01
こつりと音を立てた万年筆に、ロイは動きを止めた。彼が今し方置いた万年筆と、全く同じものが机に並んでいる。それも三本。四本目の万年筆から手を離し、考え込む仕草をした彼が、くるりと振り返った。
「ハル、いるか?」
「お呼びでしょうか、我があるじ」
扉を軽く打ち鳴らし、白髪の青年が折り目正しく頭を下げる。年下のロイに仕える彼は背が高く、穏やかそうな顔立ちをしていた。赤い髪を揺らし、ロイが四本の万年筆を指差す。
「グレイスから貰った万年筆なんだが、どう思う?」
「はい? はあ、来年の分まで買い揃えてくださったのでしょうか」
「彼女には、僕に万年筆すら買う金がないように見えているのか?」
「ええっと、我があるじが、これを持っているお姿を見たかった、とか……」
「四本もどう持てというんだ」
「な、悩ましいですね……!」
重ねられる主人からの疑問符に、ハルが困惑したように眉尻を下げる。
グレイスとは、ロイが思いを寄せるクラスの少女の名前だ。彼には婚約者がいたが、それでも惹かれる思いは止められない。長い金の髪に、愛嬌に満ちた青の目。はにかむ顔は可愛らしく、今日彼は、そんな愛らしいグレイスから四本目の万年筆をプレゼントされた。
再び顎に手を添え、考え込む仕草を取ったロイが、背の高い従者を見上げる。
「ブレイディ家に向かう」
「今からでしょうか? 少々お待ちください!」
「いい。徒歩で向かう。僕の不在を尋ねられたら、そう答えろ」
「お、お待ちください、我があるじ! わたくしめもお連れください! おひとりでの外出などっ、あ、あるじー!!」
ブレイディ家はロイの婚約者である、カミラ・ブレイディの屋敷であり、彼はそこへ近付くことを苦手としていた。カミラはグレイスへ心を寄せるロイに呆れ、顔を合わせる度に小言を述べていた。口煩い彼女を忌避していた彼だったが、どうやら正当はカミラにあったらしい。
ハルの訴えなど意に介さず、黙々と思考に没頭しながらロイが部屋を出る。競歩と見紛う速度で歩く彼の後ろを、慌てた従者が追いかけた。
「ええと? つまりこの世界は然る物語をベースにしていて、主人公のグレイスさんが俺たち登場人物と恋愛していく――と。その四本の万年筆で作家になったらどうです?」
ブレイディ家長男のシャルロットが、頭痛に耐えるような顔で吐き捨てる。淡々と上記の内容を語ったロイは表情を変えず、お供のハルが困惑した様子で後ろに控えていた。応接間のソファから立ち上がったシャルロットが、ため息混じりに首を横に振る。
「あなたの空想の真偽など興味ありませんが、不当にグレイスさんを冒涜するのはやめてもらえませんか? 不愉快です」
「なら、彼女から貰ったものを確認してみろ」
「ただ単に、あなたへの興味がその程度だっただけじゃないんですか? 全く、姉といいあなたといい、嫌な人種もいたものです」
それを飲んだら、さっさと帰ってもらえませんか? 蔑む目で鼻を鳴らしたシャルロットが、苛立った歩調のまま退室する。主人を侮辱されたハルの眼光が鋭くなるが、対する本人は涼しい顔のまま茶器を傾けていた。ぱたりと閉まった扉の音から二拍、白髪のお供が憤慨する。
「我があるじ! あの無礼者を処す許可を!!」
「いらん。放っておけ」
「ですが!!」
空になった茶器をソーサーへ戻し、ロイが立ち上がる。帰ろうと手を伸ばしたドアノブが、勢い良く遠退いた。切れ長の目を瞬かせたロイの前で、息を切らせたシャルロットが引いた扉に凭れる。
「六冊、あった……」
「何がだ?」
「辞書……、グレイスさんからもらった……」
「そうか。良い筋トレ道具になるな」
「そんな、グレイスさん……」
ずるずるとしゃがみ込んだ屋敷の息子の物理的な妨げのせいで、ロイは外へ出ることが出来ない。ハルと顔を見合わせた彼が、仕方なしに屈み、蹲る少年の肩を叩いた。その手に金色のもふもふが重なる。はたとロイは顔を上げた。
犬がいた。金色の毛並みをした、垂れ耳の大きな犬だった。右の前足を差し出し、舌を出したその犬は、立派な首輪をつけて、尻尾をゆっさゆっさと振っていた。
ロイが手の向きを返す。犬の前足と握手した。つぶらな黒い瞳に光が輝き、尻尾を振る速度が上がる。飛び散るご機嫌な花畑が見えた気がした。
ここに来て初めて、ロイの口角が上向きに上がった。表情を変えない主人に訪れた僅かな変化に、従者のハルが両手で口許を覆う。その顔は驚愕に満ちていた。
「わ、我があるじが……!!」
