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第一章その3

第三章 プロメテウス






時は遡る。


 それは、昔の話。彼がまだ子供であり、初めて剣を握った時の事。


 彼に両親はいなかった。


 木の根から生まれた訳ではないが、赤子であった彼は、とある騎士の屋敷の前に捨てられたのだ。


 季節は冬、蓄えの少ない農民の夫婦が口減らしに捨てたのだろうか、定かではないが、その赤子は籐籠の中で布にくるまれる情けを与えられていた。


 その騎士の屋敷は、領主の住居の近くにあり、子のいない老騎士が一人、退役年金で暮らしていた。


 それも恐らくは両親の配慮だったのだろう、子のいない老騎士は赤子を引き取り、養父として彼を育てた。


 そしてそれが、彼の運命を決定づけた。


 もし孤児院にでも入っていたなら、彼の生涯は大分穏やかなものになっただろう。


 かの老騎士、つまり彼の養父は、端的に言って狂人であった。


 子供が歩けるようになるとすぐに、大人が振るう重い長剣を握らせ、何度も何度もそれを振らせた。


 養父は決して、子供に怒鳴ることはなかった。だがそれ以外は何でもした。


 殴る、蹴る。養父の躾けと教育は、過剰な暴力が多くの場合で用いられた。物心つく頃には、彼の体は生傷で覆われた。


 死んだ魚のような目で、来る日も来る日も朝から晩まで屋敷の庭で剣を振る。


 疲労で腕が下がったり、剣の振りが遅くなると、養父は淡々と彼を殴りつけ、鞭で叩いた。


 養父は言った。




 『フェル。剣を振るに、お前の意思はいらないのだ。


  剣を振るのはお前の心ではない、敵を斬るのはお前の体ではない』




 養父はまるで、教えを与えるのではなく、鋼を鍛えるように彼を打った。


 『己を捨て、内を空にすれば、自ずから大義に従い肉は動く。


  その時お前は、真に斬るべきものだけを斬る、一振りの鋼となれる』




 それが唯一、彼の持つ一番に古い記憶である。 




 「……、生きてるか」


 フェンネル=ファイアウッドは目を開けると、おぼろげな視界と全身に響く痛みを耐えながら、どうにか体を起こす。


 へし折れた木の幹からどうにか体を起こすと、新鮮な激痛が走る。


 全身複数の擦過傷から血が流れて落ちる。加えて、体内から響く熱い鈍痛から、恐らく骨折をいくらかしているらしかった。 


 口の中の血を吐き出して、状況を整理する。


 ここは森の中、村からは離れた白樺の森だ。


 背の高い斑に白い樹皮が並び立ち、薄緑の葉の切れ間から日差しが降りる。


 フェンネルは元居た村はずれからここまで、飛ばされた。


 文字通り物理的な意味合いで彼の体は空中を直進運動し、森の木々にぶち当たって地に降りた。短時間の気絶から正確には不明だが、彼の主観において、ほんの少し前の事である。


 ヘカトンケイル、魔王と称する男の手によってだ。


 「……化け物が」


 痛みの中でどうにか喉から悪態を絞り出す。


 記憶の最後、無手のヘカトンケイルに掴みかかろうとした直後に、フェンネルはすさまじい牽引力を感じながら、視界が横に流れ去り、浮遊感と風を得て空を飛んだ。


 大砲のように人一人を飛ばす男など、フェンネルは自分も含めて見知ったためしがない。


 彼は久しく得た覚えのなかった、生命の危機感に直面する。


 そしてそれは、すぐに実体となって眼前に着地した。


 白樺の木々より高くから、枝を散らしながら落下し、激突音とともに着地する男。


 上半身裸の魔王、ヘカトンケイルが姿を現す。


 「確かお主、剣士だったか」


 「は」


 思い出したように、ヘカトンケイルはそう溢した。


 彼は何か、棒状のものをフェンネルの足元に投げる。それは回転しながら黒い土に突き刺さった。


 「適当に拾ってきたものだが、好きに使え」


 それは幅広の直剣。鍔のない巻きの崩れた柄をフェンネルは握り、引き抜く。 


 全長一尺弱のそれを、幸運にも折れていない両腕で構える。上質なものではない、使い古され、手入れもぞんざいな鉄の剣だ。


 「……心遣いに、一応感謝する」


 「構わん、稚児が枝を握ったところで我は気に留めん。それでお主が死ぬ間に満足に足掻けるならば、よかろうさ」


 軽蔑、侮りの語調はない。魔王は真実、目の前の虫けらに近しい男を憐れんでいる。


 それほどまでの力量差を、片方は無頓着に、もう一方は絶望とともに、二人はしかし確信していた。


 しかしフェンネルは絶望を胸に膨らませながら、剣を構え、ヘカトンケイルを見据える。


 好きに足掻け、とそう言われた。ならばやって見せよう。どのみちソフィを想えば、座して死ぬことなどできるはずもない。


 彼我の距離は五尺ほど、彼の強靭な踏み足からの斬り込みをもってすれば、既に敵は一呼吸の間に斬れる距離。


 しかし、それはヘカトンケイルにとっても同様。その上魔王の方が確実に、フェンネルよりも速い。


 何故か、それは単純に一歩の速度差だ。魔王の一歩は、一瞬で距離を詰める。


 事実、フェンネルは最初に魔王に近づいた際、距離を詰めようと歩き出した瞬間に投げ飛ばされた。


 仮に石弓の矢と駆け比べをしても勝てる、と言われても容易に納得できる。


 人間離れしたヘカトンケイルの瞬発力を前に、闇雲にかかれば死あるのみ。


 ( 落ち着け)


