追葬曲、追想花
キシュリアは荷物を纏めていた。要るもの、要らないもの。手早く確認をしては仕分けていく。
作業は淡々としていた。機械的に仕分けていく手に迷いはない。
必要なもの。
不要なもの。
邪魔なもの。
戴冠式を見届けた今日、キシュリアは国を出る準備を進めていた。
◆
三歳の時だ。真夜中に目を覚ましたキシュリアは、どうしようもなく母親を求めたことがある。静まりかえった離宮の中を、幼い足でゆっくり進んだ。
不自然など人がいない夜だった。
普段であれば必ず止められただろう。だが、その日は誰にも邪魔をされずキシュリアは母親の部屋に辿り着いた。
少しでも傍に行きたい。
出来れば一緒に眠りたい。
誰でも一度は願うであろう幼子の願いを持って、キシュリアが母親の部屋を開ける。小さな音を立てて、部屋の扉が開いた。薄暗い部屋を窓から差し込んだ月光が照らしている。
キシュリアは息を呑んだ。惨状を絵に描いたように部屋が荒れていた。
「こんばんは」
涼やかな声が響く。動揺も、困惑も潜んでいない。滅茶苦茶に荒れ狂った部屋には似つかわしくないほどに、とても穏やかな声色だった。
「……これ、なに……?」
家具は一つ残らず損傷している。ドレッサーの鏡は粉々に割れており、破片は床に散らばっていた。
被害はそれだけではない。カーテンは引き裂かれ、カーペットでさえズタズタになっている。もはや残骸だろう。部屋の中で唯一無事なのはベッドだけだ。
その真横に佇む小さな人影を、キシュリアは脅えながらも見つめる。
「夢ですよ」
「ゆめ……?」
月光が人影に降り注ぐ。銀色の髪が鈍く輝き、菫色の目が微かに浮かぶ。
背丈はキシュリアとそう変わらなかったが、佇まいはまるで違った。小さな唇から放たれる言葉は流暢で、どこか舌足らずなキシュリアとは似ても似つかない。
小さな侵入者がベッドに腰掛けた。悠然と頷く。
「そう、夢」
「でも……でも、へんだよ……」
「どうして?」
首を横に倒した侵入者をキシュリアは懸命に見つめた。戸惑いながらも外されない視線に、侵入者が逆方向に首を傾ける。
緩慢なその動きに、このままではいけないとキシュリアは直感した。
「だって、おかあさまのおへや、こんなじゃないよ」
「……そうですか?」
「そうだよ。こんな、めちゃくちゃじゃない」
「へえ。普段の部屋の様子をご存じなんですか?」
「……え?」
キシュリアの声が震えた。驚きを露わに侵入者を見つめる。侵入者は頬杖をついてキシュリアを見つめていた。
「あ……ううん、しらない」
「知らない?」
「いつも、あっちゃだめっていわれるから……」
「誰に言われるんですか?」
「みんな」
思わずといった様子でキシュリアが答える。
眉を下げ、目を伏せながらたどたどしく言葉を重ねる姿は物悲しい。
「……貴方はお母様がお好きですか?」
「うん、すきだよ。だいすき」
「でも会えない?」
「うん……みんな、だめっていって、あわせてくれない」
キシュリアの双眸がおもむろに濡れていく。涙が零れ落ちそうだった。群青色の目が迷子のように揺れ惑う。
「ぼく、おかあさまと、ちゃんとあいたいのに……」
幼い吐露を侵入者はなるほどと受け止めた。右手を持ち上げる。
キシュリアは知らないだろうが、この部屋には悪趣味は仕掛けが隙間なく仕込まれている。何の用意もない幼子が足を踏み入れれば、ひとたまりもないだろう。最悪の場合死に至る。
だが、それを聞いたからといってキシュリアの欲求が消えるはずもない。
侵入者はわざとらしく魔法陣を出現させた。部屋の隅々まで魔法陣で埋め尽くす。ベッドを浮かせた。
「なに、これ……?」
「一つお伺いしてもいいですか?」
