二章・1
「……あれえ? 吉野くん? だよねえ! やっぱり吉野くんだあ!」
この時の僕は、いったいどんな顔をしていたんだろう。近くに鏡はなかったから、自分の顔なんて見られなかった。
僕がこの時どんな顔をしていたかは、僕の目の前にいる幡宮 千紗しか知らない。
もちろん休みの日に学校以外のところでクラスメイトに出会うことは、さほど珍しいことではないだろう。驚きこそすれ、適当に挨拶を交わせば済む話だ。
だけど、よりにもよって。
よりにもよって幡宮と!
よりにもよってこんなところで!
なんで、こんなところに……!?
まさかクラスメイトとこんなところで鉢合わせするなんてっ!!
「あれえ、違うのお? 君は吉野 翔太郎くんじゃないのお?」
「……い、いや、合ってるよ。こ、こんにちは。幡宮さん」
いちおう笑顔であいさつしたつもりだけど、もしかしたら引きつっていたかもしれない。
「うん、こんにちは」
幡宮は自然な笑顔であいさつを返してきた。
「ねえ、吉野くんはそれを買いに来たの?」
そして僕が手に持っているものを指差した。隠そうとしたけれど、隠したって無意味だってことくらいはわかっていた。場所が場所だ。だから僕は正直にうなずいた。そうするしかなかった。
「……うん、そうなんだ」
「へえ、そうなんだあ! わたしもその作家さんの新刊買いに来たんだあ。おんなじだねえ。あっ、あと他に気になる本もねえ」
語尾を伸ばすような特徴的なしゃべり方で言って、幡宮は笑った。
それは初めて見る顔だった。
というか、声を聞くのも初めてのような気がする。
僕が驚いている間も、彼女はつらつらとよどみなくしゃべり続けた。
僕は、はて、と疑問に思った。
僕の前でしゃべっているこの人は、本当に幡宮なのか? 僕が知っているあの幡宮 千紗なのか? だって、僕の知る幡宮はいつも一人で本を読んでいるだけの人で……。
幡宮が、こんなはきはきとしゃべって、明るくて、そして笑顔が素敵な女の子だったなんて、驚いた。
知らなかった。
本当に幡宮本人かと疑うほどだ。
だけど。
僕はちらりと彼女の左腕を見た。
正確には、左腕があるはずのところを見た。
でもそこには、左腕はなかった。
中身の無い袖がゆらゆらと揺れているだけだった。
「んんん? どうしたのお? もしもおおおし?」
「え、あ……いや、なんでもない」
「ああそう? 今、なんだかぼうっとしてたよお? それにしても、吉野くんってこういうお店に来るんだあ。意外だねえ。教室といるときとイメージ違うなあ」
幡宮は僕の顔を見て嬉しそうに続けた。
「まさか吉野くんが、こんなオタクショップに来るなんてねえ」
獲物を見つけたヘビみたいに、嬉しそうに。
「ホント、びっくり」
○
僕にはクラスでひた隠しにしていることがある。全力で隠していることがある。
僕がオタクであるということだ。
しかも、割と重度な方のオタクだ。
僕は小学生の時に見たアニメがきっかけでアニメが好きになり、そのあとお小遣いがもらえるようになってからは自分で漫画やラノベを買うようになった。
テンプレートなオタクだ。初恋は画面の中の女の子だ。
オタクになって最初の頃は近所の本屋さんでラノベとかを買っていたけど、そこには僕の求める商品があまり置いてなかったし、それにクラスメイトと会うことがけっこうあった。
それで僕は、自分の住んでいるところの駅から五つほど離れた駅の前にあるお店に来ている。
その青い看板のお店はまあ、入ればわかるけど、壁一面にアニメのポスターが貼ってあったりアニソンが流れていたりする、幡宮が言うところのオタクショップだ。
六、七年くらい通い詰めているけれど、その間一度も僕は知り合いと遭遇したことはない。
それは、僕がここに来るのに相当に気をつけているからだ。駅で電車に乗るところから、周囲に気を配って、知っている人が誰も近くにいないかを、一メートルごとに確認している。たとえCIAやKGBのエージェントに尾行されていたとしても気がつけるくらいだと、自負している。
今日だって完璧なはずだった。
それなのに、なんで……。
「なんで、僕は今君とお茶をしているんだろうね」
「わたしが吉野くんを誘ったからだよ。どうするう? 本の感想でも交換するう?」
