不可侵の条約
◇◆◇◆◇
「何故!!」
一人の男が激昂したように声をあげた。
◆◇◆◇◆
この度、幾多の困難と障害を越えようやく王となったアレクシスは、目の前の光景に驚いていた。
アレクが多難な皇太子時代から知っているその男、ゼフィルスはどんな局面に遭遇してもこのように激情のまま声を荒げたことがなかった。
いつも穏やかで理知的なゼフィルスは、アレクのことをよく理解してくれた者の一人であった。
王が驚いたようにこちらを見ているのに気づいたからか、ゼフィルスはなんとか呼吸を整えてもう一度問うた。
「……何故、我が故郷に帰ってはならないのです?」
「私は故郷に帰ることをお止めしているわけではありません。そのまま故郷へ帰られても貴方が妹君に会うことはできない、と申し上げているのです」
感情を圧し殺した声に答えるのは、この国の筆頭予言者の淡々とした声だ。
この年若の予言者は、ゼフィルスのことをかなり慕っている。
予言者ズィーの方が年相応に子どもっぽく、癇癪を起こしてはゼフィルスに宥められるのが定石のはずだった。
アレクはますます不思議な光景に、まずは黙って成り行きを見守ることにした。
「なぜ?村に行けば会えるでしょう。……ひょっとして、イリス…妹が私を拒んでいる予知が……?」
ゼフィルスに思い至るのはそれくらいらしい。
いや、それ以外を想像したくないだけかも知れない。
ゼフィルスは辺鄙な土地でひっそりと暮らしていた、名も知れぬ賢者だった。
彼自身はさほど自分が賢者とは思っていないようだが、アレクの苦難の道のりでひょっこりと現れたゼフィルスは、様々な知恵を与えてくれる貴重な人材であった。
ゼフィルスはその若さで驚くほど色々なことに通じ、また未知のモノに対して好奇心を静かに、それでいて強く燃やしていた。
それでいながらどこかのんびりとした雰囲気を漂わせ、周りの人望も厚い穏健な人物だ。
最初はアレクを皇太子と知らずに知り合い、目の前で他人が困っていたらとりあえず助けてしまう、というお人好しさ加減で、いつの間にか王の側近としてこの城に留まることになっていた。
不遇な皇太子時代からアレクを支えてきた者として、一般庶民にも関わらず、それが当然のこととして城で受け入れられている。
貴族から大きな反発がないのは、出来立ての王の後ろ楯というより、ゼフィルス個人の人徳おかげだと言っても過言ではない。
政治に関わればさぞかし頭角を現すであろうゼフィルスは、現在でも様々なところから惜しまれているようだ。
実際、皇太子時代はその頭脳によって幾度もアレクを導いてきた。
しかし「困った時は呼んでください」と言って、政治が落ち着いたいまではすっかり本の虫になっているだった。
時おり医務官と新薬の開発に専ら勤しみ、気が向いたと言っては城下の様子を見に行く。
ゼフィルスの本心を王は知っていたので、その行動についても咎めなかった。
そんな知識以外に無欲極まりない男が初めてその他のことを望んでいたのだ。
城の様子が落ち着いた今、唯一の肉親である妹を迎えに行きたい、と。
けれど王は、お互いに会いたくても会えない状況を知っていた。
……死別とは、その状況の最たるものではないだろうか。
ゼフィルスも言っていたではないか。
両親は流行り病で亡くなったと。
もしその妹もそうであったなら?
