第一章
第一章 二人
「今回の支払いだ」
黒い木の机に、男は数枚の貨幣を置いた。汚れた爪で貨幣を並べ、机の奥の老婆に向けて押し出す。
老婆はちらりと貨幣を見ると、背後の薬棚から数種類の粉末を取り出す。暗褐色のそれらをすり鉢で混ぜ合わせたものを、いくつかの薬方に包みなおして、老婆はしわがれた手で男に手渡した。
「はいよ、今回の分」
「礼を言う」
男は受け取った薬を懐に入れ、振り返り、薄暗い薬屋を出ようとする。
「待ちな」
老婆は男の背に声をかける。しわがれた声は静かに、しかし確かな響きで男の足を止めた。
「一体何時まで、続けるつもりだい。もうあの子は治らんよ」
「……」
男は答えない。ただ小屋の戸にかけた手は動かなかった。
「もう、死なせてやるのも慈悲じゃないのかい」
「……また来る」
それだけ呟いて、男は戸口を出た。
薬売りの老婆の小屋を出た男は、曇り空を見上げもせずに歩き出す。
男は通い慣れた道を戻りだす。彼がこの辺鄙な農村に来てから三年が経過していた。
三年前、男は祖国を追われた。
正確には自ら出奔したのだが、皇帝の御前で騎士勲章を叩きつけたので、結果としては同じだ。
男――、フェンネル=ファイアウッド。灰色の髪に、無精ひげを生やしたやや厳めしい顔つきの元帝国騎士は、鍛え上げた大柄な体に、ぼろの外套を着て帰路に着く。
藁ぶきの屋根と薄汚れた白い粘土壁があちこちに見える。彼の足は村の中心に差し掛かっていた。
曇り空の昼下がりは日差しもなく、いつもは長い影を伸ばす飼料の山はちょっとした子供たちの遊び場になっている。
「あ、騎士サマだ」
飼い葉の山の頂上に座る男の子は、拾った木の枝でフェンネルを指し示すと、周りの子供を連れ立って彼の元まで駆け寄っていく。
「今日もお薬買ったの」
「ああ、そうだよ」
フェンネルはしゃがみ込んで足元の子供たちと目線を合わせる。
「ねえ、遊ぼ」
鼻を垂らした男の子が外套の裾を引っ張る。フェンネルはやんわりと振りほどくと、
「すまない、また今度だ」
そう言って男の子の頭を撫でる。男の子は鼻をすすって不満げにうなずいた。
「あの、騎士サマ。これ」
フェンネルの目の前に、年長の少女が花を差し出す。白色のアマナの花が、三つのにおいを漂わせる。
「騎士サマのお薬のんでる人への、その、」
「ありがとう。きれいなお見舞いの花だ、あの子もきっと気に入る」
フェンネルは花を受け取ると、手に持ったままゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう、もう行くよ、皆も気を付けて」
そう言って、彼は歩き始めた。子供たちはしばし彼の背を見送りながら、また飼い葉の山に戻っていった。
馬を引く農夫、品物を女達に見せる行商、家の前の椅子に座った老人、フェンネルはいつも通りの農村の風景を通り過ぎる。そんな彼の背中を、男の声が呼び止めた。
「おい、あんた」
野次を飛ばすような調子でかけられた声は無遠慮なものだったが、律義にフェンネルは立ち止まって振り返る
フェンネルの目線の先には三人の男がいた。ちょうど宿場から出てきたようで、彼らは三人とも酒瓶を片手にぶら下げていた。
酒気をまとった三人の男が、フェンネルに向かって歩み寄る。対して彼は微動だにしなかった。
「何か用か」
「何か用か、だとよ。はは、なあに、ちょっと騎士サマにお願いがあってね」
「酒代に困ってんだよ、ロンの親父がつけを払えってうるさくってよ」
フェンネルは三年もこの村にいる、必然として大体の人間は顔見知りだが、この三人とは直接の面識はなかった。だが知っている、畑仕事もせず昼間から酒を食らう、村での厄介者のごろつきということは聞き及んでいた。
「金ならない、他を当たれ」
フェンネルは短く言い放ち、その場を去ろうとする。
