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you are my love  作者: 木村いと
本編
1/7

you are my love




 幸せが詰まった物語。

 愛が紡いだおとぎ話。



  ◆



 初恋だった。



「頼みがある」

 金色の髪が重力に従って滑る。頭頂部をさらしたまま、青年は動かなかった。

 頑なに同じ姿勢を保つ青年に向かって、涼やかな声が返る。平坦な道を歩くように平らな声だった。

「頼み、ですか」

「ああ」

 青年がようやく顔を上げる。そのまま淀みなく続けた。端々に必死さが透けて見える声だった。

「どうしても、知りたいんだ」



  ◆



 今から約十七年前だ。現ヴァルドラ国王の命により、王弟と婚姻を果たした令嬢がいる。

 コドル伯爵家が娘、ブリジット・オーガスタ。

 権力とは縁遠い伯爵家の娘だ。良質な魔石が採取できる鉱山を保有しているが、コドル伯爵家は慎ましい気質をしている。ブリジット本人も同様だ。

 やわらかい雰囲気を纏う、愛らしい娘だった。だが、ブリジットよりも光煌めく女性が他にいなかったわけではない。

 それにも関わらず、王弟リオネル・イシュル・エリアーデ・レーゲンハイム殿下に見初められ、伯爵家の娘という立場から公爵夫人にまで上り詰めたのが、ブリジットという女性だった。

 突如下された王命。急激に変わっていく環境。本人を取り残して進む周囲。

 ブリジット・オーガスタは当然のように困惑した。あまりの急激な変化に何度も挫けそうになった。それでも成婚を果たしたのは、婚約相手であったリオネルの支えがあったからに他ならない。仲睦まじい二人の姿はよく見られたものだった。

 助け合い、支え合う。寄り添い合う。結婚式は盛大に行われ、国民のほとんどが祝福を贈ったものだ。

 微笑み合う二人。陽ざしに包まれたふたり。幸せを体現したかのような姿が挙式の中心で輝く。ヴァルドラ国、いや、世界で一番幸せと言っても過言ではなかっただろう。

 しかし、幸福は短かった。ブリジット・オーガスタは婚姻から約三年後、病死したのだ。

 産後の肥立ちが悪かったらしい。子どもの出産後、ブリジットが表舞台に姿を見せたことは一度もなかった。

 齢二十歳。ブリジットは眠るように息を引き取った。

 まるで雨が降り止まない、暗くて沈みそうになる日の出来事だった。

 貴女の隣はとても優しかった。

 貴女はとても愛されております。

 どうか、どうか。

 誰よりも安らかに、幸せにお眠りください――

 ブリジットは若くして儚くなったが、カミオ公爵であるリオネルに深く愛されたことは有名だ。その上、葬儀の際には多くの人に惜しまれるほど、周囲の人々からも愛されていた。

 理想的な夫婦。最上級な幸福。

 だからだろう。彼女の人生はまるでシンデレラストーリーだと謳われ、世の若い女性達から圧倒的な支持を得ていた。彼女のような結婚をと夢見る女性は少なくない。

 幸せが詰まった物語。

 愛が紡いだおとぎ話。

 その足元に、犠牲さえ存在していなければ。



  ◆



 セリオン・レイロード・メリア・レーゲンハイム。ヴァルドラ国の王子だ。王太子の椅子に腰掛ける、次代の王を担う存在でもある。

 輝く金色の髪。瑠璃色の目。ほのかに甘い気配が漂う顔立ち。第三者の目から見ても、間違いなく整った容姿だ。笑いかけられた女性が頬を赤く染めることは、そう珍しいことではない。

 その端正な顔立ちに、セリオンが作り物めいた微笑みを乗せる。酷薄とした、感情の薄い表情だった。

 微笑みで武装したまま、ローブを纏う男に近付く。男は宮廷魔術師だ。ローブの色は鈍色で、それは宮廷魔術師の証明だった。白い糸で繊細な装飾が施されている。

「新しい魔薬の開発おめでとう、ランネル・ヒースグリーン魔法卿」

 男が振り向く。柔和な笑みを浮かべた。

 そのまま最上位の礼を取ろうとしたのを、セリオンが片手を挙げて制す。男――ランネルは少しだけ眉を下げて苦笑いをした。

「恐れ入ります、セリオン殿下」

「いや、貴殿が私に畏まる理由がないからね。それよりも、本当におめでとう。此度の魔薬開発によって、救われる命は多い。これで王妃の体調も回復するはずだ」

「勿体ないお言葉でございます。王妃殿下回復の一助になれれば幸いです」

 セリオンが綺麗に微笑む。笑みを受けたランネルはにこりと笑った。

 双方共に、本心の見えない顔付きだ。思惑を相手に悟らせない表情でもあり、やんわりと相手を拒絶する意思表示でもある。

 これ以上は無駄だな。何も得られない。セリオンは察した。

 急ぎ過ぎれば失敗を招く。引き際を見誤るのは致命的だ。逸る自分の気持ちに、セリオンは必死に言い聞かせた。

「しかし……希望する者との謁見が褒章で、本当に良かったのか?」

「ええ、勿論です。私はロロ侯爵家当主でありながら魔術に専念し過ぎのあまり、貴族社会との距離がいささか遠い。今回の褒章を契機に、務めを果たしたく存じます」

 ランネル・ヒースグリーンはロロ侯爵家の当主だ。堅実で安定した領地運営は、かなりの評判を得ている。

 その一方で、ランネルは魔術師でもあった。それも宮廷魔術師のトップだ。約十四年前に頭角を現してから、魔術に関するあらゆる面で才能を見せている。

 この世界には魔法がある。だが、誰しもが魔法を使えるわけではない。魔法を使うには才能が、技術が、頭脳が必要だった。

 数式への理解。構造への理解。事象への理解。

 ――魔法は理解にある。

 感覚だけで魔法を使うことは、絶対に不可能だ。だからこそ、魔術師は敬われ、尊ばれる。そして、畏怖されるのだ。

 与えられる爵位はその象徴だろう。国に認められた魔術師には、魔法卿という爵位が与えられる。そこに生まれや性別は関係ない。領地はないが権力がある。魔術師たちを満足させ国に属させるには、爵位を与えるのは合理的な手段だった。

 力があれば認められる。権力が手に入る。

 きっと、自由になる。

 それ故に、魔術師の社会は完全な実力主義だ。力こそがものを言う。年齢も外見も、富も全てが無意味になる。

 ランネル・ヒースグリーンは、その実力社会の頂点をいただく者だった。

「……そうか。貴殿がそう申すのであれば、この褒章が最適なのだろう」

 ロロ侯爵領に不足はない。

 ランネル・ヒースグリーンにも不足はない。

 明白だ。だが、それで枯渇が消えるとは限らない。それをセリオンは知っている。

「謁見の日取りはもう決まったのか?」

「はい。三日後に」

「そうか。有意義な時間になるといいのだが……」

 優雅に笑みを敷いたランネルに、セリオンは悩まし気な顔をする。微笑みの武装は、すでに姿を消していた。まるで、弟の粗相を心配する兄のような姿だ。

 金色の目を細めて、ランネルが小さく笑った。

「大丈夫ですよ、殿下。謁見の希望を述べた相手であるケルベック公爵家の方々とは、私も面識があります。公女様と公子様とは、もう何度もお話させていただいたことがあるくらいですから」

「ああ、そうか。確か、貴殿はケルベック公子の主治医のような存在だったね。なら、この心配は杞憂だったな」

 ケルベック公爵家には、病弱な子息が一人いる。名をユーリ・スウィントン。まだ三歳と幼い。生まれた時から身体が弱く、頻繁に魔力暴走を引き起こしていると聞く。

 病弱の理由が魔力に因るのか、それとも身体のどこかが根本的に悪いのか。明確な原因は不明だ。

 しかし、要因の一つに魔力が絡む以上、普通の医師で手に負えるものではない。そこでケルベック公爵家が頼りにしたのが、天才魔術師のランネルだった。

 セリオンは笑った。ランネルも微笑み返す。

 そこには最初に見せた、境界線を浮かび上がらせるための表情はなかった。和やかな空気が漂っている。

「お気遣い痛み入ります、殿下」

「いや、気にしないでくれ。引き止めて悪かった。私の雑談に付き合ってくれてありがとう。行ってくれ」

「では、御前失礼いたします」

 ランネルが礼を取る。微笑みを浮かべたまま、その場を後にした。

 ロロ侯爵家が当主、ランネル・ヒースグリーン魔法卿。宮廷魔術師のトップであり、魔術の天才。領地運営は堅実で、領民からの支持も厚い。

 努力家で誠実。真面目で温厚。人当たりもよく、優しい人物。

 何度も耳にしてきた話だ。

 何度も目にしてきた姿だ。

 だから、どうしてもセリオンは止められない。止められるはずがなかった。

 理性で制することのできない激情を、セリオンは知っている。ランネルが約十四年も前から王家や一部の公爵家を心の底から恨み、憎んでいることを、知っているのだから。

 鈍色のローブが小さくなる。やがて姿を消した。その瞬間、セリオンは微笑みを削げ落した。瑠璃色の目を金色の髪で隠す。地面を見つめた。

 固まったまま、靴の先を睨む。暗い気配が這いつくばる視界だった。

「……よかったんですか?」

 暗がりの中に涼やかな声が落ちる。破砕した。鼓膜を鳴らす。

 セリオンは反射的に顔を上げた。知らぬ間に目の前で佇んでいた人物の名を呼ぶ。

「ジスト」

「貴方には、止める権利があったでしょう」

 青年だった。袖に金糸の精巧な装飾が施された濃紺のローブを纏っている。濃紺のローブは魔女の子を示す象徴だ。ランネルが羽織るローブとは、色合いからして全く異なる。

 声と同様に涼し気な顔をしているジストに向かって、セリオンは苦笑いを見せる。

「そうかな……?」

「さあ。俺は、あったと思いましたけど」

 決めるのは貴方でしょう。ジストは無言で首を傾けた。動きに合わせて銀色の髪が揺れる。菫色の目が銀色の奥に一瞬だけ消えた。

「……なあ、ジスト。俺の頼み、覚えているか?」

 脈絡を無視した問い掛けに、ジストは静かに視線を寄越した。数秒の間観察するような目を向けた後、そのまま無言で踵を返す。濃紺のローブがひるがえった。

 裾が揺れる。はためく。なびく。踊る。

 空中で軽やかに舞うローブを、セリオンはぼんやりと目で追いかけた。段々と濃紺のローブが溶けるように姿を消していく。

「覚えています」

 静かな声だった。機密性と秘匿性を孕んでいる。

 濃紺のローブを完全に消し去り、ジストはセリオンを振り返った。菫色の目が真っ直ぐ伸びる。瑠璃色の目と交差した。

「貴方は事実が知りたい。約十四年前のあの日の事実。そして、あの日生まれた憎悪の顛末。その全てを知りたい。どれほど醜く穢れていようとも、傷付く覚悟を持って貴方は願った」

