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「ねえ、聡くん、何かあった?」

 やわらかな声音ではあったが、疑問をのせ琴音は聡に問いかけた。

 二人は今、橋の上にいた。強い湿り気を含んだ風が二人の頬をなでた。雨こそ降っていないが濃い灰色の雲は、今にも降りだしそうな色合いだった。そのせいか散歩を行う人影も見えず、時折車が砂を舞わせるだけだった。

 呼び出しのは聡だった。晶と別れてからすぐに聡は電話でこの場に呼んだ。会う機会こそ増えていたものの、ほとんどが自分からの呼び出しだった琴音は驚きつつも応え、今こうしてこの場にいる。ただ、電話や今も表情に現れている聡の余裕のない顔を見ると、何かがあったのはわかったらしく、開口一番琴音は問を発した。

「……晶をフッタ」

「なるほどね。それで珍しく、あなたから飲みに誘ったわけだ」

 欄干に組んだ腕を載せ、聡は短く言った。琴音はそれで全てを納得したのか、小さく頷くと目を細めた。

「で、何があったのよ? 誰かに聞いてほしくて、たまらないことがあったんでしょう?」

「――自信がないんだ。アレで良かったのかと思っている。フッテ、正解だったと思っている。でも、正解だったかどうか、わからないんだ」

「そっか。――ゴメン、先に謝っとくわね」

 琴音はそう言うやいなや、聡の肩に手をやり自分と対面するように向きを変えると勢いよく頬を打った。低い音が川の音に交じるように、一瞬響いた。

「――ったく。フッタ人間が、悩んでんじゃないわよ! フラレタ方は、もっと辛いのよ!

 琴音の言った言葉の意味が理解できるのだろう。聡は何も言わなかった。無言で赤い頬をさすっていた。

「アンタまさか、晶のためを思ってフッタとか、自分に酔ってんじゃないでしょうね。そんなのキモチワルイだけだからね! アンタはさ、アンタの都合でフッタ。それ以上でもそれ以下でもない。だから、晶はアンタのせいで傷ついてんのよ!」

 糾弾する声は激しく、怒りに満ちていた。なぜかそれが聡には、心地よかった。それはどこかで、自分の行為を過ちと感じていたせいだった。

「フッテ後悔して悩んでるならさ、謝って、許してもらって、つきあっちゃいなよ」

 琴音の声はやさしかった。先程までの激しさとは打って変わり、穏やかな表情で悟すように琴音は口にした。

「そんなことできるわけない。そんなことしたって、誰も救われない」

 苦渋を覗かせ、聡は言う。そんな選択を望みはするが、選べはしないと。ただ、苦しむだけで虚しいだけだと。

 そんな聡に、琴音は笑いかける。そうではなのだと、そんな難しものではないんだと、少しだけ先を歩いた先輩の目線で。

「――そんなことないわよ。アンタって、本当、女の子のことわかってないのね。大好きな人が自分の隣にいて、好きって囁いてくれる。女の子の幸せってね、そういうもんなのよ」

 歌が聞こえていた。それはきっとたぶん、遠いいつかのラブソングだ。だから、切なく、けれど、元気付けられるのだろう。

「何一つ苦しみや哀しみがない人なんて、どこにもいやしないわよ。そして、その苦しみや哀しみが、全て救われている人もね」

 歌は続く。それはしずかにゆっくりと、けれど、確かに僕の背中を押す。

「心の中にある重くて暗い悩みとかはさ、確かに、無い方がいいわよ。けどね、あったって、笑えるのよ」

 歌は他の歌がそうであるように、キレイゴト特有のどこかウソクサイ響きが、隅々ににじんでいた。けれど、だからなのかもしれない。

「どんなに辛くても、苦しくても、楽しいと笑えるのよ。――楽しいって思えるのよ。好きな人がそばにいてくれれば、信じることができるのよ。ああ、これから始まるんだって」