王と同じ考えに至ったゼフィルスは青ざめていた。
ゼフィルスは、城の政争に己が巻き込まれて死ぬことはあっても、妹は無事だと信じていたのだ。
妹は薬草に対してかなり勘が良かった。
両親が亡くなってからは更に薬作りに没頭していく様を見守っていたのだ。
イリスは面白い発想とその感覚をもって、様々な薬を作っては村のためにと言って流行り病への特効薬すら用意していた。
どれもこれも確かに効き目があるものばかりで、兄である自分も舌を巻いた。
しかし、ゼフィルスの出身地である辺境の村では、いかに妹の腕が良かろうと良い材料自体が集まらないかも知れない。
予言者の少女がなぜこの若さで筆頭と呼ばれるのかには訳がある。
未来のことだけではなく、現在に起こっていることや過去にあったことを『視る』ことができるのだ。
もっとも過去や現在は細切れにしか『視れ』ないから未来を読むことより精度は落ちる、と本人は言うが、それでもその腕を王もゼフィルスも信頼していた。
だからこそ、ズィーの言葉は重い。
「妹君は村に居ません。別の場所で暮らすことを選んでいます」
「別の場所…?」
どうやら最悪の事態ではないことに胸を撫で下ろしたが、ゼフィルスには別の場所とやらに思い当たる節が無かった。
両親が遠くから駆け落ちも同然にあの村にたどり着いた、余所者だと聞いている。
村にも、遠くの地にも、引き取ってくれる縁のある親戚は居なかったはずだ。
「……妹君は森と相性が良かったのでは?そう感じたことはありませんでしたか?」
「それは……」
唐突に変わった質問をされ面食らいつつも、確かに妹にはそんなところがあった。
小さい頃、何度両親が駄目だと言っても森の中へ入っていってはしっかりと一人で帰って来られるのが妹だった。
道の目印を聞いても、妹が指摘する木の特徴や地形のポイントは普通の感覚では分からないこともしばしばあった。
「幼い頃から森が身近だったからじゃないか?ゼフィルスも森を歩き慣れているし」
そこで初めてアレクが口を挟んだ。
どうやら興味を抑えきれなかったようだ。
その問いにズィーはゆるく頭を振った。
「いいえ、王。“森人”はその程度では説明がつかないほど森に気に入られている者のことを言うそうです」
「イリスが“森人”……」
その可能性もゼフィルスは薄々感じていた。
しかしそれについてあまり深く考えたことは無かった。
“森人”だろうが徒人だろうが関係なく、イリスのことを大切に思っていた。
確かめたように呟いたゼフィルスにズィーは少し気の毒そうな調子で言った。
「……妹君は、どうやらエルフの里にいるようです」
「まさか」
ゼフィルスは言葉を失った。
◆◇◆◇◆
真っ青になって黙ったゼフィルスを見て、王はいぶかしんだ。
「ゼフィルス、どうした?」
純粋に不思議だった。
アレクはエルフが理知に富んだ種族であることは知っていたし、そのことを王に初めて教えたのは他ならぬゼフィルスだったはずだ。
妹君がその者たちといるのがそんなに不味いのか?と重ねて問えば、ゼフィルスは重々しく口を開いた。
「私の予想では………その前に、ズィー殿はどのような経緯で、妹が……」
「エルフの森に住まわれているのかを『視た』か?ですか?いいえ。残念ながら、私も全てが『視えた』わけではありません。特にこの件に関しては“過去”でしたから、変える余地のないものです。私に『視えた』のは祭場のような所で一人縛られている場面と、森の何処かでエルフと会話をしている、という断片的な光景でした」
故郷、妹、エルフ……
ゼフィルスの脳裏にはある可能性が浮かんでいた。
ほぼ確信に近かった。
「……生け贄、だと思われます…」
ゼフィルスは王の問いになんとか答えた。
「生け贄?」
アレクは再度尋ねた。
エルフへの生け贄。
しかし、その役目は他にいたはず。
故郷の村に、一定の間隔をあけて必ず生まれてきた、白き宮の白き娘。
彼の村の古来からの風習に、30年に一度森のエルフへ白き娘を捧げる、というものがある。
エルフは穏和な種族であり、こちらが干渉しなければ人を脅かさないと重々承知しているゼフィルスは、その風習に納得していなかった。
けれど、止めることもまた、しなかった。
自分にそれだけの発言権があの村で無いのも一因だが、白き娘は発達障害であり、もし万が一エルフに捧げる必要がないとしれば、たちまち村人はその存在を疎むようになるかもしれないという懸念もあった。
生け贄のためとはいえ、無条件で保護を受けられるその制度は、白き娘にも必要だったのだ。
生け贄にされた白き娘を、エルフが無下にしないこともゼフィルスには予測できていた。
また、30年に一度の年を経験したことがなく実感がないのも、あの頃の自分がその風習を深く考えなかった。
余所者を親に持つイリスは、厳密にはその土地の者ではない。
だから白き娘でないし、第一その容姿も白き娘の特徴とは異なる普通の子だ。
それなのに、なぜ妹のイリスが?
