中編
─上海最凶の不良娘、夏静は恋人の朱文卓が喧嘩に負けたと聞き慰めようとするが、失敗。落ち込んでしまった文卓のもとから逃げ出した彼女は、文卓を打ちのめした少年、方榮をギャフンといわせるため、逆恨みに燃える
「お嬢ちゃん、おじさん知ってるよ。それ“走園”だろ?」
時刻は七時ごろ。黒いブラウスとストレッチパンツ姿の背の高い少女が、空き店舗になった二階建てのカフェの屋上で演武を行っている。その武術は八卦掌。彼女の名前は夏静。上海市中心街の高級中学生の間で“黒掌仙姑”と呼ばれ、恐れられている少女である。
突き出した掌で空を切り、八歩で円を描くように回りながら一連の演武を行う。額にうっすらと汗をにじませた夏静の姿を、二つの眼が眺めている。屋上の塀に腰掛けたボロを纏った乞丐こじきの老人であった。左手にペットボトルが数本入ったゴミ袋を下げ、欠けた前歯を見せ、ニカッと微笑んで目の前の少女の演武を見つめていた。
「なあ、お嬢ちゃんのソレ、八卦掌だろ? な、そだろ?」
「うるさい。黙ってな、ジジィ」
透けるように白い掌を打ち合わせ、パンと音をさせてから夏静は吐き出すように言った。
「あんたは“奴”が真下に来たときに、わたしに合図してくれりゃあいいんだよ」
「あ、そ」
「五元、欲しくないのかよ?」
「欲しいけどさ」
老人は子どものように口を尖らせた。最近の若いもんは年長者に対する口の聞き方を知らん、と付け加えながらつまらなさそうに夏静から目を離す。
「おじさん、早くおうちに帰りたいなー」
言いながら、乞丐の老人は下の路地を見ようと屋上から身を乗り出した。
誰も歩いていない路地裏。上海の街は必要なところにしか街灯は無い。百公尺メートルほどもある路地には街灯が真下に一本だけしかない。歩く人の姿もない。あたりはシンと静まり返っている。
カツ。右方の曲がり角に靴音。老人はそちらを見る。薄暗い道に一人の少年が現れた。
「来たよ、お嬢ちゃん」
老人は額に手を当てながら大仰な仕草で続ける。「ああ、うん。色白な男の子だね。背はお嬢ちゃんと同じぐらい。いい服着てるけど、薄いピンク色のシャツだね。趣味悪いね。……彼で、合ってる?」
「そいつだ」
夏静は、演武を止めずに目を閉じた。心を鎮めて、自分の殺気を消すためである。
「奴が、そこの街灯の真下に来る五秒前から数えるんだ。小声でな」
「分かったよ」
老人は少しだけ身体を引っ込めて、路地を歩いてくる少年の姿を見た。足音は軽やかで、これから先のことを予期できるすべもなく、歩を進めている。
「五」
老人の言葉を聴き夏静は動きを止めた。息を整え丹田に意識を集中させる。
「四」
目をカッと見開く。
「三、二」
タッと、屋上を走り出す夏静。目標は街灯の明かり。
「一」
屋上の縁を踏んで、夏静は跳んだ。ひらり。その後姿から五元札が一枚、宙を舞う。
「零!」
空中で身体を回転させた夏静は、真下を歩いていた少年めがけて蹴りを放った。まさに稲妻のような鋭い軌跡を描いて、必殺の一撃が少年に迫る。
突如、上空から出現した殺気に少年は目を見開いた。目線が合い夏静はニヤリと笑う。
この至近距離まで殺気を隠したのだ。避けられるはずがない──!