「おい待てよ」
ごろつきたちはフェンネルの体を強引に押しとどめる。彼らはフェンネルの大柄な体を押しとどめ、突き飛ばす。
「金払えって言ってんだ、この浪人騎士」
フェンネルは顔色一つ変えず同じせりふを繰り返す。
「金はない」
「じゃあ、あのシス婆さんの薬でいいさ」
「……何だと」
ごろつきたちは無理やりフェンネルの懐に手を入れ、目当てのものを探そうとまさぐり始める。
「あの婆の薬な、街じゃ結構評判だぜ。高く売れんだよ」
「やめろ」
フェンネルは男たちの腕を懐から振りほどく。
「お前らは酒を飲めなくても死なんが、薬を飲めなければあの子は死ぬんだ」
「知ったことかよ!」
しびれを切らしたのか、ごろつきの一人がフェンネルに殴り掛かる。
拳はフェンネルの顔面に強く打ちつけられる。肉と骨のぶつかる音が響き、それだけだった。
フェンネルは微動だにせず、ごろつきの拳を顔で受け止めたまま、ゆっくりと呟く。
「失せろ」
言い終えると同時に、フェンネルは己の顔を打った腕を掴み、捻り上げる。
万力のような握力により、ごろつきの骨が軋み、悲鳴が上がる。男が苦痛に膝を曲げると同時にフェンネルは手を放す。
どけ、と呟きながらフェンネルは呆然とする二人の間を通り過ぎる。
去っていくフェンネルの背を、うずくまり、痛みに耐えるごろつきが、憎悪をたたえた瞳でじっと睨んでいた。
「ただいま、戻ったよ。ソフィ」
フェンネルは村はずれの小屋に入ると、奥のベッドに横たわる人物に声をかけた。
返事はない。
フェンネルは外套を脱ぎ、薬を取り出して水瓶の水で器に溶くと、こぼさぬようにゆっくりと、ソフィと呼んだ人物の元に運ぶ。
「ソフィ、起きれるかい、薬だ」
フェンネルは寝台の傍の棚に器を置き、両手でゆっくりとベッドに横たわる女性を抱き起す。
枯れ枝のように細い体は、ともすれば折れてしまいそうなほど危うい感触を彼の両手に返した。
渇き、老人のようにしわがれた皮膚は到底十代の少女のものとは思えない。
瞼が薄く開き、窪んだ眼窩から青い瞳がフェンネルを見る。
フェンネルは優しく、白くなった髪をかき上げてやると、器を持ち乾いた唇に当てて、慎重に、ゆっくりと傾ける。
ひどく苦い薬ではあるが、もうこの少女に味覚は無い。たっぷり時間をかけてソフィと呼ばれた病床の少女は薬を飲みほした。
フェンネルは再びゆっくりとした動作でソフィの体を横たえ、口の端を拭いてやる。
病は、彼女からほとんどの生気を吸い取っていた。
美しかった容貌も、白磁のような肌と細い肢体も、今や乾物のようになり果て、かろうじてフェンネルの看護と薬によって永らえている。
「ソフィ、今日は見舞いの品をもらったんだ」
フェンネルは努めて明るい声を出し、村で少女から受け取ったアマナの花をソフィに見せる。
「村の、女の子がくれたんだ」
「……」
落ち窪んだ青い瞳が、じっと花を見つめる。それすら難しいのか、皺だらけの瞼は上がりきらない。
細い眼がじっと白い花を見つめる。フェンネルは花を持ったまま動かない。彼は彼女が視線を逸らすか目を閉じるまでは絶対に動かない、彼の全てはこの病床の少女に捧げられている。
「ぇ……フ、ェ、ぅぅ、」
「どうした、ソフィ」
微かなうめき声にフェンネルは答える、彼はソフィの唇に耳を近づける。
「し……て、」
懸命に、命を削ってソフィは声を紡ぎ出す。
「こ、……ろぉし……て……もぅ」
「――」
血の気が引く。己の心臓の鼓動を遠くに聞きながら、フェンネルの意識は一瞬で空白に
染まる。
一瞬の後、彼の胸を耐え難い衝動が満たす。せりあがった感情をしかし、言葉として口から出せない。
生きてくれ、と言えれば、どれほど楽だろう。そんな言葉を恥知らずにも口にできれば、どれ程の偽善心に浸れるだろう。
(言えるものか)
