一
オーバー・ザ・レインボウシリーズの一作です。
バレンタインデーの出来事を、ライブ喫茶ジャスティのマスターを通して語りました。
『得能哲哉氏の限りなく日常を求めた年末年始』に続くエピソードになっています。
シリーズ未読でも楽しんでいただけるように書きました。
マスターの知られざる秘密も少し出てきます。
扉を開け外に出たら、吐く息が白く凍った。
コートの襟を合わせ、いつものようにマンションの部屋から、敷地内の駐車場まで歩く。
「うわ……」
車のフロントガラスが真っ白に凍りついていた。仕方ないなと独り言ち、車の中からヘラを出して、凍りついた霜を削ぎ落とす。
運転席に座りエンジンをかけたが、エアコンの吹き出し口からは冷たい風しか出てこない。わずかな移動距離だからと、薄着で部屋を出なくてよかった。これだけ冷えていると、車内にいてもコートとネックウォーマーは脱げない。
すぐに走らせてもいいが、車内が温まるまで、カーステレオを聴きながらアイドリングをさせることにした。出勤するのは自分の店であるライブ喫茶ジャスティだ。到着が五分ほど遅れても、遅刻になるわけでも、開店時間に影響するわけでもない。
朝のこの時間は、音楽を聴くために神様がくれた瞬間だ。そう思えば、わずかな待ち時間も楽しいものに変わる。
おれはCDをカーステレオに入れた。ジャケットに使われているライブの写真は、うちの店で写したものだ。ジャスティで定期的に演奏していたクロスロードというバンドは、このインディーズアルバムを発表したのがきっかけで、プロデビューが決まった。公に発表していないのに、ファンや関係者の間ではうわさになっている。それだけ期待も大きいのだろう。
クロスロードと入れ替わるようにしてレギュラー契約したのは、オーバー・ザ・レインボウというロックバンドだ。去年のゴールデン・ウィークころ、彼らは現在の構成メンバーに落ち着いた。旧メンバーでもいい演奏をしていたが、今の方が遥かに素晴らしい音楽を紡ぎだす。夏のオーディションで彼らの演奏を聴いたとき、おれはダイヤの原石を見つけたような興奮を覚えた。先日レコード会社時代の後輩に紹介したら、予想以上にいい反応が返ってきた。元スカウトマンの勘は少しも衰えていない。
「そろそろ暖まってきたかな」
おれは車を発進させ、クロスロードの演奏を聴きながら十分ほどかけて出勤した。
予想通り店内も冷え切っている。おれはコートを着たまま、店中の暖房をオンにしてまわった。
暖を取るために、まずはコーヒーを淹れよう。次はBGMの選曲だ。今朝はジャズの女性ボーカルが聴きたい。有線を希望のチャンネルに合わせ、しっとりとした声で店内を満たす。優しく漂うようなボーカルに浸りながら、おれはコーヒーカップを片手にスマートフォンを取り出した。メールもメッセージも届いていない。
コーヒーを飲み終えたら、ランチの仕込みだ。主な客である学生たちのために、栄養バランスを考えたメニューを作っている。今日のハンバーグは、鶏肉と豆腐をベースにして、根野菜を入れた。付け合わせのフレッシュサラダと煮物で、野菜をたっぷり提供する。
それにしても自分がこうしているのが不思議でならない。
学生時代から一人暮らしをしていたおれは、ろくに料理をしたことがなかった。
脱サラをして喫茶店を経営するにあたり、二年間調理の専門学校に通った。免許も取得し、幅広いジャンルの料理ができるようになった。
あの二年間があったおかげで、喫茶店を開く自信もついたし、これまでつながりのなかった分野の人たちとも出会えた。おれより一回り若い人たちとの交流は、共通の話題がなくて初めのうちは苦労した。ふとしたときに過去に出会ったミュージシャンの話をしたことがきっかけで、一気に距離が縮まった。学生中心の客を相手にできるのも、当時の苦労があったおかげだ。
あのころの仲間たちは、この瞬間、何をしているだろう。国内のみならず、海外で修業を続けている仲間もいる。おれのように自分の店を持っているのは、まだ少数派だ。
