後編
「来い」
腕の持ち主は当然のことながら、夏静の父親、夏徳華であった。警官の制服を着たままの彼は、娘の腕を引っ張り、また暗い路地裏の中に引き込んだ。
彼女の腕を、跡がつきそうなぐらい強く掴みながら夏徳華は足早に暗闇の中を歩いていく。ガツ、ガツと彼のブーツが重い音を立てていた。街路灯が無くとも、この界隈は彼にとって自分の庭も同然。足取りも確かに前へ前へと進んでいく。
足をもつれさせそうになりながら、紫色の夜空を見上げ、夏静は嘆息した。今まで何度もこういった状況に遭遇してきた。いつも結果は同じ。彼女の性根を叩き直すという名目で、父親は夏静が立てなくなるぐらいまで暴力を振るうのだ。深刻な怪我にならない一歩手前まで。
「静」
袋小路になった路地までたどり着くと、やっと父親は娘の腕を放した。観念した夏静はじっと父親の顔を見上げる。
──わたしが何を言ったって、わたしを殴るんでしょう?
口には言葉をのせず、目に言わせた。
そんな目付きを向けただけでも、暴力の呼び水になったはずなのに。夏徳華はただ娘に言い放った。
「静、朱何某のことが好きか」
「えっ?」
「お前は男と遊びたいのかと聞いている」
夏静は顔をしかめた。そんな言い方をしなくても、と抗議の声を上げようとした矢先に平手が飛んできた。
パァン、と暗闇に響く音。夏静は衝撃によろけながらも姿勢を正した。
「答えろ」
「……別に、彼氏なんか要らないわ」
頬を押さえながら、父親を上目遣いに見る。
「言い寄られたから付き合っただけなの。お父さんが、許してくれないんだったら、わたし別れるわ」
それを聞いて、夏徳華は突然笑いだした。夏静はギョッとして押し黙る。父親がそんな風に笑ったのを初めて見たからだ。とはいえ、好意的な笑いでは決してない。半ば自嘲的な、卑屈な笑いだった。
「静、嘘をつくな」
夏徳華は笑みを浮かべたまま、ゆっくり数歩後ろに下がった。
「三手、返してみろ」
ぽかんとしている夏静。その娘の様子を見て、夏徳華はもう一度言った。
「俺の攻手を三手、夏式八卦掌の手で返してみろ。出来たら、その朱何某との仲を認めてやる」
「ほ、本当なの?」
思わず、問いを口に出してしまう。
今まで父親がこんなことを言い出したことは一度もなかった。身体の中の酒精アルコールが彼に言わせたのだろうか。分からなかった。しかし、彼の攻撃を三手防げば、朱文卓に危害が及ぶことはなくなるのだ。彼女は拳を握り締めた。──彼を、文卓を守らなくては。
夏静も数歩下がり、構えをとった。
# # #
父親を好きか嫌いかと問われれば、答えに窮してしまうものの、彼女はこうした状況下で、今まで彼に反撃したことも拳をよけたことも一度もなかった。ましてや、構えをとったことなど初めてである。
目を細める夏徳華。指を折り拳を閉じ、そしてまた開く。開いた掌を斜め上に上げ、ぴたりと止める。
ピリピリと伝わってくる殺気に夏静は気を引き締めた。負けられない。
夏徳華が動いた。たったの二歩で跳ぶように一気に間合いをつめてきた。夏静は彼の掌が描く円の軌道から外れようと、後ろに飛びのいた。
だが、ぐんぐんと父の手が伸びてくる。──避けきれない! 夏静は身体を半回転させながら相手の腕を側面から掴もうとした。だが、見事に読まれてしまった。夏徳華は娘に側面を許さず、身体の向きを変えながら彼女の肩口に掌を放った。
「あぐッ」
衝撃に跳ね飛ばされそうになりながらも、夏静はその勢いを生かしたまま舞うように身体を回転させる。すぐに備えないと追撃から逃れられないからだ。
次の夏徳華の攻手は、正面に向かって放たれた左手の掌だった。
これならかわせる! 夏静は両手の掌を顔の前で交差させて、父親の手を絡め取った。そのまま太い腕を両手で掴み、横向きに投げ飛ばした。
夏徳華は空中で身体を丸め、くるりと回ると危なげなく地面に着地する。
「まずは一手よ!」
凛々しい声を上げ、夏静は父親をまっすぐに見た。
