「黒と白、重なる心」
闇は絶えず深まり続け、そして森は完全な黒を宿した、そう、彼女の流す血の色そのものに空間が余す所無く塗りたくられた。彼女はこの光しか許されていない様な世界であったここで初めて究極の闇を経験していた。ずっと前、思い出す事も難しい位、と言うよりそんな考え方を放棄していたのでそれを取り戻すのは単なる思い出すと言う事の難では無かったが、とにかくもう自分がそんな事を思っていたとすら疑わしい位今の自分から切り離された過去に純粋なる闇への憧れと言う物を抱いていた、たとえその時の憧れを削る事無いまま今ここに自分が居たとしても、恐らく満足を得る事は無いだろうな、彼女はそう感じていた。それは一つには近くに安らぎの白を放つ太陽の赤子が傍に居るせいも有る、こうして黒に囲まれて、黒以外への飢えを覚えさせられていると言う時に即座にその飢えを癒してくれる存在が有るというのは貴重である、それは正に砂漠のオアシス、地獄の仏、罪深き自分の恋人と言った輝ける光の側の存在で有って闇に閉ざされた者ならばどうしたってその光射す方へ歩み寄って行こうとしてしまうだろう、事実彼女が今この冷たい黒の空間でたゆみ無く迷い無く歩き続けていられるのは暗き洞窟を行く時の松明としての太陽の赤子が行く道筋を示してくれているからだ、やはり闇ばかりの世界に、正しさなど無い、闇が必要ではないという事にはならないだろうし実際それが潰える事など有り得はしないだろうが、その絶対的存在の闇に対抗する拮抗しうるもう一つの在り方の強固さを誇る光と言う剣は、どうしても無くなってはならないのだ。
やがて闇の洞窟は後方に行き過ぎ、そして彼女の瞳に与えられる太陽は二分した。彼女は、太陽の花の聖域に来たのだ、そして唐突に意識に干渉する概念体、言葉が現れた、それはどうやら太陽の赤子の発する心への言葉である様だった、その言葉を聴いた瞬間、いや恐らく彼に意識を触れられた瞬間だろうか、彼女は全身に懐かしさや愛おしさが駆け巡るのが分かった、この太陽の赤子、いや太陽の彼はどうしたって他人ではないのだ、何か自分と深い関係性が有りつつ今まで離れ離れでお互いを求め合っていたのだ、その事実を直感した時には彼女はもう彼の言葉以外には何一つ要らない真摯なる聴者と化していた。
彼は伝える。今まで話しかけることが出来なくてごめんなさい、僕はあの森達と同じで森が傍に居るときに意識を開放する事が出来ないんです、彼らに意識の槍で串刺しにされない為にも無言という盾で自らを守り続けるしかなかったのです、でもここならば大丈夫、ここは太陽花の為に彼らが作った闇の障壁で閉ざされているから。
ここで本来なら彼女は疑問を差し挟むべきなのだが、彼女にとっての神聖なる話者にはそんな無粋な物は要らなかった、確かに彼女の心には話への返答としての疑問の原型の様な物は随時形作られるが、それを意識の伝書鳩として彼の心に羽ばたかせなくても彼は彼女の心に優しく触れるだけで全てを分かってくれるのだった。
彼は続ける。この障壁は彼らが闇をその身に宿していた時に作った物です、彼らは最初は太陽の花にその己の持つ闇の力で立ち向かっていきました、でも彼らには全く歯が立ちませんでした、向かって行った所で彼らの命を無駄に浪費するだけで、太陽花はその輝きを弱めようとはしませんでした。そこで彼らはこの花をどうにかするのを諦め、この花の輝きを彼らに届かせなくする為の障壁を作ったのです、それで彼らの闇の力はかなりが失われてしまいました、彼らや僕、そして貴方はこの世界で動く事を許された数少ない存在ですがそれでも完全に自由に動き回れる訳ではなく実際その身に纏う光や闇は動く度に失われていきます、僕らと比べて個々の力の弱い彼らは闇の流出がそのまま影の喪失、つまり体の欠落に繋がっていたので宿す力が弱まり身体の闇を漏れ出させる傷口が増えれば増える程流出は加速しました、そうして弱まった闇の力はどんどん彼らから放出され、貴方と言う闇の化身として結実しました。