二
夕刻になり、喫茶メニューにアルコールが追加される時刻となった。
夜になると名前はライブバーになるが、そちらの呼び方はいつまでたっても浸透せず、一日中「ライブ喫茶」と呼ばれる。最初は妙な感じがしたが、逆に名前に合わせて、夜も喫茶メニューを出すことにした。
ジャスティを訪れる客の中には、未成年も一定数いる。彼らが二次会や三次会で訪れたときに困らないようにすることも、学生街にある店の務めだ。
「マスター、こんばんは」
登場したのは、ピアノ弾きのバイトをしている哲哉だ。オーバー・ザ・レインボウのリードボーカルをしていて、バンドでは鍵盤を弾くことはない。雑談の中で、幼いころからピアノを習っていたことを知ったおれは、生演奏のアルバイトを依頼した。
年末に、バレンタインデー向けの曲を探しておくようにと注文したら、冬休み明けにしっかりとマスターしてきた。
「今日は『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』からスタートするよ。次に『星に願いを』、『いつか王子様が』あたりで……」
「ビル・エヴァンスかい?」
「いや、別に彼のコピーじゃないよ。スタンダードナンバーを考えたら、たまたまそうなっただけなんだ」
好きなピアニストがそれらの曲をレコーディングしているから、つい名前を出してしまった。
おれは哲哉の選んだ曲を見て満足する。いつも簡単な指示を出すだけで、選曲は哲哉の自由にさせている。それだけでこちらの意図を的確に読み取り、その日にふさわしい曲を探してくる。頼もしく、将来が楽しみなミュージシャンの卵だ。
だがおれは、哲哉に弾き語りをさせるつもりはない。ボーカルにあえて歌わせていないので、ときどきオーバー・ザ・レインボウのファンに質問されることがある。当たり障りのない答えを用意しているが、実は考えがあってのことだ。
おれは哲哉に、表現を抑えることの意味を学んで欲しいと思っている。
哲哉の歌は迫力と勢いがあり、聴くものを瞬く間に惹きつける魅力にあふれている。だが言い方を変えれば、力で押してくるスタイルなので、リスナーが迫力に負けて、長時間聴いていると疲れてしまうことを危惧している。今は三十分ほどのライブが中心なのでそれを感じることもないが、プロになってライブをこなすようになると、今のままでは必ずこの問題にあたるだろう。
そこでおれは、ピアノの生演奏を通じて、表現を抑える訓練をさせることにした。
バーでの演奏はライブとちがい、あくまでもBGMだ。自己主張しすぎては客の邪魔になる。
生演奏を始めたころはなかなか意図が伝わらなかったが、最近になってようやく主張しすぎない演奏を覚えてくれた。
これが身に着けば、いずれ歌の方でも強弱を取ることの大切さに気づくだろう。
自分の感情をぶつけるだけでなく、ときには淡々と歌うことで、聴く人たちに歌の意味を考えてもらう。そういう表現を覚えさせるのも、彼らの相談役の仕事だ。
今日の演奏も、カップルたちの邪魔をすることなく、程よい距離感を保ちながら、ムードを盛り上げている。これが歌にも活かされることを願うばかりだ。
「マスター、こんばんは」
なじみのある元気な声にふりむくと、沙樹ちゃんが数名の仲間と店に入ってきた。あの顔ぶれは、放送研究会の部員たちだ。
「いらっしゃいませ」
仁が彼らをテーブルに案内した。
沙樹ちゃんは、ロック研に所属していないにもかかわらず、オーバー・ザ・レインボウの世話役をしている女子学生だ。その縁で、うちの店にもよく顔を出してくれる。
この時刻だと二次会だろうか。男女三人ずつの組み合わせで、女子がそれぞれ全員にチョコレートを渡している。
二組の男女は、どう見てもカップルだ。だが沙樹ちゃんと残りの男子学生には、そういった雰囲気が感じられない。もっとも男の視線には、微妙な恋心が見え隠れしていた。ただ残念なことに沙樹ちゃんは、彼の想いに気づいていない。
「こればかりは必ず報われるものではないからな」
思わず独り言ちていると、仁が沙樹ちゃんたちのオーダーを持ってきた。ハイボール三つに、ウィスキーフロート、マティーニ、それと……。
「おや、これはまずいな」
レディーキラーのスクリュードライバーが注文されている。お酒の飲めない沙樹ちゃんが、勧められるままに頼んだのだろうか。まちがいはないと思うが、男子学生の視線を考えると不安が残る。ここはマスターとして憎まれ役になろう。
