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 天気は快晴で風はなく、穏やかな波が寄せては引いている。平日の昼過ぎということで魚釣りに勤しむ人影は幾人もないが、おこぼれを狙う何匹かの海鳥たちともにささやかな賑わいとなっていた。そんな中、佇むように二人はいた。 

「そういえば、タカ兄と海に来たことってなかったな。なんでだろう?」

 答えを求めたわけでもない独白の様な問だったが、律儀にも返事が晶の耳に届いた。

「兄さんは海が好きだったからな」

「好きなのに来ないんだ。私と反対だね」

「怖いんだとさ。何かのきっかけで、ふいに好きじゃなくなるのが。だから、ずっと閉じ込めておきたいんだと」

 どこか偏屈なところがあった元恋人のことを思い出すと、晶の唇に笑が浮かぶ。それは思い出特有の甘さと、苦味が溶け合い、混ざりきらないコーヒーのようなどっちつかずの苦笑だった。

「そっか。なんかさ、タカ兄らしいね。でも、そういうことなら、タカ兄はやっぱり私のこと好きじゃなかったのかな。だから、付き合ったんじゃないかな。――本当に、好きじゃなかったからさ」

 強い、風が吹いた。それは二人の髪をなでるように、通り抜けていった。だから、晶は聞こえなかった。

「……言ったろう。好きだから閉じ込めるって。兄さんはお前を手のひらから、逃がしたくなかったんだよ」

 それは風が消してしまった言葉だ。つぶやくように口にした聡の声音はか細く、強風が全てをかき消してしまった。

 晶は聡が何かを語りかけていたのはわかっていた。聞き取れはしなかったが、それを知ろうとは思わなかった。口にせずにはいられなかったけれど、わかってほしい言葉ではなかったのだと、理解していたから。そういうどうしようもなさが自分にもあるからこそ、彼女は何も言えなかった。

「そういえば、今日の呼び出しの理由はなんだ? こんな会話がしたくて呼んだわけじゃないんだろう」

 聡は思い出したように言ったが、話をそらしたいのは見え見えだった。もっとも、晶の方もそこに触れるつもりはなかったので、望んだ展開ではあったが。

「やったね、トッシー、デートのお誘いだよ」

「何だ、突然」

 いきなりのおどけたような口調に加えて明るい声音に、聡は困惑を口にした。珍しく驚いている聡の様子が面白かったのか、晶は笑みを浮かべて言った。

「いやね、昨日琴音から電話があってさ、聡と二人で会いたいから連絡とってくれないかって言われてさ」

「で、快く引き受けたってところか?」

「まあ、友達の頼みだしね。聡なら変なことしないだろうし。それに――」

 晶は微笑む。痛みをこらえるような、暗闇に怯えることを隠すような、口の中に入れた途端溶けていくオブラートのような、どこか形のない透明な表情で。

「私以外の人と聡も会ってきなよ。じゃないとさ、息とかつまっちゃうよ」

 自分を卑下して聡を労わる言葉に、思わず聡の口からため息が漏れた。

「――あんまり、そういうことは言うな。お前の場合僕に気を使っているのか、自虐なのかわかりにくいんだよ」

「そっか、気をつけるよ。そういえば気になったんだけどさ、琴音と聡って仲良かったっけ?」

 晶の問いに聡は苦笑を浮かべる。良いか悪いかで問われれば、どちらでもないというのが正解だろう。琴音からの連絡はこの間であったこと関連なのは間違いない。それはいわば成り行きで、仲の良さは関係ない。だが聡はからかうような答えを晶に返した。

「名前で呼び合う程度の仲だよ」

「何言ってんのさ、それって私が二人のことを名前で呼んでいるからでしょう。二人ともお互いの苗字、忘れているから」

 そう言って、呆れを混ぜ唇を尖らせる晶に聡は頷いてみせた。

「そうだな。だからまあ、その程度の関係さ。ただ、ちょっとこの前偶然会って、色々あったんだよ」

 先日のことを思い出すと聡は気分が傾くのを、抑えられなかった。お礼の品は処分もできず、机の中で眠っている。捨てるに捨てられず、半ば罰ゲームの様なものだった。晶は何があったのか気になるようではあったが、聡が話したくはないところを見て取ると追求はしなかった。