夏徳華は無表情に娘を見つめ返した。返事もない。その目を見て夏静は寒気を覚えた。そこに浮かんだ表情を読めなかったからだ。
一瞬の間。
フッと身体を縮めた夏徳華は、跳んだ。脇の壁を蹴って思いも寄らぬ方向か夏静に攻撃を仕掛ける。右の肘を使った攻撃だ。
これを受けるのは無理だ。とっさに判断にした夏静は身体をよじるようにしてかわそうとするが、いきなり胸に重い衝撃を受けて後ろに投げ飛ばされてしまった。
宙で夏徳華が肘をやめ、蹴りを放ってきたのだった。何があったのか速過ぎて見えなかったのだが、夏静は軽やかにステップを踏むように体制を立て直す。そこに父親が拳を放ってきた。
ブンッ。
鋭い稲妻のような拳だった。風を切りながら迫る拳を見て、夏静も素早く手を伸ばした。横から肘を掴み威力を外へ逃がすのだ。
タッ。
拳に絡ませるように夏静の手が夏徳華の肘を捕らえた。グンッとその威力に乗って彼女は父親の懐に入り込む。八卦掌は攻守一体の武術である。攻撃を防ぐときは、すなわち相手への攻撃に転ずる時である。
夏静は左の掌を父親の喉に向けた。致命的な打撃になり得る位置に入り込んでいる。この斜め下からの一撃。もし決まれば父親は脳震盪を起こして昏倒するだろう。
夏静は動きを止めなかった。しかし、父親の身を案じたその一瞬の間が、命取りになった。
「──遅い!」
父親のもう片方の肘が目の前に。まるで突如出現したかのように、夏静の顔面を打った。
「ッ……!」
あまりの痛さに、声も出ない夏静。地面に投げ出され、顔を押さえる。痛みに目には涙が溢れ、手に生ぬるいものがポタリと落ちた。……涙だけではなかった。血だ。鼻からポタボタと血がしたたり落ちてくる。どうにも出来ず、彼女は堪えながら、血を袖で拭う。
「立て」
父親は相変わらず無表情で娘を見下ろしている。
「今のは認めてやろう。……あと一手だ」
「お父さん」
夏静は思った。父の言葉にはいつものような怒りがない。燃え上がる炎のように怒り狂い、彼女を滅多打ちにする夏徳華。あの鬼神のような目。それが今はない。
「わたし……」
立ち上がりながら夏静は小さな声で言う。
急に怖くなったのだ。指を切断してまで自分を縛ろうとする父親が、穏やかにこちらを見つめている。何を考えているのか分からなかった。彼の言う通り三手防いだら、一体何が起こるのか。それを思い彼女の心は不安でいっぱいになった。
「いいの、お父さん」
消え入りそうな声で彼女は続けた。なぜだか、戦いを続けない方が良いと思ったのだ。
「こんなことしなくても……、お父さんが彼に酷いことをしないでいてくれたら、わたしそれで満足だから」
「……何だと?」
空気がピンと張り詰めたようだった。
夏静は青ざめた。彼女の意に反して、父親が向けてきた目には、はっきりと怒りが宿っていた。さきほどまで感情を浮かべていなかったその瞳に、強い怒気が一瞬のうちに現れたのだ。
「俺に情けをかけるつもりか!」
言うなり、夏徳華は動いた。彼が発した言葉の意味を理解する間もなく、夏静は顔を打たれ、何回転もしながら石畳の上に投げ出された。
「お父さ……」
声を上げたときには髪の毛を掴まれて、引きずり上げられていた。もはや武術の組み手ではない。怒りに我を忘れた夏徳華は娘の白い首をガッと掴んだ。
──ダンッ。
そのまま世界がひっくり返るかのように投げ飛ばされ、彼女は背中を床でしたたかに打った。
痛みに気が遠くなりそうだった。しかし夏徳華は容赦なく、また娘の髪の毛を掴んで持ち上げた。夏静のぼんやりした視界の中に、父親の怒りに満ちた目が飛び込んでくる。混乱した彼女の頭の中で、とにかく彼の怒りを静めなければと声が上がった。
「お父さん」
か細い声で彼女は言った。
「わたし、お父さんとずっと一緒にいるから。だから、赦して──」
次の瞬間。にぶい衝撃とともに、夏静の身体は宙を舞った。
高く、高く、夜空に近付きながら、夏静は思った。このあと地上に落下すれば、頭を打って命を失うかもしれない。目を閉じながらぼんやりと、そんなことを思う。
その時だった。
