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第一章その2

第二章 魔王



「今まで世話になった」

 フェンネルは薬屋の老婆に頭を下げる。

 老女は煙管を吸いながら、じろりと古い机越しに彼を見る。

 「あたしは何もしてないよ……お祈りでもしてりゃ、あたしのおかげだって言えたかもしれんがね」

 フェンネルは顔を上げた。

 「それでも、いろいろ助かった。貴女がいなければ、奇跡の到来までソフィは持たなかっただろう」

 「奇跡、ねえ」

 あの奇妙な夢から覚めると、彼女は全く元通りになっていた。

 髪も肌も、肉体は健康な頃に戻っていた。病など嘘のように、その影さえ見当たらない。

 「で、本当にその娘、生き返ったってのかい」

 「信じ難いが」

 「あたしとしてはね、アンタの気が違ったってのが信じられるよ」

 「……もっともだ」

 冷静に考えれば老婆の言う通りである。

 これまで陰鬱な顔で重病人の薬を買い付けに来ていた男が、喜色満面で病人が蘇生したと伝えに来れば、気が触れたというのは妥当な結論だ。

 「一応、アンタに薬は必要かい」

 「いや、それには及ばない。今度二人で挨拶に来るよ」

 「死体を引っ張ってきても追い返すよ」

 ぷかぷかと煙を吐きながら、老婆は答える。

 「邪魔したな、また来るよ」

 彼は老婆の小屋を後にしようと、戸口に向かう。

 「もし、ホントにその娘が生き返ったんなら」

 「?」

 独り言のような老婆の声が、背中越しに響く。

 「死無くば生無く、生無くば死もまたあり得ない……気を付けるんだよ。

 幸福が不幸を作り、喜びがあるから人は悲しむんだからね」


 

 

 昼下がり。落ちていく太陽が残照を振りまく。

 「おい、騎士サンよ。ちょっとこれ持ってってくれ」

 「了解した」

 フェンネルは村の男たちに交じり、材木を運んでいた。

 かつてソフィと住んでいた小屋の焼け跡。そこは既に燃え残った残骸は片づけられ、新たな小屋が立てられようとしていた。

 先日、フェンネルが再建のために村の木こりと資材の調達について交渉をした時だった。

 あの三人のごろつきの凶行を説明した折り、彼らを再起不能にしたことをフェンネルは口にした。

 すると話を聞きつけた村人達が、謝礼と言って再建の手伝いを申し出てきた。

 どうやら、あの三人はよほど村にとって厄介者だったらしい。口々に礼をする村人たちを、フェンネルはやや辟易しながら応対した。

 「……」

 フェンネルは無言で、麻縄で木材を組み、土壁を肉付けしていく。

 本職の職工ではないので、当然ながら作業速度は遅い。しかし、素人なりに丁寧に、教えられたとおりに彼は作業をしていた。

 (案外、向いているのかもしれんな)

