02
「つまりあなたは、この世界は然る物語をベースにした世界で、主人公のグレイスはあなたたち登場人物を誘惑し、その過程でわたくしが国外へ追放される――と、仰るのですね」
「ああ」
「三文芝居にもなりませんこと。あの阿婆擦れから貰った辞書でも読んで、お勉強しては如何かしら?」
「僕が貰ったのは万年筆だ」
呆れたように息をついたカミラが、シャルロットの隣に座る。威圧的な姉を苦手としているシャルロットは肩を縮めており、居心地悪くさせていた。
対面に座るロイは澄ました顔で、度々視線がカミラの足許で伏せる、犬のロビンへ向けられる。ぱったぱったと尻尾を振るロビンは、声を発した人物をそのつぶらな黒い目で順に追っていた。
主人が犬に夢中なことに対して、静かに対抗心を燃やしているハルが、背筋を正してロイの斜め後ろに立つ。肩身の狭いシャルロットが、恐る恐る件の辞書をテーブルに置いた。
「でも、不思議だと思うんです。六冊も同じ辞書をプレゼントされておいて、指摘されるまで俺は何ひとつ疑問に思いませんでした」
「あなた方が、それだけ盲目になっていたのではなくって?」
「そ、それは、そう、ですけど……」
ぐはっ、胸を押さえたシャルロットが苦しげに頷く。彼はグレイスに心底惚れ込んでいた。それはもう、自分の妻は彼女以外にあり得ないと思うばかりに。カミラがため息をつく。
「わたくし、初めに申し上げましたわ。あの女は危険だと」
「……それは、嫉妬からだと、思って……」
「馬鹿馬鹿しい。その目は節穴ですの? 少し様子を窺えば、あの女が多数の男に声を掛けているところなど、容易く見れますでしょうに」
「僕はお前と婚約関係を結んでいながら、グレイスが魅力的に見えた。彼女が多数の交友関係を結んでいることは知っていたが、それを『交際関係』だと思うことはなかった。……だが、お前の言葉が抑止力となったのだろう。礼を言う」
「……勝手ですわね」
小さく嘆息したカミラが腕を組む。下げた頭を上げたロイが、言葉を続けた。
「グレイスの言動を振り返ってみて気付いたんだが、彼女は決定的なことを口にしていない。好意的な言葉や、『あなたの妻になれる人は幸せだ』といった思わせぶりな台詞は残すが、要求や具体的な言葉は一切言っていない」
「う、うわあああっ」
「……僕だけがそうなのか、確認を取りたくてここへ来た。その様子なら、お前も踊らされた内のひとりだな」
頭を抱えて悲鳴を上げたシャルロットの姿に、淡々としたロイがふむと頷く。呆れたように視線の温度を下げたカミラが、馬鹿馬鹿しいとばかりにため息をついた。
「本当、男の人って、どうしてこうも馬鹿なのでしょう」
「カミラ。お前、あいつに直接手を出していないな?」
「この期に及んで、まだあの女の擁護をしますの?」
「違う。あいつは受動態だ。それらしいこと、思わせぶりなことを言って、周りが勝手にあいつの望むままに動いている。あいつはただそこにいて、お喋りしているだけだ。それを加害すれば、こちらが不利になる」
「……末恐ろしい女ですこと。……初回に注意しただけですわ。人の婚約者に手を出すなと」
「そうか」
神妙な顔付きになったカミラが、組んだ腕で自身を守るように身を固める。ロイが嘆息した。
「正直、物語と言ったが、僕はそれをほとんど覚えていない。ただ事実として、グレイスが多数の男を懐柔し、何かを企てていると考えた」
「グレイスさん……、ぐすっ、初恋だったのに……っ」
「大変な女に捕まりましたわね」
ぐすぐすハンカチを濡らす弟の黒髪を、カミラが呆れ顔で撫でる。数年振りの姉弟のふれあいは、弟の失恋を機に訪れた。