「犬好きに悪いやつはいない」
「俺の背中で和平結ぶの、やめてもらえません?」
シャルロットの背中で交わされる握手。立ち上がれなくなった彼が、蹲った姿勢のまま苦情を述べた。
「仕切り直しといきましょう」
再びソファに腰を落ち着け、景気良く膝を叩いたシャルロットがそのまま顔を覆って項垂れる。「グレイスさん……」搾り出された声は悲痛に濡れていた。
対するロイは犬がくわえて来たボールを持っており、犬の前で右へ左へ振って、軽い仕草で投球している。絨毯を転がるボールを追いかけ、犬が艶やかな毛並みを靡かせた。
「お前は利口だな」
「我があるじ、わたしも『取ってこい』くらい出来ます」
「そうだな」
「……いや、座ってくれませんか? ちょっとお話しましょう?」
「僕からは以上だ。今忙しい」
「いや、いやいやいや?」
屈んだロイがボールを転がし、犬がくわえて戻ってくる。ロイが犬の頭をわしわし撫で回した。ふさふさの尻尾がぶんぶん振られ、次なる投球を斜めを向いた身体が催促する。強請られるがままに、ロイがボールを転がした。
憮然としたハルがロイの後ろで膝に手をつき、シャルロットが着席を促すが、ロイは犬と遊びたい。彼を見上げる黒い瞳に、抗う術を持っていなかった。
「僕の婚約者で、お前の姉が、国外へ追放されていたように記憶している」
「……いや? この状況で更なる爆弾を落とすの、やめてもらえません!?」
「わたくしがどうかしまして?」
不意に響いた新たな声に、三者三様に顔を向ける。冷たい眼差しで扉を開けた少女はこの屋敷の娘、カミラ・ブレイディその人だった。波打つ黒髪と、雪のように白い肌。赤い唇とつり気味の琥珀色の目は彼女の印象を鋭く見せ、近付きがたい印象を与えた。
今正に話題に上がった人物の登場に、彼女の弟が狼狽えた顔を見せる。
「ね、姉さん……、どうしたんですか、こんなところに」
「あなたに用はありません」
ぴしゃりと言い放った彼女の元に、ボールを落とした犬が駆け寄る。喜びに弾んだそれは軽快で、堪らんとばかりに尻尾が忙しなく振られた。令嬢の足許に行儀良く腰を下ろし、期待に顔を輝かす。それを冷めた目で見下ろしたカミラが、ふんと鼻を鳴らした。
「誰にでも尻尾を振って、どこぞの阿婆擦れのようではありませんこと。この駄犬め」
降ってきた冷ややかな声音に、ぶんぶん振られていた尻尾が速度をなくし、ぱたりと床に落ちる。しゅんとした犬から顔を背け、踵を返した令嬢が部屋から出て行った。とぼとぼとした仕草で、犬が彼女を追いかける。垂れた尻尾が扉を潜り抜けた瞬間、カミラによって勢い良く扉が閉められた。
「……すみません、姉があんな調子で」
顔を背けた彼女の弟が、ため息混じりに謝罪する。しょんぼりとした犬の仕草を、しょんぼりと見送ったロイが、床に転がったままのボールを見つけた。切れ長の目を落ち込ませた彼がそれを手に取り、徐に扉を開ける。応接間から出ようとした彼の足が、再び止まった。
「さっきはごめんなさい、ロビンちゃん! あなたは誰よりも利口で可愛くてかっこいい、わたくしの最高の紳士ですわ! あなたほどの素敵な子、この世界の何処を探しても見つけられませんの! あなたは最高よ、ロビン!
あの無愛想に遊んでもらったの? 楽しかったんですの? まあまあそう、そうなのねロビンちゃん、また遊んでもらいましょうね。うふふ、ろーびろびろびろび……」
犬毛も涎も構うことなく、金の毛並みに頬擦りしていたカミラが、ぴたりと動きを止める。ぎこちない動きで振り返った彼女が、ひとりと一匹を見下ろす唖然とした目とかち合った。硬直する空気に構わず、ロビンと呼ばれた犬がぶんぶん尻尾を振っている。遠心力で振り回されるそれをなお動かし、キラキラと輝く顔で令嬢の手に擦り寄っていた。
「のののののっくをしてくださいませんこと!?」
「……すまない?」
顔を真っ赤に染めた令嬢には澄ました空気など微塵もなく、犬を溺愛していた見慣れない姉の姿に、弟は戦慄していた。のほほんと、ハルが口を開く。
「カミラ様は、愛犬家でございましたか」
「べべべべつにそういうのではなくて! こ、この生き物を嫌える人間が、この世におりまして!?」
「犬好きに悪いやつはいない」
「ね、ねこちゃんも鳥さんもおりましてよ!」
「猫好きと鳥好きにも悪いやつはいない」
「中々話がわかるじゃありませんこと。多少は見直しましたわ」
カミラが盛大に鼻を鳴らし、ロイの手からボールを奪い取る。彼女と犬が応接間に加わった。