 その鼻で笑ってしまうような絵空事がまるで空に光る砂をまいたように輝いて見え、笑っていた。

「幸せはここから、始まるんだって。苦しみも悲しみも消えやしないけど、そんなのは関係ない。何があろうとも、私は幸せだって、そう信じられるのよ」

 心の奥で晶を傷つけたと泣いていた聡が今、答えを得て、静かに微笑んでいた。

 今聡の手のひらは握られている。先程まで空だった手は、拳の形を成している。

 握ったのだ。聡はようやく、答えを手に入れた。


「――行ったか」

 橋の上に一人残った琴音は疲れたように、ため息を吐き出しつぶやいた。

「何というか、面倒くさい二人ね」

 口調こそぞんざいだがそこにはからかうような響きがあり、どこか好ましく思っていることがうかがえた。

「人ってどうして、正しいを探しちゃうのかしらね。そんなものを見つけようとするから、こんがらがって迷っちゃうのに。間違っていたって、問題はないのに」

 琴音は苦笑を浮かべながら言葉を口の中で転がしていると、過去を思い出すように目を細めた。

「まあでも、アレか。――私が、言えた義理じゃないか」

 風が落ち葉を運び、川面へと流れていった。琴音の声も、誰かに届くことはなかった。

「しかし、告る前にフラれちゃったか」

 それが恋愛という意味での好意だったのかは、琴音にはわからなかった。ただ、聡という存在が彼女の中で徐々に比率を増しているのは、間違いなかった。いつかは恋になる、そんな予感はあった。けれどそれは未来の話で、もうなくなったことだ。

 寂しげにつぶやいた琴音は頭を振り、気分を変えると聡が消えていった方角へと目を向けた。

「……頑張って。私の恋は実らなかったから、せめて、その相手であるアンタくらいは実ってよ。じゃないと、世の中つまらないわ」

 

 波の音が静かに響いていた。早朝ならば漁を終えた船の荷卸のどさくさ紛れを狙い、海鳥たちが腹を空かした子供のように鳴いているが今は時折聞こるくらいだった。すぐにでも雨が降り出しそうな曇天のせいか、釣りに勤しむ人影もない。まるで映画のワンシーンのように切り取られた堤防から、海を眺めるように二人は立っていた。

「やっぱり、ここにいたか」

「――ここがアタシの、居場所だからね」

 電話に出なければ、自宅にもいない晶を探しにきた聡は半ば確信を込めて防波堤へと来ていた。そしてそれは正解だった。

「波の音を聞くとね、溶けていきそうな気がするんだ」

「何がだよ?」

 二人は冷静に会話をする。言うべき言葉も、抱えている感情も、複雑に絡み合っていた。ゆえに、いくつもの言葉が、感情が、二人の中でとまどっていた。強く結びつくゆえに抜け出ることができず、穏やかな本音だけが迷路を抜け出て形となっていた。

「……心かな。波にぶつかって、波に連れて行かれて、少しずつ、アタシの中からさ、心がね、消えて行っちゃうような、そんな気がするんだよ」

 静かに音を立てる波のような落ち着いた声音で、晶は言った。それに聡はため息で応える。呆れたように、晶らしいと笑うように。

「そんなのは、無理だ。どうやったって、消えるわけがない。やっと、そのことに気づいたよ」

 零すような、落ちていくような響きを持って、聡はそう口にした。昔から抱えていてものが不意に失くなったような、そんな重さのようなものがそこにはあった。

「誰だって、心は空っぽの方が良い。どうにでもできないものを、抱えたままで笑いたくはないからな」

 聡は完璧を求めていた。晶が兄の面影を忘れなければ、本当の意味でそばにいることはできないのだと思い込んでいた。

 けれどそれは、結局のところ聡のわがままだった。ただ、聡が兄のことを忘れられないだけだった。

 気にしなければいいだけなのに、聡はそれを許せなかった。

「だからずっと、消さなきゃいけないんだって信じていたんだ」

 ため息を吐くように、聡はそう口にした。その吐き出した言葉の分だけ、心が軽くなることを祈りながら。

「……消せると思っていた。ドラマや映画のように、あんな風な正しさに触れれば、ハッピーエンドが待っていると思っていたんだ」

 それは願いと呼ぶには稚拙で、祈りと呼ぶには陳腐な願望だった。けれど、簡単には笑えない、近くて遠い絵空事だった。

「でもそれは、たぶん、僕のの勝手な願いだ。きっと、そういうことじゃないんだ。正しさも間違いも、ただ等しくて、それ以上でもそれ以下でもないんだ」

「――そうなのかな。だって、映画やドラマの主人公は、救われているよ。正しさに浸って、笑っているよ」

 何かを期待するような口調で、晶は言った。

 フィクションだからといえば、安易に否定できるだろう。だがそれは簡単というだけで、やさしくもなければ、残酷でもない。ただの空気の振動だ。

「僕を励ましてくれた人がいたんだ。言ってしまえばその人は、間違ってしまった人間だ。その人は泣いた、泣いて、泣いて、最後に笑った。けど、その人に何一つ救いはなかった。それを見て思ったんだ。間違いのどこが悪いって」

 正解と過ちが選択肢となって現れるなら良い。誰もが平等に選ぶ権利があるのなら、正しいのかもしれない。けれど、現実はそうじゃない。過ちしか用意されていない場合がある。どうしようもないことに、誰もが打ち勝てるわけじゃない。

