化石になる恋
あぶくのように浮かんでは消えていく自問自答を、飽きることなく繰り返す。
ランネルは魔導書の表紙を開いた。ページを視線でなぞり、捲っていく。その拍子にブレスレットが紙に擦れた。チャリ、と軽い音がする。
場所は幽閉塔だ。壁や床は全て石で出来ており、扉は鉄製。さすがに窓はガラスだが、内側には鉄格子がはめ込まれている。歩けば硬質な足音が響き、一つ一つが冷たく重い。
まさしく、といった風貌だ。
だがその一方で、これで良いのかとランネルは首を捻る。
四角形の部屋の一面を、全て本が埋め尽くしている。上下左右、どれを取っても本、本、本。しかも六割は魔導書という始末だ。まるで意味が分からない。
先日の一件により、ランネルは魔力を封じられた。ブレスレットは封印具だ。自力で取り外すことは出来ないものの、遣り様はいくらでもある。助長するように壁を埋めている魔導書があれば、いくらでも。
ランネルは溜め息を吐いた。
全く理解出来ない、というのが正直な本音である。
封印具は本物。
部屋も本物。
塔も本物。
だが、壁一面を占領する本も本物なのだ。それも、かなり上等な。
どうするべきかとブレスレットを見る。唇を指で押さえた。目に見えて悩んでいることをアピールする。
「……何をされていらっしゃるんですか?」
「いえ、少々悩み事を」
訝しむ声にランネルは流暢に答えた。声がした方に顔を向ける。
はたして、振り向いた先にいたのはリシュリアナだった。ロイヤルブルーのシンプルなドレスを身に着けている。装飾はほとんどなく、辛うじて髪を纏めるリボンがあるだけだ。公爵家のご令嬢とは思えないほど、慎ましい装いをしている。
ずいぶんなことで。ランネルは気持ちが白けるのを感じた。臓腑の辺りに隙間風が吹く。
「ご機嫌よう。ケルベック公女様」
「……ご機嫌よう、閣下」
慇懃な態度のランネルに対し、リシュリアナの雰囲気は固い。緊張が表情筋を強張らせていた。声すらも硬直しているリシュリアナに向けて、ランネルは殊更優しく微笑んだ。
「まさか公女様がこちらにお越しになるとは。紅茶でもお飲みになりますか?」
「いいえ、結構です。それよりも、閣下」
リシュリアナは部屋全体を見渡した。次いでランネルを見る。嘆いているような素振りは一切なかった。
「……閣下は、充足した毎日を送っているようですね」
懲りない娘だな。
臓腑の間を通り抜けた風が今度は思考に潜んでいた熱を攫う。加虐的な気持ちが爪先から迫り上がって来ていることを、ランネルは明確に感じていた。
「ええ、そうなのです」ランネンルはわざとらしいほどにこやかに続けた。「この幽閉塔での生活は大変心地が良い。憎い下種の顔も気配はなく、好きなだけ本が読める上に美味しい食事が毎度提供され、衣食住の不安は何もありません。まさに悠々自適な生活でしょう。大変素晴らしい毎日ですよ、公女様」
ランネルが身を置いている幽閉塔は外部との接触にかなり甘かった。
面談申請はほぼ確実に許可が下りる。そもそも許可を下す前にランネルに意向確認が入るのだ。もうこの時点でどうかしている。裁定者が判断を下すというよりも、ランネルの意向に基づいて決めている状況だ。
その上、物資配給の自由度がかなり高い。制限や規制はないのか不安に感じるほど、要望を出した物が与えられる。おかげでランネルは毎日が快適だった。
しかしリシュリアナは違う。
物理的な面でという意味ではなく心理的な環境面で、今のリシュリアナは切迫していた。当然だろう。ケルベック公爵家は今、矜持と品位の瀬戸際に立っていると言っても過言ではない。
親族の不貞擁護。夫人の不義密通。嫡子の偽装隠匿。醜聞のオンパレードだ。
堪えるように口元を歪めたリシュリアナに、ランネルは嘲笑を返した。慎ましくするのなら外面だけではなく、内面も同様にすべきだという本音を飲み込む。
先程から体内を走り抜ける隙間風が、酷く冷たかった。
「公女様はお変わりないですか? 何分情報が遠いもので、お恥ずかしながら最近の情勢に追いついていないのです」
