三
気がついたら、哲哉たちが最後の客だった。閉店までまだ時間があるが、今夜はもう店じまいにしよう。
「お疲れさま。今日は少し早いけど、これで閉めるよ。掃き掃除だけ頼むな」
「わかりました」
仁は元気に掃除を始めた。
おれはカウンターの中で背伸びをして、店の外に出た。
空気が凛と冷えて、背筋が引き締まる。店内にいると気がつかなかったが、今夜はとくに冷え込んでいる。
夜空を見上げると、きれいに輝く星がいくつも目についた。残念なことにおれは、星の名前も星座もよく解らない。
調理専門学校にいたときの仲間にひとり、星座に詳しい子がいた。彼女に教えられてやっと見つけられるようになったのが、オリオン座だ。それ以外はいくら教えられても解らなかった。
彼女も今ごろ、夜空を見上げているだろうか。
「いや、それはないか」
日本が真夜中なら、彼女のいる場所はまだ夕方だ。時計の針がさす時刻が異なる場所に住んでいる。そんな相手とは、同じ夜空を見上げることもできない。
おれはふと思い出し、ポケットの中からスマートフォンを取り出した。予想通り、メールもメッセージもなければ、着信履歴も残っていない。
開店時と同様にブラックボードの前で軽く柏手を打ち、心の中で「今日もおかげさまでいい一日でした」と礼を言う。ボードをたたんで店の中に入ると、入り口にかけた札を「CLOSED」にする。そして鍵をかけ、カーテンをした。
仁の掃き掃除も終わったようだ。
「お疲れさま。シチューの残りをタッパーに入れておいたから、持ってお帰り」
「マスター、いつも助かります。じゃあ、お先に失礼します。おやすみなさい」
仁も帰宅したら、バンドのために曲作りをする。毎日少しずつ出来上がる曲は、まだまだプロの影響が強い。
だがおれはそれを注意するつもりはない。何事も最初は模倣から始まる。そんなことは気にせずに、がむしゃらに作っていると、ある程度の数を超えたところで、個性的なものが生まれるはずだ。
仁がこれまで聴いてきた音楽が、彼の中で新しい命となって誕生するのはいつだろう。才能が花開く日が楽しみだ。
若いミュージシャンの成長を見ていると、レコード会社で働いていたころを思い出す。新しい才能を探して多くのライブハウスをまわっていた時代が懐かしい。
気持ちが十五年ほど昔に戻ったとたん、当時繰り返し聴いていたレコードが聴きたくなった。
あのころのおれは、仕事で嫌になるほどロックばかり聴いていた。好きなロックでも、発展途上のものを大量に聴かされていては、それ以上聴けない日がだんだんと増えてくる。そのせいかプライベートではほかのジャンルを求め、やがてジャズに落ち着いた。
ラックから古いレコードを取り出し、ターンテーブルの上に乗せる。
マイ・ファニー・ヴァレンタイン。哲哉がピアノで弾いた曲を、女性ボーカルで聴きたくなった。アニタ・オデイも好きだが、今夜はスカウトマン時代によく聴いたエラの歌声にしよう。
レコードにそっと針を落とすと、溝に刻まれた音楽がスピーカーから響く。プチプチというわずかな雑音が心地よい。デジタル処理をされたCDのクリアな音もいいが、微妙なノイズが気持ちいいのはなぜだろう。
古い曲は歴史を感じさせてくれる。ノイズまでもが愛おしいのは、誕生した時代を運んでくるタイムマシーンの役割を担っているからか。
おれは軽く目を閉じて、日本中のライブハウスを駆け巡っていたころを思い返した。
大好きだった音楽が、ただの商品になっていく。心から楽しむことができなくなったのを機に、あの業界から遠ざかることを決めた。
それでも音楽からは離れられない。
ひとりのリスナーとして音楽を楽しみたくて、ライブ喫茶を作った。聴く側に立つことで、損得勘定抜きで音楽に触れていたころに戻るつもりだった。そして実際に戻っていたのだ。
それなのに今また、新人を探していたころと同じ興奮を覚えている。音楽が商品になってもいい。彼らの曲を、ひとりでも多くの人たちに聴いてもらいたい。
結局おれはいつまでも、作る側、届ける側の人間でいたかったのだろうか。