 内心、震えそうになる体を、全神経を以て鎮める。


 隙を見せれば、一瞬で死ぬ。まだヘカトンケイルに殴られたことはないが、人間一人を長弓のように飛ばす膂力だ。人の形で棺桶に入れる自信が湧かなかった。


 切っ先を向け、ヘカトンケイルを見据える。呼吸は気取られないよう口を閉じ、唇の間のわずかな隙間から静かに行う。


 フェンネルの頭の片隅で、不意に昔日の記憶がよみがえる。


 五、六年ほど前、騎士団に籍を置いていた時、闘技場の拳闘士だったという男が同期にいた。


 彼はたびたび拳を握り顔の横に構え、何かの発作のように、突然上半身を捩らせ拳を放っていた。


 気になって、何をしているのかと問うと、彼は前歯の抜けた笑みでこう言った。




『攻撃の機、その感覚を思い出しているのさ』




曰く、敵の拳の気配を察し、それが放たれるのを全く同時にして躱しながら、自分の拳を打つのだと彼は言った。


 どうすればそんなことが出来るのか、と問うと、




 『拳を見ないのさ、拳が動いたらもう遅い。


  それより先に、相手の全身の気配から、次に打たれる瞬間を掴めばいい』   




 煙をつかむような話だと、その時は思った。


 だが今、煙をつかむことが必要とされている。


 敵の攻撃の瞬間を察し、先でも後でもなく、同時に躱す。


 瞬の間に放たれるだろう拳を、躱しざまに斬る、それしか勝機はない。


 だから、落ち着けと、何度も何度も口中で唱え、早まりそうな腕と、逃げだしそうな足を押しとどめる。


 ( 拳を見るな、気配を感じろ)


 無理難題だということはわかっている。だがやらねばならない。


 魔王に向けていた切っ先をゆっくりと上げ、頭上に剣を構える。最も速く剣を振りだせる上段の構え、加えて視界を確保し、魔王の全身を凝視する。


 どんな些細な気配も見逃すまいと、全霊で魔王を見つめる。


 魔王、ヘカトンケイルは腕を下げたまま、構えもしない。ただ泰然自若とこちらを見つめて――、


 ( ……妙だ)