 騎士だった時も、暇を見つけて趣味だった庭園の手入れをしていたことを思い出す。

 剣を振るよりも、土や草木を相手にするほうが向いているのではないかと考えながら、時折ちらちらと他の村人の手つきを盗み見て、己の作業に還元する。

 「お、だいぶ進んでるな。騎士サン」

 背後からかけられた声に、彼はしゃがんだまま振り返る。

 フェンネルに影を落としたのは、件の木こりだった。

 「しかしアンタ、何も俺たちに無理して混じるこたねえんだぜ」

 「すまん、その、迷惑だったか」

 「いやいや、人手は多い方がいいけどよお。

  恩人を働かせるっていうのはどうも俺はきまりが悪くてなあ」

 「……恩人というほどのことをしたつもりはないが」

 木こりはため息をついて首を振る。

 「あのなあ、あの三人のクソども。あいつらがどれだけ迷惑だったか知ってるだろ」

 「さほど知らんが」

 「……アンタ、村に来て何年になる」

 「三年ほどだ」

 「一体、何を見てたんだよ。あいつら、いつも昼間から酒飲んで暴れてたじゃないか」

 「質の悪い酔っ払いだとは思っていたが」

 悪すぎるぜ、と木こりはかぶりを振って答える。

 「女子供の多い村だ、男衆もいるがあいつら、見境ってもんがねえからな。容赦なく妻子を狙ってくるしよ」

 「……もっと早く対処すればよかったな」

 思えば、余り村のことに関心を払ったことがなかった。その余裕がなかったのだが。

 だがこれからはそうもいくまいと考え直す。

 彼はこのまま、村に定住するつもりだった。

 帝国にソフィを連れ立って戻ることも考えたが、彼女からそれは止められた。

 曰く、もう帝国に私たちの居場所はない、とのことだった。

 「それより、奥さん良くなったんだってな」

 「あ、ああ」

 奥さん、という響きにフェンネルは困惑する。

 ソフィが病に倒れ家から放逐され、彼がそれを追って帝国を出奔したのは、丁度式を挙げる前だった。

 「おっと、噂をすりゃあだ、邪魔したな」

 木こりが立ち去り、入れ替わりに、籐籠を持ったソフィが現れる。

 「フェル、お疲れ様」

 午後の日差しを、薄金の髪が照り返す。彼女は質素な麻の服を着て、長い髪を一束に結っていた。

 恰好は村娘のものだが、白い肌と滑らかな長い髪が目立ち、どこかちぐはぐな印象を感じる。はっきり言えば悪目立ちする。

 「……変かしら、この格好」

 「いや、まあ、村娘らしくはないが、似合ってはいる」

 言い淀みながら、思ったままを伝える。

 「ふうん……、そう。やっぱり、らしくはないのね。

 あ、これ。昼食よ、少し休憩にしましょう」

 籐籠を差し出し、彼女はフェンネルの手を握り、木陰に誘う。

 籠の中身は、パンと干し肉だった。

 「村の人が、貴方にお礼だって。ずいぶん感謝してたけど、何かしたの」

 「いや、大したことじゃないさ。

  それより、ソフィ。体は大丈夫か。もし何かあれば」

 木陰に腰を下ろし、二人は隣り合って木にもたれかかる。

 「ここ最近、そればかり聞くわね。もう大丈夫よ、心配しないでも」

 ソフィは唇を尖らせ、不満げに呟く。

 少々過保護か、と思う反面、やはり心配ではある。いつ再発しなという保証はない。

 「お昼、いただきましょう」

 「あ、ああ」

 細い指が、籠から硬い黒パンと干し肉を取り、差し出してくる。

 フェンネルはそれを受け取り、齧りついた。塩気の利いた肉の味を、ざらついたパンの食感で受け止める。

 そよ風が吹き、木の葉が落ちた。ソフィの頭に着いた葉っぱを、優しく指先で取り除く。

 「……ありがとう」

 顔を赤くしながら、ソフィはパンを齧る。

 「なあ、ソフィ」

 「どうかしたの」

 青い瞳が、見上げるように顔をのぞき込んでくる。

 フェンネルは一拍、躊躇いを置いてから切り出した。

 「俺を、恨んでいないか」

 「どうして?」

 「三年間、君は病に苦しんだ。その間、俺は、君の痛みを、何一つ和らげることさえできなかった」

 「……」

 「君は、あの夜俺に、殺してくれと言った。

 あの言葉、本当はもっと前から、俺に言いたかったんじゃないのか」

 「馬鹿な人」

 青い瞳が、フェンネルを真っすぐに見つめ、細く笑った。