「色々ねえ、まあ、いいや。場所と時間メールするね。後、念のため琴音のアドレスも

「ああ、うん、頼む」

 聡は嫌そうではあったが断るつもりはなく、携帯を操作し約束の日時と場所の確認を始めた。メールの転送が終わった晶はそんな聡を、不安そうに、けれど少しだけ嬉しそうに眺めていた。


 待ち合わせ場所は、先日の公園だった。日もそう経っていないせいか、落ち葉の数と枯れ木が増えたぐらいしか変わらず、新鮮味のある景色はなかった。そのため、風景を眺めるのにもすぐに飽き始め、時間つぶしに携帯をいじろうとしたところ、琴音の声が聡の耳に届いた。

「お待たせ、待った?」

「こっちもちょうど今来た所だ。そんなことよりも、質問が有る」

 駆け足でそばに来た琴音に定型文のような言葉を投げかけつつ、聡は息つくまもなく本題を切り出した。それに琴音は呆れを見せることはなかったが、微かに苦笑を浮かべた。もっとも、予想済みだったのか返事は軽やかだった。

「何で聡くんを誘ったかってこと?」

「わかってるんじゃないか。だったら、話ははやい。理由を教えてくれ」

 早急に答えを求める聡に、琴音はからかうように笑みを浮かべ言った。

「嫌よ」

「どうしてだ!」

「えっ、ただのノリよ、ノリ」

 片手を振りそう返事する琴音に、聡は頭痛を覚えた。晶とは違う意味で面倒な人種だった。

 なでるように後頭部をかいていると、聡の耳に囁くような小さなつぶやきが届いた。

「――それに、呼んだ理由なんて一つしかないでしょう。……聞いて欲しい、話があるのよ」

 その声に答えはなかった。あまりにも儚げな響きに聡は聞こえなかったフリをした。心に言葉が、届いてしまったが故に。

「まあ、本題の前にカラオケ行きましょうか! すぐメインだなんて、がっつきすぎだし。なにより、とって置きは最後でしょ」

 まくし立てるようにそう言うと、琴音は聡の手を取り近くのカラオケ店へと足を向けた。

 聡の中に付いていかないという、選択肢は確かにあった。手を振りほどくことも簡単にできた。けれど、聡にはできなかった。

 聡の手を握る琴音の手は、このまえ触れた時よりも熱を持っていた。それは聡の脳裏に幼かった頃を思い出させた。

 熱にうなされている時、落ち込んでいる時に、心細くて体温を求めた、幼き日々が琴音に重なって見えた。

 この間とは違うテンション、ノリ、空元気、それはそんな言葉を連想させた。同時に聡はふと思ったのだ。そうしないと、泣いてしまいそうなんじゃないと、だからこそと、いつもと違うんじゃないかと。

「そんなに急がなくても、僕は逃げないよ」

 だからだろう、子供を安心させるようにそんなことを言ったのは。


 カラオケで琴音は何曲も歌った。ただ一人で、がむしゃらに。

 聡に選曲を迫ることもなかった。ただただ、自分だけで声を上げていた。

 何かを吐き出すように、どうしようもない何かを吐き出してしまいたいかのように。

 一見すると、聡は必要のないように見えた。確かに一人で歌うだけならば、他人はいらないだろう。だが、そうではないのだと、聡はわかっていた。

 今この瞬間の琴音はどこか、晶に似ていた。自分といるときだけ涙を流す晶のように、琴音にも誰かが必要なのだ。

 それがどうして自分なのかも、聡は理解していた。どこまでも、他人だから良かったのだ。やさしくない、残酷な自分だから、琴音は聡を選んだ。

 聡なら彼女は強がることができた。甘い言葉をかけるでもなく、ただ黙って聞いているだけの残酷な聡の前なら、琴音は強くあろうとしていられた。

 弱音を吐き出すのではなく、どうしようもない憤りを声に出して、吐き出すことができた。

 弱さを吐き出したくはなかった。形にしてしまえば、楽になれることはわかっていた。だがそうしてしまえば、琴音は代わりに縋ることを覚えてしまう。そして、弱さを捨ててしまう。それは望んでいない結末だ。琴音はただひたすらに、弱さを抱えていたかった