 見つめていない。魔王は、フェンネルを見ていない。


 顔と目はこちらを向いている。だがそれは視界に入れているというだけで、注視しているわけではない。


 視線というものを感じない。あろうことか、この魔王は眼前の敵に注意を払ってすらいない。


 慢心、油断と断じていいのか、疑念が頭の奥から湧き上がる。


 もし、もし本当にヘカトンケイルが油断故にこちらに注意を怠っているならば、今すぐに斬りかかれば、勝てるのではないか。


 閃きのような考えがふと、脳裏をよぎった。その瞬間、


 「心得違いよ、間抜けめ」


 ヘカトンケイルが動く。しかしそれはフェンネルへの攻撃ではなかった。


 魔王は立ったまま、その場で右足を上げ、下す。


 ドン、と地面が揺れる、強烈な足踏み。


 だがそれだけ、唯地面を踏んだだけの奇怪な行動に、フェンネルは一瞬、思考を遮られ、


しかしそれと同時に、 


 激烈な重力が、彼の全身を襲った。


 「っつ!?……ぉぉ!!」


 膝が屈し、腰が曲がる。背中に強烈な荷重を感じ、次いで肩が下がり、腕が地面に縫い留められる。


 抗えない。まるで巨人に踏みつけられたかのように、踏まれた蛙の恰好で、フェンネルは見えざる力で地面に押し付けられる。


 「一体、何が」


 「心得違いよ、小僧。我の拳は人を打つものでは非ず、我が武術は人に対するものに非ず」


 ヘカトンケイルはその場を動かない。魔王はフェンネルを見下ろしもせずに言葉を続ける。


 「震脚で地脈を乱してな、大地の辰力を増しただけよ。辰気操脚――、とでも名付けるべきか、武ですらない余技だが、お主にはこれで十分であろう」


 足一本で重力を制する、あり得ない言葉が告げられる。


 だが事実としてフェンネルは立ち上がれない、増加した重力が強烈に彼の体を踏みつけている、が


 「お、ぉぉおおおおお!」


 骨が軋みを上げ、全身の血管が破れる。骨格がいびつに変形し、内臓が歪む。


 それらすべてを無視して、フェンネルは立ち上がる。


 「ほう」


 ヘカトンケイルは感心したように声を漏らす。


 「立つか、ならば我が武術のほんの片鱗。冥途の土産に見物して行くがいい。


  生涯を以て研鑽せし我が武、この世を打倒するための対界拳法をな!」


 再度、ヘカトンケイルが足踏みを鳴らす。


 「辰力反転!」


 瞬時に、フェンネルの体を縛り付ける重力が掻き消え、同時に、彼の体は空中に向けて落下した。


 天地が逆になる感覚。反転した重力によって、天空に向かって落下していくという不条理が彼の体を襲う。


 「そういう、ことか」


 落下感の中で呆然とつぶやく。


 心得違い、魔王はそう言った。その言葉の意味を悟る。


 そもそもの前提が違っていたのだ。


 フェンネルは、ヘカトンケイルが己の殺害を通告した時点で、当然こちらを狙って攻撃してくるものだと思っていた。


 だからその攻撃の気配を読み、迎撃の剣をもって倒そうと考えた。


 だが、違う。


 ヘカトンケイルはフェンネル=ファイアウッドなど最初から攻撃対象にしていない。


 魔王の攻撃対象は、周囲、環境、空間それら全て。


 徒手空拳で万象に挑む者、素手を以て物理世界を倒す者。それが、それこそが魔王、ヘカトンケイル。


 唐突に、フェンネルに正常な落下感が復帰する。


 重力反転が解かれると同時に、彼の体は地表に向けて降下を始める、雲を突き抜け、加速しながらの落下中、彼は高速で近づく地表を前に覚悟を決め、


 「ほれ、耐えてみせろ」


 「なっ!」


 突如発生した異常な大気圧。木々を根こそぎ引き抜く大気の乱流、それを拳にまとわせたヘカトンケイルが、横合いからフェンネルを殴り飛ばす。


 衝撃とともに、うねりを上げる大気によって木の葉のように彼は吹き飛ばされる。


 上下左右前後天地、荒れ狂う気流に揉まれながら、彼の体は樹木へと、本日二度目の激突を果たす。


 二度目の激突は木々の数本をぶち折り貫き、フェンネルは跳ねるようにして地面に落ちる。


 満身創痍、常人ならば死ぬだろう暴力に、しかし彼は立ち上がる。


 脳裏に、帰りを待つ少女の姿を思い浮かべ、


 「そら、落としたぞ」


 再度、彼の足元にとっくに手から離れていた剣が突き刺さる。どこで手放したのかすら覚えていなかった。


 彼は無言でそれを拾い、構えた。


 ヘカトンケイルは目前、彼我の距離は当初と同じく五尺ほど。


 もう反撃を狙うだの、相手の出方を読むなどはしない。そんなことには意味がない。


 それは人を殺す方法だ。相手は最早人ではない、人の形をした一種の災害に等しく、そんなものに、人を相手にした武法が通じる道理はない。


 フェンネルはただ全霊で、踏み込み、斬りかかった。


 動くだけで、かろうじて保っていた骨が砕け、肉が悲鳴を上げるがそんなことは関係ない。ただ斬る、それのみを考える。


 「はあああッ!!」


 全力の踏み込みに、地面が陥没する。その反作用でもって、音を超えた刃が走る。