フェンネルは唇をかみしめ、血のにじむほど拳を握る。
初めてだった。
彼女が死を懇願したのは、初めてだった。
(違う)
口にしたのは初めてかもしれない。だが、ずっと思っていたとしたら、まるで自分は三年間、そんなことを考えもせず、徒に彼女の苦痛を長引かせ、拷問吏の真似事をしていたのだとしたら。
フェンネルは涙を流し、冬の枯れ枝のようなソフィの指を握る。
「すまない、すまない」
「……」
ソフィは目を閉じ、何も答えない。
「俺には、出来ない……出来ないんだ」
四年前、春風が吹く花園に白い日傘をさして少女が佇む。
白い傘の下、薄い金色の髪と白いスカートが風にそよぐ。
青い瞳は庭園の花ではなく、一人の男の背中を見つめている。少女は自分に気づかず、
花壇にうずくまり土をいじる男に近づいていく。
「もし、フェンネル=ファイアウッド騎士団長様」
「……これは失礼を、ええと」
振り返り、立ち上がった大きな体が、少女をすっかりと日差しから遮った。
少女は日傘をたたみ、目の前の灰色の髪の男を見上げる。
「ソフィリアス=ゼル=ユーゼルハイネです、貴方の婚約者の。もしかして、ご存じなかったかしら」
少女、ソフィの声は穏やかで、平坦とした調子だった。
彼女の言動を嫌味と受け取り、フェンネルは土に汚れた手で首筋を撫でながら頭を下げる。
「申し訳ない、その、貴家からの婚約の申し出は受け取っていたのですが、ご挨拶の時間が取れず」
「あら、花壇に挨拶する時間はあるようですが……もしかして、団長様は女より草花が好みなのでしょうか」
「いえ、その、城の庭園の整備は、自分の趣味でして。去年から庭師に手ほどきを受け、今では日課なもので」
頬に手を当て、上品に小首をかしげるソフィ。フェンネルは返答をしくじったと直感する。
「大変失礼を、これはその、訳がありまして」
「訳?」
ええ、とフェンネルは咳払いする。
「自分には、一人戦友がいまして、彼は過去に戦場で家族からの手紙を受け取ったそうです」
「それで、手紙にはなんと」
「はい。そこには彼の郷里で一番の美しい娘との結婚が決まったので、必ず生きて帰って来いという母親からの知らせであったそうです」
「……」
「ところが戦役を終え一時帰郷したところ、そんな話は何も無く、彼の無事を思う母の方便であったという話を、先日聞きまして」
フェンネルは注意深く、少女の挙動を探りながら言葉を続ける。女性の機嫌は波のように変化する、彼は航海士としてはあまりにも経験不足であった。
「今回の縁談も、自分が騎士団長位を陛下から賜ったことへ、一種の祝電のようなものだと思っておりまして」
「本気にはしなかったと」
「申し訳ありません」
フェンネルは小柄な少女に深く頭を下げる。
「政略婚ですよ」
少女の言葉がフェンネルの頭上から告げられた。
「ユーゼルハイネ家は代々文官の家ですので、騎士団長の貴方を当家に向かえれば、群にも顔が利くようになりますから」
「それは、」
少女は静かに、表面上ははばかられる事実を告げる。
「ですから、私は貴方が例えこの小娘に興味がなくとも、この婚姻には乗り気になっていただかなくては困るのですが――、どうでしょう」
ソフィの青い瞳が、フェンネルの目をじっと見つめた。揺らがない、透き通るような視線が、少女の確かな意思を伝える。
それが何かを背負う者の目だということを、フェンネルは悟る。この少女は、一族の義務を、貴族としての責務を背負って立っているのだと。
ならば、それに対して、こちらも真っ向から相対せねばならない。
フェンネルは背筋を正し、少女と相対する。
「……貴家の政治的な事情は分かりました、その上で、一つ断っておくことがございます」
「何でしょう」
「私は平民上がりの、ただの一騎士に過ぎません。政治は解しませんし、宮廷のことも、作法も、何も知らぬただの下民です」