「死ね、方!」
ガツッ。
その鈍い音がするのと、ビルの屋上で老人が五元札を掴んだのは、ほぼ同時だった。
夏静の蹴りは、少年の交差させた腕の上にあった。その絵が見えたのは一瞬だけ。次の瞬間には夏静は身を翻して、彼の後方へ跳び、少年は彼女の動きに反応しつつも、片方の膝を折った。
「夏か」
すぐに膝を戻し、低い声で少年は言った。彼の名前は方榮。“龍殺青眼”と呼ばれる冷たい瞳を持つ少年で、華拳の達人である。ロシア人の母親を持つ混血児で、その肌の白さが暗闇の中に浮かび上がるようであった。そしてその鋭い眼光も。
夏静はすぐに構えをとった。方榮は、老人が言った通りのピンク色のシャツ姿だ。左腕をさすっているのを見ると、うっすらと血がにじんでいる。あの一撃をまともにくらったのだ。しばらく両腕は痺れて使い物にならないに違いない。
それでも方榮は無言で、腰を落とし構えをとる。
「よくも、文卓を酷い目に合わせてくれたわね!」
タッ、と軽やかに舞うように夏静は地を蹴って間合いを詰めた。弧を描くように、突き出した掌を唸らせて方榮に襲い掛かる。
方榮はチッと舌打ちすると、身体を回転させて夏静の死角に入り込んだ。一瞬、背中合わせになる二人。そのまま放ったのは、素早い回し蹴りである。夏静は身体を縮め、地面に両手をついて蹴りをかわし、石畳の上をニ、三回転して間合いを取った。体制を整えて、サッと立ち上がる。
「夏、もうよせ」
対する方榮は、落ち着いた声で言うと構えを解いた。
「こんな戦いは意味がない」
「黙んな! アンタには意味がなくても、わたしには意味があるんだよ!」
両腕を大きく開いて夏静が構えをとっても、方榮は動じた様子もなく、ただ立ったまま彼女を見つめている。
途端にムカムカと相手に対する怒りが湧き上がってきた。夏静は方榮を睨みつける。いつも落ち着き払っていて、言葉を荒げることも感情を表に出すこともない。親は共産党の幹部でエリートだ。本人は意識していないのかもしれないが、その態度が上から見下ろされているようで、何から何まで鼻につくのだ。
──そうだ。
夏静は、方榮の弱点を思い出した。“龍”と呼ばれるだけあって、彼は逆鱗を持っていると聞いている。そこに触れられると方榮は激怒するのだ。彼女の恋人の朱文卓はそれを言って、この少年に半殺しにされた。
夏静は方榮が怒りに我を忘れるところなど見たことがないが、どんなことを言ってやればいいのかは知っていた。両親のことである。とくに母親のことを悪く言ってやればいいのだ。
「方、アンタのロシア人の母さんが……」
「お袋の話をしても無駄だぞ」
だが、強い口調で止められた。
「朱の野郎も、そればっかりだ。さすがに慣れるよ。ムカつくことはムカつくがな」
ムッとしたのは夏静だ。
「馬鹿にしやがって!」
拳を振り上げた彼女は、また間合いを詰めようとした。が、方榮は軽やかに後方に跳び退く。
「お前もこんな無益なことに八卦掌を使うなよ」
「畜生! ロシアのデブ女から生まれたくせに! ロシア語でも喋ってろ」
ぐ、と方榮が言葉に詰まった。
夏静は苦し紛れに放った言葉が効いたのを見て、これはと思った。方榮は言い返す言葉が見つからない様子で、目を白黒させている。
──おそらく、彼の母親は本当に太っているのだ。だから言い返せないのだ。
そう悟った夏静は、勇ましくも高らかに、方榮に向かって言い放った。
「毎日、ボルシチでも食べてりゃいいわ、おデブちゃんはさぞかしお料理がうまいんでしょうよ!」
「クソッ」
いきなり方榮は悪態をつくと、夏静と反対側に走り出した。耳をふさぎながら、である。怒らせることは出来なかったが、相当嫌がっているのは確かである。夏静は嬉々として、方榮を追いかけた。
# # #
武術で鍛えた内気を駆使して、軽やかに夜の街を駆けていく方榮。自分の耳に人差し指を突っ込み走るその少年を、同じように軽やかに追いかけるのは黒衣の少女、夏静である。口にするのは方榮のロシア人の母親のことである。彼女がいかに太っているかを叫びながら、夏静は相手を追いかける。