 しかし届かない、彼我の間に生じた大気の激流が、刃を阻む。


 ヘカトンケイルが腕を動かす、指揮者のように腕を振り、指先でもって大気に激流を生み操作する。


 気流操作、魔王の武術は大気運動さえ支配する。


 自然においては高空に生じる大嵐。畑や家畜を吹き飛ばし、大樹すらなぎ倒す猛威が、魔王の手によってまさしく地上に降臨した。


 木々が千切れ飛び、大地がめくれ上がる。人間など小石のように吹き散らす、大気運動の大暴力を前にして、しかしフェンネルは踏みとどまり、剣を振り上げる。


 大気が切り裂かれた。


 剣速によって生じる衝撃波が、魔王の暴風と衝突し、たがいに相殺する。


 地表に現れた天の暴威が、剣の一振りによって削られていく。


 前へ、一歩ずつ、踏み込みとともに剣が一閃し、嵐を断ち割る。


 斬る。


 ただ斬る、斬るべきものを斬る。いつか誰かに言われたことのみを背負いながら、フェンネルは無心で前進する。


 無数の暴風壁を隔てた先、ヘカトンケイルはそのときはじめて、フェンネルと目を合わせて薄く笑った。


 「存外に粘るものだ。良いぞ。ならば一つ、教授を与えてやろう。


  小僧、主は天体の理を知っているか」


 魔王の足が大地を撫でる、円を描くように裸足のつま先が地面をなぞる。


 辰力躁脚、重力を中和された小石や木々の破片がゆっくりと浮き上がり、魔王の周囲を取り巻くように動き始める。


 「天の星々は動いておる。己よりはるか強大な星に引き付けられ、その周囲を回っておるのだ。丁度このようにな」


 大小様々な浮遊物は、徐々に加速しながら魔王の周囲において公転運動を行う。


 その加速は留まることを知らず、すぐに物体の速度は音を超え、残光の円環が出来上がる。


 「おぉああッ!!」


 裂帛の咆哮をあげ、フェンネルは膝を曲げて全身をバネの如く沈み込ませ、蹴り脚の勢いをのせて過去最大級の踏み込みとともに、突きを放つ。


 切っ先を起点に生じた強烈な衝撃波が、両者を隔てた幾重の暴風壁をまとめて打ち破り、大気が吹き飛び、嵐が消える。


 そして、フェンネルは見た。


 魔王の周囲、超高速物体の円運動。それに伴う、つんざくような空気の悲鳴を聞き、


 「さて、これを耐える術、お主にあるかな」


 足踏み一つ、ヘカトンケイルの周辺重力が正常に復帰し、それに伴い、高速で公転していた全ての物体は、その莫大な遠心力に委ねられた。


 魔王を中心点として上下を除いた全周方向に向けて、極限まで加速された物体群が射出される。


 その加速線上にあった空気までもが、莫大な熱量と運動量を持った弾丸となり、そして全ての景色が粉砕された。


 放たれた弾丸は木々を、森を、射線上全てをその絶大な威力で消し飛ばし、地表を灼熱に抉り、空気抵抗による爆圧を放ちながら直進する。


 幸いにも、大気摩擦によってその運動量は急激に消耗し、周辺の森林一帯を消失させるのみにとどまった。


 一瞬で荒野に転じた地表の中心、魔王の前にフェンネルは立つ。


 もう何も覚えていなかった。一瞬で閃光により目は焼き付いた。ただ彼は剣を振ったような気がして、


 「見事、我を前に最後まで立っていたのは、お主が初めてよ」


 鼓膜は破れて、もう何も聞こえなかった。


 フェンネルの中で、全ての感覚が遠くなる。


 消失した両腕と腹部、炭化した全身に気づくことなく、かつてフェンネル=ファイアウッドだったものはゆっくりと地面に崩れ落ちた。








 「と、まあ、あれだね。負けちゃったね、彼」


 炎の空間。トバルカインは黒塗りの机をはさみ、椅子に座ってソフィと対面していた。


 両者の間、机には焼き菓子の盛られた皿があり、紅茶の入った陶磁器のカップが、二人の前に置かれている。


 二人の視線の先には、熱で空気が揺らめきながら、陽炎のようにここではない情景を映し出していた。


 それは戦い、と呼んでいいものか。それは、嵐に翻弄される小舟のように、魔王ヘカトンケイルに抗ったフェンネルの末路であり、


 「嘘……、こんな、」


 ソフィは呆然と、揺らめく景色を見つめる。


 「どうして……、どうして彼が、フェルが殺されなきゃいけないの!」


 彼女は机を叩き、勢い良く立ち上がる。


 トバルカインは焼き菓子を齧りながら、事も無げに問い返す。


 「何でだと思う?」


 「私が生きるのが、その代償だというなら、私を殺して! それで彼を助けてよ!


  元通りに私が死ねば、そうすればいいんでしょ!」


 「いい訳ないだろ」


 トバルカインが、前髪の下の目でソフィを見つめる。


 「彼は創世の火に選ばれ、私が選んだ人間だ。


  彼はそれを受け入れた。君の命と引き換えに、プロメテウスを受け入れた。


  もう彼の命はこの世の命、君の如きでは代りにすらならないよ」


 「ふざけるな!」


 ソフィは机に身を乗り出し、皿をひっくり返しながら、トバルカインの胸ぐらをつかみ上げ、平手を打つ。


 「彼を、あの人を! フェルを何だと思っているのよ!


