deep kiss
名木晴菜はとにかくツイていなかった。
先日、契約を渋っていた顧客がようやく契約書に判を押してくれたという先輩の長期戦に良い形で終止符を打たれたのと、早めの忘年会、自分達新入社員の歓迎会を兼ねて飲み会が行われた。
入社して八ヶ月が経過し、忘れ去られているのだろうとばかり思っていた時にようやく開かれた今更な新入社員歓迎会であったが、新入社員として祝ってもらったのは当初入社した半数に満たない人数だった。
部署別の歓迎会だったにしろ、学生時代に専門知識を身につけ、いざ社会に飛び入ったところで、その知識がすぐに役立つはずもなく、もしくは自分の希望していた部署とは別の部署に配属になったことから、高学歴の新入社員ばかりが現実の壁にぶち当たってそのままリタイア宣言をしたのだ。
高学歴者というのはそれなりにプライドがある手前、どうも自分の身に合った職場を選ぶのが下手らしい。
自分の身に合った職場に就職できる確率など、ほんの一握りで、本来ならば自分がその職場に身を合わせなければならないのだとリタイヤ者が気づくまでに、もうしばらく時間を要するのであろう。
そんな中で晴菜はこの会社で生き残った戦士だと言えるかも知れない。
黒澤不動産と言えば、誰もがその名を知る一流企業の会社だが、晴菜の勤める会社はその子会社で、名前だけで釣られて入社した若者達が即座に“こんなはずではなかった”と愕然として自分の未来を絶つのだ。
本社は大手ビルやホテルなど大きな仕事をしているが、子会社のここは個人住宅を主な売り上げとするところだ。
実のところ、晴菜もその事実を入社してから知ったのだが、文句一つ言える立場ではないし、自分の勘違いが原因だと理解しているため、あえて口にはしなかった。
辞めて行った高学歴者達とは違い、晴菜は建築に関して全く無知だった。
現役で卒業した大学は文学系の大学だったし、人に誇れるようなほど名の知れた大学でもない。
将来の夢も語ることのできなかった晴菜が、とりあえずという理由で入学し卒業した大学であった為、その程度だと言ってしまえばその程度だが、とりあえず大卒という小さなプライドだけは確保した。
散々親のすねをかじって大学を卒業できたのだから、せめて就職先はいいところへ行き、親を安心させたいとただそれだけの理由で、ここを選び採用されたのだ。
当然のように親は黒澤不動産という会社の名前に飛び跳ねるほど喜び、大学の頃にバイトで貯金していたお金で一人暮らしを始めようとしていた晴菜に、一人暮らしのマンションまで見繕ってくれた。
まったく、過保護と言えばいいか――実際はギリギリに内定した就職活動であったため、大助かりと言えば大助かりなのだが、敷金礼金まで払ってもらった上、一年間の家賃まで支払ってくれた親の手前、辞めたくとも辞められないのが現状だ。
高学歴者でなくても社会の厳しさは晴菜でもよく理解できた。
何度も同じ過ちを繰り返し、上司に叱られ泣いて過ごす日々が続いていたが、一人暮らしを始めてからは誰も傍に寄る人はおらず、本当に孤独でたまらなかった。
次々と同僚と呼べる者が辞めていく中で、その人たちを羨ましいとさえ思いながら、それでも細かな雑用を次々とこなしていった晴菜に、ようやく先輩達も優しい目を向け始め、仕事にやりがいを感じ始めた。
歓迎会では、会社のオフィスに居る時とは別人のように晴菜に話しかけてきてくれる先輩が多く、晴菜の努力を賞賛してくれる人も居た。
あの時、本当に頑張ってよかったと報われた気持ちになり、涙が溢れそうになったのを必死に堪えて、先輩達に進められるがままに酒を浴びるように飲んだのだが。
気づけば次の日の朝を自分の部屋のベッドで向かえ、飲み会をした後の記憶がまったくない自分を酷く戒めたのは言うまでも無い。
休日だからよかったものの、二日酔いの頭を覚まそうとコンビニに行く為に外に出た途端、大家に捕まりとんでもなく長い説教を食らった。
どうやら酔いの酷かった自分が、大声を張り上げながら真夜中に帰宅し、近所迷惑を被ったらしい。
泥酔した晴菜を介抱するために会社の誰かが自宅マンションまで送ってくれたらしく、その男が晴菜の代わりに大家や近所の人に頭を下げて謝罪をしていたという話まで聞かされ、本当に顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした。
自宅まで送ってくれた男の存在など、皆目検討もつかなかったが、多分同じくして新入社員として歓迎会に出席した鎌中だろうと勝手に予想を立てた。
鎌中は大学生時代に、友人に無理矢理連れ出された合コンで出会ったのが初めてだった。
彼もまた恋人が存在するにも関わらず、人数調整のために友人に無理矢理合コンに参加する羽目になったのだと苦笑して教えてくれたのを思い出す。
それ以来は本当に気の合う友人として、彼にとっては同じ年齢の晴菜をまるで妹のように大切にしてくれた。
人より恋愛感情に臆病になった頃も鎌中は一番に晴菜の元へ恋人と共に駆けつけ、落ち込む晴菜を励ますために明け方まで付き添っていてくれたこともあった。
就職活動を始めてからはめっきり合わないと思っていたのだが、この会社の面接試験の日に偶然に会った時には驚いた。
男としてはどうかと思うほどおしゃべりで情報通だった鎌中は、営業向きと判断されて採用されたらしく、人見知りをする晴菜とは雲泥の差であることは事実だ。
その割りに、口が堅いときはとことん堅く、信頼できる男でもある。
多分、鎌中がいなければ即座に会社を辞めていただろうと思えるほど、信頼しきっている男だ。
休日が空けたら甘党の鎌中に菓子を包んで謝罪しようと心に決めたところで、大家の説教から解放された。
泥酔した挙句、同僚に迷惑をかけるなど、ツイていない以外に表現のしようがないだろう。
ここで“ツイていない”ということに関する説明が終了したらよかったのだが、晴菜のツキの低迷はここで終わることなかった。
週明け、鎌中に謝罪する間もなく課長の付き添いで新築を考えている施主のところへ赴いたのだが、そこでとんでもない失敗をしでかした。
会社から一時間以上かかる場所に住む施主の元へ、時間通りに向かったまではよかったが、別の施主に依頼された設計図を間違って持ってきてしまったのだ。
多忙な施主が時間を裂いて打ち合わせに顔を出してくれたのに、晴菜の間違いで課長に大目玉を食らった。
当の施主は晴菜のミスを笑って許してくれ、今日のところは時間も押しているからという理由で打ち合わせがなくなってしまったのだが、課長はそのミスを徹底的に叩き許してはくれなかったのだ。
課長――遠藤悦朗は、元々そういう人だった。
二十七歳という若さで営業部の課長にまで昇進した兵であるが故に、仕事に対しては相応の熱意を込めている。
営業部では仕事の鬼とまで言われている強面の男で、施主以外には決して笑顔を見せぬ鉄仮面としても有名だ。
とりわけカッコいいというわけでもなく、かと言ってどうしようもないほどカッコ悪いというわけでもない。
ごくごく平均的な容姿の持ち主で、結婚はまだしていないらしい。
この性格だと結婚する相手もいないだろうという結論に至って当たり前になってしまうのだが。
不動産の個人住宅売買において、営業部は会社の神様だとまで言われている。
営業部が会社の神様といわれるのは何も晴菜の勤める会社に限らずだが、もちろん、施主にとっては営業部の人と触れ合う時間が一番多く、会社の顔というイメージを持つかもしれないが、会社では営業部が仕事を取ってこなければ、他の部の仕事が成り立たない。
だからこそ営業部の仕事は他の仕事と比べて厳しさが倍増だし、その分、仕事を取ってきた社員には別途奨励金の手当てがつく。
遠藤課長が厳しいのは今に始まったことではないのだが、直接雷が落ちるほど厄介なことなどない。
自分のせいで遠藤課長が何度も施主に謝っていた姿が一番心を痛める材料となったのだが、それに加えて大きな落雷が晴菜の頭上に落ちてきたものだから、回避しようもなく被害にあった。
会社への帰り道、遠藤は泣くのを耐えている晴菜にそれ以上なにも言わず、口を閉ざして晴菜の前を歩いているのだが、背中を見ると明らかに怒りという文字が浮かび上がっている。
晴菜は震える心に静けさを取り戻そうと必死になりながら、間違えた設計図を抱えて彼の後ろをついて歩いた。
怒られるなら怒られるでまだマシだと気づいたのはこの時だ。
無言ほど恐ろしいものはなく、せっかく自信を持ち始めた仕事だったのに、崖の上から突き落とされたような感覚で、仕事にやる気を見出せないでいた。
会社に到着し、エレベータに二人で乗り込んだときも、気まずい雰囲気は続いた。
