「藍、静けさ」
午前零時「藍、静けさ」
彼は目を泳がせた、それは答えを知らない悲しさ、答えを教えて欲しい悔しさ、答えを分からないままでいて欲しいもどかしさがそうさせる、満たされない心情の表れとしての動作だった。それでも、彼は口を開かねばならない、今まで話を全て黙って飲み込んでいた彼女がわざわざ放った言葉、その重みを彼は知っている、彼女は、今ただ彼が放つ言葉ではなく、彼女の言葉の欠片に嵌め込まれる失われたもう一片としての彼の言葉の正確な輪郭を必要としていた、曖昧に誤魔化した言葉ではなく、ちゃんと彼女の目を見て、淀み無く自信を持って言い切れる様なそんな力強い口調、表情、男らしさに基づく言葉が欲しかったのだ。だが彼女の望みは彼には残酷に突き刺さった、何故なら彼は分からないのだ、彼女に対しこの世界の全てを話してあげる事が出来ると言う程に喋り手としてよく完成されていたが、悲しいかな彼には自分自身については恐ろしく無知であり、やはり太陽の花から作り出された太陽の赤子でしかないのだった。太陽の赤子は、彼女の前で今男として成長する局面に立たされている。太陽花に残る一枚の花びらを蝋燭の炎として、暗がりの二人はお互いの顔を見つめ合っている。
彼は、意識の口を開いた、悲しげな表情そのままに、だが目線だけは彼女にしっかりと向けて語り出した、そうなのだと思います、でなくては貴方の世界であるここで存在できる訳は有りませんから。でも、僕は自分が只の貴方の子犬であるとは思えません、思いたく、有りません。そこで一度口を閉じた。この続きは今話す事ではないとお互いに了解が生れたからだった、今はまずこの世界と言う謎めいた真理を彼女に理解して貰う事が先決だった、二人の心の理解は、煩わしいそれらを片付けてからでも遅すぎはしない。
彼は彼女の質問が有った前までを脳内で再生し、自分が喋るべきである事を確かめ、構築しそして彼女に向けてその完成品を披露した。この世界が貴方との関係性によってのみ成り立っている、と言う話の続きでしたね、それはこの花に関してもそうです、今までにここに旅をしてくる間に幾つもの花々を目にして来た事と思いますが、あれら花は、貴方の心の希望なのです、希望と言うには少し違うのですが、ともあれ、あれが貴方の生命への意志を表しています。この世界は貴方に閉じこもった世界であり、この川の向こう側の世界、今はもう川などと呼べる程の幅ではなくなっていますが、この海になろうとしている川に浸食されていく世界と同化しなくては以前の世界を取り戻す事が出来ません、何故ならあの向こうの世界が以前人々や動植物達が太陽の微笑みの中で平和に暮らしていた世界の名残だからです。花は貴方の意志、そして川辺に有るこの花が太陽花として特別に存在しているのは、貴方の心にまだ閉じ篭り切らない以前の世界への憧れが生きているからです。でも逆に言えばこの花を失えば川辺の花は無くなる、貴方の心が閉じ篭り切ってしまうと言う事ですから状況は深刻であると言えます。僕らは、あの世界が完全にこの世界に取り込まれるまでなんとしてもこの花を生かし続けなくてはなりません、勿論、この状況を導いている貴方が以前の動物と植物が仲良く手を取り合って光の中で共存している世界を望むなら、の話なのですが…。