  あの人は、ただ、私の……私のために」


 目じりから溜まった涙が流れる。彼女の胸を罪悪感が圧迫する。


 「舞台の佳境くらい、落ち着いて観てはどうかな、お嬢さん。


  彼はまだ死んでいないし、死ぬには到底足りない。


 この程度で、プロメテウスが消えるものか」


 「え?」


 「私は見定める。七振りの魔王が、この世の蝋燭の火を断ち切るか。


 この世の炎が彼らを薪に代えて燃え盛るか。


 私は運命を見定める者、その果てに、人類を救うために!」


 胸ぐらをつかまれたまま、トバルカインは笑う。彼女は白手袋の指先で、陽炎の光景を指差す。


 「そして演目はまだ途中、感想は最後に受け付けよう。


あと、苦しいから手を放してくれ」








 意識を手放すと、暗い闇の中に沈んでいく感覚がした。


 泥のような深みに落ちてゆく。苦痛はない、ただ自分というものが、ゆっくりと消えてゆく。


 多分、いや、確実に自分は死ぬのだろう。


 何か、死ねない理由があった気がする、するべきことがあった気がする。


 ソフィ、と彼女の名を、もう存在しない唇がつぶやいた。


 最期に見るのは、彼女との記憶。


婚約が決まった時ではない。もっと前、もっと前から、彼女とは出会っていた。


彼女は覚えていない。フェンネル自身も再会してもすぐには思い出せなかった、幼い頃の記憶。


その日、いつものように養父の言いつけを守り、日の昇らない時間から、一人で剣を振るっていた。


朝日が昇り、昼の太陽が午後の斜陽を迎えても、ただ同じ姿勢で剣を振り続けた。


「なにしてるの」


背後かけられた声に振り向くと、絹の衣装を身にまとった薄金の髪の女の子がいた。上等な身なりに、一目でどこかの貴族の子だとわかる。


 「あなた、ずーっとそればっかしてるから……、そんなに楽しいの?」


小首をかしげて女の子が尋ねる。無礼にならぬよう、跪いて頭を下げる。


「そんなのしなくていい」


女の子はしゃがみ込み、こちらの顔を両手で掴んで持ち上げ、視線を合わせる。


「あなた、楽しい?」


「……わかりません」


「どうして?」


「父様の言いつけ通り、僕は剣になるのです。剣にはこころは要らないから……、だから、わかりません」


「あなた……バカね」


「え?」


 「人が、ほかのモノになれるわけないもの」


「……」


「私は私で、あなたはあなた。生まれたときから、大人になって、年をとって、お墓に入るときまで、ずーっとそうなのよ」


「あ、」


「わかった? なら休憩にして、私と遊びましょう? 父さまも姉さまたちも、他の大人とおしゃべりしていて、私つまらないの。


 あなた、お花は好き? あっちにアマナの花が咲いてたから、とりにいきましょう!」


そう言って、女の子は少年の腕を引っ張る。


その時初めて、フェンネル=ファイアウッドは剣ではなく、人間になったのだ。


女の子だった彼女はもう覚えていない、昔の話。


だが彼は覚えている。かつて剣だった男は、人間になれたその時のことを、今でも覚えていて、――








最期の記憶の再生が終わる。もうすぐ、自分は完全に死ぬのだろう。


他人事のように感じながら、ゆっくりと冷たい感触がしみ込んできて、


不意に、熱を感じた。


(何だ……?)


 もう死ぬというのに、確かな熱さを覚える。


 気が付けば、灰の大地に立っていた。


 地平線まで続く、何もない灰の地面。


 それは、果てだった。末路だった。全てを捧げたものの行き着く先。


 (ああ、)


 直観し、納得する。


 ここは、この光景は、


 (俺なのだな)


 全てを燃やし尽くした何もない灰の荒野。それがフェンネル=ファイアウッドという男の運命が至る場所。


 けれど、それでも、


 「君は納得しただろう、彼女のためなら、それでいいと」


 声がする。


 長い黒髪、目を隠した女が、語り掛ける。


 「ああ」


 「ならば火を灯せ、君はそれを受け入れた。創世の火を燃やすんだ」


 灰色の大地が赤く染まる。


 どこまでも続く炎の海が広がり、火柱の群れが噴き上がる。


 「君はこれを燃やし続けたまえ、これは世界創世の火、私が具体化したこの世の始まり。


  もしこれが消えれば、この世界は、君の愛したものは死に絶えるだろう。


  この世の命の灯にして、君の愛する者の命に他ならない。


  さあ、喜んで背負いたまえよ」


  その言葉に頷く。


 無論だとも、言葉すら要らない。


 彼女に全てを捧げると、とうに決まっているのだから。




 死んだはずの肉体に、熱が宿った。


 内部で生じたその熱は、忽ち総身を覆いつくす炎となる。


 「これは、」


 魔王、ヘカトンケイルは驚きとともにその様を見た。


 直後、爆発的に高まった炎が、火柱となって天に突き上がる。燃え盛る業火の中で、彼は、フェンネルは新生する。


 皮膚が、髪が、肉も骨も燃え尽き、入れ替わるように赤熱したそれらが生まれる。


 溶けた鉄のように、眩い迄の炎の明かりをその身に宿して、彼の体が再生する。


 「鋼の応えを今ここに」


 火柱が弾け飛び、炎が霧散する。しかし彼は、灼熱と化した体でそこに立つ。


 「最果ての炉に至る」


 身に纏う炎が、長剣の形に凝集し、彼の手に収まった。


 「我は焔の殉教者」


 燃える髪を揺らめかせ、陽炎の中でフェンネルは叫ぶ。それは宣誓にして、離別の詩。


 創世の火を背負う言葉。


 「炉心開放――プロメテウスウゥゥッ!!」


 ここに、燃焼式創世炉プロメテウス――、万象全ての命の火が顕現した。








 「はは、はははハ。ああ、ああ、そうか」


 ヘカトンケイル、魔王が笑う。


 炎とともに復活した、赤く熱を宿すフェンネル、その絶大なる存在感を感じ、口を開けて心底愉快に笑う。


 「貴様が! そうなのだな、プロメテウスよ。お主こそが、我の求めた我の敵!