表通りに出て、食料品店の明るい電光に照らされながら二人は走る。
会社帰りの若い女二人の脇をすり抜け、また暗い路地裏へ。古い木造の家が立ち並ぶ通りに入ると、ランニングシャツ姿の中年男たちが、裸電球をつけて、家の前に出したテーブルを囲んで麻雀を楽しんでいる。
そこへ方榮がテーブルの上を踏んで麻雀の牌を跳ね飛ばすと、夏静は牌を空中で掴み、男たちに放ってやりながら少年を追う。
「待ちな、方! 逃げるなんて卑怯だよ!」
「うるさい、闇討ちしてきたお前は、卑怯じゃないのかよ!」
言い返しながら、方榮は駆けて行く。夏静は、ゴミ捨て場に落ちていた皿を拾って少年の足めがけて投げつけたが、相手も跳んで華麗にかわす。ガシャン、と大きな音を立てて皿が壁に当たって割れた。
「畜生、ちょこまかと!」
罵声を浴びせながら、夏静。
方榮はタッとステップを踏むように角の向こうに姿を消していく。それを追いかけようとして夏静も角を曲がったが、いきなりドン、と何かにぶつかってしまった。そこに誰かが立っていたのだ。
夏静はその男に激突し、道に投げ出されてしまった。
きゃっ、と声を上げて後ろに尻をつく。衝撃に顔をしかめたものの、方榮を逃がすわけにはいかない。
「邪魔よ!」
すぐにキッと顔を上げて立ち上がろうとして、夏静はそこに立っている相手の顔を見て凍りついた。
「こんなところで何をしてる?」
「……お父さん」
そもそも気功を使って駆けていた彼女に体当たりをされて、無事でいられる者などそうそういないのだ。曲がり角に立っていたのは夏静の父親。夏徳華であった。濃い緑色をした警官の制服を身に着けており、明らかに仕事中といった様子である。
彼は、上海市の公安警察に所属する警官であり、巡邏パトロールを兼ねて、いつも夜の街を闊歩している。
逃げる方榮を追って、うっかり父親の居るこの街区──旧上海城界隈まで来てしまったのだ。夏静は自分のうかつさを呪った。
「静」
夏徳華は言った。娘の指を切断した男は、眉一つ動かさず冷たい視線を夏静に向けている。
「門限は七時だと言わなかったか?」
感情のこもっていない言葉だった。しかし夏静は次に何が待っているかを思い描き、恐怖に囚われた。方榮のことは完全に心の中から消し飛んでいた。
「お父さん、あの、わたし……」
「お前は俺が仕事してるのに、遊び歩いてやがるんだな」
震えながら立ち上がった娘の腕を、父親は掴んで引き寄せた。軽く捻り上げるようにである。夏静はその痛みに耐えながら身体を縮めた。鼻につくのは酒精アルコールの香り。いつだってそうだ。夏徳華の身体から酒が消えることなどないのだ。それは仕事中のときだって同じである。
「昨日、お前の“友達”が俺のところに来やがったぞ」
淡々と夏徳華は娘に向かって話し始めた。
「お前が普段、何をしてるかとか、誰と付きあってるとかそんなくだらない話をしにな。いわゆる告げ口をしに来たわけだ。静、いい友達を持ったな」
同じ普陀高中に通う男子生徒、徐スーのことである。畜生、と夏静は心の中で悪態をついた。だから今日の夕方、あの少年を叩きのめしたのだ。だが、彼をリンチしたところで、父親が得てしまった情報を消すことはできない。
「お前が俺の教えてやった夏式八卦掌で餓鬼どもをぶちのめすのは構わん。あれは夏家が清の時代から受け継いできたものだからな、実践で鍛錬しなければ上達しない。しかし」
ギリ、といっそう腕に力を込める夏徳華。
「男遊びをしていいとは一言も言ってない」
「お父さん、違うの、わたしは」
「静、朱文卓とかいう餓鬼を俺のところに連れてこい」
「お父さん」
少女は自分の声が震えていることに気付いた。
「赦して……」
夏徳華は娘の腕を放したが、代わりにその胸倉を掴んで引き寄せた。
「赦して、だと? 父親に紹介できないような男なのか、そいつは」
