
◇◇◇
「……園川さん、園川さん」
「ふぇ?」
「学校に着いたよ」
ゆっくりと窓の外を見ると、学校の近くの交差点に差しかかるところだった。
あわてて自分の体勢をチェックする。窓にも三牧くんにも寄りかかっていないことを確認し、ほっと胸を撫で下ろす。
「……お、おはよう。三牧くん」
「うん。おはよ」
清々しい笑顔とともに挨拶が返ってきて、わたしは思わず目を細めた。
至近距離でのイケメンの破壊力を侮っていた。これは心の準備もなしに見るものではない。普通に心臓に悪い。いやでも朝から三牧くんのご尊顔を拝するなんて、幸先がいいとも言えるのではないか。キラキラのエフェクトを背負ったような微笑みはまるで天使。もはや幸せの象徴である。
さすが爽やか王子と呼ばれるだけはあるな、と感心しながらバスを一緒に降りる。
のんびりとマイペースにてくてく歩くと、横に三牧くんが並んだ。クラスメイトだから向かう下駄箱の場所も同じである。
三牧くんは歩幅を合わせ、わたしの顔をのぞきこんだ。
「園川さんって、マシュマロが好きなの?」
「……へ?」
「ごめん。その、寝言が聞こえたから」
申し訳なさそうに言われ、わたしはあんぐりと口を開けた。
さっきまで幸せな夢を見ていた気がするけど、内容までは全然覚えていない。というか、同級生に寝言を聞かれていたなんて社会的な死に等しい。今すぐ時間を巻き戻して「絶対に寝ないで。寝たら後悔するよ!」と一時間前の自分を揺さぶりたい。
一体、何を口走ってしまったんだ。他にも余計なことを口にしていないだろうか。睡魔に屈してしまった過去の自分を呪いつつ、冷や汗をかきながら弁明した。
「え、えっとね。マシュマロはもちろん好きだけど、うちで飼っている犬の名前がマシュマロなの……」
「へえ。そうなんだ。犬種は?」
「ま、マルチーズです」
「……なるほど。さぞ可愛いんだろうね」
「うん! それはもう! 思わず食べちゃいたいくらい!」
「ちなみに命名したのは……?」
「わたし!」
胸を張って元気よく答える。
何かがツボに入ったのか、三牧くんが顔を横に逸らして肩を震わせている。その反応は親友の小奈都ちゃんと同じもので、わたしは思わず唇を尖らせた。
「マシュマロの魅力は実際に会ってみたらわかるよ。三牧くんだって虜になること間違いなしの愛くるしさなんだから」
「……き、機会があれば、ぜひ」
「むう」
三牧くんはまだ笑いをこらえている。
頬を膨らませていると、三牧くんが「ふふっ」と声を上げて笑った。あどけない笑顔につられて、わたしも笑ってしまった。
◇◇◇
「園川さん、起きて」
「ぅ……うーん。あともう少し」
「今日は英語の小テストがあるから、朝は教室で勉強するって言ってなかった?」
「はっ!?」
がばりと顔を起こすと、ほっとした様子の三牧くんと目が合った。
「おはよう、園川さん。もうすぐ学校に到着するよ」
「……おはようございます。毎回起こしてくれてありがとう、三牧くん」
「このぐらいお安いご用だよ。それじゃあ、降りようか?」
「うん」
降りる準備をするため、学生鞄とランチバッグを抱え直す。ついでに忘れ物がないかもチェックする。スマホと定期券のパスケース、よし。
けれど、何かに気づいたらしい三牧くんがストップをかけた。
「あ、待って」
「ん?」
「袖のボタン、取れかけているよ」
三牧くんが自分の袖を指差しながら教えてくれ、あわてて腕を上げて袖口を見る。案の定、ボタンはぶらんと垂れ下がり、かろうじて糸と繋がれた状態だった。
「ほ、ほんとだ。危うく気づかないまま落とすところだった。ご指摘、感謝します……」
「いえいえ。でも、そのままだと不安だね。よかったら直そうか?」
「……へ?」
「ボタン、つけ直すよ。こう見えて僕、手芸部だから。今からやれば、チャイムが鳴る前には終わるよ」
「三牧くんって手芸部だったの!?」
「うん。こういうこともあろうかと、携帯用の裁縫道具は持ち歩いているんだ。任せて」
