莉裏子と伍子
最後のLHRが終わると、クラスメイトはそれぞれ目的の場所に散っていく。
閑散とした教室で、吾妻 莉裏子は自分の席に座ったままだった。
通学鞄を机に投げ出し、重ねた腕へ額を乗せたまま動かない。一見寝ているようだが、眠いわけではない。ふてくされているのだ。友人たちは、反応がない彼女を置いて帰った。
どのくらい時間が経っただろう。莉裏子以外誰もいなくなったのか、静まり返った教室で、ガラガラ扉が開く音がした。
続いて床を鳴らす足音。
それは莉裏子の近くで止まると、ギギッと前の椅子が動き、人の影が差した。
「リリ、機嫌直して?」
おもねる甘ったるい声に、莉裏子は溜息を押し殺す。
莉裏子の名前をこんなに可愛く呼ぶ女は一人しかいない。
角 伍子。
似合わないから止めろと何回言っても聞く耳を持たなかった、隣の家のお嬢様だ。五つの時から高校二年の現在まで続く、彼女との付き合いは長い。
ぎゅっと目を瞑り、無視することに決める。莉裏子の不機嫌は彼女が原因だ。今は話したい気分じゃない。
それなのに、上から注ぐ声は簡単に莉裏子を揺るがす。
「怒ってもいいわ。でも、わたしのこと無視しないで――お願い」
伍子はずるい。
幼友達の生きる環境を知っている分、そんな言い方をされたら冷たくあしらえない。
莉裏子は、甘い自分にも腹が立った。
溜息をもう一度、念入りに押し殺す。
「……誰のせいだよ、誰の」
「そうね。生徒会なんてリリには興味がないでしょうし、剣道部も三年生のフォローに忙しくなるって知ってたのにね。完全にわたしのわがままよ、巻き込んでしまってごめんなさい」
――わかってんじゃねーか。
心で毒づく。
本当は、莉裏子も解っていた。伍子は、莉裏子が生徒会役員など真っ平だと思っているのを承知の上で、生徒会会計へ推薦したのだろうと。
ただただ、莉裏子を己の側に置いておく為に。
「でもね、リリ」
柔らかい口調を崩さなかったソプラノボイスが、弓の弦のように、ピンと張詰める。
来た。いつものアレだ。
莉裏子は目蓋を開くと、そっと顔を上げる。
幼友達の少女は、椅子に横から腰掛け、窓の外を見ていた。
ふんわりしたセミロングの似合う華やかな横顔と、不似合いなくらい大人びた表情。コーラルピンクの唇が、春の光できらめいている。
「約束したでしょう。18歳まで、あなたの一番はわたしよ。だから、少しでも長く側にいて。――いてくれるでしょう、リリ?」
伍子がふり向く前に顔を戻した。
三度目の溜息を瞬殺して、ゆっくり目蓋を閉じる。
閉ざしたはずの視界に、キラキラ光るしずくが見えた。
小学校に上がる前、莉裏子の一人称は「オレ」だった。
その頃、莉裏子が住んでいたのは少子化の進む田舎で、都会の住宅地のように家がびっしり並ぶことはなく、民家がぽつぽつ、田畑と山の中に点在しているような町だった。
莉裏子が「オレ」と言うのも、遊び相手が男の子ばかりで感化されただけのこと。深い理由はない。
兄のお下がりを着て山野を駆け回る姿は男の子そのものだが、小学校に上がれば広い学区から女子が集まる。その内、女の子らしくなるだろうと両親も楽観していた。
そんな莉裏子に転機が訪れた。
「莉裏子、引っ越すぞ」
「へ?」
「ここからずーっと遠い所だ。次の家はもっと広くて庭つき家政婦つきだぞ、楽しみだろ?」
「は?」
あまりの急展開だった。父親が一山、馬鹿でかいのを当てたのである。
羽振りが良くなった吾妻一家は、新たに始めた事業の拠点となる土地で、閑静な住宅街に一軒家を買った。
五つの莉裏子は、事情など解らぬまま車に乗せられ、兄たちと共に新居へ連れさらわれた。車内では四人兄妹そろって不満顔だったものの、実物を見た全員が目を皿の様にするのに時間はかからなかった。
シートベルトを必死に外し、父親が鍵を開けるのをもどかしく待つと、我先に走り出す。
両親は後ろでニヤニヤしていたが、兄妹はそれどころじゃない。
「オレ、ここ!ぜったいここオレの部屋!」
「ちがう!ここはオレが先に見つけたんだぞ!オレのだ!」
「オレここがいい!マンガ何冊置けるかな~」
「すっげー!お前ら風呂こいよ風呂!」
「「「すーっげー!!」」」