 平坦な声だ。淡々とした言葉だ。どこまでも理知的で、無慈悲な心を描く目だ。感情を何も持たずに、ジストは物事の表面を唇で辿った。

 涼やかな声が響く。絶対的で、圧倒的な強さを感じさせる声だった。

「俺は魔女の子。エヴァレット侯爵家嫡男、魔女の子ジスト・シャルトル。魔女の子は約束を違えない」

 風が吹く。髪が靡く。服が変わる。ジストの装いは、魔法で綺麗に整えられていた。

「……あれは、約束か?」

「言葉の表面は違いましたが、この件に限り同じようなものです」

「それが約束って……いいのか?」

「駄目ですよ」ジストは言い切った。そのまま微かに笑って続ける。「でも、今回だけは大目に見てあげます」

 ばか。大目に見てやるのは俺の方だろう。そう思いながら、セリオンは笑った。



  ◆



 魔女の子。魔法があるこの世界で、明らかに一線を画す存在だ。

 この世界には魔法がある。だが、誰しもが魔法を使えるわけではない。魔法を使うには才能が、技術が、頭脳が必要だった。

 数式への理解。構造への理解。事象への理解。

 ――魔法は理解にある。

 感覚だけで魔法を使うことは絶対に不可能だ。魔術師が魔法を使う際、必ず呪文を用いる。呪文とは、魔法の構成式だ。

 火を灯すのであればその火力、着火点、持続時間、その全てを組み込んだ術式に、魔力を乗せる必要がある。

 誰もが知っていることだ。わざわざ教えられるまでもないほど、当然の常識だ。一方で、その枠外たる存在がいることも、また常識だった。

 代償を背負う代わりに魔法を自在に操る存在。それが魔女の子だ。

 例えば、指を向けるだけで。

 例えば、目を見せるだけで。

 例えば、音を鳴らすだけで。

 たったそれだけで、魔法を自在に操ることが出来る。呪文は必要なく、また、術式を組み上げる必要もない。

 魔術師と魔女の子が戦えば、軍配は魔女の子に上がる。相手を無力化することなんて魔女の子にしてみれば赤子の手を捻るよりも容易い。

 ある意味、恐怖の代名詞とも言えた。それくらい、魔女の子は他の追随を許さない強さを誇る。与えられる爵位だって魔術師と異なり、魔法伯と位が高い。

 だが、魔女の子が国に属することはなかった。自分たちが膝を折る相手を、自分たちの頂に座る存在を、彼らはすでに定めていたからだ。

 魔女の子が首を垂れるのは、全ての根源たる魔女だけだ。

 自由気ままに思うがまま。国のために動かない。誰にも縛られることはない。気分屋で自由奔放。好きなことを選び、そうして生きる者。まるで猫のような生き方だった。魔女の子は本当に、国なんてものには興味がない。それにもかかわらず地位が与えられるのは、払拭できない恐怖心の表れだった。

 天災級の力がある。

 人と違う力がある。

 自分の理解できない物事に対して恐怖を抱くのは、自然の摂理だ。

「なんで殿下は、シャルトル魔法伯とあんな普通に話せるんですか……⁉」

 王城。自室のソファに腰掛けながらセリオンは溜め息を吐いた。その向かい側で、一人の青年が喚き散らす。

 うるさいし、面倒くさいな。セリオンは素直にそう思った。

「なんでと言われてもな……」

「エヴァレット侯爵家と言えば特殊も特殊! 音に聞く医療特化の特殊家門じゃないですか! しかも公子は魔女の子! アンタ、肝が据わりすぎですよ」

「王太子の俺に向かって堂々とアンタ呼ばわりするお前の方が、よっぽど肝が据わってるだろ……」

 セリオンの声がくたびれる。胡乱な目を向かいにいる青年に向けた。

「だって殿下。俺と貴方は幼馴染みですよ」

「馬鹿。それが理由になるわけないだろ、ウィルベルト」

 呆れを微塵も隠さずにセリオンが告げる。疲れた様子でウィルベルトを見遣った。しかし、ウィルベルトはどこ吹く風だ。星が飛ぶような微笑み一つで、セリオンの非難の目を退ける。

「まあまあ、そう言わないで。それより、どうでした?」

 セリオンは平べったい目をした。お前が降ってきた話題だろうがと、ウィルベルトを睨む。すぐに止めた。鬱蒼とした気持ちが沸き上がる。

 どうだったかなんて、そんなの。

 小さく、か細い声でセリオンが呟いた。

「止められなかった」

 瞼を閉じる。黒い視界の中で、微笑みで作られた境界線を見た。

 上辺の微笑み。見えずとも明確な拒絶。奥底に仕舞われ、隠された本音。

 無理だなと思った。止められるはずがない。セリオンは理性を凌駕する激情が存在していることを、すでに知っている。

 知っているからこそ、止められなかった。

「……なあ」

「はい」

「俺は――私は、王太子失格かな」

 部屋に沈黙が降る。静寂が床を埋め尽くした。

 セリオンは王太子だ。この国の、ヴァルドラ国の次代を担う存在だ。

 立派な王太子になるために。誰もが認める王になるために。セリオンは今まで血が滲むような努力を重ね続けてきた。出来ないことなんて何もないとでも言うように、涼しい顔をして生きてきた。

 完璧で理想的。誰もが夢見る素敵な王子様。それが、王太子セリオンだった。

 あの十四年前の日から、ずっと。

 けれど。

「彼の復讐が成就することを願う私は、立派になれるかな」

 零れる言葉はまるで弱々しい。完璧で理想的な王子様は、どこにもいなかった。

 ウィルベルトは舌打ちを噛み殺した。舌の上で苦味を砕く。

 それでいいじゃないか。完璧からほど遠く、理想的ではない姿。自分の将来を考え、憂う年相応の青年。それの、どこが悪いと言うのか。

 クソッたれ、この馬鹿王太子。

「知りません」ウィルベルトが間断なく答える。「貴方は、これから王になるんです。これから、立派になっていくんです。未来のことなんて、今の時点で分かるはずがない」

 セリオンは目を見張った。驚いた顔でウィルベルトを見る。年相応な顔をさらすセリオンを、ウィルベルトは鼻で笑った。

「貴方は未来のため、これからのために、今出来ることをしている。手を尽くしている。それを他の誰が知らなくても、俺は知っています」

「ウィル、」

「それにね、殿下」

 ウィルベルトはセリオンの言葉を遮った。いたずらっ子の顔で笑う。特大の秘密を打ち明けるように囁いた。

「僕、今代の王様あんまり好きじゃないんですよ」

 とんでもなく不敬な言葉だった。他の誰かの耳に入れば罰は免れないだろう。

 なんてことを言うんだ、正気かお前。太々しさが板に付き過ぎている。もはや恐怖だ。恐ろしすぎる。

 セリオンは何度か口を開閉させた。三回、五回。やがて全ての言葉を飲み込む。声の端を震わせて言った。

「お前……ヤバいな」

「お言葉が乱れていますよ、殿下」

 厚かましく、素知らぬ顔でウィルベルトは指摘した。



  ◆



 今から約十七年前だ。現ヴァルドラ国王の命により、王弟と婚姻を果たした令嬢がいる。

 コドル伯爵家が娘、ブリジット・オーガスタ。

 権力とは縁遠い伯爵家の娘だ。良質な魔石が採取できる鉱山を保有しているが、コドル伯爵家は慎ましい気質をしている。ブリジット本人も同様だ。

 やわらかい雰囲気を纏う、愛らしい娘だった。だが、ブリジットよりも光煌めく女性が他にいなかったわけではない。

 それにも関わらず、王弟リオネル・イシュル・エリアーデ・レーゲンハイム殿下に見初められ、伯爵家の娘から公爵夫人という地位にまで上り詰めたのが、ブリジットという女性だった。

 病に冒されたことによりブリジットは若くして儚くなったが、カミオ公爵であるリオネルに深く愛されたことは有名だ。その上、葬儀の際には多くの人に惜しまれるほど周囲の人々からも愛されていた。

 理想的な夫婦。最上級の幸福。だからだろう。彼女の人生はまるでシンデレラストーリーだと謳われ、世の若い女性達から圧倒的な支持を得ていた。彼女のような結婚をと夢見る女性は少なくない。

