9話目-㊳
魔獣災害に巻き込まれたあの日、父の漁に連れていかれることになって遊びに行けず不貞腐れた私に弟はタドタドしく「いってらっしゃい」と優しく言ってくれた。でもあの時の私はぶっきらぼうに鼻を鳴らすだけで何も言わなかった。思えばあの時の私は何をそんなに怒っていたのだろう。どうしてあんな態度をとってしまったんだろう。背中を見送る弟はあんなにも名残惜しそうに見つめていたのに。
「ゲホッッ ゴボッ」
強く咳き込んだ弟の口から溢れでた血と臓腑を貫いた堪え難い感触に後ずさるように離れてしまう。栓をしていた私の腕が引き抜かれると滝のように血が噴き出した。膝から崩れ落ちた弟を咄嗟に支えようとするが嘘みたいに力が入らず私は押し倒された。
呼吸を短く浅く繰り返している。心音は今にも停まってしまいそうなくらいか弱く動いている。顔色なんてもう死人みたいだ。存在が時間と共に希薄になっていくのを感じる。
なにかしないと。なんとかしないと
「いた かったぁ 会いたかったぁよ お姉ちゃんに
小さくて あんまり 覚えてないけど 僕 お姉ちゃんに 会いたくて 頑張ってきたんだ でも酷いことばっかりして 生きてきたから きっと神様がバチを あてたんだ」
「ごめんね こんなことさせて」
「違う 私が。私のせいで!」
皮肉にも何百何千の命を奪ってきたという経験で否が応でも分かる。分かってしまう。この傷は致命傷だ。なんの手の施しようもない。
余りに悍ましい事実に耐えきれずに絶叫していた。声帯が割れてしまったのだろう。いつの間にか口内にはじんわりと鉄の味が広がっていた。
「おかーさん ぼくも おねーちゃんとイッショに うみイきたかった アシタは ぼくもツれていって くれるかな」
意識が混濁し記憶が錯乱しているのだろう。うわ言のように言葉を繰り返していた。それはきっと遠いあの日の母と弟の回想だ。弟の手が微かに動くのを見て恐怖で震える私はギュッと縋りついて祈るように握りしめた。すると弟の頬が僅かに緩んだ。
「おねーちゃん いってらっしゃい」
嬉しそうに。満足そうに。それが最後の言葉であった。命の火が消えたと言わんばかりに握りしめた弟の手から温かな体温が消えていく。
「こんなのいやだぁ 私を置いていかないでよぉ」
受け入れられない現実を前に私の全身が不意に痙攣を始め急激に吐き気が込み上げたかと思うとそのまま耐えきれずに嘔吐する。
どれだけの時間が経ったのだろう。遠くなっていた意識に声が届く。アーカーシャ。君なのか。するとパチン、頬に痛みが走った。
「おちつけ 先ずは落ち着くんだ 桐壺 深呼吸しろ そして私の声を聞け」
私の右腕に寄生したアナムであった
「今は何も聞きたくない。放っておいてくれ」
この声帯が引きちぎられたような声は誰の声だ。本当に私の声なのだろうか。憔悴し満足な呼吸すら行えない私とは対照的にアナムがイラつくほど冷静に平坦に無機質な言葉をかけてくる
「助かる 彼は心肺が潰されて生命活動が停まっただけだ」
「ほんとう?」
「死の捉え方がお前たちと始祖では全く違う。だからまあ見てろ」
アナムがそう言って念波を繋げた。そんな都合の良い話があるのか。人の死を無かったことにする。そんな奇跡が。
《姫様 アーカーシャ。連れてこちらに来てください 大至急です》
《分かったわ》
ただそれだけだ。声色で事情を察したのか何も聞かずにアナムの念波の呼びかけに応じた白雪はアーカーシャと共に即座にやって来る。
【これって……どういう】
「話は後だ。彼は桐壺の弟だ。彼を救うぞ その為にアーカーシャ。君の魔力を貸せ!呪具を呼び出す!」
【そんなことならいくらでも使え】
彼の差し伸べられた手を掴み取る。指と指の接触を通して温かな魔力が伝わってきた。その膨大とも呼べる圧倒的な魔力をアナムが基にして一つの呪具を出現させた
「"汝。その鏡に境界は無いものと知り給え" 妄想虚像鏡面死上げ」
私たちの頭上に丸い鏡面が現れた。その鏡に弟の姿が写ると私の手に真っ黒な臓器が突然現れた。不思議と先ほど破壊した心臓と同じ感触であると直感した。また臓器は不気味に胎動している。この臓器は呪いの塊だ。多分本来の用途は相手を呪殺するために用いる呪具なのだろう。
「この呪具はもしかして」
「姫様。この呪具の本来の用途について熱く語り合いたいのは山々なのですがなにぶん時間がありません。この呪具は今の私には扱えない。姫様原書の使用許可を頂いても?」
「私の所有物じゃないから許可いらないですよ」
「では遠慮なく。それと貴女様の祈りを戴いても?」
「喜んで」
「ヴァンダーリよ 原典"天使長の加護"を使わせろ」
「アナム。私の権能は始祖であろうと例外なく対価を頂きます。貴方の場合「分かっている!」
「全てわかっているから使用させろ」
「……確かに承りました。ヴァンダーリが原典の準備が出来たことをお知らせします」
そうしてアナムは原典天使長の加護を使用した。凡ゆる呪いの類を減衰させ防ぐ原典であるが今回はその力の使用範囲を制限した。つまり呪具鏡面仕上げにより擬似臓器を複製し呪殺するところを臓器の代用までで留めたのだ。
そしてアーカーシャの持っていた回復薬で弟は死の淵から戻ってきた。私はこの場にいる皆に感謝の言葉を述べずにはいられなかった。
これでこの話はめでたしめでたし
とはいかなかった。
アーカーシャがこめかみに青筋をたてながらぼそりと。だが確かに宣言した
【今回の件は流石にトサカにきたぜ。
クリカラ、先に帰って伝えてろ】
「何をだ」
【扶桑の偉い奴らにだ。今回の御庭番の襲撃の件に関して首謀者を差し出さなければお前たち全員をもれなくぶちのめすってな】
「本気なんだな?」
【本気だ。因みに殺された奴らの分だけ殴るってのも伝え忘れるな】
ちょっとした補足
この世界には大天使はいますが天使長と呼ばれるものはいない。原典の中には渡航者たちの知識が基になってる場合も多い