三牧くんに後光が差す。頼りがいのある言葉に、わたしの涙腺はゆるんだ。
「すごく助かるよぉ……。ぜひお願いしてもいい?」
「全力で作業に当たるね」
上靴に履き替えたわたしたちは、下駄箱の裏にある中庭のベンチに腰を下ろした。ちょうど大きな木が陰になって、わたしたちを隠してくれている。この位置ならクラスメイトに見つかることもないだろう。
鞄からお裁縫セットを取り出し、すいすいと針を動かす三牧くん。手慣れた動きはさすが手芸部だ。玉留めと糸切り鋏でちょきんと切ったらおしまいだ。なんて早業。鮮やかな手仕事。もうプロだよ、これ。
「はい。どうぞ」
「ああああ、ありがとう! 三牧くんが縫ってくれた服、ずっと大事にするね」
「ボタンを直しただけなんだけど……」
「本当に、本当にありがとう」
涙ながらに感謝を伝えると、喜んでもらえてよかった、と微笑みが返ってきた。
三牧くんはこうやって徳を積んでいらっしゃるんだ。見習いたい。きっと来世でいいことがたくさんあるよ。
◇◇◇
いつものように三牧くんにバスで起こしてもらい、教室までの道を並んで歩く。
「前から気になっていたんだけど。その髪って願掛けでもしてるの?」
「あ、えーと。なんとなく切る機会を失ってただけっていうか。でもさすがに鬱陶しいよね。思い切って短くしちゃおうかな。これから夏だし」
改めて自分の髪を見下ろすと、腰あたりまで伸びている。
ここまで長いと、周囲の目にもいい印象を与えないだろう。髪を乾かすのも時間がかかるし、一度ばっさりカットしてすっきりするのもいいかも。
髪の毛先をもてあそびながら、いつ美容院に行こうかなと気楽に考える。
「……切っちゃうの?」
「え? うん。別に思い入れもないし。髪はまた伸ばせばいいし」
「それもそっか。いつもくくっているよね。三つ編みとかポニーテールとか。……僕、園川さんのふわふわの髪が好きだよ。風でなびく姿がまた男心をくすぐるというか」
はにかみながら言われて、どきりとした。
勘違いしてはだめだぞ志桜。これは男子の一般論であって、わたし個人を賞賛する言葉ではない。自惚れは厳禁。勝手に期待したら大怪我をするというやつだ。
必死に自分に言い聞かせていると、三牧くんは二回目の爆弾発言をした。
「実を言うと一度、編み込みをしてみたいなって思っていたんだよね」
「……ちょっと待って。三牧くん、編み込みまでできるの!?」
「妹にせがまれて練習したんだ。女の子に泣かれると弱いんだよね、僕」
「わたしできないよ。すぐほどけちゃって、見本みたいにならないの。いいなぁ、妹さん。わたしにも万能な兄がいたら頼めるのに」
「…………よかったら、編んでみようか?」
「いいの!?」
食い気味に言うと、三牧くんが驚いたように一度目を丸くさせ、破顔する。
「喜んで」
数日前にボタンを直してもらったベンチに座り、後ろに立った三牧くんが器用に編み込みを施していく。
妹さんの朝の髪のセットは、三牧くんが担当なのだそうだ。彼のポケットにはヘアゴムや予備のピンもあるらしく、なんでも出てくる魔法のポケットに見えてきた。前に雑誌で見た髪型をリクエストすると、快く引き受けてくれた。いい人すぎる。
「園川さん、できたよ。どうかな?」
「わっ……わぁぁ! すごく可愛い! ありがとう!」
手鏡で横と後ろのアレンジを見せてもらい、わたしは我を忘れてはしゃいだ。
「よく似合ってる。可愛いよ」
「ひぇ」
慈愛に満ちた眼差しを向けられ、情けない声が出てしまった。
恋人仕様のような甘い声に驚いてしまったけれど、三牧くんにとっては妹さんに向ける言葉と同じもののはずで、おそらく他意はない。ただの社交辞令。深い意味などない。
けれども、優しい手つきで髪に触れられたことを思い出すだけで、なぜだか心がざわついた。落ち着かない。合格発表を見たときのように胸が高鳴る。
冷静に。冷静になろう。自分の胸に両手を当てて深呼吸する。だが考えないように意識すればするほど、心拍数は急上昇する。ばっくんばっくんと耳の奥まで心臓の音がうるさい。