横から飛び出してきた影が、空中で彼女の身体を受け止めた。まるで豹のようにしなやかに、壁を蹴って、ひらりと着地する。夏静は目を開けた。
「文卓!」
# # #
恋人を抱きとめた茶髪の少年は、落ち着いた様子で夏静の顔を見た。立てるか? と尋ね、彼女がええ、とうなづくと、そっと彼女を地面に下ろした。
そして朱文卓は、暗闇に立つ彼女の父親──夏徳華に視線を移す。
「お前か」
低く、唸るように夏徳華は言った。怯えた夏静が何か声を上げようとするのを、朱文卓は手で制して止めた。彼女をかばうように背中に隠し、じっと強い視線で男を睨みつける。
「お前が朱文卓か」
その言葉に、少年はこくりとうなづいた。一文字に結んだ唇には言葉はない。拳を握り締め、力強い少林拳の構えをとる。
「ハッ、そうだろうと思ってたよ。静に男が出来たって聞いたときにな。俺は真っ先にお前のことを思い出した」
もう一年ぐらいも前になったっけな。そう付け加えながら、ジリ、と夏静は構えもとらずに一歩踏み出した。
逃げて、と背後で夏静が囁くのを聞き、朱文卓は首を横に振りながら唾を飲み込んだ。全身から猛烈な殺気を放っている夏徳華を見ていると恐怖で身体が震えだしてしまいそうだった。
彼の言う通り、朱文卓が夏徳華に会うのはこれが二度目である。喧嘩に強い女侠・夏静に勝ちたくて、彼女を追い掛け回していたときに、偶然こうした場面に出くわしたのだ。
見ていられなくて、父娘の間に割って入った朱文卓は、夏徳華の夏式八卦掌の洗礼を受けた。少年の武術は、本物の武道家である彼にはまったく歯が立たなかった。
今回だって同じである。また、あの時のように自分はボロ布のように痛めつけられるのだろう。それは分かっていた。
しかし、男には引けないときがあるのだ。
「お前、いい時に来やがったな」
もう一歩、両手をだらりとさせながら夏徳華はこちらに近付いた。
「……見ての通り、俺は今すこぶる機嫌が悪い」
掌を握ったり開いたりしながら、もう一歩。朱文卓は視線を動かさないまま、背後の夏静に、俺から離れろと告げた。
「……お前を半殺しにしても、まだ足りないぐらいだ」
ザッ。足を開き、舞うような掌の動き。夏徳華は構えをとった。
「生きて帰れると思うな。朱文卓!」
八卦掌特有の、美しく舞うような足裁きで、夏徳華は二つの掌を繰り出した。サッ、サッと朱文卓と夏静は両脇に跳んでかわす。
怪我だらけの娘が膝を折って地面に手をついたのを確認すると、夏徳華は身体の向きを朱文卓に向けた。
対する少年は、直線的な拳を放ってきたところだった。ニヤと笑った夏徳華は拳を避け、その肘を掴みながら一瞬のうちに彼の背後に回った。
あっ、と朱文卓が声を上げる前に、夏徳華は飛び上がりながら両足での蹴りを少年の背中に放った。ゴッと鈍い音がして、朱文卓はみっともなく地面に投げ出された。
次には、息もつかせず、踏みつけるように足を繰り出してくる。少年は転がりながらそれをかわし、そのまま両足を天に向かって回転させて立ち上がろうとした。
──ガッ。
だが突如、腕に猛烈な痛みを感じて思考が止まった。
文卓! と夏静が悲鳴を上げる。夏徳華がブーツで朱文卓の腕を、その肘を踏みつけている。
ギリ、と男は足に力をこめた。
「まずは、腕を一本、もらおうか」
骨がきしんだ。朱文卓は歯を食いしばって痛みに耐えようとした。無理な姿勢のまま下半身の蹴りを夏徳華に当てようとするが、軽く右腕の一閃であしらわれてしまう。
「やめて、お父さん!」
夏静が駆けた。父親の身体にしがみついて止めようとするが、夏徳華はそんな娘を振り払おうともせず、無視した。代わりに踏みつける足にますます力を込める。
決意を固めて、夏静が身を翻した。掌を構え、父親の足に狙いをつける。それに気付いた夏徳華は、驚いたように娘に顔を向けた。
その時。自分の肘を踏みつける力が弱くなったことに気付いて、少年はハッとした。見上げた夏徳華の顔を見る。男は、今まさに自分に手を上げようとしている娘を見ていた。
──今だ!