 狭くて陳腐な、隣の客の歌声が混じる部屋に、琴音の声が響く。それは枯れていて、音量もそう大きくはない。けれど、彼女の声は聞こえていた。歌はいつまでも、止まらなかった。

 二人がカラオケ店から出ると、二時間ほど経っていた。待ち合わせが昼過ぎだったこともあり、日も沈みかかっており、青暗い闇が幕を下ろしていた。

「ねえ、ちょっと、付き合ってくれない」

 外に出るなり、枯れた声でそう言ったのは琴音だった。歌を聞いていただけで何の話もしていないのだから、予想済みだった聡は頷きで答えた。

「それで、どこに行くんだ」

「決まっているじゃない、良いところよ」

 聡の問いに琴音は片目をつぶり、先導するように先を歩いた。


 十五分ほど歩くと橋が見えてきた。中心街から幾分離れているせいか人気もなく、車の通りもほとんどない。薄暗い電灯が辺りを等間隔に照らしている。川からは湿気を含んだ風が舞い、二人の鼻腔には理科室を思わせる濃い水草の匂いがまとわりついていた。

「私、川って好きなのよね。なんだかさ、きれいじゃない。水に光が反射したり、漂う空気も冷えていて心地いいし」

 琴音はそう言うと橋の欄干から身を乗り出し、目を閉じ浸るように風にあたった。

「――それに夜だと静かだしね。カラオケとかああいうところ行った後だと、この夜に川の音だけが響く感じがいいのよね」

「わからなくはないな」

「こういうところだったらさ、流れて行きそうじゃない?」

「何がだ」

「……何だろうね」

 顔を伏せ一瞬考えるような素振りを見せると、琴音は笑みを口元にだけ浮かべた。

「まあ、アレかな。本音とか秘密とか、そういうものかな」

 琴音は瞳を閉じる。それは川から吹く風を感じているようでもあり、己の内に思いを馳せているようにも見えた。

「ここでだったらさ、口にしてもすぐになくなっていく気がするんだ」

 琴音は歌うように言葉を口にする。どこか韻を踏んでいたその音色は、はっきりとした輪郭を持って聡の耳朶を打った。

「風に舞う花びらが川面に抱かれ、遠い遠いどこかへ行くようにさ」

「――川面に抱かれ、か。なら、今漂っている花びらはまだ風の中でどこにも行けずにたゆたっているだけなんだな。だったら、たとえ、花びらがなにかをささやいたしても、すぐに川のせせらぎの音色に混ざってわからなくなるさ」

「――ありがとう」

 小さくつぶやいた琴音の声は弱く、細く、世界中の花びらが散った時、こんな音が聞こえるんじゃないかと聡は思った。

 琴音は喉を湿らすためか、ポケットからコーヒーを取り出すと一口飲んだ。

「――私さ、妊娠していたんだ」

 欄干に腰を乗せた琴音は、何でもないことのようにつぶやいた。

「そうか」

 聡も同じように返した。琴音の声が微かに震えていたのは気づかないフリをして

「万引きとかしたのもそれが理由」

 再度コーヒーを一口すすり、思い出すように虚空を見据え琴音は口を開く。

「堕ろすためにお金が必要だったのよ。テンパっていたから、いい方法が思い浮かばなかったけどね。我ながらアレはなかったわ」

 琴音はそう言って苦笑を浮かべると、視線を聡に向けた。

「それで聡くんにお金を貰ったじゃない。そのおかけでさ、なんか少しだけ冷静になったんだよね」

 親に相談した時のことを思い出したのだろう。琴音の顔に苦いものが走ったが、笑みが崩れることはなかった。叱られはしたがあたたかく迎えられた、そんなことが容易く想像できる表情だった。