「……園川さん? 顔が赤いけど、熱でもある?」
「だだだだい、じょうぶ。ちょっと汗ばんじゃっただけだからっ! ごめん、先に行くね!」
わたしはすっくと立ち上がり、そのまま教室目がけて駆け出した。遅れてやってきた羞恥心をぶわりと沸き立たせながら。
◇◇◇
おかしい。睡魔が襲ってこない。
二度寝ができる朝の通学時間はわたしにとっての天国だったはずなのに。今日ももれなく朝から母に叩き起こされて睡眠不足だ。今こそ二度寝をする絶好のチャンス。それなのに眠くないなんて、絶対おかしい。
朝から目が冴えているなんて人生初じゃないだろうか。
二つ目の停留所から生徒が乗り込んでくる。三牧くんだ。彼はわたしの隣にすとんと腰を下ろし、不思議そうに尋ねた。
「園川さん、寝なくていいの? 学校に着いたら、ちゃんと起こすよ?」
「そっ……そうだよね。うん、じゃあ、寝ようかな」
ぎくしゃくと言葉を返すので精一杯だった。
悪いことはしていないのに、なんとなく視線を合わせづらい。
すぐ横に三牧くんが座っているという事実に、心拍数が高くなるのがわかった。しかし、そんなことを知らない三牧くんは柔らかに笑う。
「おやすみ」
「……お、おやすみなさい」
ここで寝ないという選択肢はない。そう自分に言い聞かせ、無理やり目を閉じた。
けれども、意識は覚醒したままで一向に眠りは訪れない。
一体、今までのわたしはどういう神経で寝ていたんだろう。いつもは気づいたら学校だったのに、全然眠気が来ない。異常事態だ。
今日は時間の流れがすごく遅く感じた。まさかわたしが寝たふりをする日が来るなんて、家族が聞いたらひっくり返るに違いない。自分でも信じられないのだから。
◇◇◇
昼休憩、わたしは講堂裏の自販機の前にいた。
苺ミルクにすべきか、蜜柑ジュースにすべきか。実に悩ましい。真剣な表情で唸っていると、後ろからにゅっと出てきた指先がポチッとボタンを押した。ガコンという音とともに、紙パックがひとつ落ちてくる。
「えぇっ!」
あわてて振り向けば、中学からの親友である小奈都ちゃんがいた。悪戯成功とでも言わんばかりに口の端を上げている。
「志桜、この前は蜜柑だったでしょ? なら今日は苺ミルクの日じゃない。あんた、だいたい交互に飲んでるんだから。悩む時間がもったいないわよ」
「……確かに」
「そこで納得するところが志桜らしいわ」
そう言いながら小奈都ちゃんはコーヒー牛乳を買い、近くにあったベンチに上品に座る。わたしもその横に腰かけ、ストローをくわえた。うん、甘くて美味しい。疲れた頭が癒やされていく。
「それで? 最近ため息ばっかりだけど、なんか悩み?」
「う。……な、悩みというか、初めての感情を持て余しているというか。普段通りに生活できなくなってしまって……わたしは一体どうしたら」
「ほほう。詳しく」
聞き上手な小奈都ちゃんに包み隠さずぺろりと話し、わたしは紙パックの角を両手でぎゅっと握りしめる。
「それでね、必要以上に意識しちゃうの。前まではこんなんじゃなかったのに。絶対わたし、挙動不審だった。このままだと通報されちゃう。どうしよう、小奈都ちゃん」
「んー……。志桜はどうしたいの? 告白して三牧くんと付き合いたい?」
「ゲフッ。こ……告白なんてできるわけないよ。自分がどうしたいのかもわかっていないし。そもそも、好かれている保証だってないんだよ」
必死に否定すると、小奈都ちゃんは片眉を器用に吊り上げた。
「そうかなぁ。かなり脈ありと、あたしは睨んでいるけど」
「な、何をおっしゃるのやら! 恋愛初心者のわたしにはとても付き合う想像なんてできないよ。とにかく、今のわたしにはまだ早すぎる! いろいろと!」
わたしはぶんぶんと頭を横に振る。
告白され慣れている小奈都ちゃんとわたしとでは経験値が違いすぎるのだ。