「そこで考えたんだが、カミラの追放先の田舎で、僕はじゃがいも農家を開きたい」
「あなたのその一足飛びにものを語る癖、どうにかなりませんの?」
唐突に降って湧いたじゃがいもの話に、頭痛を耐える顔でカミラが苦言を呈す。けれどもきょとんともしないロイは、ただただ淡々と言葉を連ねていた。
「じゃがいもを揚げた菓子を作れば、一山狙えると思う」
「じゃがいもは何してもおいしいんで、揚げてもおいしいとは思いますけど、今いりました!? じゃがいもの存在いりましたか!? 俺の傷心よりもじゃがいも優先ですか!?」
「カミラ、ロビンの散歩はどうしている?」
「聞いてくださいよ、人の話!!」
引き切った顔でロイとシャルロットを見比べていたカミラが、唐突な話題転換に苦い顔をする。緩く首を振った彼女が、呆れた声音で返答した。
「家の周りを数周してますわ。外へは連れて行けませんもの」
「広い野原を散歩させてみたいと思わんか?」
「はい?」
「遮るもののない広大な野で、無邪気に遊ぶロビン。加減し、転がしたボールではなく、弾んだボールをくわえ、全速力で駆け戻ってくるロビン。風に吹かれる艶やかな毛並み。もっと遊ぼうと訴えるつぶらな瞳」
カミラの顔が、ロイから足許のロビンへ向けられる。へっへ、と息づく金色の大型犬は、つぶらな目を潤ませ彼女のことを見上げていた。こほん、カミラが咳払いする。表情を改めた彼女が身を乗り出した。
「じゃがいもだろうと、トウモロコシだろうと、何でもお付き合いいたします」
「姉さん……!?」
「では、今後ともこの四人とロビンで作戦を練ろう」
「あれ!? 俺の存在がナチュラルに数に含まれてる!?」
「我があるじ、わたしのことも数に加えてくださるのですね!」
「当然だろう」
「有り難き幸せ!!」
「ふ、ふーん!? 無視されちゃってるんだけどなー!?」
結ばれた共闘関係に、シャルロットが慌てふためく。しかし誰も取り合ってくれない訴えに、彼はがくりと項垂れた。
可憐に頬を染めた金髪の少女が、もじもじと俯く。上目にロイを見上げ、恥じらいながら彼女が万年筆を差し出した。淡いピンクのリボンが巻かれた、クラシカルな黒い万年筆。小さな両手に乗せられたそれを眼下に、ロイは静かに冷や汗を流した。
「ロイくん、あの、……受け取ってもらえると、嬉しいな」
鈴を転がしたような澄んだ声音で、強請るように甘く、彼女が囁く。キラキラと光をたたえた青色の目は澄み渡り、はにかむ顔は愛らしかった。
彼女の名前はグレイス・ブレアといい、シャルロットの初恋相手で、ロイの想い人だった人物だ。きゅるきゅる輝く瞳には悪意の欠片など一片も見当たらず、ただただ清楚で清純な少女にしか見えない。
ロイの喉が、こくりと鳴った。彼の自宅の机には、同種同色の万年筆が既に四本も存在するというのに、何故だか堪らなくグレイスの差し出す万年筆が魅力的なものに見えた。意図せず、ふらふらと右手を持ち上げる。彼の胸中は「五本目の万年筆か」と呆れる心地と、「至高の一品を手に入れなければ」と切迫する思いとがせめぎ合っていた。
冷や汗を掻き、ロイがそろりと視線を泳がせる。たった僅かな視線の移動ですら、苦痛に感じられる。グレイスから目を背けることが、何故だか非常に罪深いことに感じられた。
干上がった喉に生唾を流し込む。中途半端に持ち上がった片手を握り締め、固く瞼を閉じた彼が、懸命に無愛想な口を動かした。
「……すまない」
短い言葉で拒否を訴え、足早に彼がその場を離れる。残されたグレイスは驚愕に目を見開き、唖然とその後姿を見送っていた。
応接間のソファで、シャルロットが両手で顔を覆い、しくしく涙を流している。彼の前には一冊の辞書が置かれていた。これで彼の所有する同名の辞書は、七冊となった。