幡宮はリュックをごそごそと探って一冊の本を取り出した。それを見て僕は慌てて幡宮に言った。
「そ、そういうのをこういう場で出すなよ。しまえ」
「ええええなあんでえ? あ、表紙が半裸の女の子だからかい?」
「表紙が半裸の女の子だからだよ」
僕たちが今いるのは落ち着いた雰囲気の喫茶店だ。幡宮がここがいいと言って連れ込まれた。そんな喫茶店で表紙の約七割が肌色の本なんて。
「普通の小説ならまだしも、ラノベはここにふさわしくないだろ」
そういうのは自室のみで出してくれ。
「普通の小説ぅ? 何が違うんだか」
「とにかくしまってよ、恥ずかしい」
「恥ずかしい?」
僕の言ったことを、彼女は不機嫌な声色で繰り返した。
「好きなもののことを恥ずかしいって言っちゃうんだ、君は」
彼女の声には、少しばかり怒りの感情が混じっていた。どうやら僕は、彼女を怒らせてしまったらしい。
「あ、えっと……ごめん」
この場を収めるために、僕はすぐに謝った。
「ま、いいけどねえ」
幡宮はラノベをしぶしぶリュックにしまった。
「……さてさてそれではあ、わたしのクラスメイトである吉野くんにい、いくつか質問してもいいかなあ?」
彼女の声色は元に戻っていた。
「……何?」
僕はなるべく不機嫌そうに聞こえるよう、低い声で言ったんだけど、彼女は意に介さずに、ニヤニヤしながら続けた。
「君はどうしてオタクってことを学校で隠してるの?」
「……オタクって浮くだろ、クラスで。それが嫌なんだよ」
「へえ? オタクはクラスで浮くんだあ?」
「浮くだろ」
自明だ。
たとえば教室の後ろのほうで固まって話している、竹田と清水と大道。
彼ら三人はオープンオタだ。普通にアニメの話をしてる。彼らはクラス内で明らかに浮いている。クラスメイトの間でも、アンタッチャブルな存在になっている。舞台で例えるなら、笑われる間抜けな道化師役か。
混ざりたいとも羨ましいとも思わない。
「まあ否定はできないかなあ。人って自分と違う存在は受け入れられないもんねえ。わたしも左腕が無いから昔から受け入れられないもん、クラスに」
「……そういう反応に困る発言はやめてほしいんだけど?」
「あはは!」
あははじゃねえよ。
たとえ冗談だろうが、彼女の体のことについて、僕は何か言いたくない。
「つまり君はあれだねえ。クラスから排除されるのが嫌だから自分の好きなものを楽しむのを我慢したり無理したりしているわけだね? それって息苦しくない? 生き苦しくない?」
「……そんなことは、ないよ。家ではちゃんと楽しんでるし」
「そう。君がそれでいいならいいけどねえ」
なんだよ、その言い方。
「じゃあ次。どうしてわたしが君をお茶に誘ったと思う?」
「それは質問とは違うんじゃないの?」
どちらかと言えばクイズだ。
「細かいなあ君は。どうでもいいじゃんそんなのお。それでえ、どうしてだと思う?」
「……偶然会ったから?」
「惜しいなあ。会ったのはどこ?」
「……本屋」
「オタクショップねえ。かっこつけて本屋なんて言わなくていいよお。オタクが趣味は読書、っていうのと近いよねえ、それ。まあそれは置いといて、これでだいぶ正解に近づいたかもねえ」
「嘘だろ、まったくわかんないよ。正解を教えてくれよ」
「君は諦めが早いねえ。ゆとり?」
「いいから」
だいたい同い年に対してそれを聞くのはおかしいだろ。
「あはは! 意外と短気かもねえ、君。それじゃあ、教えてあげよう」
彼女はカップに口を付け、喉を湿らせてから続けた。
「わたしは君と取引がしたいんだよお」
「取引?」
「そう、取引。君がオタクだってことをばらされたくなかったらさあ、わたしの言うことを一つ聞いてくれないかなあ?」
「な、何っ!?」
そんなことされたら、僕がオタクだってことをばらされたら、僕の平穏な日常が壊れてしまうかもしれないじゃないか!
「ねえ? どうするう?」
幡宮はにやあっと音がしそうな笑みを浮かべていた。
こ、この女……!
そして、今日という日を境に、僕の日常は、オタクであることをばらされようがなんだろうが、どのみち大きく変わっていった。
とりあえず今後、僕は本を買うときは通販を使うことにした。