「……」
少女は何も言わない、ただじっとフェンネルの目を見つめる。
「出来ることは戦場で剣を振るだけ、それだけの詰まらぬ男です。貴家が私ではなく私の立場を必要とするのは理解できます」
彼の頬を汗が伝う、春の日差しによってではなく、確かな緊張によるものだ。
「貴女が責務として、望まぬ男と婚姻することに敬意を表します。
その上で、私は貴方個人のために剣を振ることを誓わせていただきたい」
「それは、どういう事でしょう」
「貴女は騎士団長としての私を必要とします、それは構いません。もとより私は政治に興味はありませんから、ですから引き換えに、私は貴方個人を望ませていただきたい」
「私が、欲しいと」
少女の目が大きく開く。
「貴女にとっては望まぬ男でしょうが、どうかその男が、貴女を望むのをお許しいただきたい」
ソフィは呆れたように微笑し、フェンネルを見つめる。
「それでは、貴方はただの道化ではなくて。自分を見もしない女を好きになるなんて」
「構いません、貴女は義務を背負って自分の前に立っている。ならば私はそれに応えるまで。
貴方が私の立場を望むのならば、私も貴女に望まねばなりません」
「おかしな人」
くすりと、確かに笑みを浮かべてソフィは手を差し出した。
フェンネルは慌ててズボンで手の汚れを拭おうとして、細い指先がそれを制した。
白い指先が土に汚れた武骨な手を握る。
「ソフィリアス=ゼル=ユーゼルハイネ、――、これからはソフィでいいわ」
「フェンネル=ファイアウッド、その、親しい者からはフェルと呼ばれる」
――それから半年後、ソフィは病に倒れ、その前例のない症状から不気味がられ、彼女は家から追放される。
直後、フェンネルは自ら皇帝の前で騎士団長を辞し、ソフィを追って帝国を出た。
瞼の裏に映る光で、フェンネルは目を覚ます。
ソフィが寝付くまで手を握り、その後に彼自身も寝入ってしまったのだろう。懐かしい夢を見た気がしたが、頭を振るうと、それは微睡みとともに霧散した。
直後、彼の目に飛び込んだのは眩しいほどの光だった。
炎。
彼の視界を、揺らめく赤色が埋め尽くし、遅れて肌で熱気を感じる。
「な……?!」
壁が、天井が、燃えていた。
火事。フェンネルに火元の覚えはなかった、だが現に彼の住む小屋は燃えている。
だがそんなことよりも重要なことがある。彼は慌ててベッドの上のソフィに視線を移す。
「ソフィっ!! 無事か!」
ベッドの上で、ソフィは口を開けていた。喉が震え、消え入りそうな咳を出している。
「くそ、煙か」
一刻の猶予もないと判断し、彼はソフィを慎重に抱え上げる。
何故気づかなかったと自分を責めるのも後先も、全てを放棄し、彼はソフィの命を最優先する。
彼女以外には何も持たず、フェンネルは戸口に突き進んだ、彼女以外に価値あるものなどこの小屋には無い。
燃え盛る扉を蹴りつける。しかし、冗談のように固い感触を返し、扉は動かない。
外に何かある。扉越しの感触からフェンネルはそう直感する。
閉じ込められている、それも故意に。
何者かが火を放ち、自分たちを閉じ込めたのだと、フェンネルは確信した。
目の前の炎より激しい怒りが沸き上がる。
何故、何ゆえ、ソフィが巻き込まれる。
彼女はもう、十分苦しんでいるのに、何の由があって、彼女をこれ以上苦しめる。
激情は一瞬で脳天に達し、そして体を支配した。
「――」
彼の怒りの矛先は、眼前の扉に向けられた。再度足を踏み出し、フェンネルは本気の蹴りを放つ。
蹴り脚は燃える扉を破裂させ、外側に配置されていた石やレンガの集積物を爆発的に吹き飛ばす。
開けた脱出口から、彼は矢のように飛び出る。
夜明けの冷涼な空気が二人を包み込み、熱と煙の窒息感から解放する。
だが、そんな解放感に浸る暇などない。
