二章・3
しばらくすると電車が到着したので、僕と幡宮はそれに乗り込んだ。
車内は空いていて、僕たちはすぐに座ることができた。
「座れてよかったねえ」
彼女は背負っていたリュックを前に抱えて、ホッとした様子で言った。
「そうだね。……あの」
「何かなあ?」
「君のその、左腕のことなんだけど。聞いてもいいかな?」
僕は幡宮のことを少し知っておきたかった。それは、彼女と一緒にいる以上、彼女の人となりを知っておくことが大事だと思ったからでもあるし、それに、ただ純粋に興味もあったから。
今まで一緒のクラスにいながら、話したことのなかったクラスメイトに。
そして、障害を抱えた一人の人間に。
興味があった。
障害を持った人の話を聞くというのは、周りにそういう人がいないとできないことではないだろうか。
幸いここは舞台の上じゃないから、ある程度自由が利く。
自分の好奇心にしたがうことだってできる。
左腕のことから聞いたのは、彼女本人にも興味があると思われたくなかったから。僕が気になるのはあくまで、障害を持った人間だと思わせるために。
「なになにー? わたしの左腕に興味でもあるの? いいよー、何でも聞いてよお」
「え? いいの?」
いや、まあ、彼女の性格なら聞いてもいいと言ってくれるとはうすうす思ってはいたけれど、それでもそこまですんなりといってくれるとは思わなかった。
気にしたりしていないんだろうか?
「いいのって、聞きたいから言ったんでしょお? 変なのお」
「コンプレックスに感じていたり、君はしないの?」
「いやいや、全然。そもそもコンプレックスってさあ、自分がもっとこうあれたっていう傲慢な自尊心が前提にあるじゃん?」
たしかに、彼女の言う通りであるかもしれない。
自分はもっと勉強ができたはずだとか、顔がよかったはずだとか、思うからこそコンプレックスに感じるのかもしれない。自分がもっとこうだったらと思うことは、裏返せば、自分がこうであるはずなのにこうじゃないのはおかしいと思うことだ。
たとえば僕は人と比べてあまり背が高い方じゃないけれど、それをコンプレックスに感じたりはしない。それは僕自身が、僕は本当は背がもっと高いはずなのにと思っていないから。
「だけどそんな自分の希望通りの自分じゃないから、人は自分を哀れんだりする。そういうの、わたしだいっきらいなんだあ。自分で自分の全部を好きになれない人は、自分の望む自分になんてなおさらなれないよお」
「なるほど、ね」
「わたしはわたしがわたしであることに、マイナスの感情なんて一かけらも持っていないよお。左腕の無いわたしが、わたしは好きさあ」
そう言える彼女を、自分のことが好きだと堂々と言える彼女を、僕は少しうらやましく思った。
知らなかった面がこうして少し話しているだけで、いろいろと見えてくる。
「じゃあ僕は何の遠慮もなく、君にいろいろ聞いていいんだね?」
「いいよお。って言うかあ、わたしも話したいんだよねえ、自分のこと」
「へえ、そうなんだ」
彼女がそう思っているのならよかった。これで自然にいろいろ聞ける。
「うん。誰も聞いてこないしさあ。変に遠慮しちゃってねえ。かわいそうだとか思ってんのかねえ。まったく、何様だよって話だよねえ。お前らは他人を哀れめるほど完璧な人間なのか、ってねえ。思っちゃうよねえ。ああ、ごめんごめん、聞きたいことがあるんだよねえ。どうぞ?」
「あ、うん。えっと、それじゃ、そうだなあ……」
いざとなると何を聞けばいいのかわからない。僕は何か思い起こすように上を見て、そして視界につり革が映った。
「……君は電車で立つときどうしてるの?」
つまらない質問ではあるけれど、最初なんだからまあいい。
「普通につり革を持つよお」
「荷物とかあって右手がふさがっているときは?」
「仕方ないから荷物を床に置くねえ。そうならないように、わたしは普段リュックなんだけどねえ」
そう言って彼女は抱えているリュックをポンポンと叩いた。「気にいってるんだあ。便利だよ」と彼女は言った。
「リュックはトートとかと違って両手の自由が利くんだあ。ま、片腕しかないけどねえ。ははは!」
と言う彼女の発言に、僕はまたたいへん反応に困った。
「まあ、だいたい誰かが席を譲ってくれるんだけどねえ、そういうときは」