  世界そのものか!」


 胸が張り裂けるほどの歓喜とともに魔王は、拳を構えた。


 フェンネルは無言で剣を頭上に構える。赤い炎で形作られた長剣は、常に輪郭を揺らめかせながら燃焼している。


 炎の超人と魔王が対峙する。


 「大違いだ、ふふ、くく、見違えたな小僧! 


  それがプロメテウスか! あの小娘、真実を語っていたか!


  世界創生の炎、この世の全てを宿した熱だと」


 肌を刺す圧倒的な威圧感と熱気に、しかしヘカトンケイルは心底から歓喜する。


 遂に、遂に、ようやく世界がこちらを向いたのだ。


 山を砕こうが、海を割ろうが、雲を吹き消そうが、何をしても己に見向きもしなかったこの世界が、今ようやく、己の前に敵として立っている。


 怒れる炎の化身として、この、自分を殺そうと――、


 「ああ、――」


 言葉にならない、感無量とはこのことだと魔王は得心する。


 自分は世界の敵に成れたのだ、万感の思いが全身を駆け巡る。


 「さあ、世界よ」


 溢れ出る感情の奔流を押さえつけ、ヘカトンケイルは拳を握る。強く、強く、血が出るほど握りしめて、


 「我が生涯の宿敵よ、今ここに、引導を渡してやろう!」


 魔王は己が敵へと突撃する。


 蹴り脚を放った後に重力操作を行使、体重を極限まで軽量化し、同時に指先で気流を生み出しそれに乗る。


 三重の加速を得て、魔王は目で追えないほどの初速で駆ける。


 燃え盛るフェンネルの懐に、剣が振り下ろされる前に到達し、構えた拳を叩き込もうとする。


 瞬時に五連撃、原子単位まで対象を粉砕する拳が放たれる。


 が、それは何の意味も持たなかった。フェンネルの体から、同時に噴出した莫大な炎が、魔王の肉体を途方もない圧力で飲み込んだ。


 「ぐ、おおお!?」


 荒野となった大地を爆炎が舐めつくす。熱と炎が地面を焼き尽くし、炎の世界をそこに現出させた。


 爆心地で、フェンネルはただ静かに立つ。一瞬にして周囲一帯は燃え盛る火炎に包まれ、揺らめくオレンジ色の大地が広がる。


 「が、ああああアアアアアアッ!!」


 幾重にもなる炎の壁を、拳圧で吹き飛ばし、ヘカトンケイルが姿を現す。彼の全身は焼け焦げ、煙を上げている。当然、魔王はそんなことは意に介さない。


 「プロメテウスゥゥウウッ!!」


 気流操作、前回とは比較にならぬ強大な嵐が地上にて生成される。荒れ狂う風圧が炎の世界を吹き消し、その主を飲み込まんと猛り狂う。


 無論それだけでは終わらない、終わってなるものかと、ヘカトンケイルが叫ぶ。生涯をかけて自身を突き動かした怒りと執念を燃料に、魔王はさらなる魔技を放つ。


 両腕を捻り、回し、気流と気圧をさらに大規模に制御、あり得ないまでの気圧差により広範囲の気流をフェンネルめがけて集中、圧縮、よって局所的に大気分子が電離、常軌を逸した大気分子の運動現象が彼を襲う。


 「――」


 フェンネルは踏み込みとともに突きを放つ。計り知れない熱量が、一点に集中した剣先から放たれることにより、生じた大気圧を遥か超越する圧力で線上に放射される。


 放たれた熱閃は、嵐を掻き消し、地平線までの全てを焼き滅ぼして直進した。


 フェンネルはすぐさま踏み足を戻し、剣を横なぎに振るう。それだけで、剣先から迸った炎が、山をも越える赤い大津波となって、呆然とするヘカトンケイルを飲み込み、


 「舐めるなあああ!」


 激怒とともに魔王は拳を放つ。


 振りかかる大海の水にも等しい熱量に、蹴りを拳を、気流を重力を、あらん限りの全てを叩き込む。


 フェンネルは連続して剣を振るう。一閃、二閃、三閃――。その度に灼熱の大熱波が巻き起こり、とてつもない波状攻撃となって必死に抵抗するヘカトンケイルを飲み込まんとする。