目新しいものに心変わりした兄妹の次の関心は、家の近隣だった。
翌日、小学生の兄たちはすかさず探検に飛び出したが、莉裏子は、広い庭を一人でつっきていた。幼い妹にはストップがかかり、うまいこと置き去りにされたのである。
最初の五、六分はムッとしていたが、歩き回っていると、緑の蝶や桃色の花に心を奪われた。
春の盛りまでもう一歩の空気と、若い緑。突き抜ける蒼穹には、真綿のような雲が浮かぶ。
気持ちのいい午後だった。
初めて自分から意識する春の気配に、心を半分どこかに置き忘れ、莉裏子は隣家の敷地へ入り込んだことさえ気づかなかった。
「だれ?」
不意に聞こえた、誰何の声。
驚いて周囲を見回す莉裏子の目に、まず、黒いスカートが映った。
よくよく見ると、趣向を凝らした庭園の木陰に女の子が座り込んでいる。
莉裏子は、大きく目を瞠った。
――お姫様がいる。
そう思ったのも無理はない。
小さな首に極上のレースを巻き、胸元は硝子ではない石で輝いている。
芝生に広がるスカートは、光沢を帯びたベルベット。そろいのベルベットリボンで結ばれたツインテールも手入れが行き届いている。
莉裏子は、そんな子どもを見たことがなかった。
同じくらいの背にも関わらず、彼女はずっと年上みたいな顔をしている。涙の跡が残ったピンクの頬。大きな瞳は水を湛えていたけれど、莉裏子を見据える視線は凛と冷たい。
初対面の女の子は、びっくりするほど可愛かった。
「聞こえているんでしょう、答えて!」
不審者を睨もうと強く瞬いた目から、キラキラと涙がこぼれ落ちる。
莉裏子は、迷うことなく彼女の前へ進み出た。
「なんで泣いてるの、お姫様?」
「……ちがうわっ、わたしなんかお姫様じゃないもの!どうせニセモノなんだから!」
「何いってるの、どこから見てもお姫様だよ。ガラスのくつでもなくしたの。見つからないなら、オレもいっしょに探すよ?」
女の子と目線を合わせる為にしゃがみこんだ。
黒い瞳は、莉裏子の笑顔を映しながら何度も瞬いた。
「……みんな、わたしのこと、いないフリするの」
「みんな?」
「お父様もお母様も、お兄様もお姉様も、みんな!みんな、わたしなんかいなくていいのっ…!わたしは血がつながってない、ニセモノだからっ、いらないっ、てっ…!」
キラキラしずくが零れた。
その度、胸がドキドキする。こんなキレイなものは見た事がない。
莉裏子は見た目が男の子でも、基本的な嗜好は普通の女の子である。
キレイなお姫様を「欲しいな」と思ったのだ。
母親の宝石を欲しがるような、鈍感な無邪気さで。
「じゃあ、オレにちょうだい」
「……?」
「みんながいらないなら、オレがもらってあげる」
「……わたし?」
「うん。オレのものになってよ、お姫様。どんなものより一番大事にするからさ」
少女はびっくりした顔で、じっと莉裏子を見つめた。
「本当に?わたしを、一番大事にしてくれるの?」
「うん。オレの一番にしてあげる」
彼女の問いの重さを、莉裏子はあどけない誠意だけで受け入れた。
濡れた瞳は、まだ莉裏子を見つめている。
「……じゃあ、約束して」
「やくそく?」
「あなたが、18さいになるまで、わたしを一番にしてくれたら」
「うん、オレがじゅーはちさいになるまで、お姫様を一番にしたら」
「永遠に、わたしがあなたの一番の女の子よ。約束してね?」
えいえんってなんだろう。
莉裏子はそんなものは知らなかったが、約束をねだるお姫様は可愛かった。
それで十分、約束の価値はあったから、莉裏子は自分から小指を差し出した。
「いいよ。やくそくしてあげる、お姫様をじゅーはちさいまでオレの一番にするよ」
「ありがとう、約束ね!」
後に、元お姫様は言った。
「わたしを迎えに来た王子様だと思ったのに、酷い詐欺だったわ。でも、約束は守ってちょうだいね?」
彼女が「リリ」と可愛らしく呼ぶのは、一種の当て付けかもしれない。
過去の残像を追いやって、莉裏子は顔を上げないまま唇を舐めた。
「……伍子。お前、副会長やりたいって、どこまでマジなの」
「あら、だって面白そうでしょう?一度やってみたかったの」
「内申上げたいヤツとか、三年からも候補出るぞ。お前勝てんのかよ」
「勿論、出るからにはわたしが勝つわ。リリもね?」