 「あの時、私が死にたいと口にしたのは、痛かったからでも、苦しかったからでもないの。それより、貴方が苦しそうだったから、それが私には耐えられなかった」

 「俺が、苦しい……?」

 ソフィはあきれたように溜息一つ、それから、優しい瞳で彼を見つめる。

 「そうよ。あなたが私を思うように、あなたも私に思われるのよ。

  そんな当たり前もわからないなんて、本当に馬鹿な人。

  私はね、フェル。あなたが私に縛られて、苦しむのを見ていたくなかったの」

 暖かな陽気の中で、ソフィは穏やかに微笑んだ。その笑みは、記憶の中の、出会った時の表情そのものだった。

 「私が一番に辛かったのは、病なんかじゃないの。

  あなたが悲しむ元になるのが、私には一番辛かったから、死にたかった」

 でも、と続けて、ソフィは立ち上がる。金髪がなびき、スカートが風に揺れた。

 午後の日差しと、穏やかな風を一身に浴びながら、彼女は日の下で笑う。

 「もうそんな必要はないわ。

  きっと、フェル。あなたは否定するけど、私がこうして生きてるのは、全部あなたのおかげだって信じてるから、あなたの事、恨んだりしないわよ」

 「――」

 返す言葉が、見つからない。

 あまりに純粋な、信頼と好意に、フェンネルは何も言えない。

 ただただ、自分が何も、彼女の事を分かっていなかったということを思い知る。

 「だから、今度は私の番よ。フェル、私の騎士。あなた、初めて会った時言ったでしょう? 私が責務に殉じる事に、私への愛で応えるって」

 いつの間にか、日々の中で忘れかけていた記憶を、彼女は口にする。

 「今、私はただのソフィリアス。家からは縁を切られて、貴族位もないただの女。

  もう私には何の義務も責任もないから、あなたの愛に私自身で応えたい」

 ふと、柔らかな感触が頭を包む。

 ソフィに抱かれているのだと気付くと同時、静かな声が頭上から響いた。

 「どうか、ただのソフィが貴方を想うことを許して下さい。

  貴方の傍で、貴方がくれた全てを返していきたいの」

 

 

 

 「いいわけないだろう」

 死にゆく老人の前に、長い黒髪が踊る。

露出過多な黒い衣服に身を包んだ、トバルカインが問いかける。

 「そのまま死んで、良い訳ないだろう、なあ」

 暗い洞窟の中、死期を悟った老人はしかし、見開いた瞳に怒りと悔恨を映す。

 「いかしてるねえ――、というわけでいってみようか。

 善悪正邪の彼岸を超えて!」

 洞窟の闇が消し飛んだ。

 無数の光景が背景となって流れ去り、二人はどこでもない特異点へと落下してゆく。

 「天地陰陽吐き捨てて、流転の宇宙を忘れ去る、籠の扉は開いているぞ!

  衆生救済始めましょう!」

 天に向かって中指を突き立て、トバルカインが宣言する。

 そうして、白い光が二人を包み込んだ。


 「ようこそ、いかしてる君よ。何も為せぬままに死にゆく君よ。

 世界の果ての再誕へ、私は君を救済しよう!」

 一面の炎の世界で、猛然と吹き上がる火柱を背に、トバルカインは宣言する。

 両腕を広げ、黒い髪とマントを翻して、豊かな胸の前で腕を組み、彼女は足元の老人を見下ろす。

 炎の海に、老人は倒れていた。

 火の粉が短い白髪にかかり、痩せた老体に炎が揺らめく。

 「さあ、君は何故死ねないのかな、何があれば死ねるのかな」

 「……知れた、ことよ」

 乾いた唇が言葉を漏らす。

 「死ねぬ、死んでたまるか。我はまだ、何一つ為していないのだから」

 衰えた腕が、弱弱しくも伸ばされた。

 「我が生涯の目的、我が敵を打倒せねば、死に切れるものかよ」

 「それは誰だい?」

 「誰でもない」

 「それは何だい?」

 「全てだ」

 「それは」

 「世界だ」

 老爺の瞳が、腕が、全身が叫ぶ。

 「この世界を壊さずして、終わりなど認められるか」

 「いかしてるねえ、ってなわけで契約成立だ」

 火柱が突き上がる。老人を飲み込み、大樹のように炎が天へと伸びてゆく。

 「ならばプロメテウスの火を消すがいい。創世の火を消し去れば、始まりからこの世界は砕け散る!」

 火柱に向かって、トバルカインは叫ぶ。

 「なればこそ、祝福をここに!」

 どこからか取り出した鍛冶鋏を炎の中に差し込み、彼女は赤熱した人型を取りだす。

 