「マスター、おはようございます」
考えを中断するように、明るく張りのある声が響いた。アルバイトの玲子が出勤してきた。後期試験も終了し、大学は春休みに入っている。単位も取得し、今は時間の余裕もあるというので、毎日ランチタイムから夕方まで入ってもらっている。
「今日は特別寒いしバレンタインデーだから、扉付近の明かりをオレンジ色にしませんか。テーブルのナプキン立ても、ステンレスだと寒々するでしょ。木製のものに変えてもいいですか」
「いいアイデアだな。そこまで思いつかなかったよ」
おれが感心してうなずくと、玲子は微笑みを返し、すぐに作業にとりかかった。
真面目で聡明な玲子は、いろいろな場面でよく気がつく。しっかりしていて、二回り近くも若いのに、はっと気づかされることも多い。ほかの学生とくらべても、頭ひとつ抜けている。
玲子がバイトを始めてから、ジャスティは優しく暖かい雰囲気を覚えた。
おれは玲子の働く姿を見ながら、成長した娘をもつ父親のような気になった。
☆ ☆ ☆
十一時になり、扉にかかった札を「CLOSED」から「OPEN」に返す。今日のランチメニューを書いたブラックボードをおきに外に出ると、一組の学生が開店を待っていた。オーバー・ザ・レインボウのキーボードを担当している直貴と、女子三人組だ。
「おや、いらっしゃい。今日は早いんだな」
「マスター、聞いてよ。ぼくさ、彼女たちにさっき電話でたたき起こされたんだよ。でもって部屋に襲撃されて、ここに連れてこられたんだ」
一流企業の社員だといっても通じそうな女子三人は、最近エアバンドを始め、直貴をアドバイザーにした。というとプロデューサがアイドルグループをマネージメントしているように聞こえるが、実際はそうではない。
「たたき起こされただの、連れてこられただの言って、ナオくんひどくない?」
ツインテールの女子が鼻にかかったアニメ声でしゃべりながら、直貴の襟を軽く引っ張る。直貴は困ったような、それでいて少し頬を赤くしながら腕組みをした。
「ひどいのはそっちだろ。ぼくは朝の四時まで、曲をPCに打ち込んでたのに。人の都合なんてお構いなしで引っ張りまわして」
「だってナオくんがいないと、あたしたちのバンド、何にもできないんだよ。頼りにしてるんだから」
ショートカットの女子がウインクすると、直貴は急に青ざめる。
「いいから、中にお入り。ここで立ち話していても寒いだけだろ」
おれは苦笑しながら、直貴たちを中に入れた。
放射冷却で朝は冷え込んだが、その分青空が広がっていい天気だ。ブラックボードを定位置におき、軽く柏手を打って「今日もいい一日になりますように」と心の中でつぶやいた。
カウンターに戻ると、玲子がランチの注文を取ってきた。食後のドリンクにみんなが選んだのはココアだ。寒い日は、暖かくて甘い飲み物が恋しくなる。今日はいつもよりココアの注文が多くなるかもしれない。
「ええっ? 明日までにオリジナル曲を作って、DTMに入れろって? そんな無茶な……」
人もまばらな店内で、今日も直貴の嘆き声が響いた。相変わらず無理難題を吹っ掛けられているようだ。がんばれ。このむちゃくちゃな経験も、プロになった日には必ず役に立つぞ。
そうこうしているうちに次々とランチ目当ての客が訪れ、小さな店内はすぐ満席になった。
注文と配膳を玲子に任せ、おれはランチを作る。
ふと店内に目をやると、今日はいつも以上にカップルが多い。やはりバレンタインデーは毎年カップルの率が上がる。
頬を赤く染めながらハート形の包みを渡す少女。受け取る男子も、みな幸せそうな表情を浮かべている。ジャスティが暖かい雰囲気で満たされているのは、玲子が選んだオレンジ色の明かりだけが原因ではなさそうだ。おれは忙しい中でも、微笑ましい気持ちになった。
目まぐるしいランチタイムも終わり、客の数も少し落ち着いた。
一息ついたおれはカウンター内の椅子に座り、スマートフォンをチェックした。メールもメッセージも届いていない。この時間では当たり前だな。