「あたし、やれること殆どないぞ」
「十分よ」
「つか、部活優先しねーと先輩にしめられんだけど」
「それも大丈夫。わたしが上手く調整するから、リリは心配しないで」
――そういうことか。
莉裏子は、声に出さずに呻いた。
伍子の声の調子が違う。滑らか過ぎて、嘘っぽい。
高校の剣道部は中学より本格的だった。大会の規模が大きくなった分、莉裏子は部活に時間を多く割いている。人間関係も、クラスメイトとはまた違った感じで、部活仲間と親密になった。
一年の夏、強化合宿で一週間、家を離れた。それはそのまま、伍子と離れるという意味でもあった。
楽しかった。
帰ってきて真っ先に、伍子にそう告げた覚えがある。彼女は笑顔でそれを聞いていた。
小さい頃は、莉裏子の家に毎日逃げてきた伍子も、今はあの家で上手く立ち回っている。だから、安心していたけれど。
あの一週間、冷たく息苦しい家の中で、彼女はどう過ごしたのだろう。
莉裏子はきゅっと唇を噛んだ。
「伍子」
「なぁに?」
「確かに、部活は面白ぇんだけど。違うからな」
「なにが」
「最優先にすんのは、伍子だから。あたしは、監視してなくても離れないよ」
「…………」
「いねー時は呼びだせ。あたしが必要な間は、ずっとそうしていいから」
顔を上げる気はない。彼女がどんな表情をしているか、気にならないわけではなかったが。
空気が動いた。
髪にくすぐったい感触。莉裏子は、その正体をあえて考えないようにした。
伍子が溜息を落とす。
「リリが男だったら良かったのに。結婚して、ずーっと側に置いておくのに」
「おっそろしい冗談言うな。つーか、ムリムリ。あたしが男だったとしても、お前、恋人にしたいタイプじゃねーし」
「関係ないわ。周期を計算して、すぐに既成事実を作ったと思うもの」
「げ」
Y染色体がなくてよかった。
男の生殖器があったら童貞なくして半年以内に婚姻届に判を押させられていたと思う。18歳になった日に入籍して電撃結婚ルートだ。しかも、高確率で新米パパ。
父さん母さん、女に生んでくれてありがとう。
莉裏子は、思わず本気で両親に感謝してしまった。
「伍子。お前、さっさとカレシ作れ」
「どうして?」
「今の内に、一番にしてくれそうな男捜しとけってこと」
この高校を卒業したら、今までのようには一緒にいられない。
三人の兄を見てきたから想像がつく。きっと莉裏子は自分のことで精一杯だ。伍子に構うにも、半端な態度になってしまうだろう。それじゃ駄目なのだ。
それじゃもう、彼女が「一番」なんて言えないから。
時々、考える。
あの日、約束などしなければ良かったんじゃないかと。
本当は、一緒にいたことが、間違いだったんじゃないかと。
「駄目よ」
「何で?」
「莉裏子がわたしを一番にしてくれているんだもの。莉裏子以外、いらないわ」
はっとして顔を上げた。
幸福そうに微笑む顔に、決めてしまった目を見つけて、愕然とする。
気づいたのだ。
一番にされているのは莉裏子の方だ。ずっと、彼女の一番を独占し続けている。伍子は、莉裏子以外を欲したことも、選んだことも無い。
幼く、不確かな約束だけで、彼女の特別な位置を奪い取ってしまった。
視線が徐々に低くなる。握りこんだ手のひらに、莉裏子は強く爪を立てた。
「……馬鹿伍子!」
「リリほどじゃないわ」
「うるせーよ、猫かぶり!」
「リリは正直者よね」
「……約束なんか、するんじゃ、なかった」
「いいえ。約束してくれてありがとう」
伍子の声が、二人だけの世界に、優しく響く。
握りこんでいた手を、温度の違う手のひらが覆った。
「泣かないで、リリ。嬉しかったの。だからきっと、わたしを『永遠』にしてね?」
泣き顔を見せてくれない友人をいじらしく思う。
返事はもらえなかったが、彼女は約束を守るだろう。
そういう人間なのだ、自分が選んだのは。
彼女にまとわりつく女友達が時々苛立たしい。
部活で彼女をこき使う三年が嫌いだ。
自分と彼女の時間を邪魔する存在全部、なくなればいいと思う。
でも、彼女が約束を守る限り、全て許せる。
時に試し、時に枷をつけ、離れていかないか見張っていたくなるけれど。
「わたしを裏切らないでね、大好きな莉裏子」