早く自分の部署のある階に到着して欲しいという心の焦りが、設計図を握り締める手に汗となって現れる。
外に居る時は、まだ他の人の存在があってよかったと今更ながら実感しつつ、遠藤の背中越しに何度もエレベータの階を確認して視線を上に向けたときだった。
突然、遠藤が晴菜に振り返り視線が絡み合った。
心臓が飛び出るほど驚き、設計図を少しだけ傾けてしまったのだが、ここで再び落雷かと晴菜が覚悟を決めたときだった。
――瞬間、唇に柔らかなものが触れた。
目の前に遠藤の目を閉じた表情がはっきりと映し出され、途端に思考が停止する。
まるで子供のような触れるだけのキスだったが、確かに自分は遠藤にキスをされているのだと理解した。
外に出ていたせいか乾いた遠藤の唇が、オレンジ系統のグロスで潤んでいる晴菜の唇に静かに重なっている。
触れ合う時間はほんの数秒だっただろうが、時が止まったのか自分の心臓が止まったのか、それすら理解できないほど長い時間に感じられた。
一体何が起こったのかと止まっていた思考が再び働き始めたと同時に、唇は離れた。
何事もなかったような遠藤の無表情な顔を見上げ、どういうことかと問うために口を開いたが、晴菜が口を開くより早く、エレベータがその口を開き、遠藤は何も言わないままエレベータを降りたのだった。
◇◆◇
「シケた面してんなぁオイ」
昼休み――昼食を取る為、社食に一人で赴いていた晴菜に声をかけたのは同僚の鎌中だった。
相変わらず営業向けの嫌味の無い笑顔をを浮かべ、ケラケラと笑いながら食の進まない晴菜の頭をポンッと叩いて隣の席を引き、机にきつねうどんの乗ったトレーを置きながら座った鎌中に、晴菜はぼぉっとした視線を向けた。
「……あ、鎌中だ」
「その思考の遅い頭どうにかしろよお前。ボケボケなのが丸分かりで恥ずかしいぞ?」
鎌中は晴菜の表情を見ながら割り箸を一つ取ると、機嫌よくそれを二つに割って小さく合掌すると、うどんをすすり始める。
どこまでも能天気な鎌中を見て、ようやく夢のような思考回路から現実に引き戻されたことに感謝しつつ、晴菜は自分の目の前にある定食に割り箸を寄せるも、食が進まずにため息を漏らした。
「んなに落ち込むことねぇって。誰でも失敗の一つや二つぐらいするし。施主は許してくれたんだろ」
一瞬、鎌中は一体何を言っているのだろうかと思った。
内容からすると励ましてくれているようだが、自分は何か――そこまで考えて、晴菜はようやく自分が犯した失態を思い出した。
遠藤に突然キスされたことで頭がいっぱいになっていたが、それ以前は彼にこっぴどく怒られていたのだという現実を思い起こす。
どちらかと言えばキスの印象が強すぎて、自分のミスは夢なのではないかという都合のいい解釈は通用しないらしい。
キスされた後、晴菜は間抜けにもエレベータを降り損ねて、どこの階かボタンが押されたらしく、自分の体温が高くなっていくのとは裏腹に、エレベータが急降下していった。
乗り込んできた別の社員が、顔を赤くして固まったままエレベータに乗っている晴菜にギョッとした表情をみせたが、その社員を見た瞬間、晴菜もようやく現実に引き戻されて、ようやく自分の部署の階へと降りたのだ。
遠藤より遅れながら部署に入った晴菜を、先輩達は優しく出迎えてくれ、晴菜の失敗をすでに耳にしていたらしく色々と慰めの言葉をかけてくれた。
課長と共に行動し、ミスを犯したのだから当然お叱りを受けていると察した先輩達が、気を利かせてくれたのは確かだ。
その心遣いに感謝しつつも、遠藤の方を遠慮がちに見ると、遠藤は相変わらず仏頂面で自分のデスクに座って、書類に目を通していた。
持ち帰ってきた設計図を先輩に任せ、背を押されるまま遠藤のデスクの前に立ち再三頭を下げるが、遠藤は「もういい」と諦めか、それとも許しなのか検討のつかない返事をしただけで晴菜を見ようとはしなかった。
人が大勢居る前で、さっきのキスは一体なんだったのかと問うことも出来ず――だからと言って、二人きりになる勇気も持てないまま、晴菜は自分のデスクに座ると、隣の席に座る先輩に指導を受けながら今回のミスの反省点を述べてた。
その時、鎌中は営業に出ていて、晴菜が昼食を取るために社食へ向かう時もオフィスには戻っていなかったはずなのに、どうしてここまですばやく情報を仕入れてくるのか不思議でたまらないという視線で見つめていれば。
「見つめんなよ。俺に惚れるなって言ってるじゃないか」
「またそんなこと言って……」
鎌中の言葉に、晴菜は呆れながら定食のメインである焼き魚を箸の先でほぐしながら、その身を一口パクリと食べた。
絶賛するほど美味しいと言えないのは当然社食で、見るからに加工食品だからかもしれない。
赤々と照りのある魚の切り身は、無造作に皿の上におとなしくしているだけなのだが、なぜか憎たらしくさえ思えてしまう。
食べることも箸を動かすことでさえ億劫になってきた晴菜は、箸を静かに置いてお茶をすすった。
「そう言えば鎌中、週末はごめんね」
とりあえず今は頭の中から遠藤のことを消し去ろうと、今まで忘れていた週末の飲み会での謝罪に話を変えると、鎌中は味の染みこんだ油揚げを熱そうに口に入れながら小さく頷いた。
大きめの油揚げを途中で噛み切り、モグモグと口を動かしながら箸を持った手の甲で口元を隠しつつ晴菜に振り返る。
「本当に大変だったよ。お前、自分であまり飲めないって分かってるくせに、飲みすぎるなよ」
「だって歓迎会だからって先輩達皆に進められて……」
「そりゃ俺だって同じだったけど、自分の限度を知れ。そして断る勇気を持て。分かったかな晴菜君」
「はぁーい」
子供を叱るような冗談めいた鎌中の言葉に、晴菜はやはり送ってくれたのは鎌中だと確信したと同時に、本当に申し訳なく思いながらも素直になれない返事をした。
それを不愉快に感じたのか、鎌中は口の中のモノを喉の奥に押し込んで晴菜を睨んだ。
「お前、本当に反省してんの?」
「お、お詫びに不二家のケーキをご馳走するわ」
「うっし、反省してるな。ホールで買って来い」
「ちょっとそれはないんじゃない? 給料日前なの知ってるでしょう。いい年した男のクセに甘党なんだから」
「甘いものに性別も年齢も国境も関係ないのさ」
お詫びを頂けると知った途端、鎌中は目に見えるほど上機嫌になって、浮かれた表情のままどんぶりを持ち上げると、端に口をつけて汁を少しだけすすったのだった。
◇◆◇
昼食が終わっても、やはり晴菜の脳裏から遠藤が起こした突然の行動が頭から離れないで居た。
もしかしたらアレは仕事でミスをした晴菜への仕置きではないかとも考えたが、ミスをしているのは何も晴菜に限ってではなく、他の人もたびたびミスをして遠藤に怒られているのをよく見ている。
他の部下に対しても同じようなことをしていたら、おしゃべりな社員も当然居るだろうから、とっくの昔に噂になって耳に入ってきているだろうと、この仮説は否定される。
恐ろしいというイメージが着々と定着し、自分だけは絶対怒られないようにと必死に仕事をこなしてきていた。
遠藤は仕事に関して恐ろしいほど完璧主義者ではあるが、些細なミスでいちいち怒るような人でもない。
実際のところ怒ったところを見たことはあっても、部下を褒めたところなど一度も見たことはないのだが、それでもちゃんと怒りどころをわきまえている人であるから、いつも怒っているわけでもないのだ。
彼を怖いと思ってしまうのは、施主以外にはピクリとも笑わず、仕事中に社員同士が行う何気ない日常の会話にすら入ってこないせいであることは確かだろう。
たぶん誰もが彼のプライベートなど知らないし、詮索する気にもならないのが正しい言い訳だ。
結局、遠藤が一体どういう意図で自分にキスをしてきたのだろうか皆目検討もつかず、そのことばかりを考え過ぎてしまったため、午後からの仕事は周りの視線でも手についていない様が見て取れた。
周囲は午前中に遠藤の怒りが相当効いたのだろうと、晴菜の仕事ぶりを当然視するものがほとんどであったが、遠藤本人はそれを許さなかった。
いつまでもズルズルと考えふける晴菜を自分のデスクまで呼び出し、一喝――後、残業を言い渡したのだ。
一体誰のせいでこんな風になってしまったのかと文句の一つも言いたかったが、他の目線がある為に仕方なく承諾し、残業をする羽目となった。
ケーキを買う約束をしていた鎌中に謝りながら、後日埋め合わせは必ずすると約束して定時に帰っていく鎌中を見送ったのだが。
問題は以降の残業の時間にあった。
黒澤不動産の子会社とは言え、社員は百人ほどしか居ない会社で、ビルの管理は夜の誰も居ない時間帯だけ業者に任せ、施錠の管理は社員が交代で行っている。
