黄昏の天使
凛と鳴るは鈴の音。
その音だけは生涯忘れることはないだろう。
―――――
猛る喧騒、朝焼けの荒野。
始まりを告げる鐘の音。
華麗に駆ける一筋の光。
もう何年も前になってしまった光景。
ユイトとの出会いは、気分で引き受けたというより、知り合いの頼みである情の部分で依頼を受けた数日後のことである。
その日は特別何もない日だった。
昨日もそうで明日もそうなのだろう。
この村の人間は平和に生きて平穏に暮らし平凡に死ぬと聞いたことがある。優しい人と、暖かい人間関係。苦のない生活環境に多少窮屈さを感じたとしても、それは贅沢というものだ。都会に出れば得難い人間関係も、この村に住むものならば誰もが享受される特典である。
喧騒を忘れた土地。妖精の住む村。
いずれにせよ、そのどちらもが正しい言葉であることは確かだった。
何時も通りの、何もない日。
そんな日常の、夕焼け前。
私は村で宿泊させてもらっている屋敷の石段下にに座っていた。
もう青く暗くなっている遠くの空をぼんやりと眺めながら、さして何をするでもなく夜の仕事の時間になるまでの休憩時間を過ごしていた。
屋敷の中には入らない。いや、入れない。
やむにやまれぬ事情がその屋敷にあった。
その屋敷には一人の男の子が暮らしている。見た目は麗しく、将来はさぞ美人になるのだろう造形をしている男の子だ。女ならば口説かずにはいられない美男子になるだろうと予感させる。私もこんな人生を歩んでいなければそのうちの一人だったのかもしれないが、何分枯れたような女なもので心に波打つものはない。
この屋敷にはもう一週間ばかり滞在しているが、彼がどんな性格をしているのか、何を好んでいるのか、あるいは友人はいるのか、私には何もわからない。彼は何も話さないから、だから分からなくて当然なのだ。
天性的な女嫌い。まさに典型的な男の子だ。もう少し大人になれば話くらいはしてくれるかもしれないが、どうやらそのときには私は随分といい歳した女になってしまっている。
まあだからと言ってどうということもない。私は彼にはさほど興味があるわけでもない。気分のままで生きている私の人生に男は特別必要でない。
屋敷の主人からは気にせず寛いでくれということを言われたが、私は子供の気分を害するようなことをするほど子供ではないし、こっちも気を使って寛ぐどころではないのだ。
男の扱いは難しい。それは歳というのは関係がない。生まれた頃から女を嫌い、女に抱かれると大泣きする赤子が多いのだ。
何度か依頼で男性の護衛なんかも経験したことがあるが、誰も彼もが不潔なものを見るような目で私を見ていた。必要以上に話をかけるなと、開口一番の命令がそれだ。女性は総じて扱いが難しい。いつ何が癇癪に触れるかわからないのだ。
――――――私を犬とお思いください。
――――――こんなに不快な犬は初めてだわ
こんなやり取りを何度してきたかわからない。
その分同性は付き合いが楽だ。昼間出会った三人の少女たちも、気さくで可愛らしかった。他の同世代の子供より随分とませていたみたいだけど、それも愛嬌と思えば愛らしい。
念のため無事に森を抜けるまで気を使っていたが、無事に村にたどり着いたようだった。
しかし、そう言えば子供の頃の自分も色んな無茶をしていたな、とその背中を見ながらそんなことを思っていた。
もっとも、大人になった今も随分と無茶を通して生きているし、子供には私の背中は見せられないなと思う。子供に憧れを抱かれるほど、私は立派な人間ではないということだ。
村の喧騒は静寂に伏せて、夜の蚊帳の到来を告げる。
夕焼けは始まり、終わりの時は近い。
眼下に見える村の営みは寂しいものだ。何せ、誰一人歩いていないのだ。田舎の夜は早いと聞いたが、まさにその通りだ。それにしたってもう少し遊び回る子供がいたって可笑しくないと思うのは、いささか都会に馴染みすぎたからか。
そんなことを思っていると、馬車を引いた商人が通りすぎて行った。ペコリと頭を下げる。商人も帽子を脱いでペコリと返した。愛嬌のある笑顔は幾度の交渉の末に得た技の一つだろう。今度一度商品を見てみようと、そんな気分になった。
そして、その姿も見えなくなると村には私一人になってしまった。
遠い黄昏が、昔の戦場を思い出す。
それはもう過ぎた出来事。今さら思い出したところで仕方のない、どうしょうもないことだ。