「志桜は難しく考えすぎじゃない? 熱烈な愛で結ばれたカップルなんて稀だよ。なんとなくその場の勢いとかで付き合う人も多いんだから。とりあえず付き合ってみれば? 付き合い始めて好きになるパターンもあるし、やっぱり無理ってなったら別れればいいし。合うか合わないかは実際に試してみないとわからないでしょ。まずは当たって砕けてきなさいよ。慰めてあげるから」
「慰める前提なの!? うまくいくかもわからないのに、純然な若者をけしかけないでよ」
「うまくいくかもしれないじゃん。男女の付き合い方なんて、ひとつだけとは限らないんだしさ。恋愛感情かわからないっていうなら、友達として付き合うって方法もあるし」
思いもしない案を提示され、わたしは面食らった。
なんてこった、これから三牧くんと愛ではなく、友情を育むという方法もあるのか。
「……友達、友達か……。あれ、でも高校生以上で男女の友達ってありなの……?」
「さぁ。それはなんとも言えない」
「いやいや、ちょっと!? 友達で試すような真似しないでよ」
「少なくとも三牧くんは女の子で遊ぶ男には見えないし。大丈夫だって。たぶん」
「たぶんって言った! さては責任逃れしようとしてますな!」
「あはは。まあまあ」
小奈都ちゃんとの恋愛相談は予鈴とともに終了を告げた。
◇◇◇
告白をするのか、しないのか。
あれから悶々と考え続けても答えは出ず、昨日は日付が変わってもなかなか寝付けなかった。おかげでバスの座席に座って発車後、わたしはすぐに夢の世界に旅立った。
三牧くんの優しい声で、目を開ける。寝ぼけた頭で「おはよう」といつものように笑いかけると、彼の様子が少し違うことに気づいた。
珍しく愁いを帯びた表情で、心なしか顔も強ばっている。
「三牧くん……?」
名前を呼ぶと、三牧くんは唇を引き締めた。何かを決心したような気迫に、自然とわたしの背筋もまっすぐになる。
「園川さん。今日の放課後、少しだけ時間をもらってもいいかな」
「? う、うん。いいよ」
「ありがとう」
放課後、三牧くんに連れられた先は意外な場所だった。
体験入学で迷い込んだ庭園だ。今は初夏らしく、ポピーの花が満開だった。赤、黄色、白、オレンジのカラフルな花畑が広がっている。
だが、ここは裏門近くの奥まった場所にあるため、教室がある普通棟から結構距離が離れており、他クラスからの認知度は低い。何度か、緑地土木科の生徒が実習服で作業しているのを遠目で見かけたことがあるぐらいだ。
ビジネス総合科の授業は商業科のような内容なので、同じ高校でも別の学科が何をしているのかは未知の領域である。まさか、三牧くんがこの場所を知っているとは思わなかった。
「……知ってるかもしれないけれど、僕は寮生なんだ。親が入院して弟妹の面倒を見るために一時的に実家に戻っていたんだけど、今日でバス通学も終わるから……」
「そうだったんだ。大変だったね」
「いや、長男としての責務を果たしただけだから。僕が家族の世話をするのはいつものことだから、それほど負担ではないよ」
「三牧くんは昔から面倒見がいいんだね」
立派だなぁとつぶやくと、三牧くんは照れたように頬を人差し指でかく。それから薄く息を吐き出して、わたしに向き直る。
「話を戻すけど、前から君のことがずっと好きだった。園川さんと一緒に登校できて、本当に嬉しかった。何度バス通学万歳と思ったことか……。仲良くなるチャンスだと思ったんだけど、なかなか自分から声をかけられなくて、君の隣の席を死守することぐらいしかできなくて。無意識でも寄りかかってくれたときは天にも昇る心地だった」
「……そ、それほどまでに?」
「うん。役得だった。あのときほど神に感謝した瞬間はないだろうね」
恍惚とした表情で言われ、わたしは呆気にとられた。
今まで気づいていなかっただけで、三牧くんは感激家だったらしい。