 幸せが詰まった物語。

 愛が紡いだおとぎ話。

 ――本当に、反吐が出る。

 ブリジットとリオネルの婚姻は王命だ。間違っても、ブリジットの意志によるものでも、コドル伯爵家の意向によるものでもない。

 そもそも、ブリジットには婚約者がいた。リオネルとの婚姻という王命が下されるより何年も前、国王が認めた正式な婚約者がすでにいたのだ。

 ロロ侯爵家の嫡男、ランネル・ヒースグリーン。

 相思相愛の仲でありながら、無理矢理約束を解消させられたブリジットの元婚約者。王家によって紡がれた、愛と幸せの物語における犠牲者。

 幸せとはなんだ。

 愛とはなんだ。

 どうしてブリジット・オーガスタは、若くして命を落とさねばならなかったんだ。何故、犠牲にならなければいけなかったんだ。

 ただ、真っ当に生きていただけなのに。

 ランネルは自室にいた。金色の目を暗く錆び付かせてベッドに横たわっている。他に人のいない部屋は、すぐさま無言を決め込んだ。

「もう少し、あと少しだ」

 声が暗闇の中に沈む。明るい光には目もくれない。意味がないからだ。

 正解なんて価値がない。

 正論なんて必要がない。

 全ての人が認める正しさなんて、心の前では無力だ。

 誰であろうと、人には尊厳がある。矜持がある。意思がある。命がある。自由が、幸福が、権利がある。

 尊厳を傷付けてはいけない。

 矜持を踏み荒らしてはいけない。

 意思を、命を弄んで蹂躙してはいけない。

 倫理、常識、感性。どこから見ても許されることではない。覚悟も対価も差し出さずに悪戯に踏み込んでいい領域ではない。

 しかし、だからこそ。

 復讐するに相応しい、残酷な手段たり得るのだ。

 最低でいい。

 下劣でいい。

 そう、それでいい。構わない。だから。

 これから浴びるだろう汚名に相応しく、手を下してみせる。

「俺は謝らない……後悔しない、迷わない」

 絶対に。

 何があっても。

 金色の目に宿る仄かな灯が瞼の奥に消える。その直後、部屋は暗闇に飲み込まれた。



  ◆



「おかしいだろ……」

 セリオンは大きく息を吐き出した。溜め息だ。重力を持って地面に墜落する。

 謁見の間に繋がる秘密通路の中、セリオンは地べたに座り込んでいた。暗がりの中、ひとり考え込む。

 今日はランネルが褒章として望んだ謁見の日だ。

 謁見相手は国王、王弟であるカミオ公爵と子息、ケルベック公爵家の全員だ。国王と二つの公爵家との謁見とは、なかなか度胸のある申し出だろう。

 しかし、セリオンに対する謁見の申し出はなかった。

「まさか、俺には用がないのか……?」

 セリオンは王太子だ。ヴァルドラ国の次代を担う人物であり、現国王の息子でもある。

 一方で、ランネルは王家に恨みを持つ男だ。十四年前に王家が引き起こした惨状に怒りを抱き、憎悪を抱えている。

 今から約十七年前。王命によってリオネルとブリジット・オーガスタの婚姻が成された。

 今から約十四年前。ブリジット・オーガスタが病に冒され、若くして儚くなった。

 言葉の表面を見れば、悲しい出来事だと皆が口を揃えて言うだろう。想像するに難しくない。だが、その中身を伺い知れば、一様に反応が変わるに違いなかった。

 実際には酷い有様だ。ブリジットにはランネル・ヒースグリーンという婚約者がすでにいたにも関わらず、その仲を引き離した上に病死という結果に終わる始末だったのだから。

 ブリジットとランネルは相思相愛の仲だったと聞く。幸せになるはずのふたりだったとも。

 そのふたりの仲を引き裂いたのは、他でもないこの国の王だ。国を守り、民を導き、人々の船頭に立つべき人物だった。

 婚約宣誓書はとっくの昔に受理をされ、国王だって認めたものだ。しかし、それを反故にし、別の婚姻を無理やり成立させたのは、認めたはずの国王本人である。

 望まぬ結婚。その上病死。

 ブリジットを愛する者からすれば、受け入れ難い話だろう。無理やり引き離れた元婚約者だって例に漏れないはずだ。

 セリオンは目を閉じる。以前ジストに教えられた話が脳裏を横切った。

「ランネル・ヒースグリーンは、カミオ公爵夫人の元婚約者。魔術師として名を挙げたのは、夫人を影ながらでも支えるためだった……」

 初めて聞いた時に眩暈を覚えたことを、今も覚えている。倒れることはなかったが、吐き気が止まらなかったことも。

 国を守るには綺麗事だけでは務まらない。優しさだけでは及ばない。

 非情と無情、残酷性が必ず必要となる瞬間がある。足元に犠牲を積み上げることだって避けられないだろう。

 だが、欲望に身を浸して良いかどうかは、全く別の話だ。

「いやあぁあああぁあああああ!」

 突如秘密通路にまで及んだ女性の悲鳴に、セリオンは瞼を硬く閉じた。

 ランネルは王家を、いや、元婚約者であるブリジットを死に追いやった全ての存在を憎んでいる。

 恨み。嘆き。悲しみ。怒り。怨嗟の声を聞かなかった瞬間はないだろう。

 目は目を、歯には歯を。

 ――罪には罰を。

 セリオンが立ち上がる。目を開けた。覚悟を決める。

 傷付く覚悟。苦しむ覚悟。背負う覚悟。

 知らなければいけない。知らぬ間に生まれていた犠牲の正体、その因果を。

 せめて、貴女にだけは誠実でいたいから。

 セリオン・レイロード・メリア・レーゲンハイム。ヴァルドラ国の王子。王太子の椅子に腰掛ける者。

 次代の、王だ。



  ◆



「魔力暴走の気配があるわ」

 鈴が鳴るような声が響く。声の持ち主は地図を睨み付けていた。どこか張り詰めた気配を纏う声に、のんびりと返事が返る。爽やかそうな青年の声だった。

「それって、良くないのでは?」

「場所にもよるじゃろう。さて、どこで発生しておるんだか」

 青年の声をゆったりとした老爺の声が追いかける。そのまま地図の上を彷徨った。老爺の指先が地図に触れる直前、涼やかな声が空気を揺らす。

「――王城」

 全員が口を噤んだ。その場を沈黙が支配する。

「魔力暴走を起こしているのは、ケルベック公爵家子息ユーリ・スウィントン」

 ケルベック公爵家。ヴァルドラ国に現存する三家しかない公爵家の一つ。国王からの信頼も厚く、権力や富、名声等、持っていないものの方が少ない家だ。

 しかし、この場にいる者達には全く関係がなく、また、関心のない話だった。

 留めておけなかった言葉たちが次々に零れていく。

「……始まった」

「約十四年ですか」

「凄まじいものじゃなあ」

「当然よ」

 感心する老爺を遮って、鈴のような声が響く。凛とした響きと、無情を飲み込んだ深々とした声だった。鈴の音が鳴り積もる。

「それしか残ってないんだから、当然のことなのよ」

 約十四年。長い時間と取るか、短い時間と見なすのか。それは、当事者以外には計り知れない歳月だろう。

 だが、確かなことが一つだけある。

「今日、王城で全てが決する」

 涼やかな声が、最後の鈴の音を攫う。身をひるがえした。服の袖が靡く。

「行こう。我々魔女の子には、この復讐を見届ける義務がある」

 この約十四年の歳月は、今日のため捧げられたものだ。

 それだけは、それだけが。ただ一つ、たった一つ、確かなことだった。



  ◆



 凄惨だった。

「ユーリ! ユーリ‼」

 謁見の間に飛び込んだセリオンがまず目にしたのは、幼い体に縋りつく令嬢の姿だった。目尻に涙を溜めて必死になって叫んでいる。

 リシュリアナ・スウィントン。ユーリ・スウィントンの姉であり、まさに今叫んでいる令嬢だ。ケルベック公爵家の長女でもある。

 そのすぐ側でリシュリアナと同様、膝を突いている者がいる。カミオ公爵の息子だ。キシュリア・レーゲンハイム。

 リシュリアナとキシュリアは幼馴染みだ。当然、リシュリアナの弟であるユーリとの交流はあって然るべきだろう。従兄弟にあたるセリオンがキシュリアとの交流を避けていたのだから、尚のこと。

「お願い目を開けてユーリ! ユーリ、答えてユーリ! ユーリッ‼」

 セリオンは硬直した。開け広げた扉の前で立ち尽くす。

 ユーリ・スウィントンの幼い体が力なく横たわっていた。確かにユーリは病弱だ。しかし、調子が良ければ少しの散歩くらいは出来る。頼りなく見えようとも、問題なく動けるのだ。

 それなのに、これは何だ。

「うそ……待って、待ってよ。ユーリ、ユーリが、っ、ユーリの体が!」

 ユーリ・スウィントンの身体が、先端から崩れている。

 指先は粉々で砂のよう。

 頬はひび割れ陶器のよう。

 力のない四肢が人形のよう。

 はたして、人間の体と呼んでいいのかさえ判断に迷う様相だった。まるで命を感じられない。ヒューマン型の器だと説明された方が、よほど納得できるほどだ。

 形を喪失していくユーリの姿に息を呑む。異常な光景だった。

「当然でしょう。ソレはホムンクルス。本当の人間ではないのですから」

 冷静な声だった。動揺も、嘆きも何もない。目の前に広がる現状を、ただそこにあったから説明しただけの様子でランネルは佇んでいた。

 ホムンクルス。魔女の子、もしくは熟練の魔術師のみが生み出せると言われている、魔法生物だ。

 得体の知れない暗がりがセリオンに向かって襲い掛かる。本能的な驚怖だった。

「卿……」

「ああ、殿下。ご機嫌よう。いらっしゃると思っていました」端正に作り込んだと分かる微笑みを浮かべてランネルが言う。「貴方はブリジットの死に疑念を抱き、私を探っていましたからね」

 セリオンは口を噤んだ。せわしなく視線を動かす。

 床に伏せるユーリ。泣き叫ぶリシュリアナ。青白く痛ましい顔をするキシュリア。呆然と立ち尽くす国王、カミオ公爵、ケルベック公爵夫妻。もはやまともに話せる人はいなかった。全員が目の前の光景に圧されている。

 復讐。この言葉の重さに触れているのだと、セリオンは思った。

「……何をしたか教えていただきたい」

「魔術師として自作のホムンクルスを処分しました。もうこれ以上、先のない日々を送らせる意味もなかったのでね」

「先のない? ユーリ・スウィントンは、まだ生きていただろう」

 ランネルが唇の端を歪に持ち上げた。ざらついた声を出す。

「ただ辛うじて呼吸を繰り返すだけの状態が、本当に生きているとでも?」

 セリオンは思わず唇を噛んだ。視線が無意識のうちに尖り出す。表情が歪んだ。負けたと思ったのだ。その証拠に、反論できる言葉が見つからない。

「喜びも悲しみもなく、ただただ呼吸を繰り返す。死んでいないから反射で息をする。これの、一体どこが生きていると?」

 口を閉ざしたセリオンをランネルは鼻で笑った。その一方で、無暗に怒りを露わさない姿を見て感心する。

 完璧で理想的。誰もが夢見る素敵な王子様。それがヴァルドラ国王太子、セリオン・レイロード・メリア・レーゲンハイム。

 平静を保つセリオンの姿は、まったくもって見事なものだった。

「ふざけたことを言わないで!」

 その一方で、リシュリアナの激昂が二人の間に割り込んだ。まなじりを吊り上げてランネルを見る。鋭い視線だった。

「ユーリは私の弟よ! お母様がお産みになった子で、ケルベック公爵家の一員だわ‼」

 リシュリアナは息を荒くしている。小刻みに体を震わせた。肩や胸が上下する。

 果敢にもランネルに食って掛かるリシュリアナを見て、セリオンは反射的にまずいと思った。感情論しか持ちえないリシュリアナには、到底打ち負かせないと直感した。

 ランネルがうっそりと笑う。

「本当に?」

 鼓膜が凍ったかと思った。そう錯覚するほど、冷たい声だった。

「ケルベック公女。貴方様のお母様は、ユーリ・スウィントンを愛していましたか? ユーリ・スウィントンのために、ケルベック公爵夫人は尽力していましたか?」

「なにを、」

 狼狽えるリシュリアナにランネルが畳み掛ける。

「貴女が愛でていたユーリ・スウィントンは、私が造ったホムンクルス。人と同じように誕生するよう、ケルベック公爵夫人の胎に種を仕込み、そうして生まれた魔法生物」

 止めなければいけない。そう理解しているのに、セリオンは口を噤んだ。

 このままでは傷付けられてしまう。

 このままでは傷痕が出来てしまう。

 ――一体それの、どこがいけないことなんだ?

 湧き上がる暗い声にセリオンは唇を噛んだ。下唇に歯を突き立てる。舌先に血が触れる。苦くて不味い鉄の味がした。

 それは、セリオンの心を映した味だった。

「平たく言うとね、貴女のお母様はどこかの顔がいい男と不貞行為をしたってことですよ」

「う、うそよ……そんなっ、そんなの、」

「本当に、そう思いますか? だったらほら、よく思い出して。貴女のお母様のお姿を。夫人はユーリ・スウィントンを忌憚していたのでは? 何せ、自分がしでかした不始末の生きる証明。あんなにプライドと自尊心が高い女なんだ。不貞の証で、その上病弱。良い所なんて見た目だけ。不出来を極めた自身の汚点を、夫人が嫌悪しないはずがない」

 ユーリ・スウィントンはかなりの病弱で有名だった。その一方で、ケルベック公爵夫人が息子を顧みようとしないことも、同じくらい有名な話だった。

 噂では健康ではない息子を疎んでいるからだと囁かれていた。その話について、ケルベック公爵夫妻は一度も否定や釈明をしたことがない。疎んでいないとも、名医を見つけるのに奔走して構えていないとも、何も。

 だが、それは当然のことだったのかもしれない。

 ユーリ・スウィントンは、ケルベック公爵夫人の不貞により生まれた子だった。

 ユーリ・スウィントンは、ケルベック公爵の実子ではなかった。

 ユーリ・スウィントンは、正真正銘、罪の証明だった。

「アレはね、死ぬために、いや、此度の計画のためだけに、生まれた()()なんですよ」

 正解や正論、価値観に亀裂が走る。ひび割れた。

「この……っ、人の命を、何だと……ッ!」

「――ふ、」

 おかしくて堪らないとでも言うように、暗い声が落ちる。弾けるように声が響いた。

「ふ、ふふふっ! ア、ハハハハハハハハハハッ‼」

 嘲笑が天井のシャンデリアを揺らす。赤い光が揺れる。地面に影を落とした。仄暗い笑い声がその場を塗り固めていく。

 やがて声が停止した。ランネルの凍えた声が空間を強く痛め付ける。

「お前が言うのか?」嘲笑が敵意に変わる。憎悪で塗り固められた声が続けた。「ブリジット・オーガスタの命を消耗品のように扱った、一族の娘の分際で」

 殺意が明確な形を成している。憎悪と嫌悪で満たした声でランネルが吐き捨てた。

「え……?」

「ケルベック公爵家とヴァルドラ国王家の、醜い欲望と罪の話ですよ、お嬢さん」

 口調は丁寧だったが、言葉には刺々しい気配が色濃く残っている。金色の目は、憎しみに占領されていた。

 ランネルの寒々とした眼光がリシュリアナとキシュリアを捉える。呆然とする二人の姿を見て納得したように頷いた。

「ああ、お二人はご存じないのでしたね。失礼いたしました」

 つい先刻までの激情を掻き消して、ランネルが微笑む。まるで酷いことなど何一つ存在していないかのような顔だった。柔らかい口調で語りかける。なだらかで、まるい円を描くように曲線的な声がした。