嘘だ。概ねの近況はすでに把握している。
公爵家内部の崩壊。減退していく権威状況。低迷する名誉に賛美。今のケルベック公爵家は、足下を全て地雷で埋め尽くされているようなものだ。
「……そうですか」
「何かございましたか? 公女様」
「いえ、いや……そう、ですね……少々、立て込んではおりますわ」
ランネルの金色の目が濁る。薄暗い光が横切った。
「おや。まさかお忙しい中お越し頂いたとは……お気遣い、ありがたく存じます」ただ、という言葉と共にランネルの唇が歪に吊り上がった。「まるで砂糖菓子のようですよ、公女様。貴女様は今、ご自分でご自分の首を絞めていらっしゃる。このような場所に護衛も付けずたった一人で足を運ぶ危険性を、もしやご存じない?」
陰惨な影を溶かし込んだ微笑みを浮かべる。極端なまでになだらかな声が出た。
甘ったるい声で囁きながら、ランネルは明確に浮かび上がった悪意を持ってリシュリアナと対峙していた。
遠ざけたい。
壊したい。
その真っ直ぐな眼差しを、ズタズタに引き裂いてから突き放したいと思った。
「公女様がどのように感じているのか存じ上げませんが、私は犯罪者です。先王と先王弟、ケルベック公爵夫妻を害そうとし、実際に手を出した。不敬なこともたくさんしましたね。その上、ホムンクルスを非合法で夫人の胎に仕込んで造り出し、殺した。なかなかの危険人物でしょう。だから私は幽閉塔にいる」
「それは、」
「分かっている、と? 嘘でしょう? 貴女は何もご理解していませんよ、公女様。今こうして私に会いに来ていることがその証左だ。だからこんな、頭の軽い行動が出来るのです」
反論する様子を見せたリシュリアナをランネルは遮った。強い圧を孕む声にリシュリアナは口を噤む。
まるで弱い者苛めをしているようだ。眉を下げて気落ちするリシュリアナの細い肩が、より一層二人の雰囲気を不穏なものに変じさせていく。
だが、そんなことはランネルの関心の外だ。もはやリシュリアナは完全に被害者であると理解していてなお、腹の底から身を起こす嗜虐的な衝動を噛み砕くことの方が、今はよほど重要である。
遠ざけたい。
壊したい。
これ以上、その真っ直ぐな眼差しを見ていたくない。
心臓の内側が凍っていくようだ。ランネルは頭の片隅で思った。
「周囲は敵だらけで、親族は全く当てにならない。少しでも気を抜くと隙間を縫うように責め立てられる。公女様最愛の“弟”の死を悼む者は誰もおらず、むしろ存在を否定する者ばかり」歪な弧を描く唇が艶冶に動く。「ああ……なんてお可哀相な公女様」
同調する言葉が自然と口をついて出た。
リシュリアナの表情がさらに強張る。緊張というよりも畏怖に近い感情が、表情筋を支配していた。全身を縮こまらせていくリシュリアナの姿に、ランネルは心の臓を引っ掻かれたような不快感を覚える。舌打ちを飲み込んだ。
「まやかしの甘い日々に浸らないと立っていられないなんて、数日前は考えられなかったことでしょう?」
声が嘲りでコーティングされている。
沸き起こる侮蔑の感情がどこに向いているのか、ランネルは自覚出来なかった。
遠ざけたい。
壊したい。
もう勘弁してくれと、心のどこかが毒づいた。
「好きです」
その瞬間、空気が凍った。
ランネルは反射的に空耳を疑った。信じられない物を見るような目でリシュリアナを見る。視線の先で、リシュリアナは真剣な顔をしていた。
「今日はそれを伝えたくて、危険を承知の上で来ました」言葉を喉に詰まらせたランネルを一瞥し、リシュリアナが畳み掛ける。「私を今の状況に追いやったのは閣下です。ユーリを奪い、両親を追い詰め、伯母様を責め、私に絶望を与えた。閣下の正当な憎悪と理不尽な怒りに、我が家門はもはや地に落ちたも同然ですわ」
淡々と、リシュリアナは言葉を重ねていく。積み上げられていく声に感情は乗っておらず、それは純然たる事実の列挙だった。先日ランネルから放たれた責める言葉に呆然としていた姿はどこにもない。