「ソフィ! ソフィっ!!」
フェンネルは腕に抱いた少女を見る。彼女の名を呼び、意識を確認し、
「――、ぁ」
分かってしまう。
腕に抱く感触が、確かに伝えてしまう。この三年間、毎日抱き続けた。弱弱しくも確かな彼女の鼓動が、感じられない。
それは、それはつまり。
「いやだ」
やめてくれ。
彼女は、腕を、首をだらりと下げ、枯れ木のような体が完全に脱力していた。
認めたくない。
ソフィリアス=ゼル=ユーゼルハイネは、静かに息絶えていた。
「――、ぁぁああああああッ!!」
言葉にならない慟哭を叫ぶ。喉が、胸が張り裂けそうなほどフェンネルは絶叫した。
「うるせえよ」
フェンネルの後頭部が、吐き捨てるような声とともに強打される。
それは、単純な話だ。
昼間、村でフェンネルを恐喝し、そして返り討ちにされた三人のごろつき。彼らは至極順当に報復を決した。
結果として、彼らは深夜にフェンネル達の小屋の戸口を、音の出ないよう藁で覆い、その上に石やレンガを積み重ねて封じ、唯一の脱出口となる窓は、外に藁を敷き詰めて火を放ち、最も火勢が強くなるようにした。
屋根と壁に油をまき、四方から火を放つ。
小屋はすぐさま燃え上がり、三人は離れた場所で、焼死する人間の悲鳴を心待ちにしていたが、突如として爆音とともに破られた扉から、フェンネルが飛び出してくるのを見た。
そして彼らは、
「ったく、焼け死んでりゃ楽だったのによ、要らん手間かけさせやがって」
一人の男が、背後からフェンネルを棒で殴りつける。
フェンネルはソフィを抱えたままうずくまる。
「おい! さっさとやるぞ」
棒を持った男の呼びかけに、残りの二人が応える。彼らは棒で打ち、足でフェンネルを蹴りつける。
「おら、さっさとくたばれよ! 浪人騎士が」
うずくまった顔に汚れた革靴が突き刺さる、大柄な横腹に、思い切り棒が突き入れられる。
「が、は……」
フェンネルは無意識に息を吐きだし、衝撃のまま横に転がる。
「おい、ちょっと待て。これ、こいつの女じゃねえか」
「ああ、死んじまったらしいな。ま、構やしねえ、ちょっと味見でも――って何だこりゃ!」
ごろつきたちは、フェンネルが覆いかぶさっていた、ソフィ、その死体を見て愕然とする。肉が落ち、皮と骨だけになったしわがれた死体。
「何だよこれ、まるで蛙の日干しだぜ」
「これの面倒見てたのかよ、騎士サマは」
一人の男が倒れたままのフェンネルの髪をつかみ、引きずり上げる。
「へへ、別れのキスでもしたらどうだ」
彼はフェンネルの顔を無理やりに、地面に投げ出された死体、そのミイラのような顔へと押しあてた。
「はは、こいつは傑作だ」
男たちはそれを見て嘲笑する。
フェンネルは動かない、ただ、されるがまま、ソフィの死体に顔同士を密着させていた。
彼の反応がないのに苛立ったのか、一人がフェンネルの頭を蹴って転がす。
「ち、こいつ目が死んでやがる。よっぽどこの干物が大事だったみてえだぜ」
「じゃあ、刻んで食わせてやるか」
そう言って、別の男がナイフを取り出す。
彼はソフィの死体の傍にしゃがみ込む。
そうして、刃を突き立てようと、した、瞬間。
ごろつきの手を、別の手が掴んだ。
「な、――あ」
その手は、万力のようにナイフを握る手を鷲掴み、そして、粉砕した。
ぱき、と骨の折れる音がする。
フェンネルは痛みに叫ぶごろつきの顔面を殴り飛ばす、肉が潰れ、顔の形がひしゃげる。
ごろつきは地面に倒れ、痛みに耐えかねたようにのたうち回る、死んではいないようだが、フェンネルにとってはどうでも良かった。
既に彼にとっての価値観の基準は失われた、ならば、全てがどうでもよかった。
「や、やりやがったな」
それを見たもうひとりが、棒を振り上げ、フェンネルめがけて振り下ろす。
(遅い)
