空は過去より覆われた
橙色の家の玄関先。テオレーネーは、老婆の手をそっと取っていた。その手はしわに覆われ、ごつごつとしていたが、不思議なほどしなやかで、やわらかな温もりがあった。
この家を預かる老婆は、屋敷の管理を一任されていた。
廊下の先には静かな息づかいで並ぶ骨董品。棚には古書が眠り、机の上には色褪せた地図。封蝋の割れたままの書簡。作者不明の絵画。
それら一つひとつが、この国にかつて存在していた人々の影を映し出していた。
それはまるで、王国の記憶を今も密やかに語る窓のようだった。
「おば様、とっても心安らぎました。また……また、お邪魔してもいいですか?」
テオレーネーの問いかけに、老婆は一瞬、目を見開いた。
そして、かすかに潤んだ瞳のまま、ゆっくりとうなずく。
「……ええ。ええ、もちろんでございますとも。いつでも……お待ちしておりますよ」
それは、まるでこの日が長い間訪れるのを待っていたかのような、深く、あたたかな笑みだった。
その言葉に一礼して、テオはタカセの待つ車へ向かう。だが、門扉に手をかけたところで、ふいに呼び止める声が響いた。
「あれ? もう帰るのー?」
見上げれば、2階の窓辺にルナがいた。彼はルスの弟だ。
テオレーネーと同じ色・同じ長さの髪は寝ぐせでふわりと跳ね、目元には眠気が濃く残っている。どうやらまだ、夢の続きを歩いているようだった。
「……帰るよー。また来るから、ちゃんと寝てなさい」
テオレーネーが笑いながらそう告げると、ルナはぼんやりと手を振り返した。
その姿に微笑ましさを覚えながら、テオレーネーは車へと乗り込む。
タカセの運転する車がゆっくりと走り出し、やがてラグナーレ宮殿へと通じる大通りへと出た頃、テオレーネーはふっと背もたれに身を預け、まぶたを軽く伏せた。
―――シビルの家でのあれこれを思い出していた。
(シビルの家に詰める赫守たち、鎖に繋がれた騎士、家を貫通した穴など)
そして今日、ひとつだけ確かに手にしたものがある。
それは、【赫守】とは、単に王族の護衛を担う者ではない、という確信だった。
この家が抱える静かな時間。交わされた言葉の奥に沈む、未だ語られぬ想い。そして、静かに忘れ去られようとしている歴史のかけらたち。
それらすべてを守ること――それこそが、彼らの本当の役目なのかもしれないと、そう思ったのだった。
* * *
子どもの一日というのは、長く感じる日もあれば、あっという間に過ぎてしまう日もある。そんなあやふやな時間の感覚に揺られながら、テオレーネーは王宮での暮らしに驚くほどすばやく馴染んでいった。
夜明けと同時に目を覚まし、昨晩サラが用意してくれた服――ウィザー邸から持ってきた運動着が、決まってベッド脇に置かれている――に着替えると、テオレーネーは毎朝決まって、いつもの窓から静かに外へ抜け出す。
向かうのは、王室近衛兵の目も届かない、ひっそりとした林間。宮殿に来て二日目の朝、偶然見つけて以来のお気に入りだ。朝の澄んだ空気のなかで体をほぐし、その日の調子を確かめるのは長年の習慣である。しばらくすると、決まってカミノが姿を現す。やがて日が高く昇り、宮殿がにわかにざわめき始める頃、カミノに連れられて部屋へ戻るのが日課となっていた。
部屋ではすでにサラが掃除を終え、身支度の準備を整えて待っている。誰かに手伝ってもらいながら衣服を整えることにも、今ではすっかり慣れていた。部下を持つことになったときも自然な流れだったが、今ではサラの手際の良さに幾度となく救われている。
(彼女より手際がいいのよね)
そして朝食の時間。必ず同席するのは弟のレイナルドだった。弟はひどく朝が苦手で、宮殿に戻った最初の朝に自分を起こしに来たとき、なぜあれほど嬉しそうだったのかを、今なら理解できる。
今では、テオレーネーが毎朝レイナルドを起こしに行くのが習わしだ。眠そうに眉をひそめ、不機嫌そうにテーブルにつく弟の顔には、年相応の子どもらしさが滲んでおり、それがひどく愛おしかった。
朝食を終えると、そこからは自由時間。テオレーネーは広大な宮殿を少しずつ探検することにしていた。この小さな体では、すべての部屋を巡るのに一月あっても足りないだろう。
数ある部屋のなかで、必ず足を運ぶ場所がひとつある。隠された円形の小さな部屋――王妃の■部屋である。壁沿いに並ぶ収納棚には、年季の入った品から、まだ光沢を失わぬ新しい小物まで、実にさまざまなものが収められていた。
ある日、テオレーネーはその中からひとつの木箱を取り出した。八節の旋律を奏でるオルゴール。誰もが一度は耳にしたことのある馴染みの曲だ。テオレーネーは無心に、忘れまいとするように、何度もぜんまいを巻き直す。
「気に入ったかしら」
ふいに、しみ込むような包容力を帯びた声が背後から降ってきた。
振り返ると、淡い黄色の衣装で全身を飾ったグレシア王妃が立っていた。先ほど部屋へ戻って来たようだった。
オルゴールの音色が濁流のように頭の中を駆けめぐっていたが、グレシア王妃の声に呼び止められ、テオの心は少しばかり落ち着きを取り戻す。
「この曲は……」
「聞かせたことがあったかしらね。」
グレシアはそっとテオレーネーの手に重ね、自らも木箱に触れた。
「これは、貴女のお父様が子どもの頃に、私に贈ってくれたものなのよ」
その言葉とともに、王妃の瞳は遠い日を追憶するかのように柔らかく揺れた。
――『レオナール歌集の一曲【女主人】』
それは、王国史における第二次文化期の頃、レオナールという小さな町で生まれた歌集に収められている。正確には、町の住民たちが口伝で歌い継いできたものを、ひとりの人物がまとめあげたのだという。
初めは小さな町の人々に親しまれるだけのものだったが、やがて広まり、国中で歌集として知られるようになった。
その中の一篇【女主人】は、ひとりで店を切り盛りする女性をモデルにした歌なのだそうだ。
グレシア王妃は、■部屋にテオレーネーが訪れるときには必ずお話をする。この日はその後、世界中の歌集を歴史と共に語った。
割り当てられた研究室で、ひとり鼻歌まじりに器具をいじる男がいた。名をジェクラ・ジェーマン。
王都国立学校の教職員にして、レイナルド王子の師のひとりでもある。
「先生、試料の準備終わりましたよ」
カゴいっぱいの実験試料を抱え、学生の青年が戻ってくる。声に反応してジェクラは手を止め、椅子をくるりと回転させて青年の方を向いた。
「珍しいね。君が持ってくるなんて」
そう言って椅子から立ち上がり、試料の入ったカゴを受け取る。
「僕しか手が空いていなかっただけですよ」
青年はそう言いながらも、どこか顔をほころばせていた。ジェクラには、彼の胸の内が分かっている。
「待ちきれなかったんだろう? 顔がにやけてるぞ」
「先生ほどじゃありませんよ。鼻歌、廊下まで響いてましたから」
二人の間には、年齢を超えた親しみがあった。
この青年こそが――後に、テオレーネーの未来を大きく変えることになる人物である。