おれはカウンターから出て、放送研のテーブルに近づいた。
「沙樹ちゃんは未成年だよね。スクリュードライバーは悪いけど出せないよ」
「え? あたしが頼んだのはオレンジジュースですよ、マスター」
「オレンジジュース? 入ってなかったけど、仁のミスかな?」
するとオーダーをまとめたらしい女子学生の顔色が変わった。
「ごめん、あたし、オレンジベースのカクテルって意味だと思って……。すみません、マスター」
「いいんだよ。だれにもミスはある。お酒が飲みたいなら、二十歳になってから、堂々と注文してくれればいいからね」
ミスなのか意図的なのか解らないが、これ以上追及するのはやめよう。ただ沙樹ちゃんには、機会を見て警告しておいた方がよさそうだ。
おれは放送研のテーブルをそれとなく観察しておくことにした。
☆ ☆ ☆
哲哉のピアノが終わり、店内の音楽がなくなった。
おれはまた有線でジャズを流す。今日はなぜか女性ボーカルが恋しい。
「マスター、これアニタ・オデイ?」
ピアノを弾き終えた哲哉が、カウンター席に座るなり訊いてきた。
「そうだよ。よく解ったな」
「マスターがしょっちゅう流してるから、解るようになったんだぜ。彼女も『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』歌ってたよね」
「ああ。バレンタインデーだから、そのうち有線でも流れるんじゃないかな」
おれは哲哉にレモンティーを出した。ピアノを演奏した後なので、レモンに含まれるクエン酸で少しでも疲労を回復してもらいたかった。
「すみません、お会計お願いします」
沙樹ちゃんたちのグループが帰り支度をしている。
おれは急に心配になってきた。今日の飲み会は、男子学生と沙樹ちゃんをカップルにしようという目的でひらかれたように思えて仕方がない。彼女にその気があるのなら口出しする気はないが、どう見てもその気配はない。
「あっ、西田さん。来てたんだ」
高校時代のクラスメートだった哲哉は、今でも沙樹ちゃんを名字で呼ぶ。沙樹ちゃんも同じように哲哉を「得能くん」と呼んでいる。
「今日の演奏も素敵だったよ。あれで終わりなんて残念。もっと聴きたかったな」
「西田さんが聴きたいっていうなら、もう一度演奏してもいいんだぜ」
「ほんと?」
話し込んでいるふたりに「沙樹、行くよ」と女子学生が声をかけた。沙樹ちゃんは一度歩きかけたが、ふと歩みを止める。握りこぶしを口に当てて何かを考えたかと思うと、口元に笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「先輩、あたし今夜はここで失礼します。得能くんのピアノがもっと聴きたいから」
沙樹ちゃんが断ると、例の男子学生が急に肩を落とした。まじめそうで悪い子ではないと思うが、人の気持ちはコントロールできるものではない。一番心配なのは、彼よりも周りの人物だ。男子学生の気持ちを重視するあまり、沙樹ちゃんの気持ちまで気が回っていないのではないか。お節介かもしれないが、今後もそれとなく見守ろう。
先輩たちを見送り、店に残った沙樹ちゃんは哲哉の隣に座った。
ふと店内を見回すと、半分ほどが空席になっている。今日はいつもより早い店じまいになりそうだ。
「西田さん、一緒に行かなくてよかったのか? あれ、先輩だろ?」
「いいの。さっきのカクテルの話を聞いて、今日はこのままサヨナラしたほうがいいって解ったんだ。実を言うとね、三次会を断る口実をずっと探してたの。得能くんがいてくれたおかげで助かったよ」
「西田さんもいろいろ大変だな。人間関係が面倒だってんなら、いつでもやめてロック研に入りなよ」
「ありがと。でも大丈夫。前も話したけど、あたし、番組作りが楽しくて仕方がないの。今のサークルでもっと勉強したいんだ。第一、楽器の弾けないあたしがロック研に入って、何をするのよ」
「たしかにそうだ」
哲哉が失笑すると、沙樹ちゃんも笑顔を見せた。
そのとき有線から、アニタ・オデイの『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』が流れてきた。
「この曲の『ヴァレンタイン』って、人の名前かと思ったら『恋人、特別な人』って意味もあるんですって」
「西田さん、物知りだな」