 だが、リシュリアナたちは硬直した。鼓膜を撫でた声に顔を強張らせる。張り詰めた空気を全身に纏わせた。直感したのだ。

 侮辱されている。嘲笑われている。軽蔑されている。

 ――存在を、否定されている。

「カミオ公子様。貴方のお母様は、ブリジット・オーガスタ様ではないのです」

「……は、」

「公子の本当のご両親は、王弟リオネル・イシュル・エリアーデ・レーゲンハイム殿下と、ケルベック公女様の伯母アリスティーナ・スウィントン」

 否定はかなわない。

 制止は届かない。

 ランネルは沈みそうになるほど甘ったるい声で秘密を告げた。

「貴方、不義の子どもなんです。キシュリア様」

 謁見の間に落とされた声はとてもよく響いた。その場にいる者全員が口を閉ざしていたからだ。

 キシュリアは呆然と鸚鵡返しをする。

「不義の子……」

「ええ。私の元婚約者、ブリジット・オーガスタを利用し尽くした末に生まれた子ども。それが貴方です。キシュリア・レーゲンハイム様」

 ぐらぐらと不安定に揺れるキシュリアの目を見つめながら、それでもランネルは自身を止めようとはしなかった。

「身に覚えがあるでしょう?」謳うようにランネルが軽やかに続ける。「母親であるはずのブリジット・オーガスタではなく、自分が似ているのは別の女だと思ったことは? 周囲の人々から疑惑の目を向けられた経験は? 腫れ物に触れるように接せられた回数は?」

「あ、ぁあ……」

「ねえ? 一度も思ったことはないのですか? 母親であるはずのブリジット・オーガスタよりも乳母として仕えているはずの女が、まるで本物の母は自分かのような顔をしていると、そう思ったことはただの一度もないのですか? 本当に?」

 キシュリアの父は王弟、現カミオ公爵であるリオネルだ。そして母は、すでに儚くなってしまったがブリジットだ。

 貴族一覧、家系図、伝聞。全てにおいて、それが本当だと示されている。今までキシュリアに生みの親は別にいると嘯いてきた者はいない。

 しかし、そんな周囲に、現状に、違和感を抱いたことは一度や二度ではなかった。

 何故ならば。

「――そんなはず、ないですよね」

 ランネルの金色の目に影が落ちる。仄かに薄暗い金色に、キシュリアの顔が映った。

 金色の髪に群青色の目。キシュリアが持つ色彩だ。群青色の目は目尻が少し吊り上がっており、どこか勝ち気な雰囲気を持っている。母親であるはずのブリジットは、たれ気味の深緑の目をした優しい顔立ちだったのに。

「だって、貴女はアリスティーナ・スウィントンによく似た自分のお顔が、大っ嫌いじゃないですか」

 息が詰まる、言葉が詰まる。

 キシュリアはランネルの言う通り、自分の顔が大嫌いだった。母親であるはずのブリジット・オーガスタの要素を何一つ持たない、自分の顔が。まるで自分の母親はブリジットではないのだと主張するかのような目元が、特に。

 指先から力が滑り落ちた。全身から力が抜ける。リシュリアナとキシュリアは、もはや茫然自失だった。

「そ、んな……どうして……」

「……先程申し上げたとおり、ブリジット・オーガスタは私の元婚約者。自分で言うのもなんですが、相思相愛の仲でした」

 虚ろなキシュリアの声にランネルが言葉を返す。金色の目が一度瞼の奥に隠れた。

 ランネルとブリジットの出会いは幼少期だ。まだ幼い時分に出会い、そして惹かれ合った。

 政略結婚ではなく、恋愛結婚。家のための政治的な意図よりも当人同士の気持ちを優先した、上位貴族には珍しい繋がりだった。

 ――初恋だった。

 やわらかくて暖かい声、笑顔。ほっとする雰囲気。優しい眼差し。

 君を幸せにしたかった。

 君に幸せにしてほしかった。

 他の誰でもなく、君と一緒に、幸せになりたかった。

 ランネルはそれが現実になると疑わなかった。もうすぐその願いが実現するのだと信じていた。

 ――何の確証もなかったのに。

 そして結婚式を一年後に控えたある日。夢が叶うことはないのだと、ランネルは唐突に突き付けられた。

「成婚まであと一年。そんな時期に王家から突然、私たちの婚約を解消するよう命令が下った。その上、ブリジットは王弟リオネル・イシュル・エリアーデ・レーゲンハイム殿下と、これまた王命で婚約。ちょうどその頃ですね。コドル伯爵領では、良質な魔石が採取できるようになった」

「まさか……」

「ええ。王家は良質な魔石が欲しかった。その証拠に、国王は魔石が採取できる鉱山を婚姻に際しての結納品に指定している」

 ブリジットとの婚姻は、全ては王家が抱いた欲望のためだった。良質な魔石が採取できる鉱山を、王家が手に入れるための。だから元々、ブリジットとリオネルの子どもは望まれていなかった。求められていたのは命だ。

 ――最初から死ぬことが決められていた結婚だったのだ。

「ねえ。この王家の強欲と、私の悪行。一体、何がどう違うんです?」

 事実を知った時、ランネルが覚えたのは殺意だった。明確で純粋な、殺してやりたいという凶悪な感情だけだ。

 それ以外は、まるで形にならなかった。

「どうしてブリジットが死ななければいけなかったんだ?」

 呟きが落ちた。謁見の間を揺らす。痛いほど静かで、暗闇のように沈んだ声だった。

「ヒースグリーン魔法卿。貴殿がケルベック公爵家と我々王家を恨んでいること、よく理解した。だが、その上で私は貴殿に問おう」

 セリオンは舌の上で血の味を転がした。不味くて苦い。痛みの味だ。

 今日、ランネルが復讐を成し遂げることを、セリオンは事前に知っていた。ジストに聞いていたからだ。方法は自分の目で確かめると言って聞かなかったが、今に至るまでの過程は全て聞き及んでいる。

 しかし、リオネルがブリジットの死に疑問を抱いた理由だけは分からなかった。

「何故、復讐を?」

 一秒にも満たない間で、ランネルが笑った。今にも泣きそうな笑顔だった。

 ああ、悲しみを飲み込んでいる。セリオンは理解した。とても身に覚えのある顔だったからだ。

「……どうしても、踏み躙ってやりたかった。あえて何か理由を挙げるなら、それだけですよ」

「卿――」

「なっ! 私たちが何をしたと言うのだ!」

 思わず一歩踏み出しそうになったセリオンを、男の叫び声が押し止める。国王のものだ。あんまりな言葉にセリオンは目を見張った。

 何をだなんて、そんな。

 人を殺しておいて、この男は一体、何を。

「何を、だと……?」

 感情が形になるのはセリオンよりもランネルの方が早かった。地面を這うように低い声が響く。

「ヒッ」

「殺しただろう。ブリジット・オーガスタを。私の婚約者だった彼女を奪い、そして殺しただろう!」

 怯えた声に触れ、ランネルの声が震える。怒りだ。

「ち、違う! 彼女は、」

「あの遺体」

「――え」

 セリオンが息を呑む。ブリジットを殺したのが王家だとランネルが確信している理由。この疑問が解かれるのだと、セリオンは悟った。

「ブリジットの葬儀の際に埋めた遺体。()()()()()()()()()

 狼狽した国王と責めるランネルのやり取りを、セリオンは見逃すものかと思った。一瞬たりとも目を背けないとばかりに見つめる。

 国王の顔色が一気に悪くなる。こめかみに汗を浮かべながら必死になって抵抗した。

「な、にを言って……あれは彼女の遺体だ! それ以外に誰のだと言うんだ!」

「だから今、誰の遺体だったのか聞いているんだろう」

 答えるランネルの声は平坦だ。先程セリオンに見せた微笑みは錯覚だったのかと思うほど、能面のような顔付きをしている。見ていられなかった。

 一方で、セリオンは嫌な予感に襲われた。内臓から声を絞り出す。

「……違う人の遺体だと、貴殿が確信している理由は何だ」

 ランネルが即答した。「顔が違った」

「ど、どうやって、見て……」

 国王の震える声が零れる。一言だ。だが、その一言に全てが詰まっていた。葬儀の際に弔ったブリジットの遺体は、別人のものだったのだと。

 なら、本物はどこに。

 セリオンが信じられないものを見るような目で国王を凝視する。奇妙な沈黙が謁見の間に広がった。

 そして次の瞬間、涼やかな声が空気を裂く。頭上から声が降ってきた。

「ヒースグリーン魔法卿は十四年前から既に魔術師として頭角を現していた。葬儀の際、誰にも気付かれずに遺体を間近で見るくらい、何も難しい話ではない」

 謁見の間の空中に浮かぶ者が四人いた。全員が濃紺のローブを身に纏い、フードを目深に被っている。箒に腰掛け、音もなくセリオンたち見下ろしていた。

 やがて四人は降下した。静かに地面に着地する。箒が淡く空気に溶けて消えた。国王とランネルの中間に位置する場所で直立する。

「……今さら、何の用です? 魔女の子よ」

 濃紺のローブ。それは魔女の子の証に他ならない。ランネルは四人を横目で見た。

「貴方たち魔女の子なら、アレがホムンクルスであると、すでに気付いていたはずだ。だが魔女の子は誰も、何も言わなかった。それが今になって、どうしてここに?」

 睨むようなランネルの視線に、一人の魔女の子が向き直す。フードを外した。銀色の髪が外気に触れる。ジストだ。

 菫色の目と仄暗い金色の目がぶつかった。

「知ってどうするのですか? 貴方の復讐は既に完成している。計画は全て滞りなく進んでいるでしょう。今さら何をすることもないのでは?」

「ええ、これ以上実行する計画はありません。しかし、だからこそです」警戒心を剥き出しにしてランネルが声を震わせる。今度こそ、ランネルは魔女の子を睨んでいた。「何故今まで、魔女の子は沈黙を貫いてきたんだ」

 約十四年だ。ランネルはこの復讐のために、長い歳月を費やしてきた。

 ユーリ・スウィントンというホムンクルスの生成。

 強制的な魔力暴走を何度も引き起こす残虐的行為。

 失敗するわけにはいかなかった。だから慎重に慎重を重ね、機会を窺っていた。邪魔をされるのは御免だからと、魔女の子の動きを探ったことだってある。

 しかしその最中、魔女の子から寄越された答えは沈黙だった。

 ジストが薄く唇を開く。涼やかな声が形になるよりも一歩だけ早く、国王ががなり立てた。

「我々を貴様から助けるために決まっているだろうがッ!」

 高ぶる感情に顔色を赤くした国王がランネルを指差す。目は血走り、肩を上下に震わせていた。

「貴様を制裁するために魔女の子らはやって来たのだ! それ以外あり得ない!」

 自分こそが正しいと、まるで疑う様子もない。喚き散らすように声を荒らげる国王をジストは静かに見ていた。

 否定の言葉が入らなかったことを受け、国王の勢いが増す。身振りを大きくした。唇の端が吊り上がる。歪で醜悪な顔の男がそこにいた。

「たかが侯爵家の魔術師風情が思い上がりおって! 貴様らのような下々の人間は我々のような尊き者のために生まれ、死にゆく定めなのだ‼」

 声高々に国王がランネルを見下す。国王の足元には、人の尊厳が横たわっていた。

「ブリジット・オーガスタ? そいつがどうした! そんな女一人のために、何故この私が! この国の王が‼ 尊き者が苦しまねばならないのだ!」

 突如として、謁見の間に光を降ろすガラス窓が一斉にひび割れる。ガラスの砕ける音が響いた。ランネルだ。魔法杖が床と垂直になるように握り締めている。先端の金属が大理石を貫いていた。

