「黒、優しき掌」
世界を拒絶していた彼女。それが今ようやく世界を受け入れる準備段階を迎えようとしていたのだが、その準備段階にて世界に少しでも心許してしまった事は彼女の瞳の満月を照らす真実の光の流出を招いた、供給源の居場所が定かではない現状で限られていた彼女が世界へ真っ直ぐな視線を保つ為の勇敢さの源泉、正しき光、それが示した苛烈な現実は暖かく彩られていた彼女の瞳の潤いを無遠慮に淀んだ物とした。彼女は、前向きに明るく、幸せそうで心躍らせている様子という物を化石化した心の中枢から先程より少しずつ発掘する事に成功しそれを大事そうに抱き締め今にも歌い出しそうに軽やかな足取りで進んでいたが、それは強がりと言う事であり、油断と言う事であり無知という事若さと言う事であった。彼女はつい、そんな心持ちの今までずっと忘れて来た、記憶の彼方に置き去りにして来た快い充足を他の何かにも分けてあげたくなってしまったのだろう、影が無くてこの上無く寂しく冷たい光の世界に在ってまるでその光の描き出す七色の彫刻としての麗しい趣きを帯びていない花々の悲しげな空虚さに彩りを注ぎ足そうとして彼女は恋人の頬でも撫でるかの様な慈しみを込めた手つきでそれらを撫でてしまったのだ。彼女の手は、撫でる物が既に無くなったのにまだ空気を撫でていた、それは彼女の予測の範囲を越えていたからだ、そう花は、触った途端に砕け散り、砂と化した。彼女は悲鳴を上げた、恋人の頬を撫でた積もりが恋人の首を絞めていた自分を恐怖したのだ。今まで花を、いやその対象は花が存在した空間でしかなかったが、その空間を撫でていた彼女の手は今は必死に彼女自身を撫でていた、そしてそれも新たな悲鳴と共に終わる、彼女は自分の手が愛すべき対象への独占欲から来る殺意の手だと本気で信じ始めてしまったからだ、こんな血塗られた恐ろしい手で自分を撫でたらきっと自分という存在のあまりの愛おしさに自分の事も砕き破り捨てようとするに違いない、そして自分は月の砂となりこの世界に吹き荒ぶ冷風に吹き上げられてしまうだろう。そんな事を考えながら地面を見ると彼女は新たな狂気の思想へ行き着いてしまった、この地面が影を映さないのはこの地面自体が影だからではないだろうか、彼女はこの急に頭に浮かんで来た思想自体を噛み砕けはしなかったが、意味合いは汲み取れた、つまり、この世界は死んでいるのではないか、無なのではないかと言う事だ。この光はもしかすると無という物のネガなのかもしれない、無でしかない空虚を或る物理で行くとこんな光だけしか存在しないと言う、闇の欠片すらないと言う純粋な明るみの世界が出来上がるのかもしれない、彼女はそんな異常な考えに眩暈がした。ただ、と彼女は眩んだ頭を振ってまともにしようとしながら思う、明るさと言う物は、生の象徴だ、存在がそこに在ると言う事を裏付けしてくれる様な建設的な夢に満ちた物だ、それでもこの光の世界は、基本的に死臭しかしない、この世界としてはまだ生きている積りなのかもしれないが、私から見るとここは只の荒れ果てた人の住まぬ地、闇の大地、月の地平だ。私の手は、この生を誤解して尚生きている振りをしてしまっているのかもしれない花に代表される死や無を殺せる手と言う事なのだろうか、だとすると。彼女は恐る恐るでは有ったが再度自分の肌に触れてみる、ひんやりと少し死体の様な感触では有るが、それでもいきなり砂になってしまう訳ではない、その存在は、偽りではない。彼女はその事に平静を取り戻した、だとすると、この手で本当の生や実在に触れる事も出来る筈だ、手は何かを壊す為ではなく何かに触れる為にこんな優しい形をしているのだと思うから。