尤も、今の彼らはあの時の彼らとしては生きていないので己の所業の事などまるで記憶してはいないでしょう、太陽花が有る、そして自分達にはそれに太刀打ちする力が無い、と言った部分に関しては覚えていても自分達が闇の壁を作ったという事は覚えてはいられない筈です、身近に餌の塊が有る等と言う記憶が有ったら居ても立っても居られなくなる筈ですから。どういう風にしてか、彼らは闇の一族として生きていた自分達を一度殺したのだと思います、彼らは色々と今の僕の発言と辻褄の合わない、己の立場を正当化する為の嘘を喋ったと思うのですが今ああして森として生きているのは闇の器だった只の抜け殻、いわば亡霊なのです。彼らの理想はもう彼らが彼らを殺した時に終わっているのでしょう、彼らがそれについて語っていたとしても、それは只の理想の残骸です。
話を戻します。僕は彼らが闇の壁を作る直前に生まれました、多分太陽花が花びらを落とした時に生まれたのだと思います、そして僕が生まれた時には、最初にそれが何枚有ったかは分かりませんが、花びらは残り二枚にまで減っていました、その二枚以外の全ての力で僕は作られたのだなと思いました、それだけ僕にこの太陽花としては賭ける物が有るのだな、と。闇の壁が作られてしまえば僕はきっと闇の壁の向こうに辿り着けなくなってしまいます、僕は太陽花がお守りにと言わんばかりに落とした花びらを咥えると急いでその場を離れました。こうして今最後の花びらだけを残したみすぼらしい姿になってしまっているこの花ですが、僕がここを離れた時と同じ姿のままで居てくれたので良かったです、図らずもこの闇の壁は太陽の花を守る役目を果たしてくれた様ですね。
僕は森を駆け抜けました、森が驚きと共に僕を攻撃しようと闇の槍を飛ばして来ましたが、僕は太陽の花の全力で作られた光の戦士です、そう簡単には負けません。それを何とか切り抜けると僕は森を抜け出る事に成功しました、闇の壁に封印されてしまった太陽の花が心配では有りましたが、僕は僕の成すべき事が来るのをじっと森の外で待ち続けました。
そして、それから僕は森の宿す闇の行方を感知する事に精を費やしていたのですが、その闇の流出先がどうやら一所に偏っているらしい事に気が付きました、それが貴方だったのです。僕は貴方の所まで駆けて行きました、そして出会いました、出会って、貴方の持つ闇の力に僕は震え上がりました。僕は心閉ざした貴方にそっと鳴き声を上げ、と言うのも僕の体が子犬だからですが、そうして貴方に僕に付いて来て貰おうとしました、ですが泣き始めてしまった貴方、この世界の外部からの刺激に不快感を覚えた貴方から発せられる闇の波動は僕の体には余り有る物でした、貴方の傍にいたら一日もしない内に命を奪われる、そう感じた僕は必死にその場から逃げ去ってしまいました、自分の役目も何も考えられず、ただひたすらに。
それから何とか貴方から離れて冷静になってからは、如何に貴方に森まで来て貰うか、と言う事を考えました、貴方から離れたままでどうにか貴方を森に導く術は無いものか、と。考えてもいい方法が浮かばないので、とりあえず自分が闇の行く末、つまり貴方の行く末を感知出来る能力を利用しました、貴方は運良く僕が逃げ去った方向に歩み寄って来てくれていたので僕は暫く貴方が近付いて来るのを待つ事にしました。そして或る程度まで貴方が僕の近くまで来た時に自分の光が弱まっていく感覚を覚えました、貴方の闇に光が削り取られていたのでしょう、これを感じた時にああ、恐らく貴方も同じ様な感覚に捉われているに違いない、この感覚が有るなら貴方を上手く森まで誘導出来るだろう、と考え僕は命とも言える光を失い続ける覚悟で貴方と歩調を合わせ歩き続けました。