 魔王は既に炎の光以外何もない視界の中で、限界を超えて動き続ける。


 秒間に数十連撃を超える拳と蹴りが、その威力で爆圧を相殺し、生じる指向性の大嵐が炎を打ち消し、重力加速で打ち出される破片や石が熱波を突き破る。


 それらはしかし、かろうじて均衡状態を維持するに留まる。足りない、まるで不足している。この熱量を押し返すには到底及ばない。


 ヘカトンケイルの脳裏に、生前、火山火口の溶岩に素潜りした時の事が思い出された。


 全方位から迫りくる圧力と熱量の中、必死に抵抗し最後は噴火の勢いで宇宙まで射出された時の敗北感。


 腕が、足が、焼け落ちてゆく。皮膚が溶け、血液が沸騰する。


 死が、一度見知った感覚が、魔王の背筋をずるりずるりとはい回る。


 及ばない、圧倒的な質量、世界を前に当然の如く粉砕される。あまりにも強大な存在の目に己の矮小さが浮き彫りにされる。


 「――、あ」


 己を見失いそうなほどの絶望感に支配され、ヘカトンケイルは、


 「……、くく」


 口の端を、愉快そうに釣り上げて、


 「はは、ははハハ、く、ハハハハッ!!」


 笑った。


 そうだ、そうでなくてはいけない、これこそが世界なのだ。


 あまりにも圧倒的な、比較にもならぬ戦力差、底など計れぬ大深度。それこそが世界であるというまぎれもない証拠。


 だからこそ倒すのだ。圧倒的だからこそこの手で砕きたいのだ。計り知れないからこそ憎いのだ。


 己は己のまま、この偉大なるものを殺すのだ。


 心の中で何かが切れる、加速して行く思考の中、光に包まれる視界の先、


 「いかしてるねえ、気分はどうだい魔王ヘカトンケイル」


 トバルカイン、黒髪の女の声が響く。


 彼女は腕を広げ、楽しそうに語り掛ける。まるで悪魔の誘いのように。


 「倒したいのだろう、この世界を。君が生涯をかけて挑んだ敵を」


 無論、答えるまでもない。


 「ならば君にはその力がある。使いたまえよヘカトンケイル!


  私が神に代わって鍛造せし七振りの魔王!


  手に取るがいい、その心金に打ち込みし我が救済を!」


  黒い炎が、目の前に現れる。


 ヘカトンケイルは、気づけば一人。暗い炎の前に立つ。


 ゆっくりと、彼はそれに手を伸ばす。


 「さあ、さあ、それこそが真なる魔王の力!


  この世を滅ぼす七振りの鋼、君の救済はそこにあるぞ!」


 拍手とともに、どこからともなく、トバルカインは祝福する。


 「使うがいい! 求道の拳、この世に挑みし愚か者よ。いざこの世界を打倒しろ!」


 掴む。ヘカトンケイルの腕が、黒い炎を手中に収める。


 「そうだ! それでいい――、」




 「要らんわ」




 「は?」


 ヘカトンケイルは力を込めて、掴み取った炎を握りつぶす。黒い炎は手中で揉み消え、跡形もなく消失した。


 「いや、え? 何でーー!? 今そういう空気じゃないだろ、おい!」


 トバルカインは狼狽しながら叫ぶ。


 「我は誓ったのだ、身命を賭したのだ、この拳で世界を倒すと。


  お前から与えられた力でそれを為せば、我が生涯の価値はどうなる」


 「な、あ……」


 どこまでも真っすぐに、ヘカトンケイルは宣言する。


 「お前ごときに、我が拳の意味は汚させん。我が生涯の求道、愚想を見くびるな」


 その言葉に、黒の女は激高のまま叫び返す。


 「てめえ! ヘカトンケイルウぅゥッーー!! 貴様、貴様如きがぁああ!」


 少しだけ晴れやかな気分で、求道の男は告げる。


 「失せろ。お前如き道化が出る幕ではない。


  我はこの道の果てに行く。誰の足でもなく、己自身で歩くと決めたのだ」








 急速に、ヘカトンケイルの意識が現実に復帰した。


 立ち向かっている、否、蹂躙されかけていた。既に肉体は限界を超え、繰り出す拳も蹴りも、あらゆる技が膨大な熱量の暴力を前に掻き消える。


 果てしない炎の中に魔王は飲み込まれていた、もう退くことすらできない炎熱の世界の中で、彼は必死で迫りくる熱と光を押し返すが、ほどなく均衡は崩れ去る。


 刻々と圧力を増す火炎の壁が、ヘカトンケイルを押し包み、熱した平鍋の上の水滴のように魔王はその存在全てを次第に蒸発させ――、


 「まだだ」


 業火に焼かれながら、ヘカトンケイルはそう言った。


 生涯をかけて磨いた技が、身に着けた武術が通用しない、ならば、新たに掴むまで。


 与えられるのではなく、己の手でそれに指をかける。


 新たな領域、更なる極意へと技をこの場で昇華させる。


 経験を、感覚を、意識を、己の全存在をそれのみに集中させ、そうして、それを得た。


 「はは、至ったか! 無空へと我が拳は至ったか」


 放たれた拳が穿つのは、炎でもなければ物質でもなく、力でもない。


 空間歪曲。


 ヘカトンケイルは空間を殴りつけて、歪み、たわませ、捻じ曲げる。魔王を包む炎の全ては、歪んだ空間に引きずられる。


 次の瞬間、殴られ凹んだ空間が、弾力性を示しながら反作用によって元に戻る。巻き起こるのは全てを揺るがす大激震、空間が元に戻る際の反発が、運動力となってそこにあるすべてを吹き飛ばす。