晴菜が言いつけられた残業はそれほど量は多くなかったが、手間のかかるものだったため、他の社員は残業をする晴菜を尻目に、次々と帰宅していった。
もう少しで残業で言い渡された分の仕事が終わると、少しだけ集中力を切らせてオフィス内を見渡した途端、晴菜は驚きながら思わず視線を自分のデスクに向け直した。
自分以外に誰が居るかを確認したのだが、オフィスに残っていたのは自分と遠藤の二人だと気づかされたからだ。
こんな時に限って遠藤が鍵当番だなんて――と思ったが、これが偶然のはずがない。
残業を言い渡したのは自分の直属の上司である遠藤であって、遠藤の最終的な目的がこのことだったことに気づかされたからだ。
晴菜が顔を上げたとき、遠藤は自分のデスクの上にあるノートパソコンに視線を向けていた。
この状況に、今更気づいたところで行っている仕事を投げ出して帰宅するとまた煩く言われるのは目に見えている。
だからと言ってこのまま二人きりの状況を続けていくのは非常に心苦しく、居心地が悪い。
こんなことなら気づかない方が良かったと、晴菜は内心でひたすら自分の行動を後悔しながら、一番の打開策である仕事を早々に終わらせるという選択肢を選び、自分のデスクにかじりつくように仕事を再開した。
しばらくの間、黙々と作業を進めてあと少しだと心の中で自分を急かしていると、人影が動くような感覚を視界の端に覚えて、恐る恐る顔を上げた。
気がつけば自分のデスクの真横に、遠藤が立っていたことに驚いた。
叫びそうになった自分の声を必死に喉の奥に押し込め、間近に居た遠藤を見上げると、遠藤は無言のまま晴菜を見つめ、デスクに片手をつくとそのまま顔を晴菜に近づけてくる。
脳裏が直感的に警鐘を鳴らした。
近づいてくる遠藤に思わず抵抗するように回転椅子を転がし、少しだけ後退しながら手で押し返そうとするも、遠藤にその手首をつかまれ、あっさりと抵抗の余地を奪われると、思わず目を閉じて震える声で言った。
「か、かちょ……う」
震えた唇が遠藤の唇にふさがれた。
エレベーターでされたキスよりも、強引でそれでも優しいキスだった。
無意識に目を閉じてしまったせいもあって、唇に触れるその感覚が、より鋭利なものとなって晴菜の心を刺激する。
少しでも抵抗しようと晴菜が体をよじると、デスクに足がぶつかって、上に重ねられていた紙の束がバラバラと絨毯の床に散らばった。
決して深いキスではない。
幾度となく角度を変え、ついばむように、慈しむように繰り返されるキスの嵐に、精密だった思考回路も段々と機能を失いつつある。
呼吸すらままならない苦しい口付けは永遠のように続き、デスクに置かれていたはずの遠藤の手が、いつの間にか晴菜の後頭部を支えていることに気がついた。
心臓が波のように押し寄せたまま引くこともなく、晴菜の体温を徐々に高めていく。
目を開く勇気も、突き放す気力も遠藤の焼けるようなキスに奪われて、ようやく解放された時には体中に帯びた熱のせいか、開いた瞳が心なしか潤んでいた。
荒い息を繰り返しながらその瞳で遠藤を見つめると、遠藤は相変わらず無表情で――ただ彼の瞳が今まで見たこともないほど綺麗に見えたのは気のせいではないと思う。
「……十八」
晴菜の手を握り締めたまま、遠藤がそう呟いた。
一体何の数字なのかと考える間もなく、その声で現実に引き戻された晴菜は、勢いよく遠藤の胸を押し返した。
先ほどはまったく動かなかった遠藤の体があっさりと身を引き、全てから晴菜を解放すると、晴菜は勢いよく立ち上がり、自分のカバンを持ってオフィスを後にする。
中途半端になってしまった仕事のことも、床に散らばってしまった紙も、今の晴菜には考える余裕など持てるはずもなく――。
逃げ出した晴菜を追うものは居なかった。
◇◆◇
ヒールの音を大きく鳴らしながら晴菜は家路を急いだ。
大通りで小走りする晴菜の肩とぶつかり、小さく舌打ちをして少しだけ睨むと、すぐに逆方向に顔を向けて再び歩き出すサラリーマン。
接待でほろ酔い気分のお父さん達も、疲れた体に鞭を打つように仕事の続きをするために会社に向かうキャリアウーマンさえも、今の晴菜の視線には何一つ無意味な存在に思える。
唇に残る熱い記憶と、鮮明な温もりが怖くて恐ろしくて――けれど、一番嫌悪を感じたのは自分が一瞬でも思い浮かべた気持ちだった。
遠藤が唇を離した瞬間、まだ離れたくないと思ってしまった自分の浅はかな欲に、晴菜は絶望した。
触れる程度の重なるだけのキスなど、今時の小学生でも挨拶代わりにやっているような軽いものだったのに、自分はそれ以上を望んでいたことに気がついてしまった。
あれほど怖くて嫌いだと思っていた上司が与えた快楽は、予想以上に晴菜を溺れさせ侵食していくのが自分でも分かって、あの場に居るのが耐えられなくなった。
あのまま彼の傍に居たら、もしかしたら自分はもっとしてほしいと求めていたかもしれない。
それが晴菜を嫌悪させる最大の理由だったのだが――結局、遠藤がなぜ晴菜に二度もキスをしたのか、なぜ自分なのか分からないことだらけで、どれを重点に置いて考えればいいのか、頭の中がパニックを起こしている。
否――頭が真っ白で何も考えられないと言った方が正しいのかもしれない。
外の冷たい風が晴菜の頬をピリピリと打つも、熱を帯びた晴菜の体にはその痛いほどの風すら心地よく思える。
走りつかれて息があがり、ようやく歩調を緩めても、唇の感覚は消えることなく晴菜の脳裏にしっかりと焼きついていた。
指先で自分の唇に優しく触れる。
冷たい指が、熱る唇をゆるゆると冷やしていくが、拭いきれない思いが白い吐息となって空に舞う。
気がつけば外はすっかりクリスマスのイルミネーションに彩られ、寒く暗くなる季節に明るさを取り戻せといわんばかりに電灯を散りばめられた街路樹に見下ろされ、晴菜はその奥に見える冷たく白い月を見上げた。
――キスなんて、何時振りだろう。
就職したという現実もあるせいで、異性との付き合いなど縁が遠のいていた。
それほどモテたわけでもなかったし、告白した回数が多いわけでもない、ごくごく普通の付き合いをしてきたと晴菜は自分で思っている。
晴菜は自分の気持ちを伝えるのが一等苦手だったし、付き合ってもそれは変わらなかったから、言葉が足りず心がすれ違ってしまったせいで、それほど長く深い付き合いなどしたことがなかった。
そんな晴菜にも運命だと思える出会いがあった。
大学二年生の時、憧れていたサークルの先輩とちょっとしたきっかけで付き合うことが出来て、それはもう有頂天になっていた。
相手は女性なら誰もが憧れるような優しい好青年であって、決してお金持ちとかそういう人ではなかったが、ルックスも申し分なく彼目当ての女性がサークルに多数参加していたのも有名な話だ。
晴菜は決まったサークルなどはなく、彼に憧れた友人に誘われなんとなく入ったサークルであったから、当初は一体何のサークルなのか全く理解せずに入会し、後々テニスのサークルだと知って酷く後悔したのを覚えている。
運動音痴の晴菜に運動系のサークルなど猫に缶詰を開けさせるほど無謀なことでしかなかったが、彼の存在を知ってそのサークルに留まり続けたのは誘ってくれた友人には内緒の話だ。
晴菜とは正反対で運動神経もよく、インターハイの出場経験もある彼は誰もが憧れる人であったし、気さくで誰にでも分け隔てなく優しい振る舞いをしている彼に、晴菜も次第に心内で夢中になっていた。
告白をしてきたのは彼の方からだった。
サークルの飲み会でたまたま隣に座る機会があり、彼が本当にさりげなく告白をしてきた。
最初はそれを告白とは考えられず、何かの冗談だと思って二つ返事をしたのだが、後日彼が晴菜との交際を明言してしまったことで、晴菜はようやくそれが本気だということに気がついた。
嫉妬や下馬評も当然ついて回ったが、そのたびに彼が助けてくれ、彼に憧れを抱いていた友人でさえ晴菜を応援し、助けてくれていたのは確かだ。
ごく一部ではあったが、その周囲の優しさに助けられて彼との付き合いも順調だった。
――あの言葉を耳にするまで。
彼と付き合う前にも、複数の男性と付き合う機会があったが、深い仲にまで発展することはなかった。
深い関係に臆病だった晴菜に愛想を尽かせて男が晴菜を必要としなくなることが一番の原因だったのだが、彼もまた同じだった。
一年という晴菜にとっては長い月日を彼に捧げていた。
一人暮らしをしていた彼に手料理も振舞ったし、毎日のように彼の元に通い、家事全般を行っていたのが当たり前のようになっていた。
それはそれで彼も喜んでくれたし、自分も彼に尽くすことに幸せを感じていたのに……。