「え、え?」
ひたすらに困惑するキシュリアに構わず、侵入者が続ける。
「貴方のお母様のお名前は?」
魔法陣が青白く光る。
部屋全体が揺れ動く。
異様な光景を目の当たりにしながら、それでもキシュリアはどこか冷静だった。それは生まれ持った知性が理由であったし、一番最初に言われた夢という言葉が大きな要因であった。
キシュリアが胸元を握りしめる。幼い双眸が侵入者を真っ直ぐ見つめた。
「……ブリジット。ぼくのおかあさまは、ブリジットだよ」
答え終わった瞬間、魔法陣の光が部屋を覆い尽くした。
「今この瞬間の出来事は全てが瞬きの間に消える夢だ。でも、忘れないでキシュリア様。貴方が夢の中でさえ焦がれた母親が、誰であったのかを」
涼やかな声が囁いて消える。
次に目を開けた時、そこはキシュリアの自室であり、普段寝起きしているベッドの上だった。
◆
幼い頃からキシュリアは自分の顔が大嫌いだった。
金色の髪。群青色の目。吊り上がった目尻。勝ち気な顔。ブリジットの容姿には一切存在しない要素だ。
「なにこの量。荷物少なくない?」
キシュリアは固まった。ぎこちない動きで声がした方を見る。
「……ユグシル魔法伯」
口元を斜めに傾けて、ファナリナが部屋の入り口に佇んでいた。
濃紺のローブが袖を揺らす。硬質な足音を響かせてファナリナがキシュリアとの距離を詰める。持って行かないと決めた荷物の前で立ち止まった。
「アンタ、この家が嫌いなのね」
「……なぜ」
「この山。全部要らないやつでしょ。持って行く分と比べて量が少なすぎる。他国に持って行きたい思い出がないのね」
遠慮という言葉を知らない追求だった。責めるような響きはないが、その分事実を述べる言葉がキシュリアの腹底を乱す。
キシュリアは口を噤んだ。ファナリナの言うことが正しかったからだ。
視界に入り込む金髪を思わず睨む。
「……貴女に、関係ありますか?」
キシュリアに母親との思い出は少ない。幼い頃にブリジットが亡くなったことも理由の一つだが、そもそも根本的に触れあったことがないのだ。
母が恋しかったとき、代わりに抱きしめてきたのは乳母だった。キシュリアがどれだけ母親を求めても、誰一人としてブリジットに会わせてはくれなかった。抱きしめてほしいと願った相手はブリジットだったのにもかかわらず。
今になって思えば、ある意味正解の相手だったのだろう。だが、キシュリアが母だと求めた相手はブリジットだ。乳母ではない。
だから、キシュリアはこの家が嫌いだった。
「関係の有無は知らないけど、アタシはアンタに用があるの」
「用……?」
キシュリアは眉をひそめる。ファナリナが自分に用があるだなんて、信じられない気持ちだった。理由だって思い当たらない。
一方で、魔女の子が何の理由もなく動かないことをキシュリアは理解していた。
確かに魔女の子は皆が自由奔放で気まぐれだ。天災級の力を指一本、視線一つで簡単に揮える。権力も武力も、相手が誰であろうとも関係がない。ある意味で平等に理不尽な存在でもある。
しかし、魔女の子が魔法を揮うのにはそれ相応の理由があるのだ。
ジストが先日魔力暴走を引き起こしたこと然り。
戴冠式で魔女の子たちが国中を彩ったこと然り。
ファナリナは約十四年前に先王と先王弟、その周囲を相手に、それ相応の理由に基づいて魔法を落としたことで有名な魔女の子だ。
警戒心と緊張感を持って、キシュリアはファナリナを見た。
「そうよ。じゃなきゃ来ないわよ、こんなクソみたいな場所」
「……呼び出せば、よかったのでは?」
「アンタ、話聞いてた? アタシが、アンタに、用があるの。変な横槍があったら御免なの。邪魔が入ったら面倒なの。確実に遂行できる方法を選ぶのは当然でしょ」