 「神に代わって鋼を鍛え、罪なき命を讃えよう!」


 大槌を振るい、渾身の力で人型を打つ。火花が舞い、打音が響く。


 「旅路の果てに、最果ての炉にくべるべし!」

 

 赤く熱した人型が、一打ごとに色を変える。赤から白へと白熱し、やがて黒く、自然にあり得ざる黒い輝きに染まる。


 「汝は一振りの剣にして、一継の薪とならん!」


 歓喜の声とともに、大槌が振り下ろされる。


 「汝、愚拳にして道理を握れぬ百の腕!

  汝、森羅に挑みし求道!

  汝は魔王、ヘカトンケイル!」

  

 白い浴槽に、黒化した人型が突っ込まれる。

 蒸気を上げ、冷却水の中から、ゆっくりと人型が起き上がった。

 トバルカインはそれを見て、前髪の下から額の汗をぬぐい、うんうんと満足そうに頷く。

 「いかしてるねえ」




 老人は怒っていた。

 誰にではない、何にでもない、全てに怒っていた。

 老人は、彼が老人ではなかった頃から、この世界が許せなかった。

 それは、貧富だとか、幸福の差だとか、政治宗教といった人間社会ではない。真実、そのままの意味として、自然的に存在する目の前の世界そのものが許せなかった。

 彼は愚かであった、そしてそれを改め無かった。

 彼は打ち砕きたいのだ、大地、海、空、己の住む世界そのものを。

 老人は物心ついた瞬間から、己を鍛えた。血反吐を吐きながら、自他の命を顧みずに鍛え続けた。

 あらゆる武器も、猛獣も、彼は己の体で打ち破るほどになったが、彼の理想には程遠かった。

 当然である。山は拳で崩せぬし、海を蹴りで割ることも出来ぬ、空の果てには技は届かない。人間の体には限度があるということを痛いほどに思い知った。

 叶わぬ夢を思い描くのは、何も特別なことではない。

 普通は、人は挫折や理解を経て、己の理想と現実に折り合いをつける術を学ぶ。

 馬鹿げた夢とは決別し、目の前を見据えて歩き出す。

 そんなことが出来れば、彼はどれほど幸福に生きられただろう。

 出来なかった、そんな誰でも出来ることが、彼にはどうしても出来なかった。

 天地万物、己の産み落とされた世界が、それほどまでに許せなかった。

 流れる雲が憎い、動かぬ地面が憎い、陽の光と月明かりが、彼方の星々の群れが、とても形容できないほどの憤懣を湧きあがらせる。

 彼は世界を打倒したかった。己に見向きもせぬ、壮大なるものどもを、その小さき拳で打砕き、消し去ってやりたかった。

 怒りのあまり夜も眠れぬから、彼は夜なく朝なく鍛え続けた。

 憎しみのあまり何も喉を通らぬから、彼は飢えの中で技を磨き続けた。

 拳は常に、物言わぬ世界に向けられ、そして何の成果もなさずに、彼は老いた。

 激情を抱えたまま、彼は朽ち果て、

 そして。




 フェンネルは一人、再建された小屋の前で棒を振るっていた。村人たちの協力もあって、建築は順調に進み、二週ほどで小屋は何とか人が住める程度の体裁は保たれた。

 時刻は早朝、朝日を背にして彼は一尺よりやや長い、削りだしの木棒を振る。

 冷涼な朝の空気が、さざ波のように草木を揺らし、汗ばんだ体にひんやりと触れていく。

 剣に見立てた棒を頭頂に構え、肘をやや曲げ、棒を保持する手の内、それ以外の腕力を抜く。

 剣を振るった際の破壊力は、腕力からは生まれない。

 踏み込みにより生じる力と得物の重量、それらが最も掛け合わさって、威力となる。

 帝国騎士流剣闘術法。広く帝国の騎士階級に伝わる、剣を始め槌、槍などの武装した人間の戦闘における指南書である。

 当然、元帝国騎士階級であったフェンネルも一通り修めている。

 「踏み足は、二種の力を生み出す」

 息を整え、彼は目を閉じ、教えを反芻する。

 一つは、単純なる突進の力、敵へと進む己の動きに伴う力である。

 「もう一つは、踏んだ際に生じる地面からの反力」

 脚が大地を踏んだ際に生じる反動を、腰に伝え、背に伝え、背から腕へ、そして剣の振りに乗せることで、敵手の鎧を砕き得る一撃と成す。

 帝国騎士の基本にして極意である。

 鎧を着た屈強な騎士の突進と、それに伴う踏み足からの上段の一撃は、敵兵を鎧ごと打ち砕く。騎馬の突撃にも勝るとも劣らぬ帝国騎士団の突貫は、他国の兵を大いに恐れさせた。