「マジで? 一年も付き合ってんのにまだヤってないの?」
サークルのボックスに立ち寄ろうとした際、中から聞こえてきた言葉に足を止めた。
よく彼と行動を共にしている先輩の声だと悟ると、その言葉の意味が自分と彼を指していることだと容易に察することが出来たからだ。
聞いてはいけないと思っていても足が動かなかった。
「アイツさー、意外とお堅いんだよなぁ。速攻でヤれると思ったから付き合ったのに……やっぱり処女は駄目だな。まあ、アレはアレで便利だぜ? 今までの女と違って、飯は作ってくれるし、家事全般してくれるし。ヤるのは他の女で補ってるし、優しい顔してりゃあ何でもしてくれるぜ、セックス以外はな。今度貸してやろうか?」
「いい家政婦見つけたじゃん、セックス以外は」
ぎゃははっ、と品の無い笑いがボックスから漏れて聞こえた。
一年――彼はずっとそういう気持ちで自分と付き合っていたと知った。
長い、長い月日をかけて付き合ってきた晴菜を、彼は「便利」の一言で片付けた。
いつも見せる優しい笑顔も、溢れるほど聞かせてくれた「好き」や「愛している」の言葉も、全てそれだけの為に――便利だから手放せないという理由だけの為に行い続けてきた行動なのだと知った。
したことが無い、そういった行為が恐ろしいと正直に暴露したとき、彼はいくらでも待ってあげると優しく髪を撫でてくれた。
優しく髪を撫で、慈しむように微笑み、柔からかなキスをしてくれた。
そんな風に優しくしてくれた人は初めてで、いつかこの人の為にこの身を捧げようと決意していたのに――。
その時すぐには決断できなかった。
その場から立ち去り、数日一人で泣きながら考えて出した結論を伝えると、彼は急に態度を変えて晴菜を力尽くで押さえ込んだ。
倒れこむ晴菜に馬乗りし、何度も何度も暴力を振るった。
暴れても声を上げても容赦なく晴菜の顔を殴り、口の中にじんわりと鉄の味がする。
服を引き千切られ、涙でぐちゃぐちゃになった晴菜に卑屈な笑みを浮かべて見せた。
コレが……自分の愛していた男の正体……。
一年も騙され続けた自分の愚かさに笑いがこみ上げた。
晴菜の中に積もっていた彼の優しさを、彼は拳で自ら砕いていった。
助けてくれたのは鎌中だった。
晴菜をサークルに誘った友人から、最近様子が可笑しいと聞き、事情を聞くために晴菜を探していてくれた。
連絡が一切取れず、明らかに様子が変だと察した鎌中が、検討出来る場所を片っ端から探し回っていてくれていたのだ。
晴菜の上に乗る彼を蹴り飛ばし、彼が泣いて詫びるまで――晴菜の代わりに制裁を加えた鎌中は今までに見たことがないほど怖いと思った。
男は皆、こんな生き物なのかと……。
助けてくれた鎌中にさえ怯えた。
友人が駆けつけてくれ、ようやく晴菜は安堵し、意識を手放した。
次に目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
全治二週間の怪我はまだマシで、しばらく男を見るだけで叫び声をあげて怯えた。
それが例え血の繋がりのある父親でも、男が全て同じように見え、男は怖く平気で愛を囁く生き物だと、晴菜の心に抉るような傷跡として記憶したのだ。
晴菜の知らないうちに、一連の暴力事件は警察沙汰となり、彼は傷害罪に問われた。
元々彼の正体を知っていた友人達も、彼がさすがに暴力まで振るうとは思ってもいなかったようで、その事実を聞きつけ愕然とし、彼に憧れていた女性達は皆、今までの嫉妬の視線を哀れみに変えて晴菜を見ていた。
身近にこういった事件が起こったときは誰もがそう思う。
自分ではなくて本当によかった――と。
そして面白可笑しく都合のいいでっち上げのオマケをつけて話を膨らませ、被害者も加害者も関係なしに祭り上げていく。
今まで話したこともなかった同じ学部の女子が、興味本位で事実を聞き出すために見舞いに来たときもあったが、腹を立てることも泣き喚くことも出来ず、非常識だと追い返している友人をただボーっとした頭で見ていたのを思い出す。
誰だってこんなことが身近で起これば詳しく知りたいに決まっている。
それが人間が本来持っている野次馬根性というものだ。
誰がどれだけ傷ついていようと、自分達の酒のつまみになるようならなんだって知りたいのだ。
体の傷が癒えても心の傷は癒えることがなかった。
晴菜をサークルに誘った友人は、自分のせいだと自分を責め、その時初めて晴菜は傷ついているのが自分だけではないと悟った。
知らぬうちにその友人と付き合っていた鎌中さえも、何度も何度も晴菜に謝ってくれた。
もっと早く助けられていたら、もっと早く相手の正体に気づいていたら……後悔という言葉は本当によく出来た言葉だと思う。
こんなことならと過去を悔やんでも今更でしかない。
けれど今となっては、友人と鎌中の存在がどれほど自分にとって大いに助かり、大切な存在になったかをよく理解できる。
男に怯えていた晴菜は鎌中や友人の力によって徐々に普通の生活を取り戻していき、心の傷も薄れてきたところでようやく付き合っていた彼が大学を辞めたと、耳にしたが今となってはもうどうでもいい。
とにかく消し去りたくなるような経験をした晴菜は、それ以来、異性との付き合いを極度に拒んでいた。
男と付き合うのは友人としてだが、鎌中だけで充分だったし、仕事場は当然男が多いがそれは所詮上辺だけで、晴菜の心の中深くまで入り込んでくるような人間は居ない。
――だからこそ遠藤が恐ろしいと思った。
何を考えているのかさっぱり分からない、ただの上司だと思っていた男からのキス。
それを無意識に求めている……そんな自分の奥底に眠っていた欲を引っ張り出されたような羞恥。
こんな風に自分が欲求不満のように思えたことなんて一度もなかったのに、だからこそ遠藤という男が恐ろしいと思ったのだ。
二度のキス……それに、あの時呟かれた数字の意味が分からない。
探しても見つからぬ答えを月に問いかけながら、晴菜はまた白い吐息をこぼした。
◇◆◇
遠藤からのキスは二度で終わりを告げることはなかった。
ごくごく自然に振舞おうと努力する晴菜をあざ笑うかのように、試すかのように、二人きりになる機会があれば、その行為は幾度と泣く繰り返される。
それは職場であっても、エレベーターの中であっても、二人で社外に出るときでも、場所を問わずに彼は晴菜の唇を塞いだ。
キスをする度に遠藤がもらす数字は、一つ一つ増えていった。
それがキスの回数を数えていることだと気づいたのは随分後だが、二度目のキスをしたときには、彼は確かに「十八」と呟いた。
十七回目の記憶はあるけれど、それ以前の記憶がないのはなぜだろうか。
中途半端な数字から始まったからこそ、その数字がキスの数を数えていただなんて気づかなかったのに、それでも彼は回数を重ねるたびに数字を呟いて晴菜の困惑する思考を理解していないように、当たり前のごとくキスを繰り返す。
最初こそは戸惑い、不安に駆られてその行為に怯えていたが、キスされるたびに欲が溢れ、次を期待している自分に気がつかされる。
キスをする理由など聞けないまま、いつしか晴菜もその行為がまるで当然のように受け入れ始めていた。
キスをする理由を聞けない理由はいくつかあった。
遠藤は晴菜にキスをする以外は何も求めないし、何も言わない。
触れるだけの唇に満足しているようには見えないけれど、それでもその行為をした後は何事もなかったように仕事の話をし始める。
人間が息をすることを当たり前とするような感覚で、遠藤のキスはそれと同等の意味のように思えてしまう。
彼は自分だけにキスをしているわけではなくて、特に深い理由などないのかもしれないと。
そう考えたとき、じゃあ自分はなぜ彼のキスを拒むことができないのかという疑問が浮かび上がってきた。
遠藤にとっては何の意味もない行為かもしれないが、自分にとっては大いに意味のある行為だ。
彼のキスが心地よく、次を期待してしまう自分の欲を認めても、それだけでは語りつくせない心のモヤモヤが晴菜を捉えて離さない。
その心のモヤモヤの正体が何なのかと気づかされた時、晴菜はどうしようもない失望感を得た。
いつの間にか、自分は彼に好意を抱いている。
遠藤からのキスが特別で、彼の中で自分が特別になっているのではないかという勘違いがその気持ちを自覚させた。
もし彼にとってこのキスという行為がそれほど特別でなく、先ほど述べたような空気的な存在だった場合――また自分は都合のいい女になっていると気がつかされたからだ。
体を求められて言われるまま解放するような行為からすればまだマシなのだが、これが彼の欲求を満たすためだけの行為だったら?