その答えがゼフィルスに解らないはずもなかった。
白き娘がなんらかの理由で生け贄として扱えず、その代わりに誰かが必要となったのだろう。
その時、贄に選ばれる条件は、簡単に思い付く。
反対する身内がいるか、いないか、だ。
王に仔細を説明しながら、ゼフィルスは今さらになって後悔した。
その風習に反対しなかったことも、妹から離れたことも。
握り込んだ拳の中で手のひらがキリキリと傷んだ。
引き取り先がエルフであることが救いではあるが、それでも何があるかわからない。
もしかすると差別があるかもしれない。エルフのことを自分はすべて知っているわけではないのだ。逆にイリス自身が馴染むことができないかもしれない。
何より、一人でその地へ赴かなければいけなかったイリスの心細さを思うと、やるせなかった。
そして、彼女がエルフの里にいるのなら、自分たち人間側に立ちはだかる大きな壁があることは、ここにいる誰もが知っている。
―――不可侵の条約。遠い昔、エルフと人が争い、勝利をおさめたエルフが望んだたった一つの誓約だ。
エルフたちは、ゼフィルスの出身地であるソーレ地方と、南にあるリバルサール地方の森を棲みかにしていると聞く。
また、王は王都に来ていたエルフと魔術師を通じて会ったことがあった。
初めは普通の人に見えていたが、こちらが人の王であると気付くと慌てて本来の姿になっていた、あの律儀なエルフたちを思い出していた。
偽り姿によって欺く行為はあまり褒められたものではないから、とわざわざその変化を解いた。
その本来の姿を見て、これは確かに普段人間のいる場では変化していたほうがいいのだろうな、と、なかば感嘆しながら王は思った。
彼らはあまりにも美麗すぎるのだ。
特徴的な耳やすっきりとした目鼻立ちも勿論だが、どこか本来の姿に漂う雰囲気が明らかに人と違った。
「会いに行くことはできないのか?確かに彼らの森とはそれぞれ不可侵の誓約を交わしているが、まったく行き来がないわけではないだろう?」
側に控えていたあの時と同じ魔術師に問えば、難しい顔が返ってきた。
「……城の者が彼らの森に立ち入ることは出来ません。ゼフィルス殿はもうすでに入殿の儀式にて印されておりますから、不可侵を犯す者とみなされましょう」
「代理の者をたて、妹君のほうに出向いてもらえばいいんじゃないか?」
「となると問題点は3つ。
1つは、賢者殿の故郷にあるホロの森です。ホロの森には古来より綿々とその中へ踏み入れる者を迷わす呪があり、その呪はエルフがかけたものだけでなく、他の魔法生物もかけた魔法が混在しております。複雑すぎて今ではもう解呪不可能と言われるものの一つなのです。不思議なことに、その森に住んでいる者は迷わないのですが、外で暮らす人間はたちまち迷ってしまうのです。
2つ目は、代理とはどこまでが国の使者と見なされ、不可侵の理に触れるのかです。確かにエルフたちがこちらへ出てきた際に交流はありますが、逆は許されておりません。我々が伝言を頼んだ人間もこの城の者と見なされるかどうかは断言できませんので、危険です。
3つ目は、万が一先に述べた2つの問題を解決できたとして、エルフたちが簡単に我々へと賢者殿の妹君を引き渡すかどうか、です」
魔術師がそこで発言を止め、奏上終了の合図に頭を垂れたので、王は片眉を上げた。
先ほどから無言で控えていた、この国の宰相、兼アレクの後見人である初老の男性が続けて答えた。
「王、もし突然訪れた者が妹君を引き取りたいと言えば、エルフたちはいぶかしみます。それも城の賢者の妹君として。エルフたちがもし、それを我々が戦争を仕掛ける前準備として、人質の引き上げをしたのだと考えたならどうでしょう?同時に妹君の価値を相手に知らせることにもなります。本当に人質として妹君が扱われかねません」
王は、エルフは穏健なのでは?という意見をしかけた。
けれど、それをする前に宰相は首を振った。
「確かに彼らは理知に富んだ種族です。しかし、愚かではない。裏切りや条約の不履行に敏感で、報復は苛烈を極めると古書には記されております。
仮に城からの使いであることを伏せても、情が移った者を得体の知れない使者に引き渡しはしませんでしょう。
また、こちらへと出てくるエルフに言伝てを頼むのが一番無難でしょうが、やはり人質としての価値を知らしめてしまうのには変わりありません。
どうにも八方塞がりなのです。
……下手に刺激すれば、今後の友好的な交流は望めなくなりましょう。魔力の強大なエルフとことを構えるのは1つの国では荷が重いのです。彼らは昔、人全体と対峙しながら勝利を勝ち取ったのですから」
ゼフィルスはじっと黙っていた。
誰もが長々と理屈を言って、要するに妹を引き取ることに反対だ、と言いたいのだ。
そして、それを正しいと考えてしまう自分がいた。
私情で国を揺らがすことはできない。
たぶん大丈夫、という生半可な案では、妹一人のために戦争へと発展するかもしれない迂闊な行動は、取れなかった。
なによりその思考を鈍らせるのは、未来を『視れる』予言者ズィーが何も言わないことも一因だった。
もしこの不可能に思える状況の打開策があれば、この少女が何かしら発言しているはずだ。