―――――エリー
思い出しても仕方のないことなのに。
―――――俺はお前を
煩い。わかったから黙ってくれ。
こんな平和を感じているから、暗い気分になってしまう。光が強ければ強いだけ、自分の闇が浮き彫りになる。その闇と向き合うだけの時間ができてしまうから、暇な時間は好きじゃないのだ。
ああ、早く仕事をしないと。こんな心が壊れそうな平穏から早く離れよう。私が壊れてしまう前に。
剣を持って立ち上がる。
――――あるいはこの時、私がもう少し早くこの場所から離れていたら私の人生は変わっていたのかもしれない。
「エリーシャ様。お迎えに上がりました。貴方にお客様がお待ちです」
――――――
この村を調査するに辺り、私は一通りこの村の大人に聞き込みを行っていた。
曰く、魔物なんて何もしらない。この村は何時も平穏だ。野菜をお裾分けしてあげよう。見たことも聞いたこともない。美人が多い。
――――――天使が棲んでいる。
妖精がいるとは聞いていたがなるほど、こんな平穏な暮らしをしていればそんな言い伝えだって出回るだろう。
この村は平和に頭が緩んだお人好しが多く、人を疑うことを知らない。こんな余所者が話しかけても警戒心もなく質問に応えたものが殆どだ。こんな楽な聞き込み調査は都市ではあり得ない。自己最速の聞き込み調査であったことは間違いないし、まだこんな人情ある村があることに心が洗われた。中身の実利は別にして。
私は一応山の奥には入らないように伝えその人たちとわかれる。にへら、とした笑顔でありがとうと返される。こんな村でそんな危険はないだろうと馬鹿にした笑顔じゃない、わざわざこんな村の為にありがとうという意味だろう。前者が都会的考え方、後者がこの村の常識的な考え方なのだろう。思考回路がすでに違う。こんな村に長くいたら狂ってしまいそうだ。
こんな依頼、すぐに済ませるにこしたことはない。
どうやら魔物の情報は出そうにないからその天使とやらの情報も同時に集めることにした。怪しいのはそれくらいだったし、天使なんて言い替えれば化け物と代わらない。
美しくて優しいから安全だ。なんて保証はこの世界の何処にもないのである。
噂の天使の情報はすぐに集まった。
曰く絶世の美男子。曰く男にも女にも平等に接する気配り上手。曰く慈悲深い優しい子。
まるでお伽噺に出てくる女の妄想で創られたような存在だと思った。まあ伝承なんて大体がそんな、『都合の良い羨まれる』ものだし、現実味のない存在が現実味のない在り方をしていても何も可笑しいことではない。
そのときの私の天使に関する期待なんてものは、他者の信仰する神とそう変わらないものだったのだ。
――――――
使用人に連れられたどり着いたのは枯山水の見える広い縁側だった。
自然の息遣いが聞こえてきそうな生命ある芸術。余分な騒音を切り取った永遠の空間。
夕焼けの明かりに照らされて、赤く染まるその場所で。
「―――――――――――――あ」
その全てを凌駕した、美しい少年が座っている。
静寂の空間。彼は凛と背筋を伸ばし、瞳を伏せて来訪者を待っている。
彼がそこにいるだけで、辺りの芸術は息を殺している。波立つような枯山水も、宝石みたいな黄昏も、全てが彼の道具以下に成り下がっている。
自分の息づかいすら余計なものだ。今の一瞬だけでも死んでしまいたいと思ったほど、この光景は完成している。
と、同時に、先程まで荒れていた自分の心が落ち着いていた。
初めて見た絶景の筈なのに、なぜか懐かしい気持ちに満たされていた。
「―――――――――――――――」
この芸術を壊すことは私にはできなかった。
ここが全ての終わりなのかも知れないとも思った。
だってこんな光景はこの世界にあってはいけないものだろう。
頬を伝う滴にも気づかず、私はその場所に立ち尽くす。
「―――――――――――お帰りなさい」
その心を溶かすような声は、遠き日の鈴の音を思わせた。
いったいどれだけそうしていたのか、乱れた息が
物語る。
「仕事は終わりですか?」
心に染みるような落ち着いた声。未だ幼い容姿でありながら、もうこれ以上を想像できないほど彼の在り方は完璧に思えた。
「は、い、いいえ。まだ本来の目的である魔物の討伐は完了していません。これから活動が活発になるであろう、夜更けにもう一度森の中を調査しようと思っています」
