9話目-⑲
皇国の守護者キルヒは裏切りの魔導師オルクスその人であった。理解が追いついた時、雪姫の心臓の鼓動は痛いほど早く大きくなる。身体中の血液が沸騰しながら循環する。頭に血が昇っていくのを彼女自身感じていた。
剥き出しの彼女に対して素顔を面で覆い隠した彼は嘲るように鼻で笑う。
「オルクス!!!」
「そんなに大きな声で呼ばなくても聞こえてるよ。まあ名前なんて幾つもあるから好きな方を呼ぶといいさ」
「ぶっ殺してやる!」
普段の雪姫らしからぬ言葉であった。激しい怒りを。煮えたぎる激情を吐き出すように魔法を打ち出した。いつもであれば非殺傷の魔法文字を用いている。だが今回はその制限を取り外す。故に当たれば容易に人を挽き肉にして死に至らしめる攻撃である。
「悪いが君には無理だ」
だがキルヒが軽く腕を振るうだけで魔法が悉くに弾け飛ぶ。超常の力などでは無い。それは単純な膂力によるものであった。
今の彼はどうあれ守護者である。それ即ち並いる騎士の最高位に属する聖騎士たち。その更に頂点に位置するということに他ならない。その強さは始祖にさえ匹敵する。
「根源なる真の「相変わらず遅い。なにもかもが」
魔法を放とうとした次の瞬間には雪姫の身体は激しく地面に叩き伏せられていた。肺から空気が強制的に排出される。自身が何をされたのかすら理解が追いつかない。気が付けば地面に這いつくばっているのだから。
即座に起きあがろうとするが身体が重く持ち上がらない。彼女の頭にキルヒの足が軽く添えられていたせいだ。
傍目には彼が力を入れているようには見えない。だがそう見えるだけだ。実際には雪姫は膂力と敏捷性を何倍にもする身体強化とそれに耐え得るだけの肉体強化の魔法を十全に用いていた。だがそれでもなおキルヒの足元にも及ばない歴然とした力の差がそこにあっただけという話だ。
「待ってあげるから、早く面を上げなよ。それとも出来ないのかな?」
「ぐっ…このっ!」
「本当に非力だな。地を這ってたあの夜と何も変わってない。君は赤辰砂を殺されたあの日から何をしていたんだ……僕をあまりガッカリさせないでくれ」
キルヒは雪姫のそのザマに心の底から落胆を隠しきれない様子であった。踏み躙られながら雪姫は魔法を展開する
「汚い足をどけろ」
氷の荊が大量に出現し、キルヒの身体を直ぐ様飲み込む。
確実に当たっていると判断した姫は更に相手の動きを封殺する為に丸く檻のような形にして封殺を狙ったのだ。
瞬間遠くで爆発が起きる。そこかしこで悲鳴と断末魔があがる。島がメラメラと燃えていた
「これは……」
「外が騒がしくなってきたね。連れてきたカビサシが暴れているのかな?
僕にかかずらっている場合じゃないと思うよ。早く止めないとみんな死んじゃうかもね。でも、今の君に止める力があるのかな」
隣に封じたはずのキルヒが立っていた。気付くのが遅れ掌打が雪姫の腹部に打ち込まれる
「うっ」
「カビサシ、上位魔獣のカビサシか。魔獣をどうやって従えてるの」
「それを聞かれて素直に答えるとでも?」
再度立ち上がった雪姫と向かい合うキルヒであったが、その隣に置かれていた原書が独りでに開かれ、1人の童女が映し出される。
「ヴァンダーリが原典の準備が出来たことを此処にお知らせします。"王の指輪" "賢者の石" "神化変性の護符"の対価をお支払い下さい」
「お、やっとか。ズメイ、君の出番だ」
「い、いやだ。わたしは死にたく」
言葉途中でズメイは糸の切れた人形のようにガクリと項垂れる。そして顔を上げた目に光はなく、まるで操られているかのようであった
「わ、わたしは、キルヒ様の所有物、この身と持ちうる全ての財と地位を、差し、差し出します」
原書はそれを対価として承認したようだ。そして、それを契機にこの世界からズメイが持ち得る全てがこの世から消え失せることとなる。物も命も。
かつて館であった場所で原書は再度通告する
「対価が不足しています。お支払い下さい」