 ガラス窓の甲高い悲鳴を靴裏で踏みつけながら、ランネルは国王を睨んだ。

「あの子は!」

 ランネルが叫ぶ。声を尖らせた。壁や天井、床、部屋の全てに激情が殴り掛かる。

 ――ふざけるな。

 体裁なんて足枷だ。天才なんて虚像だ。魔術なんて無力だ。

 だって、そうだろう。

 だから今、ブリジットを失ったこの結末に、こんなにも苦しんでいる。

 もはやそこには、ただの男が立っているだけだった。最愛の人を奪われ、悲しみと憎しみに明け暮れる男がただ一人、たった一人で、そこに立っているだけだった。

 隣にいるのが俺じゃなくても、幸せならそれで良かったのに。

 なのに、どうして。

「あの子はお前たちに搾取されるために生まれたんじゃない! 誰かの悪意によって殺されるためでも、敵意に曝されるためなんかでもない!」

 激昂に焼かれた声が響く。憎しみが隙間なく詰め込まれていた。

 骨の髄まで利用されたあの子。優しく、陽だまりのように温かい笑顔をくれる子だった。見ているだけで安らぎを教えてくれるような、そんな女性だった。

 だから、死ぬために生まれただなんて、そんなの嘘だ。

「あの子は、ブリジットは! 幸せになるために生まれたんだッ‼」

 絶叫だった。まるで血を吐いているかのように、凄惨な心が勢いよく地面に落下する。憎悪に包まれた声が肌を刺した。

 憎い、憎い、憎い。憎たらしくて堪らない。

 許さない、許せない、赦せない。絶対、何があっても、許すものか。

 ランネルの声は底がないほど暗かった。

「それを、このクズ野郎……ッ!」

 ランネルが魔法杖を振り上げる。鋭い声で詠唱した。

 次の瞬間、氷の釘が数本出現する。輪郭には凹凸があり、非常に硬質な造りをしている。氷柱だ。パキパキと空気を凍えさせていく。

 氷筍の矛先は国王だ。他の面々など、まるで眼中にない。殺意を纏った氷柱が小刻みに震える。ランネルの激昂を余すことなく体現していた。

「人の命? 何故俺が……大切な人の命を弄ばれ、無惨に殺された俺が‼ どうして奪った奴らの命を尊ぶ道理がある!」

 一本の氷が空中を駆ける。国王の頬を掠める。勢いよく壁と衝突した。氷の割れる音と、壁の削れる音が散らばる。冷たい叫び声だった。

 荒々しい呼吸を繰り返しながらランネルは舌打ちをした。怯えた顔付きの国王を睥睨する。腹底から憎悪が身を起こした。

 被害者の顔をするな。事の始まりはお前達だろうが。喉元を焼く情動を飲み下すように、ランネルは強く叫ぶ。

「誰であろうと、人には尊厳がある。矜持がある。意思がある。命がある。自由が、幸福が、権利がある。ああ、よく知っているとも! 何年もの間、どれほど考えてきたか分からなくなるくらい自問自答し続けてきたのだから!」

 尊厳を傷付けてはいけない。

 矜持を踏み荒らしてはいけない。

 意思を、命を弄んで蹂躙してはいけない。

 何度も何度も、飽きるくらいに考えてきた。思い、悩んできた。

 きっとブリジットは、人を壊そうとする己を見て悲しい顔をするだろうと、分かっていた。そんなこと、確かめるまでもない事実だ。

 しかし。

「――だが、()()()()()()()?」

 一瞬で音が消えた。苛烈な空白だった。氷筍が静寂に溶けて消えていく。

 本当に、馬鹿みたいだ。

 ランネルは嗤った。もはや、それ以外にできることは何もなかった。長い年月を費やして気が付いた一つの現実に、他の術は見付けられなかったからだ。

 内臓から声を絞り出す。凍えた声が落下した。

「命に価値はない」

 命は平等。誰の命にも意味があり、価値がある。

 そんなもの、世迷い言だった。

「なかったんだよ。価値があるのは命ではない。命ではなかった。真に価値があるのは命ではなくもっと別の、そう――選民思想だった」

 驚愕の視線を受けてなお、ランネルは続けた。

 止まらなかった。止まるはずがなかった。止まれるなら、こんなことにはならなかった。

「そうだろう? だからこそ、ブリジットは殺された。この国の頂点に立つ、貴様らなんかに!」

 醜悪な真実。

 残虐な事実。

 真実や正しさが、必ず誰かを救うとは限らない。数ある世界の真理の一つ。

 そこに、ランネルは直面したのだ。

「貴様らの欲望のせいで、ブリジットは死んだんだ……ッ!」

 憎悪に染まる声とも、悲しみに飲み込まれた声だとも言えた。謁見の間を揺らす声は、言葉以上の威力を持って事実の凄惨さを示す。

 命は不平等。そんなはずがない。命は平等であるべきで、価値という言葉で言い表せるようなものではないはずだ。

 それなのに。

 選民思想という強固な裏付けによって示された答えに、否定できるだけの事象がない。

 リシュリアナは呆然と、ランネルの激情を見ていた。ブリジット・オーガスタの命を消耗品のように扱った一族の娘という言葉に、全身が暗がりに沈んでいく。

 ブリジット・オーガスタ。この名前をリシュリアナは知っている。キシュリアの母親だからという以外にも、同年代の子女で知らない者はいないほど有名な名前だからだ。

 幸せが詰まった物語。

 愛が紡いだおとぎ話。

 ブリジットは若くして儚くなったが、カミオ公爵であるリオネルに深く愛されたことは有名だ。その上、葬儀の際には多くの人に惜しまれるほど、周囲の人々からも愛されていた。

 理想的な夫婦。最上級の幸福。だからだろう。彼女の人生はまるでシンデレラストーリーだと謳われ、世の若い女性達から圧倒的な支持を得ていた。彼女のような結婚をと夢見る女性は少なくない。

 その話を初めて聞いた時、リシュリアナは純粋にその女性を羨んだ。とても幸運に恵まれ、笑顔と幸せに満ちた一生を送ったのだろうと想像もした。

 愛し愛され、周囲の人から求められて一生を終える。なんて夢のような、おとぎ話のような人生だろうと、嫉妬した覚えさえある。

 それが、まさかこんな。

「ブリジットって、あの、ブリジット様……?」

 声を震わせたリシュリアナに涼やかな声が返る。平らな声だった。

「ブリジット・オーガスタ様。書類上はキシュリア・レーゲンハイムの母親だが、実際には王弟リオネル・イシュル・エリアーデ・レーゲンハイムとアリスティーナ・スウィントンの、真実の愛のために利用された女性だ」

 淡々と言葉を並べたのはジストだ。平坦な声の調子と揃えたかのように、感情の読めない目をしている。

 ジストはまるで抑揚のない声で続けた。

「ブリジット様は成婚後にカミオ公爵との婚姻の実態を暴露され、そのまま離宮に幽閉。その後、カミオ公爵家の人々の手に掛かり、衰弱するまでに至った」

 言葉を失う。声が枯れる。凍り付く。

 今、何を聞かされたのだろう。倫理や常識、感性を滅茶苦茶にされている気分だった。正しいと信じていたものが、全て偽りだったのだと思い知らされる。

 醜悪の気配がした。

「ブリジット様の、死因は……」

 セリオンが声を震わせる。怒りと侮蔑、やるせなさを噛み砕いたような声だった。苦々しくてざらついている。

 だが、ジストはセリオンの様子を顧みることはしなかった。淡々と答える。

「死因は魔力暴走による身体の激しい損傷。魔力は血液循環と同じ体内回路を辿る。断続的に魔力暴走を引き起こされてしまえば、内臓機能の急激な低下は必須。生命維持機能など、ほぼ瀕死と言える。そんな状態で放置されていたんだ。健康体に戻ることは不可能だろう」

「な、ぜ……」

 呆然とした声は誰のものだっただろう。少なくとも、魔女の子ではなかった。ジストを始めとした魔女の子は皆、温度の低い目をして立っている。誰一人、動揺した様子はない。

 その一方で、顔色を変えた者がいた。国王、カミオ公爵、ケルベック公爵家夫妻達だ。全員が顔を真っ白にしてジストを凝視する。

「――()()?」

 隠す術もなく動揺した国王たちを見て、ジストは嘲笑した。この場でジスト・シャルトルが初めて見せた、明確な感情だった。

「驚くことじゃないだろう。ブリジット様をあの離宮から連れ出したのは我々魔女の子だ。死に至る原因、経過、その最期まで。我々は全てを知っている」

 一歩、ジストが足を前に出す。硬質な足音が一回だけ響き渡った。他の音はまるで存在しなかった。ただひたすらに、恐怖と驚愕、硬直した気配が広がっていく。

「可哀相なくらいに無知だな」

 侮蔑を可視化したら、きっとこういう形になる。そう思わせる声だった。ジストは冷え冷えとした目をさらしている。

「目には目を、歯には歯を。魔力暴走には、魔力暴走を。……お前達の過ぎた欲望の対価を教えてやる」

 ジストが手を前方に翳した。視線の先は国王達を捉えている。菫色の目が光った。怪しく、仄暗い光だった。

「俺はエヴァレット侯爵家次期当主、魔女の子ジスト・シャルトル魔法伯。医療の知識は十分にある」ジストは微笑んだ。「安心して、のたうち回れよ」

 制止の声は間に合わなかった。懇願が口をついて出るよりも先に悲鳴が飛び出る。まさしく絶叫だった。

 国王、王弟カミオ公爵、ケルベック公爵夫妻。全員、体の内側から発生する激痛に嬲られ、床に体を衝突させる。

 痛い。熱い。痛い。苦しい。痛い。いたい。

 全身を巡る血が逆流する。酸素の動きが滅茶苦茶になる。肺の活動が乱れる。心臓が締め付けられる。頭が割れる。神経がおかしくなる。

 痙攣を起こしながら、地面にひれ伏した面々は覚束ない呼吸で喘いだ。まともな母音すら発声できない。唇の端から涎を垂らし、小刻みに震える指で喉を掻き毟った。

 これが、魔力暴走。

 空間一つを丸ごと暴力で包み込み、ジストはようやく魔力暴走を終了させた。正常な呼吸に戻るのを待つことなく国王達の前に躍り出る。その姿は圧倒的支配者そのものだった。

「我々魔女の子がお前たちを助けるために動くことはない」

「ひ、ヒィッ」

 短い悲鳴が上がる。青いペンキを全面に塗りたくったような顔色をして、国王達は体を寄せ合った。懇願するようにジストを見ている。

 謁見の間は魔女の子ジスト・シャルトルによって完全に掌握されていた。事の発端であったはずのランネル・ヒースグリーンでさえ、今や信じられない気持ちでジストを凝視している。