彼女の心には質問するとまでとはいかないまでも分からない事への疑問が幾つか生じたが、彼はそうした物を感知し選り分け的確に答えていった。あの以前の世界の名残に人々の文化の痕跡が全く見られないのは、貴方も不思議に思っているでしょうがそれは人々の活動した証の全てはあの天の太陽に封印されているからです。この世界に関わる事の出来なかった動植物は植物がこちらの世界での様に動物を食らってしまったかの真偽は置いておくとして向こうの世界に置き去りにされているそうなのですが、見ての通り侵食され続けているのでこの広がり続ける海に生命の種として吸収されてしまったのでしょうね。そして天の太陽が取り込んだ物はそうして一緒くたに吸収する訳にはいかない、何か人という生命を構築するに当たっての特別な生命の源と言う事になるのでしょうが、とにかく、貴方はあの人の生命力全ての塊と言った光の心臓で生きているのです、それを嫌な唾棄すべき鬱陶しい物だと認識してしまうのは貴方がその生を何処かでは否定し続けてしまっているからでしょうね、その生への嫌悪を克服するかそれともそのまま抱き続けるかで今後の世界の展開は変わって行く事になります、貴方は人の最後の審判を下す神の光をその手に宿しているのです。そう言われ彼女は自分が手にしている崩れ掛かった硝子球の中の花びらを見る。とても小さい光だが、彼女の目を突き刺す程に揺るぎ無く、強烈な光だと改めて感じた。
彼の話は続く。貴方の生命力が今非常に弱っているのはその太陽との繋がりが貴方の闇の流出によって薄まってしまっているせいです。あの人の太陽が貴方を支える役目を失えば今度は別の物を支える命の源として活動する事でしょう、それがいったい何なのかは僕らには知る由も有りません。ただ言えるのは、貴方の気持ちの持ち様一つでそれは悪魔にも天使にも成り得る、と言う事です。何が天使で、何が悪魔かと言う判断さえ貴方の手に委ねられていますが、僕は貴方が笑顔で良しと言い切れるような悔いの無い決断をして欲しいと願っています。
そしてただ太陽の花から受け継いだ簡単な事柄でしかなく、それを語れたならどんなにいいだろうかとつくづく思う詳細までは語れませんが、人間として生きていた貴方についてもお話しておきましょうか。貴方はごく普通の家庭に生まれ育ちましたが、それでもただ一つだけ普通ではない事が有りました、貴方は月に月の巫女として選ばれた存在だったのです。月の巫女の役目は、今貴方が選んでしまったこの世界に太陽の下に有る正常な世界を引き摺り込むか、そうしないかと言う事です。ですが人間生きていてここでは無い何処か別な世界が開けるのならそうしたい、と言う願望をなかなか捨て切れる物では有りません、人間社会と言う物が何度この月の巫女達によってリセットされ続けてきたのかは分かりませんが、恐らく全員が全員この世界を選んでしまったのではないでしょうか。この星の監視者である月としても世界の扱い方の乱雑な人間に嫌気が差して月の巫女と言う裁断者を送り込むのでしょう、だから一考して身勝手に思える月の巫女の判断もそれはそれで受け入れるべきなのかも知れません、月の巫女が全く満足な素晴らしい人生を送るのでない限りは、月がこの世界が成立してしまう事を望んでいるのですから。それに、月の巫女にはそう選ばれたに相応しい試練の様な人生が用意されていた可能性も有ります、例えば貴方の子犬が不慮の死を遂げたりしたとか…。彼の言葉にはそれ以上の含みが有った、そして彼女はその意味に彼女に封じられた過去をナイフで抉じ開けられる様な痛みを感じ身震いした、不慮の死、彼女の親しい存在が失われる事があったとして、それは本当に子犬の死だったのか、と。