だが、と思う。
それで毛嫌いしている場所まで乗り込むだなんて、どうかしているとも。
しかしファナリナは違うらしい。口汚くこき下ろした場所で堂々としている。
「ねえ、一つ確認なんだけど」
「何でしょう」
「アンタの母親って、誰?」
「――は?」
キシュリアの声が震えた。ファナリナを凝視する。視線がおもむろに研がれていった。
「アンタが母親だと認めているのは、誰なの」
一方で、ファナリナは動じなかった。鋭さを増していくキシュリアの責め立てる目を見つめ返す。灰色の目には揶揄いも、嘲りも存在していなかった。
むしろ、真剣な眼差しに動揺したのはキシュリアだ。反射的に唇を噛む。
母親。
それはキシュリアにとっての鬼門だ。
「なんで、そんなことを聞くんですか……っ」
「知りたいから」
「貴女……自分が残酷で最低な質問をしている自覚はお持ちで?」
「それが?」
感情が逆流する激動を、キシュリアは初めて体験した。
「ふざけるな!」
声が荒ぶる。蠢く激情が赤黒く燃えていく。自分を止められないと、キシュリアは悟った。
先王の妃に言及された直後から、自分の顔を見ることが苦痛だった。
だから鏡が嫌いだ。磨かれた貴金属が苦手だ。容姿に触れてくる言葉が大嫌いだ。知りたくない現実を見せつけてくるような世界が、心の底から恨めしかった。
「俺に、この俺に! こんな俺が、あの人を母親だって慕えると思っているのか!」
触れあった記憶がない。
親子の思い出がない。
あるのはただ、縋るような願いだけだ。
「俺は、あの人を……っ、あの人が苦しんだ一因なのに……っ」嗚咽を零しながらキシュリアは続ける。「あの最低な檻を作り上げた、ぅっ、……最後の一手そのものなのに!」
それなのに。
「どうして、っ……なんで、おれ……!」
キシュリアの手元には、ブリジットの肖像画さえ一枚もない。どれだけ強請っても、懇願しても。それがキシュリアの元に届くことはついぞなかった。
五歳にも満たない幼い頃の記憶なんて曖昧だ。面影さえ追いかけられない状況の中で、朧気なブリジットの顔を思い出すことは困難を極める。顔を見ることさえ難しかったのだから、ブリジットの声だなんて聞いたことがないのと変わりない。
母親を求めた記憶には、まるでその空白を補うように乳母の姿がそこかしこに存在している。
こんな有様だ。
心理的要因を介さずに客観的な判断を下すなら、母親と呼べるのは乳母になるのだろう。キシュリアがそうは思わなくとも。
「ねえ。勘違いしないでくれる?」
ファナリナが苛立った様子で爪先を鳴らす。いつの間にか仁王立ちしていた。
絶世の美貌を不機嫌に歪めながら、ファナリナはふんぞり返った。鋭く舌打ちをする。
「アタシは、アンタがどう思ってるのか聞いてるの。アンタの周囲とか、世間様の目とか、環境とかは聞いてないの。分かる?」
「そ、れは、」
「キシュリア・レーゲンハイム」
口籠もったキシュリアをファナリナが制した。灰色の目が濃くなる。
「もう一度聞くわよ、キシュリア・レーゲンハイム。アンタが母親だと思う人は誰?」
最悪な女性だ。ただ知りたいことを優先するファナリナに、キシュリアは漠然とそう思った。群青色の目が歪んでいく。
母親はブリジットだ。そう言えたなら、どれだけ。
キシュリアは唇を震わせた。葛藤が震えになって露出する。体内で逆巻く感情がまるで嵐のようだ。喉を締め付ける痛みにキシュリアの顔が歪む。
「……なんで、知りたいんですか」
「はあ?」
「教えてくださいよ。なんで、今さら……」
そう、今さらだ。
キシュリアにとって、ファナリナの質問は今さらだった。