「あの人はやさしい人だった。たとえ、間違いを犯したとしてもだ。――勝手に僕がが決めていたんだ。正しくなきゃ救われないんだって。救われることが救われることなんだって」

 琴音の生き方は間違っているのかもしれない。決して、正しくはないだろう。だが、それだけだ。決して否定されるようなものでも、否定して構わないものでもない。

「でもさ、聡、正しいはやさしいよ、残酷だけどさ。正しければさ、胸をはれるし、それにさ、救われたりするんじゃないかな」

 晶の疑問に聡は首を横に振った

「そんなことはない」

 そう言うと聡は屈み小さな石を拾うと海へ投げた。

「何を投げたの?」

「ただの石だ」

 投げられた石は飛沫と音を立てて、沈んでいった。聡はその光景を眺め終えると、口を開いた。

「僕は救われなかった」

 つぶやくように聡は言うと、またすぐに言葉を続けた。

「僕はは正しくあろうとしていた。そうすれば、ハッピーエンドが待っていると信じていた。けれど、なにも変わらなかった。あの石と同じだ、どんな人だって、海に投げれば沈んでゆく、そこに正しい、間違いは関係ない」

「そっか、それで、聡はどうしたいの? アタシと何をしたいの?」

 晶は穏やかに問う。聡の言葉を噛み締め咀嚼しながら、本意を聞く。自分をどうしたいのか、自分とどうなりたいのかを。

「――励まされた人には、こう言われたんだ。『謝って、許してもらって、つきあっちゃいなよ』、って」

「そっか。それじゃあ、アタシと付き合ってくれるの?」

 晶は右手を聡に向かって差し出す。墓地での否定を忘れたわけではない。また否定されたらと思うと、手は震えそうになる。ゆえに晶は聡を見た。何かが変わったようには見えない。何一つ変わっていないようにしか見えない。けれど、聡はここにいた。晶を探しこの場に来てくれた。迷いながら手に入れた答えを伝えるために。気づくと震えそうだったてはどこかに行き、代わりに晶の顔には笑が浮かんでいた。

「そうだな。僕は晶と付き合いたい。でもたぶんそれは、お互いに傷つくことになる」

「ハハッ、ヤマアラシのジレンマみたいだね。うん、でも、いいよ。アタシは構わない。たとえ、血を流しながらでも、聡と一緒にいたい」

「そうくると、思っていたさ。――いいのか、お互い救われないぞ」

 問うような口調ではあったが、問いかけるような響きはそこになかった。ゆえに晶はしっかりと頷いた。

「大丈夫だよ。傷つくのなんてもう、今更だしね。どうせなら、とことん傷つこうよ。そしたら、その内、花が咲くと思うんだ」

「花?」

「うん、そう。アタシ達の血液を糧にして、いつか花が芽吹くんじゃないかな。そうなれば、その分だけ、アタシ達は許せるんじゃないかな」

「自分自身がか?」

 晶は首を横に振り、聡の言葉を否定した。

「それは無理だよ。アタシはアタシを許せない。だからさ、聡がアタシを許してよ」

 自分の弱さを肯定できるほど、晶は強くなかった。

「アタシは聡を許していくからさ。聡は許してもらう必要もないし、アタシのことも許しているのかもしれないけどね」

 弱いからこそ、明は弱さを求めた。ただそれは聡の弱さだ。自分のとは違う脆弱なぬくもりを求めた。強くはなれない。だが、強くあろうとは思えるがゆえに。

「でもさ、まあ、けじめみたいなものだから、ゆっくりとやっていこうよ。日の光を浴びて、芽が出て、水の息吹を浴びて、茎が伸びて、そして、やがて、花が咲くようにさ」

 聡はため息を吐く。諦めたように、どこか嬉しそうに。そして、差し出された晶の手を握った。

「晶好きだ」

「聡好きだ」

 二人は傷ついていく。それはどうしようもないことで、逃れようと思うたびに新しい傷が生まれるのだろう。

「それじゃあ、まあ、食事にでも行くか

「いいね、エスコートなんだから、聡のおごりだよ」

「はいはい、わかっているよ」

 それでも、傷は傷跡に変っていく。少しずつ流れ出た血は止まり、傷は乾き、カサブタに、――過去へと変っていく。

 どれだけカサブタは増えて、生傷は消えていくかわからない、だが、それでも、二人は傷つきながら歩み続けていく。

 何かがが変るわけではない。ただの自己満足で、自分達に酔っているだけかもしれない。けれど、それでいいのだと二人は思う。

 救われるとはそういうことなのだろう。変らなくてもいいと願うこと、一方の永遠を願う時、そこにこそ救いはあるのではないだろうか。たとえ、それが痛みに満ちていたとしても。

なんとか、終わりました。お付き合いくださり、ありがとうございました。

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