彼の言葉に、彼女は我に帰る。そんな想像の話では何も分かりませんね、止めましょう。それで、あの天の太陽が嘘くさく感じられる理由がここにも有ります、あれは月なのです、この月の巫女が選んだ閉じた世界で我が物顔に天の太陽の振りをしている月なのです。あの天の太陽の嘘を暴かねばこの世界に発展は有りません、月は月ですから。ですがこうして太陽花に己の所業の全てを記録し僕に伝達させていると言う事は、月は月なりにこの負の輪廻を断ち切って欲しいのかも知れないですね、僕もそうなって欲しいです。僕らがこうした事実を知る事で覚える思いのかけらが次代の僕らの役割を受け持つ人間にひょっとして受け継がれていく可能性も有りますしね、随分楽観的な見方だとは自覚していますが僕はそう信じています。そこで彼はきっと彼女の瞳を見つめる、光に囲まれているのではっきりとは見えないが、それでも意志の強い凛とした美しい瞳が彼女には見て取れた。彼は言い放った、貴方は現実世界を捨てたいと思う様な、自分の命さえ忌み嫌ってしまう様な嫌な事をきっと経験してしまったのでしょうが、どうか勇気を振り絞ってこの太陽花の最後の一片が落ちるその時まで、僕と一緒にいて下さい、お互いの光と闇を殺し合う事になってしまうでしょうが、それでも僕と一緒に最後まで離れずいて下さい。彼女は微笑み、喜んで、と口を開いて頷いた。彼もそれに応じるつもりだったのだろう、元気良く子犬なりの精一杯の鳴き声を上げた。
二人は寄り添い、広がり続ける海を眺めながら、蝋の火が弱り切るのを待っていた、その火が消える時が、きっと二人の命の消える時だった。二人はもう何日もそうやって黙って過ごしていたが、彼が彼女に問いかけた事でその長い沈黙の日々は破られた。僕は、貴方にとって子犬ですか?それが彼の質問だった。彼女は彼の頭を優しく撫でながら冗談めかしてこう答えた、なんだっていいじゃない、貴方は私の可愛い存在なんだから。彼は悔しそうに、そんな答え、意地悪過ぎます、と返した。すると彼女は彼の頭を撫でるのを止めて、人間に対してする様に手を握り締めた、小さな子犬の手を、五つの指で大きく包み込む様に。それきり彼は何も言わず、そしてそのまま一日もしない内に息絶えてしまった。彼の光が消え、はっきりと子犬の姿が現れた。彼の死が分かっても彼女は手を繋ぐのを止めなかった、最後まで離れずに一緒に居る事、それが彼との約束だったから。生前に彼と交わした約束は一つも覚えていない彼女にとってそれが彼とのたった一つの大切な約束だった。
向こう側の世界が完全に水平線に飲み込まれた時、蝋の火が消えた。彼女は迎えの時が来たのを知った、もう私の体の闇は全て出尽くしてしまったのだろう。私から解放される天の太陽の光は、これからどんな生命を選ぶのだろうか、私は恐らく、死んでしまった恋人を求めるばかりに月の死の世界を選んでしまった情けの無い月の巫女でしかなかったが次の月の巫女はそんな事の無い様に平和な人生を歩んで欲しい、彼女はそう思った。彼女の瞳の月が彼女から離れ天に昇っていく。二つ寄りそう様にして昇る光、それは彼女と彼の魂の光だったのだろうか。彼女は消え行く薄れた意識の中で金具の音を聞いた。それは死んでしまった彼の首に掛けられた首輪に彼女が触れて鳴った音の様だった。彼女はその子犬の首輪にしてはサイズのおかしい金属の輪に刻まれた文字を何とか読もうとした、イルメイ…アス。何の言葉だろうか、この子犬の名前だったのだろうか、それとも…と彼女は自分の靴にも金具が付けられていたのを思い出した。そして彼女はそれを確認しようとしたが、瞳の月が天に昇り切ってしまっていてもうそうする事は出来なくなっていた。それでも彼女は諦めずに感触だけでそれに刻まれているであろう文字を判別しようと試みた。ファウバウ…ゼィナム。以前は読む事なんて出来ずただの模様だと思っていたのに、今は触るだけでそれを識別する事が出来た、恋人と心を触れ合わせ、失くしていた人としての記憶が蘇っていたのだろう。恐らく生前私達は名前をお互いの装身具に刻み合っていたのだろうな、と彼女は考えた。懐かしいその響きに涙毀れ、その涙は広く深い藍色の海の一滴となって彼女の命と共に消えた。