そう考えたら、自分は彼の身近にいる都合のいい女なのかもしれないと思ったからだ。
相手は上司で自分は部下だ。
あまり派手な方ではないし、大人しいタイプだから口外しないと思っているのかもしれない。
また大学にいた時の頃と同じことを繰り返している気がして、晴菜は酷く悩んだ。
理由を聞いて本当にそうだった場合、果たして自分は立ち直ることができるだろうか。
――否、きっと顔を見るのも辛くなって仕事を辞めてしまうだろう。
親が喜んでくれた就職の場と、今更になってようやく慣れ始めた仕事内容を手放すのは非常に勿体無い思いをするだろう、自分の気持ち一つで辞めてしまうのは実に惜しいのだ。
それもこれも全て彼のせいなのに、なぜ自分が職を手放さなければならないのか意味が分からず、それが例え責任転嫁だとしてもそう考えることでしか、自分の居場所を守ることが出来なかった。
悩んで悩んで……眠れぬ日々が続いた。
このまま彼からの行為を受け入れ続け、自分の気持ちを抑えていかなければならない状況も耐えがたく、板ばさみの状態で身動きが取れない状況にまで追い込まれた。
そんな晴菜の不審な様子を、大学時代からの付き合いである鎌中が気づかないはずもなく、以前甘いものをおごると言っておきながら、なかなか都合がつかなかった晴菜を、鎌中は誘い出して晴菜に問い詰めた。
甘いものでは酔えないと、鎌中は晴菜に居酒屋で奢るよう命じた。
給料日も二日前ほどに過ぎていたし、クリスマスも間近に迫っていることよりも、年末の忘年会シーズンということもあって、どこの居酒屋も満席だったが、ようやく見つけた居酒屋で鎌中に進められるがままに酒を飲む。
ほろ酔い気分になったところで、ようやく晴菜は今まで溜まっていた鬱憤をさらけ出すように悩みをこぼし始めた。
遠藤の名前こそ出さなかったが、とある男性とキスだけの関係が続いていること、自分の気持ちが彼に向いていること、けれどまたあの時と同じことを繰り返しているのではないかという不安。
苦笑いを含めた晴菜の言葉に、鎌中は始終眉を潜めていて助言も苦言も呈することなく、ただ静かに晴菜の言葉を聴いていた。
人に聞いてもらえるだけで、これほど心がすっきりするものなのかと晴菜が最後に漏らすと、鎌中はそのことについて何も言わないまま店を出ようと提案した。
酔ったままの晴菜に言葉を投げかけたところで、晴菜がちゃんとその意図を汲み取ることができるか分からないからだ。
晴菜に奢れと言っていたのに、鎌中は自分の財布から会計を出して晴菜を居酒屋の外へ導いた。
さすがに冬真っ盛りの外は寒く、夜のせいもあって吐き出す息の白さが一層鮮明さを増す。
酔っていた頭の中もその寒さに怯えたようににあっさりと身を隠し、思考がはっきりとしてくる。
どこへ向かっているのかは分からないけれど、先を歩く鎌中の背中が怒っているようで恐ろしく、今更ながら話したことを後悔した。
「鎌中……」
決して置いていこうとしているわけではない、緩い歩調で先を行く鎌中に声をかければ、鎌中は足をピタリと止めて晴菜に振り返る。
表情は大学で起きた事件の時見せたような真剣な表情で、いつもおどけている彼とは別人のような様子を浮かべていた。
「俺は、ぶっちゃけ、その男は信用できない」
晴菜の思考がハッキリしたと解釈したのだろう、鎌中は自分の意見を言い始めた。
普段の昼間は人通りの多い場所なのに、夜が遅いと出歩いているのはごく数人で、それも酔っ払いばかりのように見え、その人たちからしても、晴菜達の存在は同等のようなものだろう。
鎌中もまた同じようで、周囲の様子など気にも留めずにしっかりと晴菜との視線を合わせて続けるように言った。
「晴菜があの時、壊れて、周囲の声も聞こえないほど追い詰められて、辛い思いをしたのをこの目で見てきた。だからこそ俺はそんな男なんてやめちまえって、声を大にして言いたい」
「……うん」
「晴菜がもしその男に何らかのきっかけで理由を聞いて、晴菜が思っているような不安が的中した時……俺は人を殺すかもしれない」
鎌中の真顔で発した言葉に、晴菜は息を呑んだ。
あの時、確かに鎌中は当時付き合っていた彼を泣くまで殴り続けた。
ただの友人である晴菜を傷つけただという理由で、あれだけ怒って後先なんて考えずに思うがままに怒りを露にした鎌中の姿を今でも忘れない。
正当防衛という言葉では行き過ぎた行為であったため、鎌中もまたそれなりに処分を受けていた。
それでも彼は自分の行った行為を間違っていないと言ってくれたのは、晴菜のためだっただろう。
異性でも友情が成り立つと証明してくれた彼は、本当に大切な友人だ。
だからこそ、鎌中が今発した言葉が本気だと受け取れた。
何も言えずに視線を泳がせる晴菜を見て、鎌中は大きなため息をついて晴菜に歩み寄ると、静かに抱き寄せて頭上から優しい温もりのある言葉を投げかけた。
「お前、ほんっとーに男選びが下手だな」
「……うん」
「俺が二人居れば問題ないだろうけど俺は一人だし、残念ながら俺の中でお前は二番目だ」
「うん」
「だから俺がお前を幸せにしてやれないのは非常に心苦しいが……だからこそ、お前には幸せになってほしいんだよ」
「……うん」
「それだけは分かれ」
――返事は出来なかった。
溢れ出てくる思いが涙に変わって、声を出すことができなかったのだ。
こうなることを見越して、鎌中は外へ出ようと言ってくれたのかもしれない。
居酒屋の中で鎌中のこんな優しい言葉を聞いては、素直に泣けなかっただろう。
鎌中の温もりが冷えた体を芯から温めてくれるようで、優しさが痛いほど身にしみた。
何もかも彼が言うとおり、自分は本当に男を選ぶのが下手なのだと思う。
それが自分の性なのか運命なのかは分からないけれど、自ら進んで茨の道を選んでいるのは確かだろう。
恋をすることがどれほど辛いことだったか、今更になってようやく思い出した時には遅すぎた気がした。
どうして人を想う気持ちを表現するのに、大きくわけて「好き」と「愛している」の二通りしかないのだろうか。
言葉にするだけでは表現しきれない想いが心の中に溢れているのに、伝える手段がそれだけしかないという現実が晴菜の心を締め付ける。
あの人が好きで、好きで、たまらなく好きで。
ただキスの関係から始まった想いが、これほどまで自分を苦しめるだなんて思ってもみなかった。
そんなことで遠藤を好きだという自分は浅はかなのだろうか。
自分の恋心を貶めるようなことは考えたくないのは当然で、周囲から見たら勘違いした痛い女なのかもしれないけれど、それでもこの想いを止めることが出来なくなっているから。
「鎌中……ありがと……」
「おう。思いっきり泣け。コートに鼻水つけんなよ?」
ぶっきらぼうに言った鎌中の言葉に、晴菜は笑いながら鼻をすすった。
◇◆◇
クリスマスイブを過ぎ、クリスマス当日を迎えた。
今年のクリスマスが振り替え休日だったこともあり、どこの店も混雑していて晴菜は一人、家でDVDを見て過ごした。
遠藤から誘いがあるのではないかと内心期待していた分、肩透かしを食らったのと同時に、恋人でもないのだから仕方ないしそれが当然だと自分に言って聞かせる。
今日がクリスマス本番だというのに、朝の通勤時に見た街の風景はすでにクリスマスを終えたようで、すでに年末年始の飾り付けを前面に出している店も見受けられた。
平日だから当然仕事はある。
が、昨日の混雑を予想していた複数人の社員が、有給休暇を取っていたのを知って、温厚な部長がヤレヤレとため息を漏らしているのを密かに見ていた。
鎌中もちゃっかりと有給を得ていて、きっと今頃は晴菜の友人とラブラブなクリスマスを過ごしていることだろう。
予定がないというのもまた寂しいものだが、ここで家に帰ったところで相手が居ないだのと兄妹達に冷やかされるのは目に見えていたから、あえて帰らずに一人で過ごしていたのだが、やはり昨日は幾分寂しさが一層増した気がした。
クリスマスの当日にもなれば誰かから誘いがあるかもしれないと、仕事中期待していたものの、目上の先輩はほとんど家庭を持っている人ばかりだし、年の近い人もまた恋人の居る人がほとんどだ。