 自分に向けられた視線を全て跳ねのけ、ジストはもう一度、不愉快そうに嘲笑した。

「本当に、愚か極まりないな」

 嗤う。嘲る。侮蔑する。

 ジストは完全に、王家の者達を見下していた。傍らにいる魔女の子らも同様だ。王家と魔女の子の関係性が如実に証明されている。

「我々魔女の子は世界の理に触れ、禁忌を知る者。決して奇跡を起こす者ではない。故に、魔法で命を奪えても、命は作れない。無機質で陰惨で、暴力的で残虐的。これは誰かを救い、幸福に導く力ではなく、支配する力――人を殺す力だ」

 誰も言葉を発せられなかった。絶句している。時間という時間が一秒の間停止した。

「命に釣り合う対価は命、死に見合う対価は死だ。それ以外などあり得ない。だから、分かるだろう?」

 命には命を。死には死を。それが原則。正当なる対価。

 ――それこそが、世界の理。

 誰にも冒すことのかなわない真理を前に選民思想に価値はない。事実だ。事実だけが誰にも平等で均等な価値になる。

 ぞっとするほど柔和な声でジストが語りかけた。

「ですが、ご安心を。大丈夫です。お前たちが対価を差し出せないのなら、他の誰かがその咎を背負えばいい」優しく言い募る。「そのための、お前たちの子どもだろう?」

 ジストの視線がそれぞれの子息を捉えた。国王たちの顔が一瞬で絶望に染まる。

 それは死刑宣告と何ら変わりなかった。曲線を描くようになだらかな声には、残虐な思惑が潜んでいた。

 大丈夫。お前の代わりはいくらでもいる。

 大丈夫。犯した罪は次代に受け継がれていく。

 大丈夫。踏みにじった命は誰の手元にも帰らない。

 大丈夫、大丈夫。

 たとえお前たちが幸せになろうとも。決して、絶対に、何があっても。この現実が消え去ることは、あり得ない。

 ジストは精巧に優しい顔を作った。指を弾いて音を鳴らす。

 次の瞬間、謁見の間が揺れた。空間が動き出す。

「何も心配することはありません。歴史に残されずとも、誰が忘れようとも。我々魔女の子が、いつでも思い出させてやる」

 光の粒子が一人の女性を模る。段々と姿を鮮明にしていった。

 乱れたハニーブロンドの髪。薄い肩。細い腕。病弱な青白い肌色。唇の血色は相当悪い。深緑の瞳は苦痛に歪んでいる。頼りない指先がベッドのシーツを掻き乱していた。

 どこからどう見ても病人の姿だった。いつ死んでしまってもおかしくない。魔法で作られた女性の姿に全員が唖然とした。

 ベッドの上で女性が蹲る。全身を何度か揺らした。血の気の引いた唇の上を、真っ赤な線が滴り落ちる。

 吐血だ。何度も繰り返し血を吐いている。

 つい先刻、国王たちのもがき苦しんだ姿が脳裏を過った。先の光景と違う点なんて、吐血しているかどうかくらいだ。他に相違点は見つからない。どう考えても、魔力暴走に苦しんでいるとしか思えなかった。

「う、そ……」

 まさか。でも、そんな。

 謁見の間にいる者たちは一つの結論に到達していた。むしろ、この話の流れで気が付かない方がどうかしている。

 だが、理性と心は別物だ。そう簡単には受け入れられない。

 しかし。

「――ブリジット」

 ランネルが唇を震わせた。内臓から絞り出すように名前を呼ぶ。音の輪郭は震え、悲しみが色濃く落ち込んでいる声だった。

 だからこそ、もう、目を逸らせない。絶望という光景を見た。

 その声が、答えだった。 

「なっ、何故、どうして貴様らがあの女を、」

 国王は顔を歪めながら噛み付いた。震える唇は恐怖だけが理由ではない。しかし、抗議は長く続かなかった。抜き身の刃が国王の首筋に添えられたからだ。シャンデリアの光を浴びて目に痛いほど刃が煌めく。

 気が付けば、国王の背後に魔女の子が一人佇んでいた。呆れたような青年の声が響く。

「口の利き方には気を付けてくださいよ、国王様」

 刃を持っていたのは青年だ。濃紺のローブを身に纏い、フードを目深に被せて顔を隠している。その一方で、フードを外しながら国王に歩み寄る人物がいた。

 ファナリナ・ユグシル。ブリジット・オーガスタを魔女の子らが助けた理由となった人物で、時間という代償を背負うヴァルドラ国最年長の魔女の子だ。

 白雪のような肌。艶やかな赤髪。温度の低い灰色の目。ファナリナはとても美しかった。どんなに言葉を積み上げても、表現できないほどの美しさを持っている。

 ファナリナは息を呑む周囲を無視した。鮮やかな赤髪を揺らす。国王の目の前に聳え立った。灰色の目を凍らせて真上から見下ろす。鈴の鳴るような声が尖った。地面を打つ。

「何? アタシたち魔女の子があの子をアンタたちから保護して匿ってたことに、何か不都合でもあった?」

 有無を言わせない声色だった。激情が渦巻いた灰色の目で、ファナリナは国王を見据える。国王を見る目には、憎しみが色濃く浮かんでいた。

 どうして欲を出したの。

 どうして欲に溺れたの。

 どうして醜い欲のために、ブリジットを殺したの。

 ファナリナが屈み込む。国王と無理矢理目を合わせた。灰色の目が底光りする。

「これは罰なの」凍てつく声がゆっくりと囁いた。心臓を握り潰さんとするほど血を纏う声が続く。「命の対価を真に理解しなかったお前に相応しい、分相応の地獄よ」

 もはや、国王は悲鳴も上げられなかった。命を明確に握られた感触を味わう。自分の体内に心臓はすでに存在しないのではと、戦慄するような錯覚を覚えた。

 無様に尻もちを着く国王に別の魔女の子が近付く。落ち着き払った老爺の声が国王に降りかかった。

「御安心なさい国王よ。我々魔女の子は、お前達がブリジット様の偽の遺体を準備して葬儀を執り行った事実を何時でも開示する準備がある」

 何も安心することではない。これは間違いなく脅迫だった。

 命を握られ、権力を奪われる。魔法も武力も、何も持たない国王には、抵抗する方法など存在しなかった。

 無力感に食われる国王を無視してジストが涼しく言い放つ。

「そういえば……先程の質問に答えていませんでしたね」

 搾取する側から、される側へ転げ落ちた男が紙のように白い顔でジストを見る。権力に溺れ、傲慢に生きた男の抜け殻がそこにあった。

「我々魔女の子は誰かを助けるために来たのではない。義務を果たしに来ただけだ」

 ブリジット・オーガスタ。ファナリナが自身の命を対価に救済を求めた女性。ランネルが心から愛した、ただ一人。

 幸せが詰まった物語。――その背景は誰かの不幸が描かれている。

 愛が紡いだおとぎ話。――その足元に誰かの犠牲が積まれている。

 世界の根幹は等価交換だ。何事も過不足なく。与えすぎも、奪いすぎも許されない。自身が持つものと引き換えに望むものに手を伸ばすことができる。これは、誰にも変えられない世界の理でもある。

 命には命を、死には死を。それが、正当なる対価だ。

 他人の命を以て願いを手に入れたのであれば、そこには必ず代償が返る。

「因果は巡る。これはお前たちが始めた偽装の愛のおとぎ話。お前たちが語った真実の愛の末路。それを我々は見届けるために来た」

 ジストと国王の視線がぴたりと合わさる。勝者と敗者。圧倒的な力を前に国王はただ無力だった。菫色の目が温度を下げる。

「お前たちの命運など、我々が関知することではない」

 謁見の間を沈黙が覆う。大理石の床を掻き消すように深閑が袖を広げた。神経質なほど全ての音が身を隠す。文字通り、痛いくらいの静寂だった。

 肌に刺さる静けさを鈴のような声が切り裂く。

「……この残像はアタシがここの離宮から連れ出す前日に見た、ブリジットの姿よ」

 小さい声だった。鈴のような声はファナリナのものだ。感情を押し殺し、地面を睨みつけながらファナリナが言葉を紡ぐ。

「部屋には魔力暴走を誘発するための魔法陣と魔術具、魔法薬が所狭しと詰め込まれていた。明らかに人為的なものよ。あの部屋には、明確な殺意と悪意だけがあった」

 ファナリナの言葉にランネルが目を見開く。衝撃を受けた顔をした。足先から絶望に染まっていく様子が見受けられる。ランネルの呼吸が乱れ出した。

 沈痛な面持ちで座り込むリシュリアナたちを横目に、ファナリナはランネルを見た。ランネルもまた、ファナリナを見ていた。

 覚悟を持った目と縋るような目が交差する。ファナリナは呼吸を整えた。

 真実や正しさが、必ず誰かを救うとは限らない。圧倒的なものとは、どんな時でも無機質だ。慈悲なんて存在しない。

 これが、こんなものが、世界の真理。

 ああ。本当に、世界なんていつだって、碌なものじゃない。

「あの子は、この王城に飼い殺されていたのよ」

「ふざけるなッ‼」

 ランネルが反射的に声を荒らげる。取り乱しながら叫んだ。

「彼女は、あの子は! ブリジットは! この、クソ! チクショウッ! どうしてブリジットだったんだ! 一体、あの子が何をしたって言うんだ!」

 大きな足音を鳴らしながら、ランネルはカミオ公爵に近寄った。胸倉を乱暴に掴み上げる。喉を絞めるように力を込めた。カミオ公爵の顔が苦痛に歪む。

 しかし、そんなことはランネルの関心の外だ。さらに力を込めて声を叩き付ける。

「あの子は王命に従っただろう! 突然の立場に困惑し、周囲からの悪意に耐え抜いて、それでも健気にお前なんかの立場を慮っていただろう! 傷付けられても、心配かけまいと微笑んでいただろうが‼」

 お前の、お前なんかのために。自分を殺して心を削げ落して。それでも努力していたじゃないか。少しでも幸せな家族になろうと頑張っていたじゃないか。歩み寄ろうと、見合う人物になろうと、必死に努力していた姿をお前だって目の当たりにしていたのに。

 ――その結末が、こんなだなんて。

 ブリジットの微笑みがランネルの脳裏に蘇る。柔らかさを纏う、穏やかな微笑みだった。深緑の目が美しく細まる。

 それはランネルが守りたいと思っていた、大好きな表情の一つだった。

 ランネルの手から力が抜け落ちる。指先から震え出した。視界が歪んでいく。カミオ公爵の体が床に滑り落ちた。咳き込む公爵を無視してランネルは自分の手の平を見つめ続ける。

 たった一つの言葉がランネルを埋め尽くした。

 ――どうして。

「どうして、俺はこんなにも愚かなんだよ……!」

 絶叫が震撼する。

 痛哭が散乱する。

 復讐が崩落する。

 湧き上がり続ける涙をぼろぼろと零しながら、ランネルは慟哭した。震える指で前髪を握り潰す。

「俺はブリジットを愛していたのに、なのに、どうして……っ」

 許せなかった。赦せるはずがなかった。

 ブリジットを奪った王家も、それを看過した自分自身も。

 たとえ笑っていても、心の内側で人は泣ける現実を忘れていた自分が、本当に、心の底から憎たらしい。

 愛していたのに。この言葉を、まるで言い訳の言葉にしてしまった自分が、どうしようもなく、許しがたい。

 こんな結末を望んだことなんて、一度だってなかったのに。

 それなのに。

「どうして、もう……っ、おれはあの子に、謝れないんだよ!」

 悲痛な叫びが部屋を埋め尽くす。その直後、袖を広げた沈黙の端から涼やかな声が響いた。

「ブリジット様のせいにしないためだろ」

 ジストだ。周囲の人が痛ましい顔をする中、ただ一人冷静な面持ちをしていた。

 ブリジットの残像を見つめながらジストが言う。

「憎しみを抱くのも、恨みを持つのも、好きにしたらいい。だが、それはお前のものだ。ブリジット様のものじゃない。ブリジット様が抱いた感情ではないし、ブリジット様が求めたものでもない」ジストは体を回転させた。ランネルと向かい合う。「この復讐はお前が決めて、求めて。そうして始めたものだろう、ランネル・ヒースグリーン」