「それでまあ、親に相談して、お金を出してもらって無事解決ってとこよ」

「無事、か」

「ええ、無事よ」

 含むところがあると言いたげに聡が言うと、琴音はそれを遮るように胸を張った。それが全てだと語る様に。

 琴音は当たり障りのない真実を口にする。そこに嘘はないのだろう。足りないだけだ、ただ、大事なことを語らないだけだ。

 聡はため息を吐く。呆れが半分で、もう半分は自虐だった。

 聡は琴音と関わる理由などなかった。先日のことがあったから気にならないわけではなかったが、だからといって、地雷とわかっていて踏みにくほどではない。本人の口から聞くならば許容範囲だがそれ以上となれば話は別だ。そうわかっていながらも、聡は自重する気にはなれなかった。

 それは感傷であり、自己満足だ。琴音の本音を言わない姿が晶と重なり、放っておけなかった。晶に何も出来ていないからこそ、そんな現実から逃げたかった。晶に似た誰かに、手を伸ばすことで。

「正直、キミの問題だから僕ははこれ以上付き合う必要はない。まあでも、付き合った以上言わせてもらう。本当にそれでいいのか?」

「どういう、意味?」

「さてね。ただ、見ているこっちからすれば、やせ我慢しているようにしか見えないんだよ。必死に傷から目をそらして、虚勢を張る子供みたいにね」

「私が、子供だって言うの」

 冷えた声に、今にも噛み付かんばかりの勢いで睨みつけてくる琴音に、怯む調子もなく淡々とした口調で聡は口を開いた。

「そんなに、違いはしないだろう。否定するなら、根拠を見せればいい。なぜ、終わったように語る? 何にも終わっちゃいないだろうに」

「終わったわよ! もう、終わったことに決まっているでしょう!」

「終わった、ね。違うだろう。ひとりぼっちで取り残されているだけだろう。それが惨めで情けないから、過去にしているだけだ」

 相手は遥か先に進み、もうどこにもいない。ただ、自分一人だけが諦めきれずに、止どまり続けている。それを認めきれないからこそ、終わったと口にする。何一つ終わってなどいない、未だ手を伸ばしているにも関わらず。

「キミがしていることは、ひとりぼっちでかくれんぼをしているようなものだ。いつまで経っても、もういいよが聞こえてくることはない。キミがしていることは、ずっとまあだだよと、叫んでいるに過ぎない」

 それは誰に言っているのだろう。語る聡の顔には笑みが浮かんでいる。だが、瞳には光がなく、うつむき、自嘲するような暗いものが宿っていた。しかしそれを怒りに震える琴音が気づくことはなかった。

「そうだ、かくれんぼだ。しかも、見つからないんじゃない、見つけてくれないだ。ずっとずっと、見つけてくれないんだ」

「うるさい!」

 怒声が空気を震わす。歯を食いしばり、威嚇するよに睨む琴音がそこにはいた。

「わかっているわよ! そんなこと、でも、認められるわけないじゃない! ごまかすしかないじゃない! じゃないと、惨めすぎるじゃない」

 最期の言葉は、今にも泣き出してしまいそうな響きに溢れていた。

 琴音の叫びは虚飾に満ちていた。けれどそれは、間違いなく真実であり、誰もが持つ等身大の弱さだった。

「アイツは最低だった! やることやって子供ができたって言ったら、別れてくれだって! 最低よ! そして、私はそんな男に捨てられた! 割り切れるわけないじゃない! 終わったって思うしかないじゃない!」

 嘘偽りのない言葉は、透き通った悲哀に彩られている。そこには透明なガラス細工のように、悲しみにくれる心が映し出されていた。琴音の内にあった彼氏への好意、その砕けた破片が六月の雨のように細かく降り注いでいた。