「ふむ。ショジョウ、ブレックファストを裏切ったクライムコミュニティは今のでどの程度消えた?」
『ズメイ個人に従属していた組織はクライムコミュニティ全体の半分ほど。確認したところ6万人程度は今ので消失したかと』
「なら残りの粛清は空蝉少女たちに好きにやらせろ」
『かしこまりました』
「対価をお支払い下さい」
無機質な再度の通告に値踏みするようにキルヒは答えた
「……博打になるが、ここは僕の寿命を支払うとしましょう」
キルヒの身体が光に包まれる。人は必ず死ぬ。どれだけ鍛えようと、どれほど強かろうと、死は守護者になっても決して例外にはならない。寿命の支払いは、故に最悪残りの命の残量が数秒しか残らない可能性もある危険極まりないものである
「キルヒ様から寿命の2/3を徴収しました。原典をお渡しします」
「其の程度で済んだか。暁光だな」
賭けに勝った彼の手元にはそうして3つの巨大な力を内包した原典が3つ収まることとなる
「これで後はアビスを手に入れたら、僕は!」
「させないわよ!来なさい、偉大なる龍王様!!」
手に刻まれた紋章が輝き、距離と空間を無視して一体の赤い龍が呼び出された。龍王は雪姫の状態を見て状況を即座に理解したようだった。
「GIAAOON!!!」
「こいつは…!ははっ!バルドラの時の小龍か!?」
「だが僕は守護者だ!一介の龍なぞに遅れは取らな」
有無を言わさぬ龍の全力の拳がキルヒの身体を撃ち抜いた。彼の身体が遥か後方の山まで吹き飛ばされそうになる。だが急激に勢いは失速していき、再度此方へ向かってくる
「アーカーシャ!魔獣より先ずはあいつを倒しますよ!」
「GIYAA!!」
原書を手に取り、アーカーシャに跨る雪姫。直ぐ様に龍王は空に大きく飛び上がり、音速を超えた速度でキルヒの影を置き去りにした速さと激突した。
激突の度に空気が大きくひしゃげる音がした、
拮抗?否。互角なのは最初だけだ。アーカーシャの拳がキルヒの身体を捉え始める。彼の身体は殴られた衝撃で真下の地面に大きく墜落し、島に軽い地割れを引き起こす。
このまま追撃でフレアを放てば或いは終わっていたのかもしれない。だがそれは島そのものを消し飛ばす事となる。敵も味方も誰も彼もが間違いなく死ぬこととなる。
故に放たない。いや放てない。
「参った。参った。これは大きな誤算だ」
「ただの龍じゃないね。あの白い龍の眷属かな」
「GYA!」
キルヒはゴキリと外れた首の骨を直しながら、地割れから這い出てくると同時に目の前にアーカーシャが舞い降りてくる。
アーカーシャの拳が振り下ろされる。これで決まる、その矢先だ。彼の言葉が確かに聞こえた
「まさか、こんな所で賢者の石をぶっつけで使う事になるとはね」
アーカーシャの放った右拳が消失する。力で勝ったキルヒの拳が押し勝ったのだ。
さしもの雪姫も初めて目の当たりする事態に驚愕を隠し切れない。
「大丈夫ですか!?」
「G,Gyaaa」
肉体の損傷は瞬き程度で回復した。だがアーカーシャが受けた精神的ショックは大きく、距離を取らざるを得ない
「は、はは。これが賢者の石か。元第五守護者至高天アリシアが求めた究極の力。さ、流石に直ぐに肉体が安定はしないな。」
「今回はここまでか」
「逃がさないわよ」
「逃げるさ。魔導具ってのは便利だよね」
キルヒの手元には超高性能の転移魔導具が握られていた。
転移発動と同時に雪姫が魔法を放つ。だがすんでの所でキルヒを捉えられない
「くそっ、むざむざ取り逃すものか。アーカーシャ、魔力の残滓からあいつを追いますよ!」
【……】
激昂する雪姫をよそにアーカーシャは明後日の方向を向いていた。それは悲鳴と断末魔が聞こえる島の奥地であった。
アーカーシャは敵を追うより、今この場での人命を優先したいようであった。それを理解した雪姫は地面を悔しそうに蹴りながら、魔獣の排除に努めることにした
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