 その威力を生み出すため、騎士の踏み足の力は何よりも重視される。

 石弓さえ通さぬ重鎧を装備したうえで、分厚い鋼の剣を構え、その上で敵に突進出来る強靭な足腰が求められる。誰もが出来得ることではない。

 「……」

 昔を思い出す、もう三年も剣を握っていない、最後に全力で剣を振るったのはいつだったか。

 愛剣は、国を出た時に騎士の位とともに置いてきた。しかしまだ、体は覚えている。

 ほんの一瞬、わずかな足腰の沈み。その後に、足が動く。

 激烈な右の震脚が地面に突き刺さる。

 轟音とともに草土が陥没する。

 そして生じた絶大なる反発力が、下半身から上体へ、無駄なく一瞬で伝達は終了。

 衝撃波が大気を破り、音に匹敵するほど加速した剣が振り下ろされる。

 「――」

 生じた威力に、渦中の木棒は耐えきれなかった。風に吹かれた藁束のように砕け散る。

 しかし振るわれた一撃は、得物の消失と引き換えに、地面を大きく抉り、爆裂音とともに土砂を巻き上げた。

 「これは」

 フェンネルは姿勢を正し、ばらばらと雨のように振る土塊を見上げる。

 「だいぶ鈍ってしまったか」

 振り返ると、小屋の戸口からソフィが顔を出した。彼女は小屋から出て、フェンネルの下に駆け寄る。

 「朝ごはん用意出来たわ、何してたの?」

 「……畑でも始めようかと思って」

 「次からは、もう少し静かにね。スープがこぼれてしまうもの」

 ソフィは溜息一つ、彼の腕を握る。

 「未練があるなら、そう言っていいわよ」

 「未練?」

 「騎士を辞めたこと」

 言われて、彼は記憶を不意に思い返す。

 初めて剣を握った幼少の日、軍での暮らしと、最精鋭である騎士団に入団した時。

 未練が無いと言えば嘘になる。だが、もう彼は選んでしまったのだ。

 秤にかけて、迷いなくそれらを捨てたのだ。

 だから、きっぱりとこう告げた。

 「やり残したことはあるが、君を選んだことに悔いはない」

 「本当に?」

 ソフィは不安げに尋ねる。フェンネルは彼女の手を握り返した。

 「それに辞めたわけじゃない。君の騎士になっただけだ」

 「……そ、そうね。あなたは、私の騎士だものね」

 赤面して俯く少女を見て、彼もまた気恥ずかしさを覚える。

 「スープが冷めるわ、もう戻りましょう」

 ぷい、と背を向けて、ソフィは誤魔化すように告げる。

 フェンネルは、そうだな、と応えようとして、

 「――」

 「フェル? どうかしたの」

 唐突に黙り込んだ彼を、ソフィは訝しむ。

 「ソフィ」

 彼は努めて、微笑むように表情を動かした。病床の彼女を相手に、何度も見せたつくり笑顔を貼り付けて、彼は何でもない風な声音で告げる。

 「少し、薬屋の婆さんに用事があったんだ。

  すぐ、戻るから。すまないが先に朝食は済ませていてくれ」

 「? そうなの、……わかったわ」

 寂しげに答えるソフィ。フェンネルは彼女が小屋に戻るのを見届けて、振り返り、歩き出す。

