いないいない輪
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ああ、こーちゃん。だいぶお待たせしたね。いや、あの子なんだけど「いないいないばあ」が大好きでね。つい何度もしちゃったのよ。
いないいないばあって、こーちゃんも赤ちゃんだった時、親に結構されたんじゃないかい? あれね、子供の成長に色々役立つことが、最近、分かってきたらしいわよ。
話によると赤ちゃんは、「消える」と「見えなくなる」の区別がついていないらしいの。「いないいない……」と顔を隠すと、相手はこの世から消えたように思う。そこへ「ばあ」を足して現れることで、赤ちゃんは相手がいたことを認識するの。これを繰り返すと、さっき言った「消える」「見えなくなる」の境界線を学ぶことができるらしいわ。
同時に、「いないいない……」の後には「ばあ」が待っているという、物事の「兆し」の読み取り。そこから予測する力や期待感を持つことも、学習できるとか。
私たちはややもすると、ルーティンと化した毎日が、今日も明日も続いていくと信じがち。心のどこかで変わることを期待しながら、その実は流されるままに盲目。アリの一穴ともいうべき小さな変調を見逃して、うろたえることもしばしば。
今回はもっとわかりやすいもの。私の兄さんが体験した出来事について、お話しようかしら。
兄さんが中学二年の時、いつものように登校して下駄箱を開けると、上履きの脇に小さな便箋が一枚入っていたの。便箋は、封筒に入っていないむき身の紙一枚で入っていた。制服の袖の中にも隠せてしまうほど小さな紙片には、ただ一文。
「あなたを見ているから」
思わず兄さんは、便箋を隠しながら周囲を見やったわ。
この昇降口、およびずっと向こうの正門にも、ちらほらと他の生徒の姿が確認できる。近くにいる何人かは挙動不審な兄さんを見やったけど、すぐに自分の成すべきことに戻っていく。
――どうせ俺に気を持たせて、勘違いの浮かれ野郎だと、後で笑いものにする肚だろう? 騙されるもんかよ。
兄さんは何食わぬ顔で下駄箱を後にしつつ、周囲に目をやることを忘れなかった。策略だと予防線を張りつつも、この便箋の文句が良い意味なんじゃないかという望みを、捨てたくはなかったようなの。
教室に着いてからも、兄さんはいつもより気を張ったわ。あの便箋の字はかなり柔らかく、丸みを帯びたもので、男が書いたようには思えなかったそうね。廊下側の一番後ろにある自分の席から、教室を見渡してみる。
クラスの女子の誰かかとも思ったけど、みんなおしゃべりや読書、宿題の写しに夢中で、兄さんを見ている人はいない。「やっぱりただのいたずらだったか」と、いつも読んでいる文庫本を、いすの脇に置いたかばんから取り出そうとした時。
廊下にたたずむひとりの女の子と、目が合った。ドアの出入り口のへりに手を添えて、顔の半分だけをのぞかせるという、これもまた何度も創作の中で見せるやり方だった。思わぬ距離の近さに、どきりとする兄さん。
口元が手に隠されているものの、前髪を残した黒いショートボブに、長いまつげを生やした大きな目。整ったその顔が誰のものか、すぐには分からなかったとか。
――下駄箱に便箋を入れたのは、この子か?
兄さんはひとまずは気にしないフリをしながら、本を取り出したわ。
ホームルーム近い時間で、人がだいぶ集まっている。この女の子が便箋をひっくるめたイジりに関係していたら、ここで話しかけたりすると、仕掛け人の思惑にはまるんじゃないかと、警戒したのよ。
もう彼女の方を見やることはなかった兄さんだったけど、チャイムが鳴るまでの間、廊下から彼女の視線らしきものを感じ続けていたみたい。
彼女の意図はどこにあるのか。兄さんはその確証が得られるまで、たとえ彼女を見かけても接触しないと決めたわ。
実際、彼女は兄さんを追いかけるように、校舎内の色々なところに現れた。移動中はもちろんのこと、教室で授業を受けている時も、朝のように半分顔を壁で隠すような格好でのぞくことがある。身につけているのは、兄さんたちと同じ制服。ここの生徒だったら、彼女も授業中のはずなのに。
兄さんが考えたのは、保健室登校を行っている生徒たちだった。自分と同じようにいじめを受けたりして、教室に入ることができない子を考えたの。
彼女らなら授業の縛りにくくられないんじゃないかと思った兄さんだけど、先生に確認すると、保健室登校の子も授業時間と合わせて、課題を行っていることを知ったわ。トイレで席を外すことはあるけど、それはクラスでの授業でも同じこと。実際にその子たちと会ってみたけど、あのショートボブの髪を持つ女子はいなかったみたい。
兄さんは念のため、同学年はもちろん別学年の生徒達も洗ってみたけれど、あの顔にぴったりくる子は見つけられなかったらしいの。