ぐるんと、両足を回しその威力で夏徳華の足を外すと、朱文卓はタッと自分の両足で地面に立った。
「静!」
朱文卓は叫びながら、跳んだ。目を見開いた夏静は、父親の両腕をグッと掴み掌を封じた。
静、と夏徳華も叫ぶ。
頭を伏せた夏静。その向こうから飛んできたのは、朱文卓の蹴りだった。飛び上がりながら放った、天に舞い上がるような美しい軌跡。美しさと威力のこもった蹴りが目前に迫っていた。
ひどく重い音が路地裏に響き渡った。
朱文卓の脛が、夏徳華の顎に決定的な打撃を与えた瞬間。時が止まったように夏静はその光景を目に焼き付け、息をのんだ。
その一瞬のあと、蹴り抜けた朱文卓は足を綺麗にピンと伸ばし、宙を舞った。そして夏徳華は顔を仰け反らせ、放物円を描くように跳ね飛ばされていく。
「文卓! お父さん!」
夏静は駆け、もう一度父親の両腕を掴んだ。ビクンと身体を震わせ、後頭部を石畳にぶつける寸前に動きが止まる。彼女は父親の身体をできるだけ衝撃がかからないようにして地面に寝かせた。スタッと着地した朱文卓も慌てて駆け寄ってくる。
二人を恐怖に陥れていた男、夏徳華は意識を失い地面に倒れている。夏静は手早く脈をとった。そして心配そうにのぞきこむ朱文卓にうなづいてみせる。
「大丈夫、脳震盪を起こしただけよ」
# # #
父親の腕を胸の上にきちんと置いてやり、手の甲を撫でてから、夏静は立ち上がった。
「早く、行きましょう」
「いいのか?」
彼女の手をそっと握りながら、朱文卓。
「親父さんをこんなところに放っておいて」
「平気よ。同僚の曾さんに連絡しておくから」
と、夏静はパッと顔を輝かせ、朱文卓を見上げた。
「それより、文卓、さっきのあれ……“鳳凰跳脚”ね!」
「あ、ああ」
彼女の微笑みに、朱文卓は照れたように笑う。「あれしかない、と思って。咄嗟だったから」
跳び上がりながら天を突く。炎の中から蘇り羽ばたく鳳凰のような蹴り。その威力には、誰もが恐れをなす。朱文卓を“南天無雙”と言わしめる技が、今ここに復活したのだ。
「文卓」
夏静は飛びつくように朱文卓の胸に飛び込んだ。背中に手を回しギュッと抱きつきながら、彼の首筋に接吻キスを浴びせた。何度も何度も。
「もう大丈夫よね。自分のこと駄目なヤツだなんて言わないわね」
「ああ」
しっかりとした声で朱文卓は答え、彼女の顔を見下ろす。優しい目だった。
「ゴメンな。俺、もうお前を悲しませるようなことは言わない」
彼は腰を屈めて、彼女の唇に軽くキスをすると、自分のTシャツの裾で夏静の鼻血の跡を拭いてやった。それからジーンズのポケットから黒い手袋を取り出し彼女に差し出す。
「これ、忘れていったから、返さなきゃと思って、必死にお前を探したんだ」
「ありがと。……わたし、ひどい顔してるでしょう?」
「いいや。お前は、いつも綺麗だ」
「もう……、何言ってるの?」
夏静は照れたように顔をそらし、手袋を受け取った。だがそれは身に着けずズボンのポケットにねじ込んだ。素手で彼の温もりを感じたい。そう思った彼女は、朱文卓の腕に自分の両腕を絡めて、路地裏の外の方へ彼を促した。
「ねえ、文卓。お腹すいてない?」
「ん? ああ。まあ、確かにちょっとな。何か食べたいものあるか?」
「そうね……。そうだ、火鍋がいいわ」
夏静はふと思いついたように言った。
「火鍋?」
朱文卓は眉を寄せる。「なんで? 火鍋なんかB級グルメじゃんさ? もっと豪勢なモン食おうぜ」
「イヤよ。イヤイヤ。今日は火鍋がいいの。二人で食べたいの!」
首を振り振り可愛らしく言う夏静を、朱文卓は目をパチパチやりながら見たが、フッと肩の力を抜いたように微笑んだ。
「いいよ。お前がそう言うなら火鍋にしよう」
「ありがとう、嬉しいわ」
自分の胸を朱文卓の腕に押し付けながら夏静。なるべく身体が密着するようにして歩きながら、そっと一言。
「だから好きよ。文卓、とっても優しいから」
少年は、途端に顔を赤らめた。うう、とか、ああ、とか意味を成さない言葉を発しながら、前方に歩いていく。彼の横顔を見つめ、夏静は幸せそうに微笑んだ。一人の少女の顔だった。そんな彼女の表情の中には“黒掌仙姑”の凄みや、父親への怯えは微塵も存在していなかった。
そして、二人は路地の向こうに姿を消していった。楽しそうな笑い声とともに。
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by 冬城カナエ 2006,06,12