肖像画が一枚もないのも。会うことさえ許されなかったのも。全部、全て。母だと信じて縋り付いてきた心のよすがが、ただの虚像だったと知った今では。
「今さら、今になって……っ、そんなこと、聞かないでくださいよ……!」
母親がブリジットではないと詳らかにされた後になって、思い慕う母が誰かだなんて言えるはずがないのに。
「ぅ、がーッ‼ まだ泣くなぁ!」
いつの間にか下を向いていた顔を持ち上げ、キシュリアが前を見る。ファナリナは頭を抱えていた。鮮やかな赤髪を掻き乱している。
やがて我慢出来なくなったのか、ファナリナが目尻を吊り上げた。
「なによ! 仕方がないでしょ⁉ アンタはブリジットと碌な交流もなくて、ちゃんと顔も見れてない! 乳母やってたあのクソアマは当然のように母親面! そんなクソにクソを重ねた環境のアンタが、ちゃんとブリジットのこと覚えているのか好いているのか、こっちは分かんないんだから!」
逆ギレだ。
キシュリアは呆然とした。がなり立てるファナリナを見つめる。
苛立ちが限界点を突破しているファナリナは、呆けた様子のキシュリアには目もくれなかった。盛大に舌打ちをする。
「大体ねえ! アンタが原因でブリジットは死んだんじゃないのよ! 勘違いするな、このクソガキ!」
「は……」
「ブリジットは魔力暴走が原因で身体が衰弱したけど、最終的には寿命だったの! だからブリジットは最期に笑っていたし、後悔してないはずだし、幸せだったはずなんだから!」
感情が理性を焦がしている。ファナリナの目尻には涙が浮かんでいた。迸る激情をそのままに、灰色の目がキシュリアを睨み付けた。叫ぶ。
「勝手にブリジットを不幸にしないで!」
それは精一杯の主張だった。
ブリジットの尊厳を守るためにファナリナが振り翳した、強い雄叫びだ。
「アタシたちはもうブリジットには直接会えないわ。だけど、だからって、アタシたちの主観でブリジットを不幸にしていいわけじゃない! ブリジットが懸命に生き抜いたあの数年間を、あの日々を! アタシたちが否定することは、絶対にしちゃいけないのよ!」
ファナリナの世界は狭い。好きなものはブリジットであり、次点でジストだ。他の魔女の子とエヴァレット侯爵領は嫌いではないが、それ以外は概ね嫌いである。
ブリジットを犠牲にした人々。ブリジットを救えなかった自分。――本当に、大嫌いだ。
ファナリナの舌の上に苦い感情が蘇る。それは離宮からブリジットを連れ出した日に味わった、後悔という名の味だった。
「キシュリア・レーゲンハイム!」
「……はい、ファナリナ・ユグシル魔法伯……っ」
灰色の目が歪む。
群青の目が潤む。
それでも、雫は落ちなかった。代わりに荒い息を零す。
「もう一度聞くわよ! アンタの母親は誰か言いなさい!」
息を吸う。唇を噛む。歯を食いしばる。
喉を締め付けながらキシュリアが言い返した。
「ブリジット、ぅ……っ、俺の母親はっ、ブリジット・レーゲンハイム!」願い縋る気持ちでキシュリアが言葉を重ねる。「ブリジット様が、ッ……ブリジット様だけが! 俺の母親は、ブリジット様しかいません!」
誰が、何と言おうとも。
キシュリアは鼻を鳴らした。嗚咽を飲み込む。
泣き出す直前のキシュリアを見て、今度はファナリナが鼻を鳴らした。
「遅いのよ、クソガキ」
あんまりな物言いにキシュリアは思わず泣き笑う。
「は、はは……言い方」
「いっちょ前に振る舞おうとするからよ。クソガキのくせに」
ファナリナは腰に手を当てた。涙を拭うキシュリアを見つめる。観察する眼差しだった。
カミオ公爵家嫡男、キシュリア・レーゲンハイム。ファナリナからすれば何でもかんでも抱え込む生意気なクソガキにしか見えないが、他の人が見れば違うらしい。