いや、そうじゃない。才能あるミュージシャンが、おれの中にある情熱に火をつけたのだろう。勢いのあるものは、望むと望まざるとにかかわらず、周りを巻き込んでいく。
それこそが、人を惹きつける魅力かもしれない。
☆ ☆ ☆
部屋に戻ったとき、時刻はすでに二時を過ぎていた。閉店後にひとりで音楽を楽しみすぎたようだ。せっかく早く終わったのに、これではいつもより遅い帰宅だ。
おれはCDをオーディオコンポに入れて、プレイボタンを押した。
『チェット・ベイカー・シングス』というアルバムだ。中性的な声が魅力の、けだるく都会的な歌声が流れてきた。
シャワーを浴びて出てくると、同じタイミングでスマートフォンにメールが届いた。
「やっときたか」
こんな時間にメール送ってくるのは、ひとりだけだ。日本が深夜で、おれが寝たあとかもしれないという気遣いなどしない。
「まあ、それも無理はないな」
伝えたい気持ちが生まれたら、時間なんて関係ない。
向こうはまだ夕刻だ。時差の壁を越えるために、メールで連絡を取ることを選んだのは、おれたち自身だ。
ソファーに座り、やっと届いたメールを開くと、絵文字や顔文字の一切ないシンプルな文字が表示された。女子力などという流行りの言葉は、彼女には縁がない。
――今朝、バレンタインのプレゼント届いたよ。ありがとう。
距離を考えて早めに出したが、まさか当日に届くとは思わなかった。
――最近は日本でも、男性からプレゼントを贈る人が増えたんだってね。
「そうだよ。少しは本来の意味に近づいたかな」
おれはメールを読みながら、玲子からもらったウイスキーボンボンを口に入れた。
――ところでこの前の話だけど、次に会ったときに返事をするって言ったよね。実は来週の水曜日、仕事で日本に帰ることになったんだ。だから譲のところに行って、直接返事をするからね。逃げないでよ。
「なんだって? 来週の水曜日って……そんな急じゃないか」
口の中で、チョコレートの甘さと、ほろ苦い洋酒の味が広がった。
毎年一度、年末年始だけをともにすごすおれたちだから、返事をもらうのは一年先のことだと思っていた。長すぎる猶予期間が悩みの種だったが、あの時点で一時帰国の話は決まっていたにちがいない。だから直接会って返事をする、などと言えたのだろう。
突然すぎる話に、おれの動悸が激しくなる。
いつものサプライズだと自分に言い聞かせるが、どうにも落ち着かない。大事なことほどギリギリになって告げてくる彼女の悪戯心には、いいかげん慣れたつもりだった。だがまだまだ彼女のほうが、一枚も二枚も上手だ。
「本当にきみらしいやり方だよ」
おれは苦笑しながら、返事を打ち込んだ。
――こっちは日付が変わったけれど、そっちはまだ十四日だろ。ハッピー・バレンタイン。会えるのを楽しみにしている。それから、いい返事が聞けることを期待しているよ。
送信したらすぐに返事が届いた。一言『フフフ』と意味ありげに笑う顔文字が表示される。ギリギリまで本心は悟られたくないようだ。
スピーカーから『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』が流れてきた。
女性が男性に向けて歌っている曲だが、男女を入れ替えても気持ちは同じだ。
――マイ・ファニー・ヴァレンタイン。きみは本当に愉快で不思議な女性だよ。
一日待ち続けたメールが、おれの平穏を奪う。
オーバー・ザ・レインボウの曲を聴いたときとはちがう昂奮が、しばらくおれを支配するだろう。その果てにあるものは天国か、はたまた地獄か。少年のようでコケティッシュな笑顔が、おれの心を惑わせる。
「今夜は眠れそうにないな」
おれはソファーに体をあずけ、部屋を満たすけだるい歌声に耳を傾けた。
遠く離れた地に住む「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を思いながら。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。