今日は予想通りココアの注文が多く、カウンターにも甘い香りが残っている。
「お疲れさん。きみも今のうちにお昼すませときな」
玲子をカウンター席に座らせると、おれは残ったサンドイッチ二人分をテーブルにおいた。今日のツナサンドは、みじん切りされた玉ねぎとピクルスが入っていて、ほのかな酸味が食欲をそそる。
作り方がいたって簡単なこれは、アメリカに住んでいたころ、行きつけていたダイナーのシェフに教えてもらったものだ。ろくに料理をしないおれなのに、このサンドイッチだけは昔からよく作っている。
「飲み物はココアがいいかい?」
「ココアもいいけど、動きまわって暑いから、アイスレモンティーがいいです」
「そうかそうか。確かに今日はいつもよりカップルが多かったせいか、店内の気温が高くなっていた気がするな」
「そうですね。やっぱりバレンタインデーはちがいます」
とはいうものの、最近はカップル以外で、世話になった人にプレゼントを渡すことも多い。
「カップルに限らず、友だちやお世話になった人に感謝の気持ちを示すのにはいいイベントだと思いませんか?」
「そうだな。うちでもお客さんにチョコレートを準備しておけばよかったな。来年は忘れずに配ろうか」
「いいですね。楽しそう」
とうなずいた後で、玲子はカバンから赤い小さな包みを取り出した。
「マスターにも。いつもお世話になります」
「おれに?」
これまで女子をアルバイトで雇ったことがなかったから、従業員からもらえること自体うれしい誤算だ。包みを開けると、箱の中からウイスキーボンボンが出てきた。
「お酒入りだから、食べるのは仕事が終わってからにしてくださいね」
「ありがとう。家でじっくり味わうよ」
おれはチョコレートをカウンターの下においた。そして出来上がったアイスレモンティーを玲子に出し、自分のためにホットコーヒーを入れた。
「こんにちは、マスター」
不意に扉が開き、常連客がひとり入ってきた。
「あ、武彦さん」
玲子の表情がパッと輝く。オーバー・ザ・レインボウでベースを弾いている武彦は、玲子の彼氏だ。武彦はカウンター席に座ると、アップルティーを注文した。
「バイト終わるまで、まだ一時間はあるのよ。来るのが早すぎるんじゃない?」
「うん。でも部屋にいても退屈だからね。ここで本を読みながら、玲ちゃんのバイトが終わるのを待っていてもいいかなって思ったんだよ」
どうやらこの後はデートの約束をしているようだ。バイトを早い目に上がらせてあげてもいいが、武彦と音楽の話もしたい。月末の合同ライブはオーバー・ザ・レインボウも出演する。今一番の有望株は、どんなふうに練習をしているのだろう。
客もまばらな中、武彦とライブの話や音楽の方向性などを話していると、夕方からのバイトをしている仁がやってきた。
仁も武彦たちと同じロック研の部員だが、バンドは別だ。
年齢の割に古いロックにも詳しいので最初は驚いた。よくよく聞いてみると、父親がバンド経験者で、ハードロックを子守歌代わりに聞いて育ったそうだ。由緒正しきロッカーだ。
おれが昔からずっと追いかけてきたバンドを、仁も好きだという。彼らが日本に来てくれたら、一緒にコンサートに行きたいものだ。
「じゃああたしはこれで上がりますね」
エプロンを外しながら玲子が声をかけた。話が途中で終わった武彦は、少し名残惜しそうに席を立つ。
「続きはまたな。音楽のことを話したくなったら、店を訪ねてくれよ。ただし営業時間内に頼むな」
「解ってる。もう二度と閉店直後に押しかけたりしないから」
武彦はマイペースすぎて、凡人がついていけないような行動をとるときがある。だがその一途さが武彦の真の魅力だ。何かを生み出すような人物は、どこか型破りなくらいがちょうどいい。
オーバー・ザ・レインボウのメンバーは、多かれ少なかれ全員がそういう部分を持ち合わせている。リーダーのワタルは、若いのに彼らをよく束ねているものだ。とてもおれにはできない。
☆ ☆ ☆