「彼をどうするの?」
恐怖におののきながら夏静は小さく尋ねた。すると夏徳華は笑った。まるで猛獣のような恐ろしい笑みだった。
「手始めに足を折ってやる。そいつが二度と歩けないようにな」
息を飲む夏静。絶望に言葉も出なかった。目をつむり首をゆるゆると横に振る。
「静、静──聞け!」
乱暴に娘を揺すりながら、夏徳華は声を荒げた。
「お前の彼氏はどこだ? 隠しても無駄だぞ。俺を誰だと思ってる? すぐに調べはつくんだ」
問われても首を横に振り続ける夏静。父親は娘の身体を離したかと思うと、彼女の頬を打った。
パン、と乾いた音が路地裏に鳴る。
人通りの決して少なくない通りではあったが、回りの人間は見て見ぬ振りをしていた。
固い石畳の上に膝をついて、夏静は頬を押さえうずくまった。どうすればいいか分からなかった。父親の言う通りだ。名前が分かれば警察官である父親は、ほどなくして朱文卓を見つけ出すことができるだろう。
彼との交際を続けていく上で、最も恐れていたことが現実になりつつあった。方榮よりも何よりも、夏静が一番恐れていたのは、自分の父親だったのだ。
「静、立て」
夏静がそのまま座り込んでいると、夏徳華はその頭に手を伸ばし髪の毛をわし掴みにして、彼女を無理やり立たせた。痛い、やめてお父さんという娘の言葉を無視して、父親は娘を引きずるようにして連れていこうとする。
コツン。
その時、夏徳華の頭に何かが当たった。彼は娘の頭から手を戻し、当たったものを手にとった。一元貨だった。
「誰だ!!」
声を荒げた夏徳華は、一元貨が飛んできた方向を見た。物音をさせて誰かが走り去っていく音。タタンッ、と彼は踏鞴たたらを踏んで、走り去っていく相手を見極めようとした。だが、路地を駆けていくのは汚らしい乞丐こじきが一人だけだ。
夏徳華は首をかしげたが、ハッとして娘のいた方を振り返った。すると、ちょうど夏静が誰かに腕を引かれて、路地の暗がりに姿を消すところだった。彼の鋭い感覚は、娘と一緒にいた誰かの気配を察知していた。
追いかけようと思ったが、やめた。何しろ彼女は自分の娘なのだ。
「逃げるなら、逃げるがいい。静」
夏徳華は暗がりに目を凝らしながらつぶやく。唇に寒気のするような笑みを浮かべてみせながら。
「お前はどこまで逃げても、俺の娘だ」
# # #
はぁはぁと息を切らしながら、いくつかの角を曲がったところで方榮は夏静の腕を離した。二人とも焦って走ったせいで、気功など使っている余裕もなく、すっかり息が上がっていた。
夏静は、身体を曲げて息を切らしながらも隣の少年の顔を盗み見た。方榮も息を整えながら、正面にある料理店からこぼれる光に目を細めている。
「方、なんであんた、わたしを助けたの?」
たまらず、夏静は傍らの少年に話しかけた。
「何でって……」
方榮は、ちらと横目で少女を見た。「かなりまずい状況に見えたからな。あの警官にしても、相当の使い手に見えたし、放っておけないだろ」
「何でよ」
納得いかないと夏静は怒ったように続ける。
「わたしはあんたを闇討ちしようとしたのよ、何で助けるのよ!」
「いいじゃないか。気まぐれだよ」
なだめるように方榮は言う。
「夏シア、火鍋は好きか?」
「何?」
「火鍋だよ」
顎で目の前の料理店を指しながら方榮。店の看板には火鍋屋と書いてある。
「メシ食いに行くところだったんだ。寄っていこう」
「嫌よ、あんたとなんか」
「分かった。貸し借りはチャラにしよう。一緒にメシは食うが俺は奢らないし、お前も奢らない。それでいいだろう?」
言われて夏静は、じっと目の前の少年の顔を見た。悔しいし不本意だが、助けてもらったのは事実だ。ここで断れば方榮の面子をつぶすことになるだろう。
「いいわ」
つん、と顔を背けて、夏静は先に道路を渡って火鍋屋に向かった。少し遅れて方榮。ホッとした様子で彼女の後を追う。
「……あの警官は、わたしの父親よ」