「じゃああまりお話はできないんですねー。うーむ、残念です。―――――うん?どうやら顔色が優れないようですが、体調でも悪いんですか?」
こちらの方へ歩みより、私の顔を覗きこむ。
「い、いいえ。そんなことはありません。大丈夫です」
あわてて身を引いて彼から離れる。
私らしくない、慌ただしい足音が屋敷に響いた。
「そうですか。無理はしないでくださいね」
こちらを気遣う言葉。
私は彼の瞳から視線を逸らして、バクバクと煩い心臓をどうにかしなければならなかった。
こんな緊張、初めて戦場に立った時にも感じなかった。とにかく、高鳴る心臓を落ち着かせるように、ゆっくりと深呼吸する。
いったいなぜこんな子供に緊張するのか。確かに今まで見たことのないくらい美しい顔をしているが、相手はまだ十にも達していない子供だ。彼より倍以上の年月を生きている私が緊張するなんて可笑しい。
「じゃあ、改めまして初めまして。僕はカンザキユイトといいます。気軽にユイトと呼んでください」
花のような笑顔で、手を差し出す。
その行為に思考が停止する。
男が女に握手を求めるなんて、私が生きてきた中で初めての経験だった。
いくら子供とはいえ、こんなことをする男がいるなんて信じられない。この子の親はいったいどんな教育をしているのか。普通の家庭ではこうはならない。とことん狂った家庭かこの子が本当に特別なのか。この子が本当は女なのか。
何にせよ予想外の事態に緊張してしまうのがわかる。
しかし、私は大人で彼は子供。その手を無視するわけにもいかない。彼は苦手だが私も大人として振る舞わないといけない。
私は心の動揺で震えながら、その手を握る。柔らかくて温かい紛れもない男の子の感触だった。
「エリーシャです。恥ずかしながら冒険者を語らせていただいています」
「ああ、やはり冒険者さんですか。いやー冒険者という人は初めて見ましたけど、やっぱりイメージ通り凛々しくて素敵ですね」
天使。
なるほど、こんな女に純粋な笑顔を向けられる存在なんて天使と呼ばずしてなんというのか。
「村を魔物から守ってくれると聞きましたけど、本当ですか?」
「はい。依頼として受諾した以上、私はこの村を守る―――――そうですね、番犬みたいなものです。命をかけて、主人であるこの村の人たちを守ります」
山奥で出会った少女を思い出す。彼女は私を挑発するための言葉として使っていたが、冒険者を侮蔑するにはいささか相手が悪く、頭の良さもあって言い得てしまっていた。
私は怒るどころか関心したくらいだ。
「番犬ですか。なんだか可愛いですね」
「そうでしょうか。子供たちには受けが悪いようですが」
「僕は好きですよ犬」
「そういうことではないのです」
うーん。子供にはどうやって物事を教えてあげるべきなのか。こういった経験は皆無の私には難易度が高い。
とりあえず膝をついて、視線を合わせる。子供とはいえ、客人として呼ばれた以上見下ろし続けるのは良くない。
「とりあえずはこの犬がいれば心配ない。とでも思って頂ければうれしい。多少は腕に自信がありますので」
安心させるように言葉を選んだつもりだが、何か失敗したのか少し憂うように目を伏せる。それも一瞬。顔をあげた表情は嬉しそうだった。
「それはとっても頼もしいですね。多少思うことがないわけではありませんが、それは大人の決めた道。僕が口にするのはお門違いみたいだ。僕はエリーシャさんを信じて村をお任せすることにします。そもそもそんな権利は僕にはないんですけどね」
「いえ。そう言って頂けるのは純粋に嬉しい。貴方の信を裏切らないよう仕事に勤めます」
「エリーシャさんは落ち着いていますね。まさに大人という感じです」
憧れますね、と言って私を握っていた手を離し、背を向ける。
「場所を移しましょう。時間は余りありませんが。僕、エリーシャさんの話に興味があるんです。色んな冒険の話を聞かせて頂けませんか?」
「はい。つまらない話でもよければ」
「それは困ります。多少脚色をつけてもいいから、楽しい愉快な、ノンシリアス作品でお願いします」
「自信はありませんが、努力はしてみましょう」
心を凍らせるような緊張も何処かへ消えて、思わず笑んでしまう。
花やぐ香りを運びながら歩く、彼の後を追う。
黄昏を思わせる黄金の髪。
私はその光景を死んでも忘れることはない。