桜色の恋
桜色の恋
古都奈良に淡紅色の花が咲く季節が訪れた四月上旬。奈良公園一帯は染井吉野や枝垂れ桜がそこかしこに咲き誇り、鹿と戯れる子供連れの家族や洒落た老夫婦たちで賑わっていた。近くにある鷺池では、楽しげに語らい合う若いカップルの手漕ぎボートが行き交い、水面に映る浮見堂を揺らしている。
そんなお花見見物の雰囲気で満ち溢れていた奈良の町並みを愛用の一眼レフカメラを片手に、ひとりの青年が歩いていた。
一度はプロを志したものの念願叶わず、いまは気の向くまま足の赴くままに、気に入った被写体を見つけてはシャッターを切るアマチュアカメラマンである。肩に掛けたリュックサックには三脚、レンズなどの写真機材とともに一枚のポートレート写真が入っていた。
彼、上川悠大は昨年の春、この地で出会った笑顔のよく似合う可愛いらしいひとりの女性に思いを馳せ、もう一度、彼女に会えないものかと淡い期待を心の片隅に抱きつつ、春の風薫るこの季節が訪れるのを待ちわびていた。
そう、彼は恋をしている。
桜色の季節に出会ったひとりの女性に・・・。
昨年の悠大は、純粋に春の古都奈良をカメラに収めるためだけに訪れた観光客のひとりであった。
まだ春と呼ぶには肌寒い時期に買い求めた旅行情報雑誌で調べ、巡り歩く撮影ルートを決めておいた。
古い町並みが残る奈良町、興福寺の五重塔を望む猿沢池を歩き、興福寺境内を抜け、奈良公園から東大寺の大仏殿を仰ぎ、お水取りで知られる二月堂から奈良盆地を眺める。そこから南へ数キロの距離にある、奈良市写真美術館で美しい奈良の姿を鑑賞するのである。
悠大は自分で作った行程を歩み、これぞと思う被写体を見つけては、望遠から広角までのズームレンズを向け、ファインダー越しに彼なりの最適のアングルで、ピントを合わし、息を止めて、シャッターボタンを軽く押す。
〝カシャ、カシャ〟
そんな一連の動作を、寺社での参拝のごとく、気に入る被写体を見つけては繰り返すのである。
奈良公園辺りまで来た頃には、お昼を少し過ぎていた。お腹の具合も丁度よい具合に軽くなった悠大は、染井吉野の古木の根元に腰を下ろし、透き通る木漏れ日を浴びながら、途中のコンビニで買っておいたお弁当とお茶で昼食にした。時折、新緑薫る心地よい風が吹き抜けていく。それを鼻から胸いっぱい吸い込んでは、ふうっと息を吐いた。
公園内では、好奇心旺盛な子供たちが鹿を執拗に追いかけている。度を過ぎた子供に怒った鹿は体当たりをして、子供は驚きの表情を浮かべてから大声で泣いた。
悠大は、その微笑ましい光景を捉えようと食べかけのお弁当をビニール袋に入れて、カメラに手を伸ばした。芝生の上に膝をつき、カメラを構えて、一心不乱にシャッターを切り続けた。
「あっ」
突然、女の子の声がした。
何事かととっさに振り向いた悠大の目に、信じがたい光景が飛び込んできた。
古木の傍らに置かれたビニール袋に、鹿の面長な顔が突っ込まれていたのだ。
その乱暴な食欲旺盛ぶりに、悠大は瞬時に動けずにいた。
ふと、我に返った悠大は
「こらっ」
と、慌てて叫んだ。
その声に驚いた鹿は素早くかつ力強く地面を蹴って逃げ出し、駈け出した悠大は地面に露出していた古木の根っ子に躓き、とても見事なスライディングをした。
「痛っ」
悠大は心の中で叫んだ。
次の瞬間、ここが大勢の花見客で埋め尽くされている場所であることを思い出した。
周りに目を向けると、花見客の視線は悠大に注がれていて、幼い子供たちの笑い声が聞こえてくる。
幸い愛用のカメラだけは無事であった。
ともかく、この場から少しでも早く離れたい気持ちで一杯になった。からだの痛みよりも今は恥ずかしさの方が勝っていた。
悠大は地面の残骸を素早く片付けて、その場を立ち去ろうとした。
その時、可愛らしい花柄の刺繍のあるハンカチが悠大に差し出された。
驚いた悠大が顔をあげると、とても可愛い女性が微笑んでいた。
悠大は急に心臓が高鳴るのを覚えた。
何故なら、その女性は悠大の好みのタイプど真ん中だったからである。
