「黒、漏れ出す影」
川に映る自分の顔を、顔から流れる川の始まる場所である瞳を見つめている。川に映るからという事以前に潤んだ瞳、哀れな世界に同情しているのか、惨めな自分が辛いのか。彼女が川に映った自分の瞳を今凝視しているのにはそれ以上に特殊な事情が有った、想像の域を越えて彼女の瞳には本当に月が宿っていたのだ。しかも瞳の周りの部分も黒ずんでいる、完全に黒と言う訳ではないがそれでもどちらかと言うと黒に近い色になっている。嗚呼、自分は本当に夜の化身になってしまったのだな、あの太陽の赤子を除けば恐らくはこの世界で動き回っている、この世界の無変化という属性と相反しているのは私だけであり、光の昼と相対する位置に有る闇の夜、そんな闇を纏わなければ私はこの世界で動く事は、変化し続ける事は出来ないのだろう、と彼女は諦めにも近い感慨に浸っていた。これから自分はどうなっていくのだろうか。この闇を身に宿して太陽の赤子と出会って、相容れない属性の両者が出会って生じる何かとは果たして私が期待する程に喜ばしい物だろうか、それどころか、何かの益の欠片すら無いのではないか、私は闇を消さんとする光に苦しみ向こうは光を剥ぎ取らんばかりの闇に傷付く、それならばいっそこの先出会わない方がいいのではないだろうか。彼女の闇の瞳は、彼女の思考さえも闇に染め始めていた。だが川の汚れなさは彼女の思考の淀みを払拭する、譬えお互いが側に居る事で苦しむ事になったとしても、この川の持つ清廉さを遍く世界に振り撒く為にも、私が今手にしたこの変化への自由を投げ捨ててしまう訳には行かない、もう一人のこの変化と言う無変化を貫く為の剣を持つ者太陽の赤子を私は拒否してはならない、それでなくてはきっとこの世界にきちんと立ち向かっていく事は出来ないだろう、変化と言う大剣は私一人で扱うには余りにも重い。彼女はその川の透明さ神聖さで自分でも知らない内に溜まっていた疲労感を洗い流してしまおうと川に手を入れる。そして顔を洗おうとした、この世界では新陳代謝は起らないのでそれは厳密には洗うと言う動作では無かったがそれでも汚れた自分を綺麗にする時の様な新鮮な心持ちで彼女は水を顔に塗りたくろうとした。だが、出来なかった、水は彼女の手に含まれた途端にその清廉であると言う属性を失ったからだ。彼女は物凄く気色悪い物が突然自分の予測を越えて手に乗っかって来たのに怖気を覚えその只の水だと思っていた物を投げ捨てた。それはぐしゃっと音を立てて透明な粘土の様に川にばらけた。彼女は一体何が起こったのかまるで分らないと言う風で暫らくその場で尻餅をついていた。水だと思われたその固形物はガラスの破片の様に川に突き刺さっている。目の前に散らばる透明な固形物は一体何なのだ、変化を否定すると言う事が水の性質をここまで歪めてしまったと言う事なのか。彼女は恐る恐るゼリーの川に指を入れる、その指はずぶずぶと留まる事無く力を入れる限りに川に入り込んだ。そして少量指先に川の欠片を取り、舌先で舐めてみた、味は無い。覚悟を決めて口の中に放り込むと手に持った時や指先で貫いた時の感触から予想される通りの歯応えでそれはすぐに消えて無くなった。多少不快では有ったがそれでも何時以来か思い出せない程に久々の水分摂取に心潤されながら彼女はじっと考える。水面は水ガラスの破片や彼女の指の型を修復しようとしない、それもまた無変化と言う事で考えると説明が付く、この川の成分はやはり味から言って単純に水でしかないのだろうが味と言う事以外では水は水らしさを失ってしまっているらしい。自分からの変化を許されていないので、水は水面を抉られたらそれを取り戻す事が出来ないのだ。彼女はその気は無かったとは言え水面と言う一様さの美を破壊してしまった事に申し訳無い気持ちになった。粘土を整える様な要領で水ガラスが好き放題に突き刺さった表面を撫で彼女なりに水面の代わりの滑らかな面を作り上げた。撫でる、か。撫でると言う行為で今はもうはっきりと思い出す事の叶わないこの世界に入り込む以前の日常、そこで自分の愛していた物へのその愛が再び胸に浮かび上がってくるかの様な奇妙な感覚に捕らわれた彼女は、もう十分に柔らかな調和を手にした水のオブジェにまだ新しく手を加えようとしていた。段々とこの水の粘土でその自分の過去の愛しき存在の輪郭を自分なりに空想して形作ってみようか、と言う思いに彼女が手の動きの目的を革め始めた所で、彼女の闇の瞳が闇を捕らえた。自分から漏れ出す闇、そう、影だった。