「――誰も私を救ってくれないなら、私が救うしかないじゃない!」

「――自分で自分でを救うなんて、できやしないさ。そんなのは甘やかしているに過ぎないからな」

「アンタに何がわかるのよ!」

「わからなかったら、こんな場所にいるか!」

 聡は声を荒げる。いつの間にか彼は呼びかけながらも、琴音に話しかけることを止めていた。ただ、独白のように自らの気持ちを吐き出していた。

「わかるから僕は、キミに同情しているんだ! 僕だって、捨てられたようなもんだ。代用品でしかないのに、それを甘んじて受け入れているんだ!」

 晶は聡を見ているだけだ。決して、手を伸ばそうとはしない。ただ、黙って哀しそうに見つめるだけだ。聡にはそれが、否定のように思えた。兄と似ているだけで、全くの別物だから、あえて、触れようとしない。触ってしまえば、嫌でも偽物と気づいてしまうから。

「手に入らなくていいと思っているんだ。ただ、そばにいればそれだけでいい、それだけで幸せだって、納得しそうになる。そうやって、すべてを終わらそうとしているんだ、僕も」

 そうであったらいいと、聡は希望を口にした。自分には決してできないと、形にしていた。

「けど、できやしないんだ。逃げているだけだってわかっているし、それ以上を望んでしまう。きっと、ダメなんだよ、そんな風に過去にしようと意識している内はその思いが縛り付けるから」

 聡は微笑む。そこに自嘲はない。代わりに慰めるような、あたたかさがあった。同時にひどく、痛々しいものに見えた。まるで、自分が傷ついているからこそ相手の痛みを理解することができるとでもいうかのように。

「だから、素直になった方がいい。気持ちに蓋をしたって憎しみが増すだけだ」

「――素直になれば、何か変わるの?」

「どうなんだろう。僕はなれたことないから、わからないんだ。でも、前は向けるんじゃないか。少なくとも僕は足元か、後ろばかりを振り返っている。だから、前にどんな道が広がっているか、わからないでいる」

 琴音の問いに返した聡の答えはあやふやで、明瞭のないものだった。けれど、確かな確信を持って今よりはマシだと告げていた。

「色んな道があると思う。そして、色んな選択肢を選んで行けばいいんじゃないか。僕はたったひとつの道しか選んでこなかったけれど。だからこそ、こんなことが言えるんだけど。――誰のためでもないキミのために、キミは素直になって良いんじゃないか」

 少しだけ琴音の先を歩いていた者の助言は、すんなりと琴音の耳を通っていった。不明確なその言葉がどこまでも真剣に聞こえ、聡の誠実さを形にしているようだった。気づくと、琴音の口から言葉が漏れていた。

「……アイツはやさしかったのよ。――アイツはガサツなところもあったけど気が利いて、やさしくて、好きだった、大好きだった」

 それは誰にも言えない、もう二度と言いたくはなかった、弱音だった。心の奥底に閉じ込めてあったその思いは一端封を切ると止めどなく溢れ、琴音の頬を濡らしていた。もういいよとささやくように、琴音の心を涙が慰めていた。

「そうか」

 聡は低く、つぶやく。それ以上のことは何も口にはしない。だがそれが、琴音には嬉しかった。


 空は白み始め、鳥たちが朝の始まりを告げていた。人気こそはないが何台か車も通り始め、街も目覚め始めようとしていた。

「もうすぐ、朝ってところか」

「長いこと、つきあわせっちゃったわね」

 聡と琴音の二人は、一晩中語り明かしていた。一方的に琴音が話しかけ、聡が相槌を打つという形ではあったが。

「別にかまわないさ。たまには夜更かしも悪くはない。そんなことより、フッキレタカ?」

 無愛想な聡の問いに、琴音は考えるように目を閉じた。そして、静かに笑った。それは爽やかなものではなく、かといって、暗いものでもない、二つが交じり合い、どこか疲れたようにも、解放されたようにも見える笑顔だった。