あの便箋を受け取ってから、もう半月近い時間が流れていたわ。もしいじめだったなら、何かしらの働きかけが、仕掛け人の方から成されてもおかしくないはず。
けれどもそれらしい動きは見られず、あの女の子のことを話題に出す人もいない。そして例の女の子も見かける頻度を上げつつも、兄さんに接触してくる様子はなかった。この時には物陰ばかりじゃなく、堂々と姿をさらしてくることもあったそうよ。
隠れていた半身が、身の毛もよだつようなおぞましい姿だった……というお約束はなかった。外部の人間が見たならば、この学校の生徒だと認識するであろうたたずまいで、彼女は兄さんをじっと見つめている。しかもその背は、男子の中で少し背が低めの兄さんと、ほぼ同じくらい。
「罠だ、罠に決まっている」と自分へ言い聞かせても、こんなに視線を向けられちゃ、気にするなという方が難しい。
――次に近くで見かけて、人がいないようなら声をかけてみよう。
それが自分にとって、プラスの転機になることを期待して。
数日後。ようやく好機がやってきたわ。兄さんが校門を出て、少し歩いたところ。行く手の電信柱の横に、進路を塞ぐようにして彼女が立っていたの。
分離帯がないこの狭い歩道で、腕を後ろに回しながら少し胸を張っている。車も人の通りも今は絶えていたの。彼女と接触できるのは今しかない。
兄さんは足を早めながら、彼女へ真っ直ぐ向かっていく。近づいていくとはっきり分かる端正な顔に、ちょっと胸の鼓動が怪しくなってきたけど、気を取り直してポケットの中へ手を突っ込んだ。その中にはあの日の便箋が入っていたの。
「これを書いたのは、君か?」
兄さんは便箋を開きつつ差し出すと、彼女はこくんとうなずいた。
「君は誰なんだ? どうして俺につきまとう? 今日もこうして道を譲らず、俺の前に立つのはどうしてだ」
「――見ていないといけないから。あなたを。もう少しだけ。じっとしていて」
抑揚のない声でそうつぶやき、黙ってしまう彼女。とっさに言葉の意味が理解できず、兄さんは戸惑う。監視の意味合い? それとも遠回しな告白? お兄さんの中では相変わらず前者だと思う気持ちが強かったけど、後者も捨てがたい。でも、まだ判断はしづらかった。
「悪いけど、先を急ぐんだ」と彼女の脇を抜けようとする兄さん。けれどその前に彼女が行く手へ回り込んだ。通せんぼの形で、また彼女の顔が目の前にくる。「もう少しだけ」という声と共に。
横を抜けようとしても通せんぼしてくる彼女に、業を煮やす兄さん。こうなったら別ルートで帰る、と振り返った時、思わず声をあげちゃったの。
真後ろには、正面にいるはずの彼女が立っていた。全力の180度ターンだったのに、先回りされている。しかも彼女は一人だけじゃなく、何人もいたのよ。
学年に一卵性の双子がいるから、同じ顔というのには慣れているつもりだった。けれど今、兄さんの前には互いに手をつなぎ、輪となって自分を囲む、無数の彼女、彼女、彼女……。
先ほどまで強まり始めていたドキドキは、一気に冷めてしまう。
――やっぱり罠だったんだ! 俺をはめるための。ここにいたらまずい。
こんな手合いとは予想外だったけど、三十六計逃ぐるにしかず。兄さんは力づくで突破しようと、輪の一部である手と手をつないだ部分へ、全力でぶつかった。二人の彼女の握りが弱まるのを感じたけれど、勢いでできたすき間からあるものがちらりと見えた。
わずか一メートル先に立っていたのは、白目を剥いた男だったわ。これもまた兄さんと同じくらいの背丈で、よれよれのスーツを着ていたけれど、ひと目で人間じゃないと分かったわ。袖からのぞく、本来は拳に当たるだろう部分は、湾曲した鎌のような刃が飛び出していたの。それこそ死神が手にするような、人の身体なんて真っ二つにしてしまうほど、大きなものが。
兄さんが驚いている間に、そいつは大きく右腕を振りかぶる。この長さなら今、自分を止めている彼女たちの腕もろとも、自分の頭へざっくりと切り込むことができたわ。
けど、その一瞬前。彼女たちは手をつないだまま、輪を一気に縮めてきたの。密着寸前まで近寄られた兄さんは、もうどこを向いても彼女の顔しか見えない。でもそれは同時に、あの鎌手男の姿すら見えないということ。
「いないいない、いないいない。この子はここには、いないいない……」
彼女たち全員はそう歌いながら、兄さんの周囲をぐるぐると回り出す。次第にその速さは増していき、ほどなく無数の色が点滅しているかのようにしか思えないものに。
兄さんの頭の中がずきんと痛む。目まいと吐き気も同時に襲ってきて耐えられず、その場で意識を失ってしまったみたい。次に気がついた時には、もう彼女の姿も鎌手男の姿もなく、時間もさほど経っていなかったとか。
あの鎌手男、「消える」と「見えなくなる」の区別がついていないんじゃないか、と兄さんは私に話してくれたわ。彼女が俺を見る時、きっとその後ろには俺を狙う鎌手男が居続けたんじゃないかと、そう思っているのだとか。