恋人が居なくとも家族と過ごすから早く帰るといって、定時になった早々に足早に帰っていった人も居た。
遠藤は外回りに出ているし、当てが外れたなと考えていると、声をかけてくれた人が居た。
ようやく誘われるのかと思ったら、鍵当番を代わって欲しいという申し出で、早く家族の元に帰りたいらしいその人の切なる様子を見ていると、断ることも出来ずに晴菜は快諾した。
結局、今日中に仕上げなければならないわけでもない仕事をしながら時間を潰し、最後の一人になったところで帰り支度を始めた。
ホワイトボードを確認し、外回りに出た人が全て直帰になっているのを確認すると、預かった鍵を手に取りオフィスを出ようとしたときのことだった。
「まだ居たのか」
誰も居ないはずのオフィスで声をかけられ、あたりを見渡すと、入り口に遠藤が立っていることに気がついた。
意中の人が突然現れたことに、晴菜は胸を高鳴らせ驚きながらも平然を装い遠藤の問いに答える。
「今帰ろうかと思っていたところです」
「……今井は?アイツ、今日、鍵当番だろう」
「今井さんはご家族とクリスマスを過ごすそうで、早めに帰宅されました。私が代わりに……」
そう言いながら掌に持っていた鍵を見せると、遠藤はようやく納得のいった表情を見せて、それ以上は何も言わずに自分のデスクに向かった。
晴菜は何をするでもなく、その様子を視線で追いながら沈黙の続く気まずさの打開策を考えていたが、これといっていい話題はなく、かといってキスの話題を持ち出すほど勇気はない。
とりあえず遠藤がオフィスを出なければ鍵を閉められない為、遠藤の動きにひたすら視線を向けていたが、遠藤はコートを脱ぎ捨てデスクの上に放り出すと、ため息を吐きながら自分の席に座った。
すぐに帰る様子がない遠藤とこれ以上一緒に居られないと判断した晴菜は、鍵を遠藤に任せて良いものか悩んだ。
それを察したのか遠藤は晴菜を見つめ、それからもう一度鼻先でため息をつきながら晴菜に呟いた。
「……すまなかった」
「え……?」
「君が賭けを持ち出した時は理由も聞いていたし、理解しているつもりだったが、鎌中と付き合っていることを言い出しにくかったのなら最初からそう言えばよかったんだ」
突然の遠藤の発言に、晴菜は一体何のことかと困惑していると、遠藤はその様子を別の意味で取ったらしく、ふっと口元に笑みを浮かべて続けた。
「残酷な女だな君は。随分素直にキスを受け入れていると思ったが、俺は馬鹿にされていたんだな」
「なん……」
「もういい……賭けの話はなかったことにしてくれ。今までのことも忘れてくれて構わない。鎌中には言わないでおくよ。鍵、俺が閉めるから置いていけ」
次々に繰り出される晴菜に吐き出された言葉は、当の本人は意味も分からずについていくことなどできない。
どの言葉を抜き取って理解するにしろ、全てが自分を否定しているようにしか感じられず、晴菜は困惑から一変し怒りを露にした。
手に持っていた鍵を握り締め、次の瞬間には考える間もなくそれを遠藤に投げつけていた。
突然のことに遠藤は反射的にその勢いよく投げ出された鍵を受け止めて、驚きの表情で晴菜を見つめる。
――決して泣いてなどやるものか。
溢れ出しそうな涙を押さえ込みながら、きっとものすごい形相で遠藤を睨んでいるであろう、けれど自分の表情など気にかける間もなく晴菜は心内に秘めていた不満を爆発させた。
「自分勝手に自己完結させて一体何をしたかったんですか!」
「それはこちらの台詞だろう。そのまま君に返そう」
興奮する晴菜の言葉に、遠藤はすぐに冷静さを取り戻したように冷たい視線を向けて晴菜に言う。
どうして自分がそこまで酷いことを言われなければならないのかと晴菜の怒りは収まらずに核心に触れた。
「いきなりキスしてきておきながら! それを当たり前のようにして! 自分を正当化しようとしないでください!」
「それは君がっ……ちょっと待て。名木」
「何ですか!」
「お前まさか忘れてるのか?」
「キスされたことなら覚えてますよ全部!」
「そうじゃなくて……」
遠藤が一体何を言いたいのかさっぱりわからないが、些か冷静さが欠けてきた遠藤の様子を見て、晴菜は逆に冷静さを取り戻しつつあった。
――さきほどから全く話がかみ合わない。
今更かもしれないが、遠藤が自分に何を覚えていないのかと尋ねたのか理解ができない。
それに遠藤も晴菜が鎌中と付き合っているだなんて誤解をしているような発言をしている。
確かにどこかですれ違いが生じていることにようやく気づかされた晴菜は、遠藤と同様に不審な面持ちを浮かべながら興奮していた自分の浅はかな行動を恥じた。
「……少し、整理しようか」
「……そう……ですね」
晴菜と同じく遠藤も会話の食い違いを察したのか、もう一度冷静になって晴菜にそう提案すると、晴菜もそのほうがよいと即座に判断して、気まずそうに頷いた。
晴菜も立派な大人で、子供のように駄々をこねるような真似はしない。
先ほどは遠藤の発言があまりにも唐突で無責任だったから爆発したのだが、すぐに冷静さを取り戻せた自分が随分成長したと褒めてやりたくなるほどだ。
その場から動けずにどこから整理していけばいいのか分からない晴菜を見て、遠藤は立ち上がって自分のデスクの前に立つと、晴菜との距離をとるように自分のデスクに軽く腰をかけて腕組をしてみせる。
しばらく二人の間に沈黙が走ったが、それを先に遠藤が破った。
「名木は……鎌中と付き合っているんだよな?」
「付き合ってませんよ。課長もご存知だと思いますが、鎌中とは大学時代から付き合いがあって仲がいいだけです。第一、彼には恋人が居ます」
「……あの時、数日前に道端で抱き合っていたのは?」
そんなことをした覚えは……あった。
遠藤との関係を鎌中に相談した時のアレだろう、遠藤に見られているとは思ってもみなかった。
下手な言い訳をすることは自分の首を絞めることになるだろうと、晴菜は素直に認めて理由を話すことにした。
「あれは、私が凄く悩んでいることに気がついてくれた鎌中が……その、慰めてくれていたというか……」
「慰めで彼は君を抱きしめてくれるのかい? 友達がか?」
「そういう人なんです、あの人は。人の温もりが一番の癒しになるって知ってるから……」
それは大学で起きたあの事件の後に鎌中が自ら学んだことだった。
男に会うことすら出来なかった晴菜を、一番身近で支えてくれた男が彼だったのだ。
震えて怯える晴菜を抱きしめ、男という存在が全て同じとは限らないと教えてくれた。
あの時、鎌中がそうしてくれなければ、晴菜は未だに男という存在に怯えて、社会復帰すら出来なかっただろう。
自分がどれだけ泣き叫んで暴れて、彼の体に傷をつけても、彼は抱きしめる力を弱めてくれることはなく、必死に晴菜を救ってくれた。
傍らで自分の恋人が晴菜を抱きしめているのを涙を流して見つめていた友人の姿も忘れられない。
後で聞いた話、あれは友人が鎌中に頼んでくれた行為だったらしいのだが、鎌中も同じことを考えていたらしく荒治療ではあったが、二人のおかげだと感謝してもしきれない。
あの人は自分に正直だ。
だからこそ信じられたし、今でも信頼している友人だ。
周囲から見れば恋人同士に見えたかもしれないが、紛れもない友情の証だと自負できる。
晴菜の真剣な表情に、遠藤は納得したように小さく頷いてホッとした表情を見せた。
いつもは無表情で無愛想、何を考えているのか分からない遠藤が、こういった時に垣間見せる表情に、晴菜は胸を高鳴らせる。
それがドキドキといった高鳴りなのか、ズキズキといった傷つく音なのかは分からないけれど、彼の表情一つでこんなにも自分の胸が締め付けられるだなんて、本当に溺れているようなものだ。
その気持ちを悟られまいと、今度は晴菜が質問を繰り出した。
「その……課長は……どうして私にキスをするんですか?」
今の今まで聞けなかった理由。
これを聞いたら今までの関係が壊れてしまうと思い、聞けずに居たが、今はもう後には引けないところまで来てしまったような気がする。
今更かもしれないし、理由など本当はないのかも知れないけれど、どちらにしろ遠藤の真意を聞きたくて、震える声でそう尋ねた。
すると遠藤は額に手を当て、思いきり深いため息を漏らすと、しばらく下を俯いたまま答えを出そうとはしなかった。