 ランネルは目を見張った。呆然とする。残像が動き出していた。

 微笑む。髪を揺らす。病人の姿はすでに掻き消えていた。いくらか体調を回復させ、車椅子に腰かけるブリジットの姿がある。

 ブリジットの元へ小さな人影が歩み寄る。少年だ。銀色の髪を風に遊ばせ、躊躇なくブリジットの足元に座り込む。ブリジットが上半身を屈ませた。楽しそうに少年の頬をつつく。

 穏やかな光景だった。痛みも悲劇も存在していない。あるのは慈しみと暖かさ、優しさだ。あなたのためにと、やわらかな真心が差し出されている。

 ああ。これが、この日々が、ブリジットを包み込んだ最期の時間だったのだろう。

 ランネルは直感した。途端に視界が揺れる。覚束ない、頼りない。涙で輪郭が滲んでいく世界に、瞼が溶けていくようだった。

 風が吹く。頬を撫でた。気付けば、ブリジットの残像は霧散していた。

 ランネルは反射的にジストを見た。心を滅茶苦茶にしたまま、表情を気にする余裕もない。全てを取り落とした顔をしながら、それでもジストを見つめ続ける。

 ジストは一本の花を手に、ランネルの前にいた。

 優しく握られている一輪の花を見てランネルは息を呑む。唇を開閉させた。覚束ない声帯から、か細い声が絞り出される。

「それ……」

「ブリジット様が、貴方に」

「おれに、この花を……本当に?」

 震えるランネルの声を聞き、今度は本当に、ジストが微かに優しい顔をした。

「本当かどうかは自分で確かめるべきだと、俺は思いますよ」

 花がランネルの手に渡る。淡い光を纏った花びらが揺れた。そして当然のように、花はランネルの魔力を吸い取った。魔力が指先から花へと渡る。花が震えた。

 声がした。やわらかくて、あたたかな声だった。


 ――手を引いて、一緒に歩んでくれて、本当に嬉しかった。愛しています……ランネル様。


 ランネルは目を見開いた。まじまじと可憐に咲く花を見つめる。息を詰めた。

 魔法で蓄音機へと変貌を遂げた花は、ランネルがブリジットに幾度となく捧げた花だ。そして、求婚の際にも贈った、大切な思い出の形だった。

 視界の端でハニーブロンドの髪が揺れる。

 深緑の双眸がゆるやかに細まる。

 白い頬に赤が差す。

 きっとこれ以上愛せるひとはいないと直感した瞬間が、ランネルを飲み込んだ。

「ブリジット……っ」

 蘇ったのは、もう二度と聞くことの叶わない声だった。

 この人生でただ一人、たったひとり、生涯をかけて愛したひとの、声だった。

「おれも、っ」

 この復讐に意味はない。

 この憎悪に未来はない。

 分かっていた。知っていた。理解していた。

 だが、頭で正論が答えを導いたとしても、それに従えるとは限らない。

 奪われたのだから、奪い返したい。その先に待ち構えているものが永遠の喪失だけだったとしても。

 それでも、どうしても。

 ――君を傷あとにしてでも、忘れないで生きていきたかった。

 ランネルは膝を落とした。床に両膝を密着させる。ローブの袖をひらめかせながら蹲った。輪郭を震わせた声で喘ぐ。

「ふ、ぅ、……おれも、っ……愛してる……!」

 ただ、君だけを。



  ◆



「頼みがある」

 金色の髪が重力に従って滑る。頭頂部をさらしたまま、青年は動かなかった。

 頑なに同じ姿勢を保つ青年に向かって、涼やかな声が返る。平坦な道を歩くように平らな声だった。

「頼み、ですか」

「ああ」

 青年がようやく顔を上げる。そのまま淀みなく続けた。端々に必死さが透けて見える声だった。

「どうしても、知りたいんだ」

 緊張を敷き詰めた面持ちで、青年――セリオンは目の前に立つ人物を見る。前にいるのはジストだ。エヴァレット侯爵家嫡子で、歴代最強の魔女の子と呼び声高い人物である。

 理知的な光を乗せた菫色の目が容赦なくセリオンを貫く。

「何をですか?」

「ブリジット・オーガスタ様の死の真実」

 ジストは無言だった。何も言わずに続きを促す。

 酸素が薄くなっていく錯覚を覚えながら、セリオンは下肢に力を込めた。挑むように瑠璃色の目に力を込めた。ジストを見返す。

「いや、違う。もっと正確に言うのなら、ブリジット・オーガスタ様を殺した王家の事実を、知りたいんだ」

 この国の王子が口にした醜聞とも言える内容に、ジストは顔色一つ変えなかった。平然と、淡々とした表情で佇んでいる。動揺は微塵も見られない。

 その様子を見て、セリオンは確信した。ジストは、魔女の子は、全てを知っている。

 瑠璃色の目と菫色の目が交差した。やがてまっ平らな声が響く。

「何故、ブリジット・オーガスタ様の死に疑問を感じたのですか」

 数秒の間、セリオンは口を噤んだ。言葉を口内ですり潰す。そっと唇を開いた。震わせる

「……キシュリアの顔を、見たことは?」

「あります」

「誰に、似ていると思った……?」

 苦々しい顔付きで尋ねる。苦悩を浮かべるセリオンを見てジストは察した。

 書類上、キシュリアの母親はブリジットだ。しかし書類上と言うからには、実の母親が別にいる可能性がある。そしてキシュリアの母は、実際のところ違っていた。

 アリスティーナ・スウィントン。それがキシュリアの生みの親だ。

「なるほど。それに気付いてしまい、王妃様は魔力暴走を引き起こさせられたのか」

 セリオンはぎょっとした。まじまじとジストを見る。

 涼しい顔をしてジストが答えた。「葬儀の際、一石を投じたのは王妃様だ。なら、答えは明白でしょう」

 ブリジットの葬儀の際、王妃はキシュリアに対して一回だけ際どい発言をしたことがある。

 ――その顔は。

 ただの一言。たった、この一言。

 王妃の言葉はこれだけだ。他には何も言っていない。しかし、キシュリアを見ながら言った王妃の言葉を拾った者の反応は様々だった。

 違和感を覚えた者。気が付かなかったもの。悟った者。本当に、様々だ。

 だが、間違いなくこの一言によって一つの波紋は広がった。

 色彩はリオネル。では、顔付きは?