 小屋が建つ、村はずれの小高い丘。村へ向かう一本道に脇には、背の低い一本松が生えている。

 松の木陰から、一人の男が、フェンネルの前に姿を現す。

 むき出しの上半身、簡素な下衣に裸足。

 短い黒髪の若い男は、筋肉質な上裸で、腕を組んで立っていた。

 「……何か用か」

 フェンネルはこの一種異様な風体、見知らぬ男に声をかける。言葉が通じないかもしれぬという疑念は、それは男の返答によって霧消した。

 「お主が、プロメテウスか」

 「プロメテウス?」

 聞き覚えのない言葉に、思わず聞き返す。

 「何の用かは知らんが、たぶん人違いだ。

 悪いが帰ってくれ、こっちは朝飯がまだなんだ」 

 「それはすまんな、悪いが小僧、朝餉はあの世で済ましてくれ」

 「……聞き間違いか?」

 一瞬、初対面の男から、殺害予告をされた気がしたが、気のせいだろうと思い、聞き返す。

 「失礼だが、あんたの用事は、俺を殺す事とかだったりするのか」

 「然り」

 「……それこそ人違いだと思うが、あんたとは初対面――」

 「トバルカインが言うておった。

  我を生き返らせたあの小娘がな、プロメテウスを消せと。然らばこの世は崩れ去ると、まあ信じたわけではないが、命を拾われた手前、義理というものよ」

 気軽な調子で告げられた言葉が、忘れかけていた記憶を引っ張り出し、あの夢を瞬間的に再生した。

 『トバルカイン、生き返らせた』

 炎の夢の中、あの黒髪の女は名乗った。

 燃え尽きるような苦痛から目を覚ますと、そこには生き返ったソフィがいて、

 炎に焼かれながら、遠く聞こえた言葉を思い出した。

 

 『プロメテウスの炎、君は終生、絶やすことなく燃やし続けたまえ』


 そうだ、あの時、自分はアレを飲んだ。

 あの、炎は、プロメテウスは――、

 「どうやら、思い当たったか」

 男の言葉が、フェンネルを引き戻す。

 「まあ、我も他人の生き死に興味などなし、お主を殺したところでこの世が滅びるなぞ信じておらんが、これも何かの縁よ。

  今からお主を殺す、好きに抗え」

 気軽に、散歩に出かけるような調子で殺害を宣告された。

 悪意、害意、殺意、そういったものは言葉に反して全く感じられない、どころか敵意さえない。

 どこか空恐ろしささえ感じるほど、何でもない事のように、死を告げられる。

 「……撤回するつもりはあるか、今なら冗談で済ましてもいい」

 「無い」

 風が吹いた。松の葉が揺れ、草がさざめく。

 男は無手。対してフェンネルも今は無手。

 体格は、男は筋肉質だが痩躯、対してフェンネルは一回り以上、男より大きい。

 組みつけば容易に無力化可能、ただし隠し武器の可能性あり。そう判断して、フェンネルは一歩、踏み出し。

 「ああ、そういえば名乗り忘れておった」

 男は両腕を下げたまま呟き、

 「前の名はもう忘れてしまってな、

  ……今は、そうさな、魔王――、ヘカトンケイルと、あの小娘には名付けられた」

 