「へえ。社会には優しい人がいるんだね」
僕が感心して言うと、彼女は不快そうに眉をひそめた。
「さあ、どうだろうねえ。いい人ぶりたいだけじゃないの?」
「君は人の善意をなんだと思ってるんだ」
「なんとも思ってないなあ」
なんてやつだ。
「そんなこと言ってるから友達いないし、それにいじめられるんじゃないの?」
ふと、そんな言葉が僕の口をついて出た。僕は彼女を傷つけたかもしれないと思った。ところが彼女は嬉しそうに笑って言った。
「おおおっ? 君もなかなか失礼だなあ。まあ、その通りだと思うけどねえ。さっき君も言ったけど、わたしは性格が曲がっているんだよお」
やっぱり自覚はあるらしい。
「思ってるなら、直せよ」
「やだよお。っていうか君、なんでそんなこと言うの? わたしが孤立してたって君には関係ないじゃん」
「たしかに関係ないけどさ」
関係はないんだけど、でも、そんだけ話せるのなら教室で一人でいるよりも、誰かと一緒にいた方がいいんじゃないか。
僕なんかを脅迫してこっそり誘うよりも。
腕がないことを除けば、きっと普通の女の子なのに。
……いや、やっぱりそこなのか。
「それで、ほかに何か聞きたいことは?」
「そうだな。やっぱり不便? 腕がないと」
「生まれてずっとこれだから特にはないよお。両腕がある生活なんて知らないし。ご飯食べるのも着替えるのも、本を読むのもお風呂に入るのも、やり方次第でどうにでもなるもんだよ」
「へえ、そういうもんなんだ」
「うん。不自由を感じたことなんてない。わたしは自由だよ」
胸を張って自分が自由だと言える彼女を、僕はまた少しだけ、うらやましく思った。
なぜなら僕は、不自由だから。
「強いて言えば、気を遣われるのが不便だなあ。っていうかうざい。うざったい」
彼女は心底嫌そうにそう言った。
さっきの、席を譲ってくれる人がいるっていう話の時もそうだったけど、彼女は腕のことについて気を遣われたりすることが嫌いなようだ。
「普通に普通の人として接してくれる人が、障害を持つ人間には案外貴重だったりするんだよねえ……」
ため息交じりに彼女は言った。
普通に普通の人として接する。
それは誰にでもできそうで、誰にもできないことかもしれない。障害を持つ持たないに、関係なく。
だってそれは、お互いに長い時間をかけて信頼を深めて、気を遣う必要がないくらいになった間柄だと思うから。
僕たちは相手に記号を当てはめる。その記号を通して人を見る。
友人だから、クラスメイトだから、教師だから、年上だから、年下だから、同い年だから、男だから、女だから……。
その人をその人として、何のフィルターにも通さず見るのは、とても難しい。
「……それじゃあ僕は、君の腕のことで絶対気を遣わないよ」
「……え?」
「荷物も持たないし、ドアだって開けてあげない。何もしてあげない。君がどれだけ腕のことで困っていようが、僕は何もしない。僕は君に気を遣わない」
普通に普通の人として彼女と接することは、たぶん僕にはまだできない。僕の中には、彼女に対するフィルターがまだいっぱいある。
彼女を、一人の幡宮 千紗としては、まだ見ることはできない。
だけれど、障害を持つ彼女じゃなくて、クラスメイトとしての彼女というふうに見てあげるくらいはできるかもしれない。
一番気にしているであろうフィルターは、取ってあげられる。
彼女は一瞬驚いた顔をしたけど、すぐににやっと笑った。
「荷物は持ってほしいしドアは開けてほしいなあ。だってわたし女の子だよお? 女の子扱いしてくれたっていいんじゃない?」
めんどくさいなっ!
「めんどくさいなっ!」
あまりのことに思ったことがすぐに言葉になってしまった。
「あっはっはっ! はっきり言うなあ。それは心の中だけで思っておきなよお。っていうか、女の子はみんなめんどくさいんだから、そこに文句言ってたらモテないよお」
「いや、君だけだと思うんだけど」
「失敬だなあ、はっはっは! ……でも、ありがとう」
「は?」
その時、電車が止まってドアが開いた。
「あ、着いた。ここで降りるよお」
「え、あ、うん」
幡宮がすぐに席を立って降りていったので、僕も慌てて後について行った。
幡宮、さっき……。
まあ、僕の聞き間違いかな。