生きづらそうとエヴァンスは言った。
難儀な子どもだとアーサーは評した。
だが、ジストだけは釘を刺した。決してキシュリアを見くびるなと告げたのだ。だから今、ファナリナはこの場所にいる。
「いい? アンタの母親は、ブリジットよ。忘れないで。……忘れたら呪うわよ」
何も無い空間にファナリナが手を差し込む。次に手を引き戻した時、手元には木製の箱が乗っていた。
角は丸く縁取られ、表面にはニスが塗ってある。やわらかい木材の色をしたそれは、片手で持てるほどの大きさしかない。上部は開閉出来るようになっており、一段だけ引き出しが付いている。
「それは……?」
「……アンタの物。ほら、開ける」
強引に押し付けられ、キシュリアは困惑しながら受け取った。恐る恐る手元を見る。
「あ……これ、オルゴール……」
上部の蓋を開ける。
次の瞬間、空気が動いた。
『キシュリア様、お元気ですか? ブリジットです』
反射的にキシュリアは声を呑んだ。手元を凝視する。オルゴールの蓄音機装置が、緩慢に動いていた。
『この魔道具がキシュリア様のお手元にあるということは、とうとう私の婚姻について知ってしまったのですね。今キシュリア様はおいくつなのでしょう? 出来るだけ大人になっていたらいいのにと、無責任にも願ってしまいます』
肺が燃える。
喉が焼ける。
瞼が溶ける。
音が、止まらない。
『本当は直接お伝えするべきだと分かっているのですが……。すみません、勇気が持てなくて。キシュリア様が乳母として慕う方と幸せそうに暮らす姿を、私は寛大な心で見守れないのです。その……図々しくも、キシュリア様の母親は私だと嫉妬してしまうので』
「……え」
キシュリアは思わずファナリナを見た。絶世の美少女は無言でオルゴールを指さす。
「気を逸らすな」
呼吸を乱したままキシュリアが視線を戻した。もう一度オルゴールを見つめる。
『私があの離宮から飛び出した夜、とても嬉しかったんです。母親は私だとジスト様にハッキリ答えてくれて、大好きだと言ってもらえて……。本当に、嬉しかった』
――忘れないで。
涼やかな声が鮮明に蘇った。
「っ、ふ……ぅ」
『キシュリア様、生まれてきてくれて……本当に、ありがとうございます。私は何もしてあげられなくて、悲しい思いしか貴方に差し出せない。こんな最低な母親は他にいないでしょう。なので、よいですかキシュリア様。貴方はご自分で選んで良いのです。母親も、生きる場所も、未来も、明日も。全てを自分で決めて良いのです』
「……ぁ、あ……っ」
やわらかい声が空気を震わせる。優しく言葉を重ねていく。
――もう、耐えられない。
キシュリアの下肢から力が抜ける。その場で崩れ落ちた。蹲る。嗚咽と共に涙が床を濡らしていく。
『これからです、キシュリア様。貴方の人生は、これからなのです。だから、どうか――』
生きて。
最後の音をたどたどしく告げて、オルゴールは停止した。部屋に沈黙が着地する。袖を広げた静寂の隙間に、キシュリアの嗚咽が零れ落ちた。
こんな別れ、聞いていない。
「ぅ、……かあさま……」
まともに会ったこともなかった。触れあった思い出も、声を聞いた記憶もない。肖像画さえ一枚も手元にない有様だ。
だが、それでも。
それでもキシュリアにとって、母親はブリジットしかいなかった。
「そのオルゴールは声を再生する魔道具よ。その引き出しにある原動力の魔石に魔力を注げば何度でも聞ける。……だから、」ファナリナは二、三回ほど口を開閉させた。歯切れ悪く続ける。「……人は声から忘れていく。だから、何度だって聞きなさい」