リシュリアナはいつの間にか、現実を咀嚼し終えていた。
「どうしてと、何度も思いました。何度も恨めしい気持ちになり、何度も涙いたしました。どうして私がこんな目に、と……何度も、何度も……」
そもそもの原因は、伯母のアリスティーナ・スウィントンと先王弟リオネル・イシュル・エリアーデ・レーゲンハイムの二人だ。民草の先頭に立って未来へ導き、国を守っていくべき立場の二人が選択を間違えたことが、全ての始まりである。
責任を理解していたのなら。
役目を果たしていたのなら。
何もかもを捨て去り、ただの男女になる覚悟さえあったのなら他に道はあっただろう。装飾だらけのおとぎ話を作る必要は、どこにもなかったに違いない。将来に禍根を残すことはなかったはずだ。
「一体、私が何をしたのでしょう。私自身が恨まれることを何かしたのでしょうか。望んでケルベック公爵家に生まれたわけでもなく、私が誰かを害したわけでもない。ただこのタイミングで生まれたというだけです。それなのに、どうして私が、このような目に遭わないといけなかったのでしょう」
本当の所は分かっている。納得出来るかは別として、血の連鎖による等価交換の精算だ。自分ではない同じ血を持つ祖先が作った咎を代わりに雪ぐという、因果応報と欲望の末路であった。
ただ、夫婦の営みの元に生まれただけで。直系の血縁者というだけで、身に覚えのない罪科を洗う定めがリシュリアナには課せられている。
「好きでこんな生まれになったわけじゃない」
ヴァルドラ国における三大公爵家が一つ、ケルベック公爵。広大な土地を持ち、富があり、力がある。
だが、それだけだ。他に人が羨む所は何も無い。
ケルベック公爵家は典型的な家柄をしており、ステレオタイプの思想が根付いた家だ。平たく言えば、愛情よりも権力が強く太いのだ。リシュリアナの記憶の中では、親よりも物と過ごした時間の方が圧倒的に多かった。
しかし、両方を渇望するのは贅沢なことだと、リシュリアナはすでに知っている。
「……きっと、私は恵まれておりました。心にはいつも空虚を感じていたけれど、物理的な物で言えば常に最高品を手にしていた。精神的な空白を埋めるように、親の不在を誤魔化すように、愛情の遼遠を欺くように……私には、常に代替品があった。代替品だけが、ありました」
愛はあった。しかし、それよりも歯車という責務の方が強く存在した。
幼いながらに感じていた心の隙間を、親の愛情が凌駕することはついぞなかった。最終的にリシュリアナの手元に落ちてきたのは、理解という名の諦めだけだった。
「本物をご存じの閣下には、到底ご理解いただけないでしょうね。この言葉でラベリングも出来ない、自分の欠落と対面した息苦しさは」
ランネルも元は上位貴族だ。責務と歯車という鎖を知っている。
けれど同時に、ランネルには最愛のひとがいた。目を合わせて手を繋ぎ、愛を確かめ合う相手が、確かにいたのだ。駒でしか在れないリシュリアナには到底知り得ないぬくもりを、ランネルは知っている。
愛してるを、言えるのだ。その事実が、リシュリアナには心の底から羨ましい。
「ユーリと居ると安心しました。私は愛を知っている。両親とは違い、私は、愛を――」
でたらめだ。本当は、それが何であるのかリシュリアナにはとんと見当が付かなかった。
熱を出せば寄り添った。
寂しがれば手を握った。
泣けば涙を拭い取った。
それなのに、最後までリシュリアナは自分では分からなかった――
「……あの日々の中で私を支え、導いてくださったのは貴方しかいなかった」
愛であればいいと思った。共にあること、手を繋いだこと、悲しみを分け合ったこと。けれど、それが愛であるとは誰も教えてくれなかった。
今にも消えそうな命に心を寄せる行為を偽善と言わずに愛と言ってくれた人は、ランネル以外には、誰も。
リシュリアナは目尻に力を込めた。挑むような目付きでランネルを見つめる。鋭い視線はランネルをその場に縫い付けた。言葉をなくしてその場に立つランネルが、リシュリアナの気持ちを清々しくさせる。