 大爆発が巻き起こり、炎の世界が跡形もなく消し飛ぶ。


 ヘカトンケイルが、爆心地から姿を見せる。視線の先に、剣を振りかざすフェンネルを捉えて、魔王――、否、既にそうではなくなった、一人の男が笑う。


 放たれる爆熱爆光。自らに向けられた数十の炎の圧縮光線を、男は虚空を掴んで捻じり上げ、空間ごと明後日の方向へと反らす。


 駆ける、空間を踏む足は一瞬で敵の懐へと己の体を運ぶ。


 「おぉあああアアッ!!」


 咆哮とともに十連撃を叩き込み、その全てが空ぶった。


 フェンネルの輪郭が揺らめき、肉体から噴射された超高圧の炎が、彼に莫大な機動力を与える。


 背中、足、肘、肩、人体の各所から噴出される超高圧推進爆炎が、ゼロに等しい加速時間で、慣性を無視した超高速回避を可能にした。


 刹那の単位で発射箇所を変更しながら、フェンネルは前後左右上下、立体的な超軌道でヘカトンケイルの動体視力を振り切り、彼の放つすべての攻撃を回避する。


 「はは、全く見えんな。だが忘れたか、我が技は辰力を制すことをな!」


 重力増加。ヘカトンケイルが足を踏み鳴らし、かつてない規模で重力が異常に偏向する。


 巻き起こる重力の大渦巻、光をも歪ませる絶大な力場が現出し、フェンネルの体が地上に縫い留められる。


 大地が割れ、大規模に崩落を起こす。地上が、巻き起こる天変地異に悲鳴を上げる。


 全てを押しつぶす重力の中で、しかしフェンネルは剣を頭上に構えた。常時の数億倍にも達する大重圧に肉体を崩壊させながら、なお、炎の剣は凄まじいまでの熱量の輝きを宿している。


 「ぬ――!?」


 ヘカトンケイルの本能が直感した。彼はそれに従い、再度足を踏み、重力方向を反転させた。


 結果、フェンネルの体は音を置き去りに遥か空中へと射出される。


 そして、ヘカトンケイルは、見上げた遥か空の向こうで光が炸裂し、遅れて音と衝撃が伝わるのを感じる。


 あれがもし先ほどまでの距離で放たれていたら、確実に死んでいた。


 冷汗がこめかみを流れ、だが彼はフェンネルを追って地上から飛び上がる。


 大気と重力を操作し、彼は自在に空中を飛翔する。


 雲の向こうから放たれる大河ほどもある光熱波を避けながら、遂に彼は雲上へと至る。


 空気が薄い、しかし彼は肌に痛いほどの熱を感じる。何故か、問うまでもない。熱源があるからだ。


 日輪を背に、炎を噴出させ、上方にフェンネルが滞空している。


 ヘカトンケイルはそれを見上げて笑う。


 二人は雲の上で対峙した。目が合う、炎の瞳と愚者の眼差しが、ここにおいて初めて交差した。


 「楽しいか、プロメテウス、この世界、我の宿敵よ!」


 「……関係ない。俺はただ斬るだけだ。俺はあんたの求める世界でも、敵でもない。


  ただ彼女のための、炉にくべられた薪に過ぎん」


 その返答に、男は笑みを浮かべたまま反論する。


 「違う、それは違うぞ、プロメテウス!


  その体は既に世界そのものよ、あの女に背負わされたのだ。この世の全てを背負わされたのだ。


  お主はこの世の命の業火。我が怒り、憎しみ、そして求めた!


  この世の全てはそこにある!」


 男は叫ぶ、


 「故に――、」




 フェンネルは思う。己の内で荒れ狂う炎に、意識を飛ばされそうになりながら、眼前の敵を思う。


 馬鹿げた、とても愚かな男だ。


 世界を己の手で破壊するという妄想に囚われ、そんなことに生涯をかけてしまった愚者。


 幸せも、平穏も放り捨てて、叶わぬ、叶えてはいけない夢に焦がれ、両眼を焼かれた盲目の男。


 この男の目は、己の望み、それしか映していないのだろう。


 生の可能性も、他者のぬくもりも、他の全てを投げ打ってしまった。きっとこの男は、もう諦めることさえ出来ない。


 行き止まりも、岐路も、全てを正面突破してただ一直線に歩いてしまった男。


 この世に生きる限り、決して歩みを止められぬ者。


 「ならば――、」




 二人は、同時に宣言した。


 「我は世界を破壊する!」


 「俺は貴様を救済する!」








 「私のせいなの」


 「そうだね」


 「私が、彼をああしたの」


 「そうだね」


 「なら、私は、どうやって彼に償えばいいの」


 「知らないよ」


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