それが、黙っている、ということは―――
「予言者として、意見はないか?」
王が問うた質問に答えた声は、相変わらず簡潔で淡々としたものだった。
「ありません」
◇◆◇◆◇
ゼフィルスが去った後、他の会議出席者や従者たちを人払いして下がらせ、王は改めてズィーに向き直った。
「……会わせてやることは出来ないのか」
「ええ」
「どうしても?」
「王は無益な戦をお望みですか?」
「そうは言っていないだろう。だが」
「情に流されてはなりません。それに、これは彼が選んだものの答えなのです」
「……この城へと来たことが、過ちだと言うのか」
「いいえ。そうではありません。彼は王とお会いするより昔に、選んでいたのです。妹か、己の夢か。その結果が、今になって表れただけなのですよ」
努めて淡々とした声を崩さないズィーに、王は溜め息をついた。
「………ゼフィルスは、傷付いているぞ」
その言葉に、彼が退出した扉を見続けていたズィーの瞳が揺れた。
「お、怒っていた、だけではなく……?」
とたんにおろおろとし出したズィーに王は苦笑した。
ズィーは他人の心の機微に疎い。
まだまだ少女だからとか、宮廷に来て間もないからとかいったことはあまり関係ない。
特殊な生まれ育ちのせいで圧倒的に人との関わりが少なく、心を読み解く経験もそこらの幼子より足りないのだ。
「ゼフィルスはな、お前の予言が外れないことをよく知っている。お前を信頼しているし、予言に関して嘘をつかないことも分かってる。そんな予言者に『お前の希望は通らない』って言われてみろ。否定された気分になるだろう」
だんだんと情けない顔になる少女に、アレクは少し言い過ぎたな、と思った。
けれどそれでも、ズィーの瞳の光は変わらなかった。
ゼフィルスの妹との再会には、どうしても賛成できないようだ。
そこまで無理だとズィーが言うのなら、本当に難しいのかも知れない。
王も難しい顔にならざるをえなかった。
「……やはり、難しいのか……」
「私だって何度も『視た』の!どれもこれもゼフィルスが傷つく未来ばかりなんだ」
口調が完全に崩れていた。少女の必死な訴えにアレクは眉をしかめた。
「ズィー?もしかしてお前、この頃勤務を辛そうにしてたのはそのせいじゃないだろうな?」
ギクッと分かりやすくズィーの肩が跳ねた。
「あ……だって……ゼフィルスにとって良い答えが出るかもって思って………次こそは、次こそはってやってる内に…」
「阿呆が。それで身体に負担をかけて体調を崩したら、それこそゼフィルスの望まない結果になるだろうが」
「……別に、ゼフィルスのためなら全然苦じゃなかったし……」
拗ねたように呟いている。
が、もし本当に己のために体調を崩したら、ゼフィルスが本気で心配することも知っているからか、ズィーも多少後ろめたそうではあった。
アレクシス王はこの問題に関して忠告するのは自分の役目で無いと判断し、また本題へと話を戻した。
「それで?お前が“本気”を出して『視た』結果が、再会に反対という意見なんだな?」
ズィーがこくんと頷く拍子に、くるくるとした黒い巻き毛の一房の髪が、褐色の肌を滑り落ちた。
その平然とした様子に、アレクは片手で額を覆った。
ズィーの“本気”は並大抵ではない。
前のズィーの主が彼女を酷使していたときに培った“本気”は、そこらの予言者では到底及ばない緻密さと根気のいる何通りもの『視る』という作業をする。
その様を、現在の主である王は知っていた。
「…まったく……とんだ無茶をしたもんだ……」
「とにかく、“今”は駄目なんだ!」
「“今”だけか?」
「うん。未来にはまた新しい道筋が生まれてるかも知れない。一応…その兆しはあると思う……けど」
自信なさげにズィーは言った。
ズィーの視通す力は強い。まだその未来が形作られる前からの存在すら『視る』ことができる。
それでもその兆しは本当にできるかどうか分からないし、ズィーが視通せないほどとなるとそれだけに現実的ではない、という事なのだ。
先ほどその兆しのことにまったくといって触れなかったのは、ゼフィルスに下手に希望を持たせたくなかったのだろう。
希望が無くなる時の絶望は、希望を知る前の哀しみより耐え難いことをズィーは身に染みて知っていた。
「そうか……分かった。もう少し現実味を帯びてきたらゼフィルスに言ってやれよ」
「う、うん。そうする……でも」
「でも?」
「も、もう、私の話、聞いてくれないかも」
「何故?」
「だって………ね、ねぇ、アレク?私、ゼフィルスにもう……嫌われちゃったかなぁ」
王は、破顔した。
ぽん、と手のひらをズィーの小さな頭の上へと置いて落ち着かせるように撫でてやった。
「ゼフィルスは賢者だ。お前も知っているだろう?お前の立場も気持ちも、あいつはいつも読み間違えたりしない。きっとぜんぶ判っててくれてるぞ。……それでも、というなら仲直りしてこい」
手のひら越しに、頷く気配が伝わった。
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『贄はエルフの付き人に』の、イリスの兄にスポット当てた、時系列としては本編から更に数年経ってからのお話です。
本編を読んでいない方も関係なく読めます。