仏頂面をぶら下げてファナリナが腕を組んだ。気まずそうに視線を右往左往させてから、やがて観念した様子でキシュリアを見る。
「忘れないで。……アタシも、忘れないから」
◆
キシュリアは馬車に荷物を詰め込んだ。今日はヴァルドラ国を発つ日である。
オルゴールを抱えて振り向く。
「……お見送り、ありがとうございます」
「仕方なくよ、仕方なく」
「はい」
ツンと横を向いたファナリナに、キシュリアは微笑んだ。朗らかな笑みだ。素っ気ない態度を気にすることなく笑うキシュリアを一瞥して、ファナリナは口をへの字に曲げた。
悔しい。なんだこのクソガキ。
大きく舌を打ったファナリナが濃紺のローブのポケットを漁る。細長い箱と手紙を取り出した。不思議そうに瞬きをするキシュリアに押し付ける。
「アタシからじゃないから。勘違いしないでよ」
「これは……?」
「知らない。……あ、いや何だっけ……? 何かジスト様言ってたな……」
途端にファナリナは焦った顔をした。口元を引き攣らせる。
本気で忘れたらしい。顔色を若干悪くしながら、ぼそぼそと何かを呟いている。
「なんか、書くもの……何だっけ……?」
「書くもの? ペンですか?」
「そう! 見せてもらったけど、何か、すっごいお洒落だったわ!」
酷い使者だ。現物を見たというのに中身を覚えていないと言う。力強く「多分そう!」と頷いているが、間違いなく任務は失敗だ。
しかし、使わせた人物はそれで良いらしい。細長い箱の後ろには、ファナリナを擁護する内容のメッセージカードが添えられていた。
「……頂いてしまってすみません」
「なんで? 何か謝ることあるの?」
「いえ……」
歯切れの悪いキシュリアにファナリナは舌打ちをした。
「いいから! 遠慮なく貰って遠慮なく使う! たくさん使ってくださいねって、確かジスト様が伝言で言ってたから!」
堂々と言い切ったファナリナだが、仕事の出来は悲惨である。不確かな内容の伝言でさえ、キシュリアの引け目を感じた態度がなければ伝えられなかっただろう。
本当に酷い使者だ。そして結構、最悪な女性だ。
配慮をしない。遠慮をしない。慮らない。
歯に衣着せぬ物言いは、何度もキシュリアの心臓を逆撫でした。何度も腹底を掻き乱した。
だが、気が付けば自分を押さえ込んでしまうキシュリアには、ある意味で相性の良い相手であっただろう。恐らく、ファナリナが相手でなければ、あの夜にキシュリアはブリジットを母と呼べなかったに違いない。
「あ、でもジスト様に甘えすぎないでよ。アンタなんかブリジットの子どもじゃなければ、相手にもしてないんだから」
本当に、最悪な女性だなあ。
キシュリアは笑った。
「ふふっ。……肝に銘じておきます」
素直に頷いたキシュリアに、ファナリナは口を斜めに傾けた。まったく子どもらしくないヤツである。
「キシュリア・レーゲンハイム」
ファナリナは舌打ちを飲み込んだ。群青色の目を捕らえる。
生きづらそうとエヴァンスは言った。
難儀な子どもだとアーサーは評した。
だが、ジストだけは釘を刺した。決してキシュリアを見くびるなと告げたのだ。だから今、ファナリナはこの場所にいる。あの夜だって、今日だって。
一番の適任はファナリナだと、そう言われたから。
そうかもしれないと、否定が出来なかったから。
「何事も、タイミングというのがあるのよ。助けられるのも、助かるのも。だからアンタは、チャンスを逃しちゃだめよ」
ブリジットを犠牲にした人々。ブリジットを救えなかった自分。
――本当に、大嫌いだ。
しかし。だからと言って、目の前の青年に同じ道を辿らせるような真似は絶対にしたくなかった。
生きてと願われた子どもが命を厭うことだけは、どうしても。