しばらくそれを続けていくと思いがけず、世界は夕日に沈んでしまいました、貴方と僕の干渉が長く続き過ぎたので貴方に留まっていた闇が世界に流出し過ぎてしまったのでしょう、そして貴方は歩く気力を失ってしまったのか、歩くのを止めてしまいます。僕は困りました、また貴方に向かって歩いて行って貴方に立ち上がって貰おうと鳴き声を上げる事が出来ると言う程自分の光の力はもう残っていなかったからです。そこで僕は太陽の花のくれたお守り、貴方が今手に大事に持ってくれているその花びらを風に浮かべて賭けに出ました、もし貴方の所までこの花びらが辿り着いてくれたなら、貴方はこの花びらの輝きにまた歩く気力を取り戻してくれるかも知れない、と思ったのです。そしてその賭けは成功してくれました、貴方はまた歩き出す気力を復活させてくれました。それから僕は貴方が森に入るまで森に入らないまでも程々に森に近い場所で待機していました、僕が最初に森に入ってしまうと森との戦いで僕が死んでしまう事になるかも知れないと思ったからです、貴方もお守りの光の花びらを持って来てくれていたし、そんなに直ぐに危険にさらされる事は無いだろうと思っての判断でした、彼らの恐怖を味わわせたくは無かったのですが、僕と言う意識介入の妨げを彼らのそばに置かないでおいて、貴方の存在を闇を太陽花にどうしても纏わせたがっている彼らに悟らせれば僕らに危害を加える事も無くなると思いましたし、二人が生きて太陽花に辿り着く為には仕方なかったのです。しかしもう僕の光では貴方に影を作る事は出来なくなっている様で、貴方の影が太陽花に対するものとして存在していたのには驚きました、太陽花が必要とする所の貴方は、あの闇の壁さえも越えて太陽花と共鳴出来る物なのかと。
闇の壁も貫く程の太陽花への干渉力を誇る貴方となら、きっとこの壁を通り抜けきれるだろう、そう信じて僕は貴方と一緒に闇の壁に入って行きました、広大な闇の中を、僕は太陽花がこれからなそうとしている事に必要だとする、正しい闇だと信じられる貴方と共に居たからこそ自分を失わずに歩き続ける事が出来たのだと思います。
ありがとう。
これは二人の言葉だった、初めて彼女が意識として飛ばした言葉が彼の発したそれと全く重なったのは、きっと偶然では無かった。人と犬、意識間でしか交流の出来ない二者は、だが意識を通じてより深く分かり合える。死の近いだろう二人は、そんな死などよりももっとお互いを近くに感じていたに違いなかった。
そして彼は言葉を紡ぐ、彼には死ぬまでに伝えるべき言葉が有る。それで、僕にはこの太陽花が持っていたのだろう知識が有ります、この世界に関する知識です。あの天の太陽、貴方にとって嘘くさく感じられている筈のあれは、貴方の心臓です、あれが有るから貴方は生きて来られたのです。正確に言えばこの世界の心臓なのですが、そうではなく貴方の心臓というべきなのには理由が有ります、この世界は、貴方自身だからです。この世界は貴方との関係性との中にのみ成り立っています、例えばあの森は貴方が人間界で生きていた頃に貴方が何らかの形で関わった植物です、目にしたか、触れたか、葉擦れの音を聞いたか、そうして貴方との関係を獲得した木々だけがああしてこの世界での存在理由を得ています。僕が子犬なのもそうです、人間も動物も基本的には存在できないここで僕が子犬として存在できているのは貴方がただの人間の少女だった頃に飼って愛していた子犬だからです。彼女は今、水辺で愛しい物の輪郭を形作ろうとしたと言う行為を思い返していた、いや、あれはあの時には確かに物程度への愛おしさだったのだが、果たして今感じている感情はその程度に留まるのだろうか。疑問の原型と呼ぶには余りにも目立つその概念は殆ど言葉として彼に届いた、そしてそれは彼らの間に沈黙を呼んだ。数瞬の後、彼女は初めて彼にはっきりとした疑問を投げかける、貴方は、本当に私が飼っていた子犬なの?