いやに素直な感想が、彼の胸中に浮かび上がる。
得物の運びも、踏み込みも、姿勢も、何もかも取るに足らない素人。かつて彼が騎士団にいた時にはこのような手合いはいなかった。
義務のために戦うのではなく、己のために暴力を振るう者。
フェンネルは振り下ろされた棒を受け止め、引っ張り、前傾に姿勢を崩した男の顔を、膝蹴りで出迎える。
痛みに得物を手放し、顔を抑える男に向かって、フェンネルは棒を構え、
(それは、こう振るんだ)
頭上に構え、踏み込みとともに上半身を連動させて、踏み足からの反発力を腰へ、腰から背へ、背から腕へと一瞬で伝えきる。
繰り出された振り下ろしの一撃が、男の肩骨を粉砕する。
絶叫する男を適当に蹴り転がし、フェンネルは持っていた棒を捨てる。最後の一人はもう逃げていた。
この男どもが放火犯であることは、もうフェンネルにはわかりきっていた。
だが、殺す気にも、追いかける気にもならない、この男たちの手でソフィが殺されたのではない。
「俺のせいだ」
野ざらしのソフィの遺体の前に、騎士は跪く。
「俺が、殺した」
彼女のために全てを捧げると、そんな偽善を吐いて、徒に彼女の苦痛を長引かせ、あげくに、自らの因果が招いた悪意に彼女を巻き込み、殺した。
フェンネルの頬を、涙が伝う。
そんなものは流すべきでないのに、流す資格などないというのに。
人を殺しておいて流す涙など、畜生の尿にも劣る汚物に過ぎないのに。
なぜ、一丁前にこの男は悲しんでいるのだと、フェンネルは頭の片隅で問答する。
(死のう)
静かに、何の葛藤もなく彼は決した。
ソフィを埋葬してそれから死のう。彼女の墓は、景観に優れた高い所がいい。墓前には、彼女が好きだった花と、好物を添えて、それから死のう。
フェンネルは遺体を抱き上げ、立ち上がった。
その時、
「いかしてるねえ」
目に映る全てが消し飛んだ。
あらゆる光景、記憶、歴史が背景となって流れてゆく。
それらは一条の光となりはるか後方に消失してゆく、あらゆるものが濁流のように流れ去って行く。
「善悪正邪の彼岸を超えて!」
情報の濁流、その源が叫ぶ。
「天地陰陽吐き捨てて! 流転の宇宙を忘れ去る、籠の扉は開いているぞ!」
光の奔流を背に、黒髪の女性が叫ぶ。天に中指を突き立てて、高らかに宣言する。
「衆生救済始めましょう!」
言葉とともに、白い閃光がすべてを飲み込んだ。
「……ここは」
フェンネルは、闇の中に立っていた。
一瞬だった、何を思う間もなく、ただ遠くに来た感覚だけがある。
腕の中のソフィの遺体を抱きなおし、彼は周囲を見回した。
明りが灯る。
炎の揺らめきが、彼の顔を舐める。
気付けば、炎の中に彼はいた。天高くそびえたつ火柱が地平線まで群れを成し、炎の揺らめきが草原のように果て無く広がる。
どこまでも続く炎の世界。
「ここは、地獄か」
「いいや! この世の果てで君は救われる。なぜなら私はそうするからさ!」
火柱を背に、一人の女性が立つ。
赤い光の中に、堂々と揺らめく長い黒髪。腕を組んだ長身の美女。
露出の多い黒い服とマント、黒で身を包んだ女の豊満な肉体。
白い手袋の指先がフェンネルを差す。
「私はトバルカイン! 世界から救われぬ君たちを救う者!
あまねく人間を救済する存在だ!」
トバルカインと名乗った女が叫ぶ。前髪に隠れたその眼は見えないが、どこまでも喜色に笑んだ口元が見える。
「救い、だと」
「そうとも」
トバルカインは炎の海を歩きながら、フェンネルに近づく。
「救いなんぞ、俺には不要だ」
「ほう?」
炎の中、二人は向き合う。
「俺は、救いなんていらない。でも、この子は、ソフィは救われなきゃいけないはずなのに」
「その娘かい?」
手袋をした指が、フェンネルの抱える物言わぬ少女を差す。
「アンタが神か悪魔か知らんが、救えるというなら救ってみろ!