「……チャンスを逃さなければ、陛下と仲直り出来ると思いますか?」
不安げな様子で問いかけるキシュリアを、ファナリナは思い切り鼻で笑った。
「何言ってんの? 仲直りも何も、アンタたちはまだ始まってないじゃない。アンタとセリオンの関係はこれからだし、アンタの人生はこれからよ」
まったく可笑しなことを言うクソガキである。
名前と顔を知っているだけでは、喧嘩をするような仲には到底なれないだろう。
「後悔や失敗のない人生なんて望まないことね。人間はそんな上手に生きられる生き物じゃないんだから」
「……貴女も、後悔や失敗をしたんですか?」
信じられないと、キシュリアの顔が物語る。事実、魔女の子が後悔や失敗をするだなんて、キシュリアは思ってもみなかった。
何を勘違いしているのか。魔女の子は奇跡を起こせないのに。
だが、ファナリナにはその驚愕を馬鹿にしなかった。嘲ることもせず、穏やかな眼差しでキシュリアを見つめる。
「当然でしょ。後悔と失敗を繰り返して、そうしてアタシは今を生きてる」
静かな声だった。自戒と悲観、仁愛が丁寧に隠されている。
過去への自責。
命への悲観。
友への愛。
泣き叫んだ昔日が誰かを導く時があれば、これ以上のものはない。
ファナリナが手を伸ばす。キシュリアの頬を撫でた。
「いい? キシュリア・レーゲンハイム。これから先、アンタは逃げていいの。泣いていいし、失敗していい。怖がっていい。後悔も、なんなら迷子にだってなっていい。自分で生きるって、そんなものだもの。だけど、アンタを愛する人間がいること、アンタが愛している人間がいること。これは忘れちゃだめよ」
一陣の風が吹く。二人の間をすり抜けた。
横に流れる赤い髪を目で追いながら、キシュリアは目元に力を込めた。
そんな、それらしいことを言わないで。
「もし、忘れたら……?」
「は? 殴って呪うわよお前」
「そ、うです、よね……すみません……っ」
みっともなくキシュリアの声が震えた。それは安心したからであったし、激情が身体を焼いたからでもあった。
頬を涙が伝い落ちる。
肩が微かに震える。
筆舌に尽くし難い情動が、キシュリアの心臓を苛んでいく。
止めどなく雫を落としていく姿に、ファナリナは本当に生意気なクソガキだと目尻を緩めた。濡れたキシュリアの頬を指先で拭う。
「仕方がないから、ブリジットの代わりにこのアタシが祝ってあげる。――キシュリア! お前の行く道に幸多からんことを!」
一瞬にして、辺りに花が咲き乱れた。草の色が、色彩豊かな花々の色に変わる。魔法だ。
驚いて目を見張るキシュリアに、ファナリナは満足そうに笑った。それはとても晴れやかで美しく、慈しみが滲む笑顔だった。
◆
キシュリアは、あの家が嫌いだ。
だから国を出る今、持って生きたいと思う物は一つもなかった。積んだ荷物は全て日用品であり、思い出の品だなんて一つも存在しなかった。
しかし、それは意地だったのだろう。
今なら分かる。不器用なようで、けれど真っ直ぐな愛情に触れた今なら。
キシュリアは馬車の中で一人腰掛けていた。手元のオルゴールを涙が残る目で見つめる。
オルゴールには、側面に繊細な草花の絵が彫られていた。温もりを感じる木の色合いに人知れず息を零す。呼吸は微かに震えていた。
上部の蓋を丁寧に開く。瞼を閉じて耳を寄せた。
『キシュリア様、お元気ですか? ブリジットです』
肺が燃える。
喉が焼ける。
瞼が溶ける。
ああ。本当に、夢みたいだ。
ブリジットの声を追い掛けながら、キシュリアはそっとオルゴールを撫でる。小さなオルゴールは、キシュリアの手の上で優しく囁き続けた。ずっと、そっと。ひたすらにキシュリアへ愛を囁き続けた。