悠大はただ呆然と立ち尽くしていた。
女性は仕方がなく、悠大の服に付いた汚れを軽く拭き取ってあげた。
悠大はやっと正気を取り戻した。
「あっ、どうも有難うございます」
と、微妙に震える礼を述べた。
女性は優しく微笑み軽く会釈してから、くるりと身を返した。
その遠ざかっていく後ろ姿を見ていた悠大の胸の中に、何かざわざわするものがあった。
「あの、すいません」
悠大がやや弱々しい声をかけたが、女性はまるで何も聞こえてないかのように遠ざかっていく。
悠大は無視でもされたのかと思いつつも、もう一度勇気を振り絞って声をかけた。
しかし、それでも女性は歩みを止めようとはしない。
悠大は居ても立てもいられずに小走りに駆け寄り、女性の前に回り込んだ。
「すいません、待って下さい」
あまりの突然のことに、女性は一歩後ずさりをした。
「すいません、驚かせて」
悠大は頭を下げた。
そして気持ちを落ち着かせてからもう一度女性の目を見つめた。
「写真を撮らせて頂けませんか。どうかお願いします、是非あなたの写真を一枚撮らせて下さい」
悠大は真剣な眼差しで懇願した。
だが、女性は困惑の表情を浮かべていた。
そんな彼女の表情を見た悠大は、普段の自分からは有り得ない大胆な行動に驚いた。と同時に、その場に居たたまれない思いが込み上げてきた。
「どうもすいません。ご迷惑をお掛けしました。本当にごめんなさい」
悠大は深々と頭を下げて、女性の前から立ち去ろうとした。
その時、女性が立ち去ろうとする悠大の腕を軽く掴んだ。
悠大が振り返ると、女性は微笑んで頷いた。
「いいんですか」
悠大はこわごわ尋ねた。
女性はもう一度はっきりと優しく頷いた。
「ありがとう。本当にありがとう」
悠大はいま伝えられるすべての感謝の気持ちを込めて女性に礼を述べた。
そして何故か急に瞼が熱くなって、それを堪えるのに一所懸命になった。
ここぞとばかりに満開に咲き誇る染井吉野を背景に、女性は柔らかな表情を浮かべる。
悠大はファインダーを覗きながら、軽く息を止めてシャッターを切った。
〝カシャ〟
透き通った空に、乾いたシャッター音が響いた。
それから一年が経ち、悠大は一つだけ後悔していることがあった。
それは、別れ際に彼女の名前や連絡先が何処なのか、何ひとつ聞けなかったことなのだ。
だが、あの時の悠大にそのような精神的なゆとりなどあるはずもなく、ゆえに一年後のいま、この桜色の町を一人歩いているのである。
花見客でごった返す細い通りを歩いていると、突然、車のクラクションが何度も繰り返し鳴らされた。
驚いた悠大は、その音の鳴る方に振り向くと、その人込みの中に見覚えのある姿を見つけた。
それは、悠大が何度も何度も繰り返し見続けたポートレートの可愛らしく微笑む彼女の姿であった。
悠大の鼓動は高鳴った。
彼女は一年前となんら変わりのない優しい雰囲気を纏っていた。
悠大は直ぐにでも彼女のそばに駆け寄りたい衝動に襲われて走り出した。
人の波を掻き分けて、ほんの数メートルの距離まで近づいた悠大は、彼女が母親らしい年配の女性を乗せた車イスを押していることに気がついた。
その車イスは決して真っ直ぐに進むことが出来ずに、辛抱強くゆっくりと押し進められていた。
車イスの女性が、彼女に見えるように両手で車の存在を伝えた。彼女は振り返り車を避けるように車いすを道の端に寄せた。
車が窮屈そうに通り過ぎていく。
そんな様子に、悠大は声をかけられずにいた。
そこで止むを得ず、そっと彼女に気付かれないようについて行くことにした。
悠大は淡紅色に彩られる奈良の景観を背景に、母親であろう女性に優しく接する彼女の姿をカメラに収めていった。
彼女たちは時がゆっくりと流れていくのを楽しんでいるかのようだった。
猿沢池でにわか画家の水彩画に感嘆し、
東大寺の参道では鹿に襲われそうになり、
奈良公園でのんびりと満開の桜を愛でた。
そんな彼女たちの楽しむ姿を眺めながらも、ふと悠大には、あることが気になりだしていた。
それは、
「彼女はなぜ、あまり喋らないんだろうか?」