ソフィを、俺が苦痛の中で殺したこの子を、救ってくれ!」
トバルカインは微笑んだ。
「いいよ。引き換えに、君の生涯をくれればね」
「安い取引だ」
フェンネルは即答する。
「いかしてるねえ」
トバルカインは呟いた。
「約束しよう。全ての災厄と死、平穏と生からの救済を! そして君はこれ飲んでね」
トバルカインはフェンネルの手からソフィを抱え、引き換えにガラスの水瓶を手渡した。
ガラス瓶の中には、水の代わりに、白い炎が揺らめき満たされていた。
フェンネルは即座に口をつけ、そして溢れ出た炎が口と喉を焼く。それでも彼は躊躇いなく、瓶を傾ける。
ごくり、ごくりと灼熱を飲み干していく。皮膚が沸騰し、眼球が溶け落ちる。
瓶から流れ出る粘ついた炎が、水のように彼を伝い、焼き焦がし、炎上させた。
赤い炎の中に、かつてフェンネルだった灰が沈む。
「いかしてるねえ。
でも説明くらいはさせてくれ。その炎はプロメテウスの火、世界創世の火だ。
君は終生、その炎を絶やすことなく燃やし続けたまえ」
トバルカインは満足げに燃え尽きたフェンネルを眺め、抱いていたソフィを適当に放り投げる。
少女の体は炎の中に沈む。
トバルカインはその様子を眺めながら、巨大な鍛冶鋏を取り出して、炎の中を探り、何かをつかんだ。
「よっと」
赤熱した人型が、首根っこをつかまれて引きずり上げられる。
彼女が指を鳴らすと、どこからともなく水を張った白い浴槽が現れる。トバルカインは浴槽に灼熱した人型を突っ込んだ。
猛然と響く蒸発音と、立ち込める蒸気。
水蒸気が晴れ、浴槽には薄い金色の長髪が浮かび上がり、少女の白い裸体が見える。
そこに病状の影はなく、美しい少女の姿があった。
トバルカインはうんうんと満足そうに頷き、
「さあ、世界から、この世の全てから、あらゆるものを救ってみよう」
激痛と灼熱感の中から、フェンネルは目を覚ます。
気が付けばそこは元の場所だった。焼け落ちた小屋、争った形跡の上で、彼は仰向けに寝ていた。
「夢……」
頭を振り、しかし突拍子もない光景は頭の中から無くならない。
「最低な、夢だ」
そう思った。ソフィを殺しておきながら、夢の中で救済を願うなど、厚顔無恥にも程がある。
やはり彼女を埋葬してから死のう、そう思いなおして、ソフィの遺体を探す。
既に夜は空けていた。
彼は立ち上がり、そして背後から、強く抱きしめられた。
白い腕が、彼の腰に回される。
暖かな体温が、背中越しに伝わる。
「――」
思考が停止した。
有り得ない、そんな筈がないと理性が叫び、心臓が締め付けられるほどそれ切望した。
振り返れない、振り返れば全てが無くなってしまいそうで、フェンネルはただ呆然と立ち尽くす。
体温が、さらに強く押し付けられた。細い指が、痛いほどに突き立つ。
「フェル」
あの声が、名を呼んだ。
もう聞くことはないと思っていた声が、耳を打つ。
「ソ、フィ」
口から、彼女の名が零れた。
もう、そんな資格はないのに、殺してしまったのに、衝動を止められない。
フェンネルはゆっくりと振り返る。
腰に回されていた腕がほどけ、薄い金色の髪が見えて、
「――」
唇がふさがれた。
柔らかい感触が伝わる。
少女が、フェンネルの頭を抱き寄せ、口づけをしていた。
数秒のふれあいの後、二人の顔が離れる。
青い瞳と目が合った。
白い肌と薄金の髪が目の前にあって、
「ソフィ、俺は、君を」
殺したんだ、と言葉が続けられなかった。
白い指先が咎めるように鼻をつまむ。
「ありがとう、フェル」
記憶のままの姿で、ソフィは微笑んだ。
騎士の頬に涙が伝う。少女もまた、涙を流しながら、三年前のように、二人は再び抱きあった。