不意に、泣き崩れたランネルの姿がリシュリアナの脳裏を横切った。
零れる嗚咽。頬を流れる涙。震える後悔。――泣いている、憧れていた男の人。
今だけでも愚かでいいと、リシュリアナは思った。
「好きです、閣下」
すきなのです。諦念と恋慕が入り乱れた声が繰り返す。この言葉が全てだと言うように、空気を揺さぶった声は凜としていた。
「……すでにご理解しているでしょう。全ては打算で計画です。私が応えることはない」
「ええ、そうなのでしょう。ですが、私が貴方に救われたのは事実ですから」
リシュリアナの眉尻が下がる。困ったようなその笑顔に、思わずランネルは押し黙った。
「貴方の打算が、あの日の私を救い、生かした。これが私にとっての真実です。ですので、私は閣下を恨みきれそうにない」
本当は、恨むことが出来ればよかった。憎しみという強い感情を抱き、そのエネルギーを糧に生きていければ楽に違いなかった。
だが、理想に沿うように心を捻じ曲げることは無理がある。一時しのぎは可能でも、未来永続の効果は不可能だ。いつか必ず、どこかでその歪みと対峙する瞬間が訪れる。
ああ、馬鹿だなあ。
「打算が人を救うことだってありますのよ、閣下」
◆
幽閉塔での生活は変わり映えがない。不都合のない面会希望者がいれば会い、特別な用事がなければ壁を埋め尽くす本を読む。
ランネルは手首に陣取る封印具を見つめた。手慰みに指先でつまむ。
正直に言えば、ランネルはリシュリアナの気持ちに気付いていた。眼差しに潜む淡い熱の正体を、恐らくリシュリアナ本人よりも先に見付けていた。
迷惑だと思ったことはない。
だが、恋心を利用するのは本物の屑野郎だろうなとは思った。
「……私は未練がましいのでしょうか」
「えっ、それをわしに聞いちゃうカンジ?」
封印具の点検に幽閉塔に来ていたアーサーが驚いた顔をする。両目を大きく開いてランネルを見た。封印具を指先で弄る表情は思考の海に沈んでいる。その憂えた顔に、アーサーは溜め息を吐いた。
ランネル・ヒースグリーン。相思相愛の元婚約者であるブリジットを先王らに奪われ、ついには復讐を果たした男。
恐らく、何か一つでも違えばブリジットの運命は変わっていた。今も生きていたかまでは分からないが、少なくとも、より一般的な生涯を送れただろうことは想像に難くない。
ブリジットの不幸は、人を惹き付ける純良な善性を持って生まれたことだ。
代償による長い命を厭っていたファナリナも、上位貴族特有の責務と歯車の役割を課されていたランネルも。そして、王太子として誰よりも早く大人になることを望まれたセリオンも。皆、ブリジットの善性に惹かれたのだろう。
ただの人であることを認められ、心が傾いたのだ。
アーサーは心の内で頷いた。ある意味当然の帰結だろうと一連の結末を回顧する。愛してると泣いて崩れ落ちたあの日は、避けられないことだったのだ。
――それしか残ってないんだから、当然のことなのよ。
鈴が鳴るような声が不意に鼓膜を揺らす。あの日落下した雫を、アーサーは思い返した。
本当に、そのとおりだよ。
「うーん……まあ、未練たらたらだよね。しかも重い。激重」アーサーは一刀両断した。ほがらかな笑みを浮かべてランネルを見遣る。「そもそもさあ、自己満で復讐しちゃう時点で何言ってんの? って、わしは思っちゃうんじゃけども」
ランネルは硬直した。錆び付いた動きで視線を動かす。
相手の様子を窺うような眼差しだった。揺れ惑う金色の目に、アーサーは呆れた気持ちになる。全ては今さらなのだ。
復讐に意味はない。
憎悪に未来はない。
このことを、ランネルが一番分かっているだろうに。
「ま、君はなんかこう……もう心が固まってるから無理もないかのぉ」
「心が固まってる?」
「えっ、そこが気になっちゃうカンジ?」
執着心が強く向ける感情が重い。これで心が固まっている自覚がないだなんて嘘だろうと、アーサーは数回瞬きをした。
「君の恋だか愛だか何だかは、もはや化石じゃろうに」
「化石……」