そのことが急に不思議に思われて、一年前のことが走馬灯のように浮かんできた。
「そういえば、あの時も彼女・・・」
そんな疑念を抱きつつも、ただ時間は過ぎていくのだった。
そのうち日も暮れだし、空の色も濃くなり始めていた。
ふいに、悠大は背後から声をかけられた。
振り返ると、そこには大柄の制服警察官二人とその傍らに見知らぬやや小柄の男性が一人いた。
突然のことに戸惑う悠大は、もう一つ自分に注がれる視線があることに気がついた。
それは携帯を片手にした彼女のものだった。
その不安げな表情が、男性の肩越しに見え隠れしていた。
どうやら、自分たちの後をつけてくる悠大の存在に気付いた彼女が、不審者がいることを兄である男性に連絡したらしかった。
その周りでは、家路に急ぐ家族たちが職務質問を受ける悠大に好奇の視線を投げかけている。
悠大がどれだけ身の潔白を唱えて、嫌疑を否定しても彼らの視線の先には、ただ怪しげな不審者が一人いてるだけであった。
悠大は自分が不審者でないことを証明する唯一の物が、背中のリュックサックにあることを思い出した。それは、満開の桜を背景に優しく微笑む彼女のポートレート写真であった。
それまで悠大を見ても全く気付く様子のなかった彼女は、そのポートレート写真を見て、一年前の出来事を全て思い出した。
そして悠大がずっと気になっていたこと
「何故、彼女はあまり喋らないのだろうか・・・」
という疑問について、一つの事実を知ることとなった。
彼女は幼少の頃の病がもとで、両耳の聴覚を失っていた。相手の話しは、口話法によって唇の動きで解釈しているのだという。
その事実を知った悠大は、今までのことに納得が出来た。
彼女と初めて出会った時のこと、そして今日ずっと気になっていた疑問のこと。
だが、悠大の彼女への思いに全く変わりはなかった。それどころか、より一層彼女への愛おしい思いが増すのだった。
悠大は一年前の彼女との出会いのことから、なぜ彼女たちの後をつけていたのかを必死に説明をした。
桜の花咲く奈良公園で、風景を撮影することに夢中で昼食を鹿に食べられたこと。それを取り返そうとしたが、桜の古木に躓いて服を汚してしまったこと。そこへ通りかかった彼女が自分のハンカチで悠大の服に付いた汚れを拭き取ってくれたこと。そして、一生懸命に頼み込んで彼女の写真を撮ったことを。
それはまた、悠大の切ない思いを説明することにもなってしまった。
ふいに、一人の警察官が、
「これは何だね」
と、指をさして悠大に尋ねた。
それは写真の裏に書かれた一編の和歌であった。
「はぁ、それは」
悠大は返答に躊躇した。
こころゆも 吾は思はざりき
山河も 隔たらなくに かく恋ひむとは
その和歌を見た彼女の兄が口を開いた。
「あ、そうだ。葉子、お前なら解るんじゃないか」
と、彼女に尋ねた。
「こいつ、高校生の時、万葉集に夢中になってね。毎日のようにそういう類の本を読んでいましたよ」
それを聞いた悠大は、体中が熱くなった。
何故なら、その和歌はまさに悠大の思いを込めた、彼女へのラブレターだったのだから。
悠大は、上目遣いに彼女の様子を窺った。
彼女がどんな表情を浮かべるのか気になったのだ。
彼女は恥ずかしそうに下を向いて、その頬には淡い紅がさしているように見えた。
そんな彼女の様子に、悠大も思わず下を向いた。
翌朝、薄青く澄み渡った空の下、春日山の麓近く高畑町にある奈良市写真美術館の前で、悠大は彼女と待ち合わせの約束をしていた。
葉子は肩まで伸ばした髪を風にたなびかせ、息を切らしながら自転車を走らせた。
今の葉子に悠大に対する警戒心は、微塵の欠片もなかった。
ふたりは少し照れながら、軽く会釈を交わした。
そして悠大が唇をわざと大きく動かし
「お・は・よ・う」
と伝える。
葉子は少し躊躇いがちに
「お・は・よ・う」
と微妙に震える声で応じた。
悠大は優しく微笑んで頷いた。
そしてそっと手を差し出した。
その手に葉子の手がそっと重ねられた。
・・・E N D・・・