言えないことなのだろうか、それとも今になって理由を考えているのだろうかと晴菜が不安を募らせていると、遠藤はようやく顔を上げて晴菜を見つめた。
「やはり覚えてなかったのか。それじゃあ俺は今まで、下手に部下に手を出した危ない上司だったんじゃないか」
「お、覚えていないって……?」
「キスの賭けは君が持ち出したんだ。あの新入社員歓迎会の帰り、酔った君を俺が君の自宅まで送ったのは覚えているか?」
「えぇ!?」
「そこも覚えていないのか」
呆れたように遠藤が言うと、晴菜は冷や汗を垂らしながら瞬きを繰り返したが、どうやら遠藤の言うことに偽りはないようで……。
あの時、自分を自宅まで送ってくれたのは鎌中だとばかり思っていた。
鎌中に謝った時だって、鎌中は否定せずにお菓子の催促までしてきたのに、一体どういうことなのかと晴菜は考えを脳内に張り巡らせる。
ようやく気づいたことは、鎌中が否定しなかったのは飲み会で迷惑をかけたという自分の行為であって、送ってもらったときのことだとは一言も言っていない。
自分の言葉が足りなかったこともあったが、そういうことだったのかとようやく納得したとき、どうしてそういう流れができたのかと新たな疑問を浮かべれば。
「好きだ……と、君の自宅に着いてから、俺は君に告白した」
突然の言葉に、晴菜の体温が一気に上昇していくのが自分で理解できた。
ずっと聞きたかったはずの言葉を自分の記憶がないうちに言われていただなんて、なんて勿体無いことをしていたんだと後悔したと同時に、遠藤の気持ちが随分前からすでに自分に向かっていたことに驚いた。
そんな素振りなど一度も見せられたことはない。
彼は何時だって“課長”の顔をしていたし、仕事以外で仲良くした覚えもない。
正直、自分は好かれているというより出来の悪い部下として嫌われているとばかり思っていた反面、この告白は信じられない気持ちでいっぱいになった。
「これを話すのは二度目だから、三度目はないと思え」
遠藤の鋭い言葉に、晴菜は言葉を発することすら忘れ、ただコクコクと必死に頷いた。
「一目惚れだったんだ。名木が入社式で並んでいた時、偶然目にして一目で君に淡い恋情を抱いた。いい年をした男がそんな一瞬の感情に揺るがされるなんてどうかしているだろうが……名木の配属先が俺の下になったのも偶然ではなくて、俺が部長に頼んだことなんだ」
「しょ……職権乱用」
「それは前に君に話したときも言われたな」
クックッと喉の奥で笑う遠藤に、晴菜は酔った時の自分と同じことを言っていたと知ると、恥ずかしさがこみ上げてきて素直に顔を赤く染める。
遠藤は笑いをかみ締めながら続きを話した。
「告白する機会がなかなか見つからなくて、偶然にも君があの時酔ってくれたから、チャンスとばかりに君を自宅まで送り届ける役目に立候補したよ。二次会など出る気もさらさらなかったし、丁度いい機会だと思って。そしたら夜中だというのに大声で歌いだしたときは本当に参った」
「そ、その節は本当に申し訳ありませんでした……」
「いや、そのおかげで君の一人暮らしの自宅に足を踏み入れることができたんだがな」
肩をすくめながらも悪戯っぽくそう言った遠藤の様子に、晴菜はますます萎縮して頬を紅潮させていく。
そんな晴菜の様子が可笑しかったのか、遠藤はまた喉の奥で笑いながらゆっくりと体を起こすと、静かに晴菜に歩み寄り話を続けた。
「君に告白をしたのはその後だ。自宅に招き入れられ、告白をしたら、君は真面目な顔をして断ってきた。断った理由を尋ねたら、君が大学の時に経験した事件を教えてくれたよ」
間近に迫り、柔らかな笑みを浮かべる遠藤を見上げると、晴菜の脳裏にようやくそのときの状況が薄っすらと思い浮かんできた。
確かにあの時、自宅のマンションに誰かを招き入れたかもしれない。
大学のときの話など、人に聞かれても滅多にしないことだからその時のことだけ印象が残っていたのかもしれないと自分の浅はかながらもちゃんとした記憶力に感謝した。
「どうしても、君を諦められないと言ったら、君は提案をしてきた。“男の言葉など信用できない。今から百回分のキスをして、その間に自分を惚れさせてみろ。深いキスは許さない。それ以上の行為もまた許しはしない。本当に好きだというのなら、キスだけで表現して見せろ”と」
酔いの勢いとは恐ろしいものだ。
そんな恐れ多い賭けを遠藤に要求していただなんて、そのときの自分の勇気を心底賞賛したかった。
きっと素面では絶対に言い出せないことだっただろう。
「そ……そんな……じゃあ課長は……」
「当然受け入れたさ。君を手に入れたくて仕方がなかったからな。覚えていなかったのなら、多分覚えていないのだろう。あの時、すでに君とのキスを十六回済ませていた。それ以上は理性が保たなかったし、君は眠たそうだったからそれで帰ったが」
だから二度目のキスが十八回目だったのだとようやく理解した晴菜は、その十六回分のキスを覚えていない自分が憎くて悔しい気分になった。
遠藤の手が晴菜の頬に触れた。
瞬間――手に持っていたカバンを真下に落とし、真剣な眼差しで晴菜の視線を捕らえて離さない遠藤の顔が酷く愛おしく感じた。
「今まで九十七回のキスをしてきた。残されているのはあと三回分だ」
「あ……」
「今更になってこの賭けを無効にされるのは非常に惜しい。例え君が俺に心を開かなくても、百回分のキスはさせてもらう」
「かちょ……」
「九十八回目で君を抱きしめて、九十九回目でもう一度君に愛を囁こう。百回目のキスは、君に委ねる。答えがYESなら……」
言葉が続かないまま遠藤は晴菜を静かに抱き寄せた。
晴菜の頬に手を当てたまま、静かに目を閉じて唇を優しく押し付ける。
触れる唇がようやく遠藤の気持ちを伝えてくれた。
自分の浅はかな不安など全てを消し去ってくれるような優しいキスだった。
静かに唇が離れたかと思うと、晴菜はいつの間にか無意識に閉じていた瞳を開き間近にある遠藤の顔を見上げた。
「好きだ」
そうこぼした唇が、また晴菜の唇を塞いだ。
繋がる唇が愛おしくて、心が壊れそうだと悲鳴を上げた。
自分の想いは間違ってなどいなかった。
都合のいい女ではなく、彼は本当に自分を必要としてキスをしていてくれたと知っただけで安心感が生まれる。
けれどそれだけでは物足りない。
満たされるはずもない想いが唇から零れだしそうになっても。
ゆっくりと遠藤は晴菜から離れた。
唇も、抱きしめていた腕も、晴菜を解放して切なげに眉を潜める遠藤の表情が辛かった。
「もう、帰りなさい。鍵は俺が閉めるから」
答えなど聞かずとも分かっていると言いたげに、遠藤はあえて晴菜に口を開かせることを拒むようにそう告げた。
離れようとする遠藤の腕を、晴菜の震える手が引きとめた。
「……名木?」
「どうして……」
「え――っ?」
晴菜の唇が遠藤の言葉を遮った。
少しだけ背丈の高い遠藤の唇は遠くて、軽く爪先立ちをしながら答えた晴菜の行為に、遠藤は驚いて目を見開いた。
百回目のキスは浅いキスだった。
遠藤の下唇と晴菜の上唇がほんの少しずれた形で触れ合っただけの不器用なものだったが、それは確かに遠藤のもとへ届いただろう。
百回のキスの中では一番短くも、一番気持ちのこもったその口付けに、遠藤は驚きの余り絶句したまま晴菜を見下ろした。
「ちゃんと……答えを聞いてください……でないと、私が報われないわ」
困ったように、照れくさそうに微笑んだ晴菜を見て、遠藤はようやく現状を理解したようにハッとした表情を浮かべた。
それから今まで見せたことがないほどに困惑した遠藤が、それほど長くもない自分の髪をかきあげて、いつもの冷静さを取り戻そうと視線をオフィス内に漂わせる。
「課長……ごめんなさい。私、自分で持ち出した賭けを覚えていなくて……。でも、それでよかったのかもしれないと思うんです」
「どうして?」
「きっと、賭けの事を覚えていたら、こんな気持ちにはなれなかったもの」
頬を紅潮させて呟く晴菜を見つめ、遠藤は困った表情を浮かべながらも恐る恐る晴菜を再び抱き寄せる。
晴菜の額に自分の額を押し付けて、数センチしか離れていない視線を絡み合わせると、遠藤は愛おしそうに目を細めて晴菜に尋ねた。