「ロビン、お前は利口だな」
「ロイさん!? あなたに人の心はありますか!? 俺がこんなにも悲しみに暮れているのに、ロビンの方が大事ですか!?」
「その通りだが?」
「ひどい! あんまりだ!!」
わっとシャルロットが泣き崩れる。垂れ耳の大型犬と戯れていたロイが、その様子をきょとんと眺めた。彼の差し出した右手に、犬が前足を乗せる。即座に顔を戻したロイが、緩んだ頬のままロビンの頭を撫でた。
「それで、何の話だ?」
「グレイスさんから、辞書を貰いました……」
「見ればわかる」
「断れなかったんです! 何故か彼女を前にすると、思考が鈍るといいますか……!」
涙ながらに語るシャルロットが、両手で膝を叩く。一通りロビンの毛並みを堪能したロイが、小さく嘆息した。
「心当たりはある。何故だか無性に、差し出された万年筆を欲しく思えてしまう」
「そう、そうなんです!」
「あなた方の意思が弱いだけではありませんの?」
応接間の扉を開けた体勢のまま、カミラが素っ気ない声で呟く。大袈裟なまでに肩を跳ねさせたシャルロットが、ぎこちない口で「姉さん、」と呼んだ。
「かも知れんな。僕はまだ四本だ」
「誇れませんわ」
「必死にロビンの姿を思い出して、五本目を断った」
「褒めて差し上げますわ。さあ、頭をお出しなさい」
屈んだ体勢のままだったロイの元まで、つかつかと歩みを進めたカミラが、よーしよしよしよし、彼の赤毛を撫で回す。憮然とした顔のロイが、主人を取られてしょぼくれた顔のロビンの頭を、わーしわしわしわし、撫でた。姉の奇行と連動した姉の婚約者の動きに、弟が口許を引き攣らせる。
「我があるじ! わたしも『おて』出来ます! 『待て』も出来ます!」
「そうだな」
「え!? あれに混ざりたいんですか!? 正気ですか!?」
「わたしだって、褒められれば伸びます!」
ロイを主人に持つ白髪の従者が、懸命に訴訟を起こした。それをぞっとした顔でシャルロットが見遣る。あちらこちらに髪を跳ねさせたロイを解放し、カミラがふんと鼻を鳴らした。
「あなた、折角手触りの良い毛質をしているのだから、もっと丁寧にブラッシングなさったら?」
「僕は犬か?」
「ロビンの方がもっと利口でしてよ。さあロビンちゃん、お散歩行きましょうね~!」
前半を愛想なく吐き捨て、後半を2オクターブ声音を高くし、カミラが左手に下げたリードをちらつかせる。途端、ロビンの表情が輝いた。黒い瞳に光が満ち溢れ、弾んだ垂れ耳と舌がしなやかな動作に合わせて揺れる。ぶんぶん振られる尻尾は急がしそうで、自分の手から擦り抜けた金色の頭を、ロイが寂しそうな顔で見送った。ロビンの立派な首輪に金具を引っ掛け、勝ち誇ったようにカミラが笑う。
「では、ごめんあそばせ」
へっへと息を弾ませる大型犬のおしりが、応接間の扉を抜ける。名残惜しそうなロイの頭を従者が整え、彼が主人の目線に合わせて屈んだ。
「我があるじ、わたしも『お散歩』出来ます!!」
「……いや、ハルさん、それでいいんですか?」
引き攣った顔でシャルロットが従者を宥めるが、ハルにはロイしか見えていない。寂しげな顔で嘆息したロイが、ハルの白髪をぽんぽん叩く。立ち上がった彼の足許で、ばたんっ、彼の従者が倒れた。驚いたように疑問符を大量に浮かべた主人が再び屈み、ハルの肩を数度叩く。「わがあるじ……」とのうわ言を漏らすそれを困惑したように見下ろし、助けを求めるようにロイがシャルロットへ視線を向けた。即座にシャルロットが腕で大きくバツ印を作る。
「やめてください。こっち見ないでください!」
「何故だ!?」
「業が深いんで!!」