 「はあ」

 一人きりの朝食を済ませた後、ソフィは溜息一つ、主のいない対面の席を見る。

 冷めてしまったスープ皿の中身を鍋に戻して、彼女は手を付けられなかったもう一人分の食事を片づける。

 太陽は既に天頂近くに昇り、強い日差しが空の窓枠から差し込んでいる。

 帰ってこないフェンネルに、彼女は徐々に不安を募らせる。

 彼女は窓枠に手をかけ、日差しを浴びながら外をのぞく。

 誰もいない村はずれの草原を、風がそよぐ。彼女はそれをただ眺めながら、考える。

 何かあったのかと思い、例えば賊や猛獣に襲われたとかを思い浮かべ、すぐさま否定する。

 帝国騎士団長、かつての彼の肩書は帝国全土から集められた最精鋭部隊、即ち帝国騎士団における最強を意味する。

彼が襲われた程度でどうにかなるものとは思えなかった。

 とすれば、彼女の思考は加速する。

 その行きつく先は、決まって一つの想定だった。

 かつて、病床の時も、彼女は一人きりで天井を見上げずっとそれを考えていた。

 「……捨てられたのかしら、私」

 ぼそりと呟いた言葉は、風に流れず、胸の奥に落ちてわだかまった。

 ずっと、不安だった。

 彼が何故、私に献身するのか。

 あの人は真面目な顔で、私への愛を誓う。けれど、それが変わらないという保証はない。

 かつて、私は彼の地位を求め、彼は私自身を求めた、その言葉に偽りがあったとは思えない。でなければ、剣を捨てて三年間も、死人のような女の世話をするはずがない。

 する筈がない。そう、本来はあり得ないことなのだ。

 いくら相手を想っていても、そんなことが出来るものか。

 ソフィは、もし逆の立場だったらと思い、己がかつての彼と同じ事をできたかと思い、恐らく、出来ないだろうと考える。

 わからない、フェンネルが何故、そんな選択をできたのか、私の何が彼をそうさせたのかがわからない。

 そして彼が、今後も生涯変わらずに、その思いを持ち続けるという保証はどこにもないのだ。

 そして、自分がそんな、推し量りきれない思いの上で生きていることが不安になる。

 いつか、または今、彼は私に愛想を尽くすかもしれない、今までが奇跡だったというだけで、なら、私は

 「フェルに、何ができるだろう」

 献身に、何を返せば、何をもって彼をつなぎとめられるだろうと、考えて、


 「迷える君よ、いかしてるねえ」


 背後からの声に、ソフィははっとして振り返る。

 テーブルに肘をかけ、二つの椅子の一つに座り、長い黒髪の女が、前髪で隠された目元の下で微笑んだ。

 「プロメテウスが心配かな、お嬢さん」

 「……あなた、誰」

 女――、トバルカインは足を組んで椅子によりかかる。

 ソフィは警戒もあらわに、窓を背に立ったまま彼女と向き合う。

 「この世の全てには、必ずその反対が存在する。

  幸と不幸、動と静、光と闇。君の命もその反対がなければ存在しえない」

 トバルカインは両手を広げ、朗々と語りだす。

 「彼は君の生命、その背反を請け負うことで、その生命を確立させた。

  君が生き続ける限り、彼は死に続ける。

  それこそが二項対立! 二者両一の定めなり」

 立ち上がり、マントを翻してトバルカインが告げる。

 唐突に告げられた言葉のほとんどにソフィは理解が追い付かない。しかし唯一つ、それだけは察せられて、

 「あなたが、私を生き返らせたの」

 そしてその引き換えに、

 「フェルに、……彼に何を!」

 「勿論君にはすべてを伝えよう。見届け給え、それが君の義務であるから

  というわけで、いってみようか!」

 白い手袋の中指が、天井を指さす。トバルカインは腰に片手を当て、もう片手を突き上げる。そして全ての景色が切り替わった。

 「善悪正邪の彼岸を超えて! 天地陰陽吐き捨てて!」

 無数の光景が背景となって流れ去り、二人はどこでもない特異点へと落下する。

 「流転の宇宙を忘れ去る、籠の扉は開いているぞ!

  衆生救済始めましょう!」

 トバルカインの宣誓とともに、白い光が二人を包み込んだ。


 


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