「ちゃんと……聞かせてくれるか?」
穏やかな声に、晴菜は静かにはっきりと遠藤に向かって言った。
「あなたが好きです」
秘めていた想いを、言葉にするとこんなにも幸せな気分になれるのかと晴菜は錯覚した。
幸せな気持ちなんて両想いだと分かっているからこそそう思えるのかもしれないけれど、晴菜にとってはどちらでもよく、自分の気持ちを伝えることに意義があった。
好きだという言葉も、愛しているという言葉も、軽い言葉にしか聞こえなくなっていたのに。
愛しい人に抱きしめられる温もりは、これ以上にない優しさに包まれて。
――足りなかった。
この想いを言葉で表すには、表現の方法が少なすぎる。
愛していると言っても、好きだと言っても、この次々に溢れ出てくる思いを伝えるにはどれも足りない気がしてならない。
その時ようやく晴菜は理解した。
ああ、だからキスという行為は、こんなにも狂おしいほど愛おしく、言葉以上に愛を感じられるものなのだ――と。
「……晴菜」
遠藤が遠慮がちに笑むと、晴菜を抱きしめる腕の力をより一層強めながら、百一回目のキスを送った。
◇◆◇
どれくらい時間がたったのだろう、晴菜の胸の奥に咲いた小さな欲が、遠藤のキスによって満たされていく。
唇が触れるだけで舞い上がるような思いをいつまでも飽きることなく繰り返してくれる遠藤の行動がたまらなく愛おしくて、背に回した指先に力を入れて遠藤のスーツをつかみ取る。
愛情表現などこれだけではないはずなのに、遠藤はバカの一つ覚えみたいにキスばかりを晴菜に捧げた。
幸せいっぱいに満たしてくれるのは嬉しいし申し分ないのだが、そろそろ……という気持ちになったのも嘘ではない。
幾分か遠藤のキスは執着過ぎて息が続かないのと、首がそろそろ痛いのだ。
せっかく両思いになったのに、雰囲気などお構いなしの自分の思考が少しだけ笑えた。
晴菜が少しだけ顔を横にずらして、小さな抵抗を見せると、遠藤はそれに気がついたのかあっさりと唇を離して晴菜の頭を自分の胸元に引き寄せた。
「……すまん、歯止めが利かなくて」
「いえ……」
少しだけ荒い息をしながら、晴菜は遠藤の胸元に耳を当てて心音を聞いた。
香水の香りだろうか、遠藤から柔らかくも爽やかな香りがしてきて晴菜の鼻先を刺激する。
遠藤の心臓は驚くほど速い速度で脈を打ち、この人もまた緊張していたということを悟ると、少しだけ安堵してますます遠藤にすり寄った。
「……寒いな」
「……さっき帰るつもりだったから暖房消してしまいました。つけますか?」
「いや、いい。君で暖を取ろう」
そう言って頭上からクスクスと笑みの声が聞こえたかと思うと、遠藤の晴菜を抱きしめる腕が一層力を強めた。
苦しいほど抱きしめられ、息の詰まる感覚に陥った晴菜は、思わず顔を上に向けて「はぁっ」と苦しそうに息を吐いた。
瞬間、再び遠藤と瞳がかち合い、少しだけ気まずい雰囲気が流れた。
なんとなく、ではあったが、その気まずさに晴菜は頬を赤く染めて無理矢理話題を引っ張ってきた。
「も……もうすぐクリスマス終わってしまいますね」
「ん? ああ」
「課長は、クリスマスイヴはどう過ごされました?」
「それを俺に聞くか?」
苦笑いを浮かべた遠藤に、晴菜はそれもそうかと同じような笑みを浮かべる。
遠藤は晴菜の頬にかかった横髪をかきあげた後、片手で晴菜を抱きしめたまま自分のポケットに手を入れて何かを取り出すと、ようやく晴菜を解放して彼女の手首をつかむとソレをつけた。
「安物ですまないが……」
そう言って手首に巻かれたのはシンプルで細身なデザインを施された女性用の時計だった。
晴菜はそれに触れながら見つめると、自分の手首にソレが巻き付いていること自体、不思議な感覚にとらわれる。
それから吟味するようにじっくりとその時計を見つめると、晴菜は驚愕して遠藤に聞き返した。
「……課長、これいくらしたんですか?」
「それほど対した値段ではない。男からのプレゼントは値段など気にせず受け取るものだ」
「だ、だってこれ……ブランドモノじゃないですか」
「安い方だから気にするな」
遠藤が何度言っても晴菜は申し訳なさそうにして困った様子を浮かべている。
喜んでくれるとばかり思っていた遠藤には少々驚きの反応だ。
てっきり女はブランド物を好むのだと思っていたが、彼女はそうでもないらしい。
「それに……私、用意してなくて」
「何が?」
「課長へのクリスマスプレゼントです」
本当に困った表情で自分を見上げてくる晴菜を見て、遠藤は片眉をあげて考え込んだ。
この子は変なところで律儀だなと思った。
以前につき合ったことのある女性は皆、遠藤に貢がせるのに必死だった気がする。
それでこそイベントなどは二の次で、イベント=プレゼントを堂々と強請れる日と勘違いした女が、それでこそブランド物のバッグや洋服なんかを貢がせようとしていた。
逆に女から物をプレゼントされることなど滅多になく、女は抱かせればそれでよいと思っていたらしく、今の晴菜の反応とはまったく別物だった。
奥ゆかしさがあると言えばよいのか、今更ながら物でつなぎ止めようなどという行為が、浅い愛情表現の方法だったと気づかされ、遠藤は酷く恥じた。
だからクリスマスだなんて特別な日でも何でもなかったから、それでこそ困り果てたのだが。
「……俺も、一つクリスマスプレゼントを貰おうかな?」
遠藤がポツリと呟いたのを聞いて、晴菜は困った顔から一変、蒼白した表情を浮かべて小刻みにふるえた。
「お……お手軽なお値段でしたらできるかぎりご希望に添いたいと思います」
怯える晴菜の様子があまりにも可愛らしく、遠藤は思わず吹き出して喉の奥でククッと笑った。
いったい何を請求されると思ったのかは分からないが、遠藤も大人の男であることをもう少し理解して貰いたいと思った。
「名前」
「え?」
「二人きりの時は名前で呼んでくれ。敬語もなしだ。いつまでも上司と部下の関係が抜けないのはまっぴら御免だからな」
「そ……そんなことでいいんですか?」
「案外難しいと思うぞ。ほら、呼んでみろ」
「う……あ……」
悪戯心で晴菜にそう急かすと、晴菜は言葉を詰まらせながら遠藤を見上げる。
次第に晴菜の瞳が潤んできたのを察して、さすがの遠藤も慌てた。
「泣くほど嫌がらなくてもいいだろうが」
「ち……違うんです……なんか緊張して……」
「俺の名前知らないのか?」
「し、知ってます! 悦朗っ……?!」
突然明け渡されたプレゼントに、遠藤は驚き、言った本人さえも驚いて目を見開いていた。
頬を紅潮させて、勢いに乗ろうとばかりに晴菜は俯いて繰り返した。
「悦朗さん、悦朗さん、悦朗さん、悦朗さん――」
「‘愛してる’も付け加えて」
勢いを遮断するかのように遠藤がそう言えば、晴菜は勢いよく顔をあげてフニャリと顔をゆがめた。
「な……何でそんな意地悪言うんですかぁ……」
泣き出しそうな晴菜の様子があまりにも愛おしくて、遠藤はたまらず声を上げて笑った。
好きな人を困らせるだなんて幼稚なことかもしれないが、どの反応も新鮮でたまらなく愛おしい。
絶対に手に入らないと思っていた。
だからこそ二度と手放すことはできないだろう。
遠藤はまた晴菜を引き寄せて、お手本のように――けれど心を込めて呟いた。
「晴菜……愛している」
そう言って泣き出しそうな晴菜の瞳にキスをしてみせた。
晴菜は複雑そうな、嬉しそうな笑みを浮かべて遠藤を見上げた。
「悦朗さん……大好き……愛してる」
言葉で満たされることなどないと思っていたが、実際言葉にされただけでこんなにも浮き足立つ気持ちになれるとは思ってもみなかった。
遠藤は無邪気に笑って晴菜を優しく包み込んだ。
「こんなに嬉しいクリスマスプレゼントは初めてだよ」
胸の中に芽生えた感情を素直に言葉にすると、晴菜は「私も」と同じように笑って見せた。
君は分かっていないだろう。
このクリスマスに起きた最高の奇跡を。
君が俺の腕の中にいる。
それが何よりのプレゼントだと。
愛しさも温もりもすべて君が持ってきてくれた。
サンタがもし本当に存在するのなら、俺は初めてあなたに感謝しよう。
すべての人へ。
Merry Christmas――
完