「どうだろう。あんまり、変っていないかも。胸の中は色んなキモチが、グチャグチャしているしね」

 琴音は体をほぐすように伸びをし、橋の欄干から身を乗り出し風を浴びた。

「アイツに対する思いも、堕したことに対する後悔も全然消えないし。まあでも、アレね」

 琴音は視線を聡に向けた。その表情は言うほど、不安気には見えなかった。むしろ、さっぱりした風情だった。

「やっとそういうキモチを、認められるようになったかしらね。なんて言ったらいいのかわからないけど、そうね、やせ我慢を止めて大声で泣けるようになったって感じね」

「それでいいんじゃないか。簡単にキモチの整理がつくなら、皆悩んだりしないさ。結局、自分の問題なんだから、自分のペースで答えを見つけるしかないんだからさ」

 聡は空を仰ぎ、そこに誰かを見るように目を細めると再度口を開いた。

「我慢して、ムリしたって、誰も救われない。弱音を吐いて辛い、苦しいって言うことも必要なのさ」

「……それってさ、誰に言っているの?」

 琴音は眉根を寄せ、疑問を問いかける。

「私に言っているの? それとも、晶、もしかして、自分に言っているの?」

 聡は何も答えなかった。ただ黙って空を見つめ、やがて、思い出したように言った。

「さあ、わからない。もしかしたら、全員にかもしれない」

「そっか」

 琴音は聡の言葉を噛み締めるように瞳を閉じると、同じように無言でいた。しばらくして、小さくあくびをすると、眠たそうに目をこすった。

「しかし、まあ、ずいぶんと話していたわよね。さすがに眠いわ」

「それは僕も同感だ。さすがに目が痛い」

 聡はそう言うとまぶたの上から、眼球をマッサージした。琴音はそんな聡に、頬をほころばす。

「ハハハッ、帰って眠るとしますか。あっ、でも、その前に一つ聞いていい?」

「何だ、僕に答えられることなら、構わない」

「そう、じゃあ、聞くわね」

 琴音は聡への質問と言いながら、首を動かし流れる川面に視線を向けた。まるで、そうしなければ、問うことすらできないとでも言うかのように。

「私は、子供を堕ろしてよかったのかな? 何が何でも産んで、育てるって選択肢を選ばなくて良かったのかな?」

 川が静かに流れる中、風がやわらかに吹く中、その声は春に香る桜のように確かな存在を持って、聡の耳に届いていた。

 聡はため息を吐く。面倒そうに、億劫そうに、けれど、嫌がる素振りは見せずに。

「そんなのは知らないさ。望まれずに生まれる子供は不幸だとか、生きていればそれだけで幸せだとか、答えなんて物はいくらでもそこら辺に転がっている。だから、そんなもんに意味なんてないんじゃないか」

 聡は言葉を紡ぐ。琴音と同じように川面を見据え、同じ景色を眺めながら。

「それに どっちにしたって、同じだ。産んでも産まなくても、絶対どこかで後悔する。

 どこかで思っていた。兄より先に晶へ想いを告げていたら、何かが変わっていたのだろうかと。その答えはいつも、変わらないと聡は確信していた。きっと、告白したことを後悔し、罪悪感の中で晶と付き合い、本当は晶と兄が両想いで付き合うべきだったと考えているだろう。

「IFっていうものがあれば嫌でも考えるし、境遇を考えればなるだろ。というよりも、ならない人間の方がおかしい。だから、いいんだ、選んだ答を信じて。どちらを信じても苦しむし、どちらにも意味はあるんだから」

 聡の言葉は自分自身を肯定する言葉でもあった。だからその言葉はやさしく、やわらかに琴音の心をなでていた。

 琴音はその心地よさに、首筋を撫でられる猫のように目を細め言った。

「聡くんはやさしいね。だけど、やっぱり、残酷よね」

 琴音は顔を聡に向けると、微笑んだ。それはどこか淡く、春先の雪を思わせた。

「慰めてはくれるけど、正しいとは、言ってくれないね」

 聡は何も言わなかった。視線を琴音に向けることもなく、ただ黙っていた。

「でも、それでいいのかもしれない。それなら、私は私を許さなくていいから。――それなら、私はずっとあの子のことを、忘れなくてすむから」

 琴音あどんな顔でいるのか、聡はわからなかった。声音は泣いているようでもあり、涙を堪えているようにも聞こえたからだ。どっちなのかを、知ろうとは思わなかった。それはやさしくもなければ、残酷でもなく、煩わしいだけだからだ、

「そうか」

 聡はそう、小さくつぶやいた。

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