「実は、園川さんと初めて出会ったのは体験入学だったんだ。一目見たときから可愛いなと思ってて。入試でまた会えないかなと思ったけど、人が多すぎて結局見つからなかった。入学式で同じ高校の制服を着た君を見て、本当に驚いた。こんな偶然あるんだって。そう思ったら、もう君のことしか考えられなくなってた」
「……っ……!?」
「バス通学だと放課後も遅くまで残れないでしょ。委員会や部活も違うし、うちのクラスは男女でつるむことが基本ないし……。正直なところ、せっかくできた接点がなくなって今すごく焦ってる。僕はもっと君とお喋りしたい。一緒にいたい。だから、クラスメイト以外の関係性が欲しいんだ」
「か、関係性?」
「友達とか彼氏とか恋人とか愛する人とか、そういうの」
至極真面目な顔で説明され、わたしは神妙な顔で聞き入る。
具体例を出してもらったのでイメージがしやすい。けれど、提示された案を脳内で繰り返して、ふと首を傾げた。
「うん……? 最初以外、ほとんど意味合いが同じような気が……?」
「親密度や愛の重さが違うよ。僕としては二番目がおすすめ」
「…………二番目って、彼氏様?」
「様はなしで」
「あっ、はい」
有無を言わさない笑顔の圧に押されて頷くと、三牧くんは安心したように言葉を続けた。
「そういうわけで、どうかな。僕は園川さんの彼氏にはなれない? 後悔はさせないよ」
「え。え、えっと……その」
この場合、どういう対処法が正解なのでしょうか、世のお嬢さん方。
生まれてこの方、告白された経験なんてない。告白の正しい返事の仕方がわからない。そもそも、これは本当に現実なのか。都合のいい夢でも見ているんじゃないだろうか。どうしよう、充分にあり得る。白昼夢かもしれない。
脳内はパニック中だ。変な汗が噴き出してくる。鼓動は激しくなる一方だ。緊張で顔に熱が集まり、きっと茹で蛸みたいになっているに違いない。
三牧くんにこんな変顔、見られたくない。とっさに両手で顔を覆う。
「…………ごめん。困らせたね。今後もクラスメイトとして、よろしくね」
指の隙間から見えた彼は困ったように笑っていたが、どことなく沈んだ声だった。
頭で考えるより先にわたしは声を出していた。
「み、三牧くん!」
光を失った彼の瞳に、自分の必死な顔が映し出される。
「あの、あのね。まだ正直、恋とか愛とかよくわからなくて。でも三牧くんは他の男子とは違って、一緒にいてふわふわするし、特別な存在だから……。……まずはお試し期間から、でどうでしょうか!?」
「お試し期間?」
「えっと、本格的なお付き合いの前段階と申しますか、準備期間を設けたいと申しますか。恋心を育て始めて間もないから、自分の気持ちを整理する時間が欲しいな、なんて」
「…………」
「ご、ごめんねっ。こんなの、わたしばかり都合がよすぎるよね……」
しゅんとうなだれていると、焦ったような声が聞こえてきた。
「ううん! お試し期間の案はいいよ、すごくいい。いきなり付き合うのもハードルが高いもんね。ゆっくりお互いのことを知っていこう」
「……い、いいの?」
「もちろん」
「よ……っ、よかったぁ! ありがとう三牧くん!」
「どういたしまして。それじゃあ、園川さん。これからは彼氏(仮)として、よろしくね」
「うんっ! えへへ……仮とはいえ、誰かの彼女になれるなんて夢みたい」
うっとりとつぶやき、ハッとした。つい心の声がもれてしまった。夢だなんて大げさな、と呆れられるかもしれない。そう思って視線を上げれば、三牧くんは笑みを深めた。
いつもの天使のような笑顔だ。邪な心が浄化されそうなほど神々しい。けれど、不穏なオーラもうっすらと混じっている気配がする。気のせいだろうか。
金縛りに遭ったように動けずにいると、彼の唇がわたしの耳元に近づく。
いきなりの大接近に心臓が暴れ出す。緊張と興奮で息がうまく吸えない。このままでは過呼吸になるのではと不安が大きくなったところで、三牧くんが囁いた。
「大丈夫。他の男なんて見向きもしなくなるくらい、僕に夢中にさせるから。覚悟してね」
吐息混じりの甘い声に、カクンと腰から力が抜けた。