哲哉が感心すると、沙樹ちゃんは目を細めて口元に笑みを浮かべた。
「この前放送研で作った番組で、この曲を使うことになったの。聴くだけじゃもったいないと思って、ネットで曲の意味を調べたらそう書いてたのよ」
さすが英文科だ。音楽一つでも、沙樹ちゃんの探求心を刺激するのだろう。
「そうだ、マスター。ココアお願いします」
「了解。沙樹ちゃんと言えば、やはりココアだな」
「だってマスターの入れるココア、おいしいんですもの。あたしがいくら頑張っても、あの味は出ないから」
うれしいことを言ってくれる少女だ。今夜はサービスして、大きなマグカップで出そう。
「そうだ、得能くん、受け取ってくれる?」
沙樹ちゃんは紙袋から、かわいいラッピングをした透明な袋を取り出した。
「チョコレートはファンにたくさんもらってるでしょ。あたしからはチョコレートクッキーをどうぞ」
「サンキュー。紅茶にはクッキーがあうからな」
「マスターにも。いつもお世話になってます。カクテルのことでも、助けてくれてありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ厳しいことを言ってごめんな」
「先輩たちったら、一次会でもお酒を飲ませようとしてたんですよ。未成年だし飲めないからって断ったけど、しつこくて。二次会で、ノンアルコールだっていってカクテル出されても、口当たりがよかったら気がつかないかもしれないし。だから先手を打って、みんなを引っ張ってきたんです。ここならこの時間でも喫茶メニューがあるし、マスターは絶対、未成年にお酒を出さないでしょ。でもまさか、こっそりカクテルを注文してたなんて」
「なんだよそれ。質が悪いぜ」
哲哉は頬杖をつきながら、わずかに口元をゆがめた。
バータイムでも喫茶メニューを残しておいて正解だった。未成年の学生も多い店だ。これからもずっとこの方針を貫こう。
「ところでほかのメンバーは、今日くるかな?」
「ワタルと弘樹なら、顔を出すと思うぜ。バイトのある日はいつも夕飯食いにきてるし」
「武彦はこないと思うよ。夕方、玲子がバイトを終えるのを迎えにきてたから」
「ほう。じゃあ今ごろはデートか。うちのバンドで彼女がいるのは、武彦だけだもんな」
みんな好青年なのに、なぜか女子に縁がない。モテないわけではないが、つきあい始めても、音楽を優先しすぎて別れを告げられている。
好きなことに夢中になりすぎると、恋人を二の次にしてしまうのだろう。音楽も含めて好きになってくれるような相手でないと、長続きするのは難しい。
おれも昔はそんな失敗を繰り返してきた。
「直貴さんは?」
「昼に女子三人組ときてたからね。あのようすだと、今ごろはオリジナル曲を必死で作っているよ」
エアバンドのマネージメントも大変だろう。彼女たちは楽器が弾けないから、ライブでは裏で音楽を演奏する人物が必要になる。そんな役目を押しつけられた直貴の女難は、しばらく続くにちがいない。
直貴も大変だな、と哲哉が苦笑していると、店の扉が開いた。
「マスター、こんばんは。腹が減って死にそうだよ。何か食わせて」
リーダーでギタリストのワタルが、ふらつきながら登場した。うしろにいるのはドラマーの弘樹だ。バイト帰りに一緒になったのだろう。
人数が増えてきたので、哲哉たちはカウンターからテーブルに移動した。
おれはワタルと弘樹がアルバイトの日は、夕飯をキープしている。
今夜のメニューはビーフシチューだ。軽くトーストしたライ麦パンと、野菜サラダを添える。料理をテーブルに運ぶと、ワタルと弘樹は待ってましたと言わんがばかりに食べ始めた。男子は食欲旺盛だ。しっかり食べて体力をつけ、ライブでは元気にステージを駆けまわってもらいたい。
放送研の部員といるときと比べ、沙樹ちゃんは遥かにリラックスしている。やはりこの子は、オーバー・ザ・レインボウと一緒にいる方が輝く。将来、この中のだれかとゴールインしてくれるといいな、などと考えて、おれはまた、彼らの父親にでもなったような錯覚を起こした。
「そろそろ終電だから、あたし帰りますね」
沙樹ちゃんがテーブルを立つと、だれからともなく「駅まで送っていくよ」という声が出た。あの三人になら、安心して沙樹ちゃんを任せられる。ああ見えても彼らは紳士だ。
「マスター、おやすみなさい」
「おやすみ。気をつけて帰るんだよ」