溜め息と共に言葉を吐き出したアーサーに今度はランネルが目を瞬かせた。何を言われたのか理解出来ないと、その表情が物語る。
だが、アーサーからすれば何故理解出来ないのかが不思議で仕方がなかった。
「化石じゃよ。風化もせず、塵芥にもならず。ただひたすらに感情の変遷を記録するんじゃからな」
ランネルがブリジットに抱いた心は、最初はただの恋だっただろう。
目が合えば微笑み合い、指先が触れれば絡め合う。笑ってほしい。幸せにしたい。傍にいたい。共に生きたい。分かち合いたい。愛し合いたい。もし叶うのならば、一生、ずっと。そういう思いだったはずだ。
しかし、その思いは歪んでしまった。ブリジットを襲った理不尽な死への道のりが、恋の表層を変貌させたのだ。
恋は傷へ。
傷は苦しみへ。
苦しみは怒りへ。
最終的に絶望と復讐心に姿を変えた恋は、今もなおランネルの奥深くで密かに呼吸をしている。時間を刻み、感情を浴び、願望を受けて変形を続けているのだ。
「心って、結構やわらかいじゃろ」
アーサーはランネルから離れた。部屋の中を歩き回る。辺りを見渡した。
壁一面を埋め尽くす本。
灰色の石の壁と石の床。
やがてアーサーの目が木製の家具に止まる。小さなチェストの上にガラス製の小物入れが佇んでいた。縁は金箔で彩られており、ガラスの側面は光の反射を受けて極彩色に顔色を変える。中にあるのは一輪の花だ。
小物入れは間違いなく高級品だろう。値段を確かめる等といった無粋な真似を、アーサーは決してしなかった。
代わりに、灰色で包まれた部屋の中で異彩を放つ小物入れを静かに見つめる。
――これは、ランネルの心の象徴だ。
「繊細だから傷付きやすくて、目に見えないから傷付いたか判断できん。でもやわらかいから傷をスルッと避けるし、逆に一度傷付いたらずっと残り続ける。だから外殻を固めて皆防御しちゃうし、傷付きたくなくて皆が必死になる。心の傷って一生物じゃもんね」
忘れたくとも忘れられない。忘れたくなくとも忘れてしまう。
だからきっと、心は迷いやすく出来ている。
「みーんな何を勘違いしとるのか知らんが、泣かないのが格好いいとか、冷たいのがクールで素敵とか……うへぇ、趣味悪ぅ」
アーサーは苦虫を噛み潰したような顔をした。
迷いやすい心をさらに惑わすような振る舞いが、全くもって理解出来ないと思ったのだ。
「殻が分厚くって重たくってクッソ面倒くさいヤツの何が良いんじゃか……ハッ! もしやこれが、巷で聞くジェネレーションギャップ⁉ やだぁ! 時間の流れって残酷ぅ!」
「アーサー様……」
「まっ、本当に残酷なのは生きてる人間じゃけども」
ランネルは声を飲み込んだ。毎秒ごとにテンションを上げ下げする老爺を呆然と見つめる。
その一方で、アーサーがケロッとした顔で言う。
「人間は、生きてるだけで残酷じゃよ。何せ食物連鎖の頂点に立って、ヒエラルキーで自然淘汰を無意識に行って、強者と弱者を位置付ける。そして自己都合で弱者を搾取する。そこに意識的か無意識的かは関係がない。社会の構造がそうなのじゃ。だからルールで縛って抑制し、均一的な常識形成を図る。人は皆平等で尊いと口ずさむ。理想郷とは甘美な響きじゃろ? しかし生命は何かを奪わねば生きられん。矛盾と二律背反を抱えて生き、愛を囁いたのと同じ口で死を望む。これしかないと思うのに、こうするしかないと覚悟を決めるくせに、簡単に迷って目を逸らして見失う」
アーサーは目を閉じた。過去の自分を思い浮かべる。
――本当に、間違えてばかりだな。
「馬鹿じゃよね~。わしら人間って、ほんと愚か。大切なものほど、人は間違える」
完璧なものなんてない。
完全なものなんてない。
だが、それを真に理解出来るほど人は長い時間を生きられない。
生きられないのだ。そういうふうに、人は出来ている。
「わしも、君もな」
「……貴方も?」
か細い声を絞り出したランネルに、アーサーは笑った。目尻に皺が寄る。
「だから今、自ら代償を背負って生きておる」