だが無様に地面に顔が激突することはなく、流れるように腰を抱かれて、わたしは声にならない悲鳴を発した。体を支えてもらったことはありがたい。けれど、救助の一環とはいえ、三牧くんの体に密着している状態はいかがなものか。
速やかに離れなければと思うが、悲しいことに足に力が入らない。
全身を襲った甘い痺れの余韻が残っているせいかもしれない。男女の差だろうか、腰に回された腕は安定感があり、とても頼もしい。どこにこんな筋力を隠して持っていたんだ、三牧くん。
しかも、なんだか三牧くんの体からいい香りがする。柔軟剤もしくはシャンプーだろうか。フローラルミントの香りに頭がクラクラしてきた。
今の心境を一言で表すなら、兄がよくスマホを握りしめて呻いている「供給過多」が一番しっくりくる。こんなの受け止めきれない。明らかにキャパオーバーである。
「ど……どうかお手柔らかに……お願いします」
「うーん。善処はするけど、こればかりは慣れてもらうしかないかも」
「そ、そんな……」
「だって、すでに園川さんは恋心を育て始めているんだよね? それってもう、僕のことが好きって言っているもんだし。両思いなら離れる必要もないよね。あまり長く宙ぶらりんな関係でいるのもあれだし、お試し期間は二週間でいいかな。これからもっと好きになってもらえるように僕、がんばるね」
瞳を輝かせた三牧くんは、爽やかな笑みで言い切った。
わたしが己の失言を知ったときには退路は断たれており、あわてて自分の口元を押さえても時すでに遅し。一度口から出してしまった言葉はもう取り消せない。
宣言通り、本気を出した三牧くんはすごかった。
一日の始まりは三牧くんからのモーニングコール、学校に到着したら雑談をかわしながら勉強を教えてもらったり、最近の美味しいスイーツ特集記事を見せてもらったりして、帰宅後はスマホ越しに「おやすみ」と囁かれて終わっていく。
控えめに言って供給過多である。
◇◇◇
休日のデートプランもパーフェクトだった。
午後に待ち合わせをして、本屋を巡ったり、ちょっとおしゃれなカフェで紅茶とシフォンケーキに舌鼓を打ったり。夢に描いたままのデートコースに、わたしは完全に浮かれていた。
翌週は気になっていた映画を二人で観て、どこのシーンが印象的だったかを近くの公園で語り尽くす。三牧くんの解説は非常に為になるものばかりで、楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。
わたしの生活に三牧くんの存在が当たり前になった頃、お試し期間が終わりを迎えた。当日、正門前で待ってくれていた三牧くんはなんとミニブーケまで用意してくれていて、お断りする要素がひとつもなかった。
毎朝、三牧くんのモーニングコールのおかげで起床できるようになったし、兄からは妹に先を越されるなんてと大層うらやましがられた。ちなみに「わたしの彼氏が有能すぎる……」と小奈都ちゃんに報告すると、「すごい男をひっかけたものね」と感心された。無論、ひっかけてなどいない。
お試し期間を終えたわたしたちは、正式な彼氏・彼女として健全な交際をスタートした。
これから二人の思い出をたくさん作ろうねと約束し、いろんな写真を撮った。屋上でお弁当のタコさんウインナーを頬張ったわたし、体育祭のリレーで運動部と接戦する三牧くん、燃えるような夕焼け、二匹の雪うさぎ。幸せな思い出が積み重なっていく。
そして、翌春。
草木が芽吹き、再び木々は桜色に染まった。
わたしは三牧くんお手製のお弁当を平らげ、食後の桜餅を頬張る。嬉しそうな三牧くんを見ているだけで、こちらも嬉しい。
最後は二人で舞い散る花びらを集めて、ベンチの上にハートを作った。
最後まで読んでくださってありがとうございます!以下は本編に入らなかったネタです。
三牧くんは手芸部の部長から「次期部長は君しかいない!」と言わせるほどの腕前。服も作れる。園川さんは茶道部(お菓子につられて入部)。