 ブリジットの顔は優しかった。目は少したれ気味で、柔らかい雰囲気を持っている。それなのに。

 おそらく、全てを悟った者はいないだろう。だが、事実の一部分を悟った者はいたはずだ。だからこそ、これ以上事態を悪化させまいと国王は王妃に手を下したのだ。

「……真実と事実は、似ているようで違いますよ」

 ジストが小さく零す。セリオンは反射的に食らい付いた。

「分かっている」

「分かっているのに、何故?」

 抑揚のないジストの声にセリオンは怯まなかった。力強く断言する。

「分かっているからだ」

 そう、分かっている。

 ブリジットの死の真実。真実に絡む王家が抱えた事実。事実から生じた現実。

 全てが醜悪で最低で、凄惨だ。救いなんてどこにも存在しないだろう。間違いない。

 だが、それが何だと言うのだろう。

 救いがない。

 慈悲がない。

 しかし、現実はその向こう側にある。

「分かっているからこそ、私は知らねばならない」

 セリオンが硬く目を閉ざした。瞼の裏にハニーブロンドの髪が靡く。ブリジットが風に髪を遊ばれながら笑う姿だった。

 腹底が熱を帯びる。声帯が焼ける。瞼が溶ける。もう、目を閉じていられなかった。下唇を噛んでセリオンは激情を必死に耐える。

 子どもの自分が、本当に嫌だ。セリオンが苦痛を奥歯ですり潰した。

「本当のことを知りたいんだ……」

 懇願が部屋に落ちた。静寂に溶ける。悲痛な無音だった。

「……王族だからですか?」

「違う」ジストの問いにセリオンは鋭く返した。声の端を硬くして言葉を重ねる。「ブリジット・オーガスタ様は、俺の大切なひとなんだ」

 優しくて、やわらかな笑みをくれたひとだった。泣きたくなるほどの慈しみを体現したかのような、そんなひとだった。

 次期王太子として期待される自分。どんなことでも出来て当然の自分。涼しい顔をして息をしていた。綺麗な笑顔で自分をコーティングしていた。

 本当は、息苦しくて喘いでいたのに。

 甘えや優しさ、あたたかさからは遠く、酸素が薄いのがセリオンの世界だ。

 そんなセリオンの世界の中で、透明な愛をくれたのが、ブリジットだった。

 ――お願い、傷付かないで。

 本当に、そう思った。思ったのに。

「この違和感を無視して、私は民の上に立てない」

 立てるはずがなかった。

 知らぬ間に積み上げられた犠牲を足場にして、玉座になんて座れるはずがない。

 だって、貴女にだけは誠実でいたいんだ。

 綺麗じゃなくとも。美しくなくとも。どれほど汚れ、無様であろうとも。それでも、貴女にだけは。

 これから先の歩みの中、セリオンは非情な決断をしていくだろう。国を守るため、民を導くために。足元に数多の犠牲を積み上げていくはずだ。

 だが、ブリジットの存在をその中にいれることは、どうしてもできなかった。

 努力する姿を褒めてくれたあの日のブリジットの心を、セリオンはどうしても、踏み躙りたくなかった。

 せめて、それだけは。

「情けなくて、みすぼらしくて……背を伸ばして歩けないだけなんだ」

 声を震わせながらセリオンは吐き出した。王族としての体裁や外聞なんて、構っていられなかった。

 矜持を崩しながら懸命に言い募るセリオンから、ジストは思わず目を逸らす。暗い気配を足元に感じながらぽつりと呟いた。

「正しさや真実が、誰かを救うとは限らない」

 涼やかな声の端に影が滲んだ。暗闇をかき回すように声が続く。

「むしろ、正しさや真実は無情だ。無機質で冷酷で徹底的。心がどこにも存在しない。酷く鋭利で残虐で、それでいて、絶対的強者でしかない」

 菫色の目が仄かに光る。どこまでも理知的で、理性的な目だった。それは同時に、世界の無情さを知っている目でもあった。

 ジストは魔女の子だ。心を代償に魔法を使う、魔女の子だ。だが、セリオンは違う。

 違うのに。

「傷付くのが怖くないんですか? 貴方には心があるのに」

「怖いよ」セリオンは間断なく答えた。「心があるから、怖いし苦しいし、傷付くことが必ずある。でも、だからって、逃げたくない」

 声にしながらセリオンの視界が歪む。心に秘めた全てを、セリオンは迷うことなくさらけ出していた。

 それは相手がジストという特異な存在だからでもあったし、もうこれ以上抱えては生きていけないという、本能的な防衛行動だった。

「でも、それでも俺は――」

 真実を知りたい。

 彼女を今でも愛している。

 苦しい。逃げたくない。誠実でいたい。踏み躙りたくない。

 ――それでも本当は、傷付くことが堪らなく怖い。

 ああ。泣いてしまいそうだ。

 そう思いながら、セリオンは笑った。涙を零しながら笑う。

「あのひとを好きだと思った、心を寄せた幼い俺を惨めにしたくないから」

 ジストが目を見張る。ほんの数秒間の出来事だった。直立するジストに気付くことなく、セリオンは言葉を重ねる。

「ブリジット様を好きで心臓を跳ねさせたあの日々を、大切にしたいんだ」

 初恋だった。

 声を少しでも聞けたら嬉しくて、話ができたら心臓がうるさくて。

 傷付かないでほしい。笑っていてほしい。

 ――あなたが、この世界で一番幸せになればいい。

 心の底から、そう願ったひとだった。

 叶うはずがなかった恋だ。

 失うと決まっていた恋だ。

 けれど、あの日々は全て存在している。過去という時間軸の中、思い出という形で、セリオンの心にある。

 もう、それだけでいいから。それだけが残れば、もう、いいから。

 この傷あとが、セリオンにとって全てになる。

「あの人を、愛してるんだ」

 セリオンは目尻に涙を引っ掛けたままジストを見た。凪いだように涼やかな面持ちで、ジストは目の前にいた。

 ジストが瞬く。やがて菫色の目が瞼の奥に消えた。そして三秒後に姿を現す。薄い唇がそっと開いた。

「……愛してる、か」

 魔女の子は魔法が使える。それ故に恐れられ、敬われる。ジストはその、圧倒的な力を持つ一人だ。しかし、強大な力の代償にはそれ相応のものが選ばれる。

 歴代最強の魔女の子ジスト・シャルトル。苛烈な力の代償に、ジストは心が欠けていた。正確には心が生まれにくく、育ちにくかった。

 だから、たとえ心が芽生えることがあろうとも、その萌しに気付けない。

 この現実を、ジストは幼少の頃から自覚していた。他の人と決定的な相違があることを、早々に悟っていた。

 人には尊厳がある。意思がある。心があり、感情がある。

 むやみやたらに、内側を踏み荒らすようなことをしてはいけない。

 ひとの想いを強引に捻じ曲げて踏みにじるような行いは、許されることではない。

 それをジストは知っている。理解している。分かっている。

 だが、所詮は数式への理解と同じだ。解き方を熟知しているから過不足なく対処できるだけだ。

 この世にある教本の言葉などジストはいくらでも諳んじられた。淀みなく答えることだって難しくない。言葉という文字を本物だと錯覚させる術だって、もう完璧と呼べるほどに学習済みだ。理想的な姿を被ることくらい造作もない。

 けれど、それがどれほど人として欠落しているのか、知らないわけがない。

 それなのに、上辺を取り繕う以外の手段をジストは選択できなかった。心の芽生えを見逃してしまう以上、他に選びようがなかったからだ。

 喜びがない。

 憤りがない。

 嘆きがない。

 目に映る全ては、皆が等しく他人事。

 心が欠けているというのは、そういうことだった。

 ――じゃあ、私のことを大切にしてください。ジスト様。

 不意に、やわらかい声がジストの鼓膜を揺らす。ブリジットの声だった。魔女の子としてジストが背負う代償を知った時、ブリジットが言った言葉だった。

 大切にするって、なんだろう。ジストはセリオンを見た。懸命に涙を堪える姿を見て、筆舌に尽くしがたい感覚に見舞われる。

 泣けばいいのに。

 脳裏を横切った言葉はきっと無責任であって、大切にすることとは全く違うのだろう。

「……恐らく、殿下には優しくない事実ですよ」

「承知の上だ」

「ブリジット様は、望んでいないかも」

「そうかもしれない」けれど、とセリオンは言葉を続けた。「俺は、俺を肯定したい。他の誰が否定しても、せめて俺自身だけは、自分を否定したくない」

 ジストは声を呑み込んだ。立ち尽くす。教本に立ち並ぶ言葉くらい、いくらでも諳んじられるにも関わらず全く言葉が出てこない。

 愛している。

 大切にしたい。

 否定したくない。

 到底、ジストには計り知れない心の動きだ。外側を整える術しか持ちえないジストには、まるで遠い世界でしかない。

 それでも。

「それが貴方の選択なんですね、セリオン殿下」

 傷付くのが怖いと言ったその口で知りたいと懇願する。覚悟を述べる。愛を吐露する。

 矛盾だらけだ。まったくもって、ままならない。

 けれど、それでも。そうであっても。

 ――きっと、これが心だ。

 教本には絶対に立ち並べない衝動。

 言葉では説明ができない情動。

 やはり、魔法なんて無力だ。圧倒的な力だと恐れられるその一方で、手も足も出ないことばかりがこの世界には溢れている。

 表面を撫でているだけでは、永遠に知り得ないことだった。

 ジストは微かに笑った。

「泣いても責任取りませんからね」

 どこか悪戯めいたジストの言葉に、セリオンはぽかんとした。常なら絶対に見せない間抜けな顔をさらす。

 初めて、ジスト・シャルトルと向かい合ったと思ったのだ。

 セリオンは涙を零したまま、もう一度笑った。

 それはとても情けなくて幼くて、どこにでもいる、ただの青年の姿だった。



  ◆



「こんにちは、ブリジット様」

 花束を抱えてジストは丘の上に来ていた。目の前にあるのは墓だ。手入れが行き届いており、常日頃から手を施されていることが伺える。

 ブリジット・オーガスタ。刻まれた名を視線で辿り、ジストは当然のように膝を折った。抱えていた花束を添える。

 ピンク、オレンジ、薄青、白、黄色。色とりどりの花びらを、ジストはひたすらに見つめた。そっと口を開く。

「ランネル・ヒースグリーンは地位剥奪の上で幽閉。命は無事ですが自由かどうかは不明です。自害しないように監視が付いているそうですが……まあ、結局は彼次第かと」

 風が吹く。髪が靡く。花が揺れる。花びらが散る、舞う。

 高い空に向かって、淡い色が溶けていく。

 やわらかい日差しと青空の向こうに飛んで行った花を、ジストは追い掛けなかった。墓石に刻まれた名を懸命に見つめ続ける。

「現国王は病気で王座を退きます。次の国王はセリオン殿下です。カミオ公爵家とケルベック公爵家は表面上、今までと何も変わりません。ただ、これからの振る舞いは今まで通りとはいかないでしょう。キシュリア・レーゲンハイム様が国を出るそうですから、その理由について、しばらく社交界は賑わいそうです」

 ランネルが引き起こした復讐は十全に成された。

 国王、王弟、ケルベック公爵夫妻。ランネルが憎悪を募らせた相手は一人残さず手を下せたと考えて間違いない。その上、子どもにまで傷を与えたのだから見事なものだった。

 この一連の出来事の中で一番の被害に遭ったのは、恐らくキシュリアだろう。リシュリアナよりも醜聞に近く、そしてセリオンのような覚悟もなかったのだから当然だ。

 醜悪な事実。衝撃な事実。そして、これからやって来る非情な現実。

 近い将来、キシュリアは必ず傷付くだろう。不義の子だと囁かれることは間違いない。あんなに生みの親に似た顔立ちをしていては、ブリジットが産んだ子であると言うのは無理がある。

 用意周到で緻密で精巧。約十四年の集大成がそこにあった。

 だからこそ、きっと全てを失う覚悟をしていた。全て手離す決意をしていたのだろう。ランネルが所有する財産は、魔法卿という地位以外は何も無かった。

 家族はいない。仲間もいない。共犯者もいない。まさに天涯孤独と呼ぶに相応しい状況で、ランネルは孤軍奮闘していたのだ。

 約十四年。ランネルの全てが注ぎ込まれ、捧げられ続けた歳月。ただ一つ、たった一つを成し得るためだけに生きてきた、孤独で作られた時間。

「それしか残っていないのだから、当然のこと……」

 王城に参上する直前にした魔女の子達の会話が蘇る。ファナリナの言葉だ。

 復讐にその身を費やしたランネル。地位、名誉、富。全てを投げ打って、注ぎ込んで。そうして成し遂げた最後には、一体どれほどのものがあっただろう。

 慰めになっただろうか。否。

 満足感があっただろうか。否。

 達成感を感じたのだろうか。否。

 きっと、あったのは虚無感だ。最後に残ったのは、ただの感傷だ。

 復讐以外は何も残らないように生きてきたランネルが手に入れたのは、空虚な穴だ。ブリジット・オーガスタという最愛のひとの形をした、決定的な喪失だろう。

「愛してる、か……」

 ジストは魔女の子だ。それも、歴代最強の。しかし、それに何の意味があったのか。圧倒的な力に、どんな価値があったのか。

 ブリジットは死んだ。

 ランネルは復讐を遂げた。

 リシュリアナは弟を失った。

 キシュリアは深い傷を抱えた。

 セリオンは罪と共に玉座に着いた。

 全てはそれぞれの選択の末に起きた結果だ。過去から現在に至る過程で形作られた、運命と呼べる事象でもある。

 そこに、魔法は何一つ及ばなかった。

 圧倒的な暴力。絶対的な恐怖。惨劇をもたらすという点において、魔法に勝るものはない。復讐という行為にこれほど適した力もなかっただろう。

 無機質で陰惨で、暴力的で残虐的。これは誰かを救い、幸せに導く力ではなく、人を支配する力。人を殺す力。

 人の命を奪えても、人の命も幸福も、何も作れない。

 それが、それこそが、魔法という力の本質だ。そして、そうであるが故に心には絶対敵わない。

「本当に、役に立たないな」

 力があっても、救えない命がある。

 力があるのに、癒せない傷がある。

 力があろうが、消せない涙がある。

 世界の根幹は等価交換だ。何事も過不足なく。与えすぎも、奪いすぎも許されない。自身が持つものと引き換えに、望むものに手を伸ばすことができる。

 それでも、願うことに縛りはない。祈ることに罪はない。自由だ。

 ――あなたは幸せだったのかな。

 ジストは目を閉じた。菫色の目が隠れる。銀色の髪が風に泳ぐ。花の香りが空で踊る。

「分からなくてごめんね、ブリジット様」

 追想の下でジストは喉を震わせた。

 涼やかな声は風に溶けて、どこにも届かなかった。



  ◆



 セリオンは自室にいた。ソファに深く腰掛ける。背中を背もたれに押し付けた。首を反らす。天井を見つめ、手の平から力を抜く。床に王冠が転がった。

 今日は戴冠式だ。工程は全て終えており、後はもう休むばかりである。

 目を閉じた。視界を黒く塗りつぶす。

「やっと、終わったのか……」

 ランネルが復讐を遂げてからまだ十日ほどしか経っていなかった。正直なところ、精神的な苦痛はまだ尾を引いている。それでも今日と言う日を強行したのは、セリオンなりの覚悟を示すためだった。傷も過去も罪も、全てを背負っていくと言う、セリオンが決めた覚悟の証明の。

 思考が暗がりに沈んでいく。瞼が持ち上がらなかった。

 誠実であれるだろうか。

 正しくいられるだろうか。

 ――貴女を、裏切らずに生きて行けるだろうか。

 不安と恐怖はいつでもあった。後ろを振り返ることに怯える瞬間だって少なくない。

 しかし、それは当然のことだろう。

 国を守るには綺麗事だけでは務まらない。優しさだけでは及ばない。非情と無情、残酷性が必ず必要となる瞬間がある。足元に犠牲を積み上げることだって避けられないだろう。

 だが、それでもやると決めたのだ。

 セリオンは、ヴァルドラ国の王なのだから。

「……少しだけ、休もう」

 静まり返った部屋にか細い声が落ちる。

 ただの青年の声に応えるように、月光が優しく降り注いだ。それはとても静かでやわらかな、夜の出来事だった。





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