静かな声だった。深みと落ち着きがある。告げるというよりも独白の気配が強いその様子に、ランネルは胸騒ぎがした。金色の目を揺らす。
焦燥。疑心。困惑。心臓の内側を掻き乱す衝動を、ランネルは無理やり飲み込んだ。
「理由を伺っても構いませんか」
「え、嫌じゃよ。恥ずかしい」
アーサーは再び一刀両断した。本気で嫌そうな顔をする。
「お爺ちゃんの恋バナよりも若い者の恋バナじゃろ~? ほれほれ、君も何か話してみ?」
部屋に落ちかけた沈黙を、アーサーは素早く退けた。可笑しな雰囲気が一瞬で掻き消される。目を輝かせて話を待ちだした。
ランネルは困った。話せることなんて数えるほどもない。
「……ブリジットのこと以外、何もありません」
「カーッ! まじで激重一途じゃの~! それでそれで?」
気不味い様子で口を開いたランネルを、アーサーはまるで気に留めなかった。さらに目を輝かせて続きを強請る。
盛大に食い付いたアーサーの姿に、自然とランネルの肩から力が抜ける。視線を落とした。瞼の裏に、これ以上はないと直感した女性の姿が翻る。
揺れるハニーブロンドの髪。
やさしい眼差しの深緑の目。
白い頬を鮮やかに彩る瞬間が、ランネルは好きだった。照れて溶けるように笑うブリジットの姿が、本当に、心の底から。
――忘れられない。
「アーサー様……私は、本当に、っ……ブリジットが、すきなのです……っ」
内臓から声を絞り出す。掠れ、途切れ、細切れになって言葉が空気を震わせた。
ランネルは喘いだ。
「一生物の傷にしてでも、私は……ブリジットだけがいい」
「うん」
「他に心を動かしたくなくて、動かせなくて、ッ」
「うん」
「お、おれっ、……俺は、ブリジットと、一緒に生きたかった……!」
完璧はなくとも。間違いだったとしても。
たとえ、恋が化石に変わっても。
それでもランネルには、ブリジットだけでよかった。ブリジットだけがよかった。他も代替も、何も必要がなかった。
これがランネルに出来る最後の抵抗なのだから。
「っ、……こんな俺は、愚かですか……っ、アーサー様」
打算が時には人を救う。
そんなこと、知りたくなかった。ランネルは思った。知らないままでよかったのに。
「ケルベック公女に、好きだと言われて……ぅっ、おれは! 俺はその言葉を、聞きたくなかった! ……ッ、ブリジット以外から、その言葉をっ、聞きたくなかった……!」
上書きされたくなかった。
声を、言葉を、あの眼差しを。あの瞬間を。
もう二度と目にすることの出来ないブリジットの姿を、誰にも汚されたくなかった。この考えが酷いものだと分かっていてなお、それだけは、どうしても嫌だった。
「あの子は、何も悪くないのに……!」
ランネルは崩れ落ちた。慟哭と共に罪悪感が露出する。しかし、それを上回る勢いで懇願が背骨の上を這い上がった。
――もうこれ以上、俺からブリジットを奪わないでくれ。お願いだから。
懇願はランネルの声なき悲鳴だった。
「頭で、理解していても、ッ、……堪えられない……!」
血を吐くように告白するランネルにアーサーは頷いた。「うん」
そうだろうさ。
恋を化石にしてまで自分の中で保管するランネルに、他者からの侵攻で最愛を零すような事態は、可能性であっても恐怖だろう。
もう二度と会えない君。
もう二度と話せない君。
――もう二度と触れられない貴女。
心臓が引き千切られる痛みというのは、きっと果てない衝撃だ。
視線を小物入れからランネルに移し、アーサーは囁いた。
「とても愚かで……けれどその愚かさこそが、我々が愛を告げるに必要なはずだ。だから、心を殺すな。貫きたいなら、貫き通せよ。ランネル・ヒースグリーン」
復讐に意味はない。
憎悪に未来はない。
しかし、過去を意味あるものにするのも、無意味にするのも、全ては自分次第だ。過去を運命に変えるのも。
「あ、ぁああ、あぁ――」
ランネルは涸れるほど泣き続けた。
ただひたすらに、ブリジットへの愛を零しながら、ずっと、ずっと。それでも過去も運命も捨てられないのだと、ずっと。