火鍋店の硝子ガラス戸を開けながら夏静が小声で言うと、方榮は驚いたように彼女を見たが、何も言わなかった。
店内に入り一息つくと、唐辛子の匂いと熱気に迎えられた。時間が遅くなったため客の姿はまばらだ。方榮は、さっさとテーブルに着くと、店員の方を向いて手短に言った。
「選ぶのが面倒だから、適当に二人分持ってきてくれ。……それから可口可樂を二つ」
方榮は、そのまま夏静を見上げ、座るように顎をしゃくった。彼女も仕方ないといった素振りで同じテーブルの反対側に腰掛ける。
周りの大人たちが立てる話し声や食器の音が騒々しく鳴った。白い蛍光灯の下。真ん中に仕切りのついた大きな火鍋を挟み、二人は目を合わせたりそらしたりしながら沈黙した。店員が可口可樂を持ってくると、同時に手を伸ばし、ごくりと飲む。
続けて、店員が野菜や春雨、茸などを盛り付けた皿と、肉と貝類がのった皿を二つ持ってくると、方榮は無言でそれを鍋に入れ始めた。真ん中で仕切られた赤い辛味湯の部分と白湯と、具をきちんと均等に分けている。
方榮は意外に几帳面な性格なのかもしれない。夏静はそんなことを思いながら相手の動きを見ていたが、途中でハッとして箸を掴み、そのまま皿をはっしと掴んだ。
「なんだよ?」
手を止められて方榮は眉を顰め、彼女を見返した。
「貝は入れないで。嫌いなの」
「……」
言われて方榮は、皿の上の貝を見て、プッと噴き出すように笑った。「お前みたいな奴でも嫌いなものあるんだな」
「どういう意味よ?」
箸で掴んだまま皿を奪い、それをテーブルに落として夏静。
「ゴメンゴメン、冗談だよ」
夏静が険しい顔のままでいると、方榮は緊張が解けたように鍋をかき回し始めた。機嫌が良いようだ。“龍殺青眼”は、こんな朗らかな顔をする男だったのだろうか。夏静は異様なものを見るような目つきで相手の様子を伺った。
「実はさ、一度、お前とゆっくり話をしてみたいと思ってたんだ」
夏静の目つきを気にもせずに、方榮は続けた。
「お前の八卦掌、すげえなと思っててさ」
「世辞は要らないわ」
「……俺はお世辞を言うような男じゃない」
静かに言う方榮。
「最近になって分かったんだよな」
「何がよ」
「いや、ずっと分からなかったんだ。あの時、何でお前がわざと足を滑らせたフリをしたのか、がな」
「何の話?」
「とぼけるなよ。前に廃ビルで戦ったときのことだよ」
少年は鍋の湯気の向こうで、笑みを浮かべたようだった。遅れて、夏静は相手が“前回の果し合い”のことを言っていることに気付いた。
「……俺は足をやられてたし、あの決定的な瞬間に、お前に踏み込まれれば喉元にガツンと強烈な一撃をくらってただろうな。立会人たちは分からなかったかもしれないが、俺はあの時、本当は負けてた。お前が足を滑らせたフリさえしなけりゃ、な」
「何言ってるのよ」
夏静は眉を潜めながら、可口可樂缶を握った。何だか変な話になってきた。
「朱のためだったんだな」
だが方榮は話を続ける。穏やかな目で相手を見つめながら。
「あいつに花を持たせようってんで、俺にワザと勝たなかったんだな。……だから俺の脚を執拗に狙ったんだ。お前は最初から俺に勝つ気はなかった。引き分けに持ち込めばそれで良かったんだ」
「変なこと言わないでよ」
夏静は、ぎりと歯を噛み締めた。図星を当てられ、続く言葉もない。文卓ウェンズォならいざ知らず、当の敵に心を見透かされてしまった。こんなことなら、喧嘩を仕掛けられた方がよっぽどマシだ。
「最強の小侠はお前だよ。夏静。俺でも朱でもない」
静かにそう言うと、方榮は煮立ってきた火鍋に興味を移した。皿を取ると手際良く具を取り分け始める。茸や白菜を入れた後、豚肉をバランスよく盛り付けて、夏静に向かって差し出す。ほら、お前から食え、と言わんばかりに。
渋々と夏静は皿を受け取った。やはり不本意だったが、ここは素直に相手を立てることにした。
それにしても、と夏静は考えをめぐらせる。この少年をどうしたら黙らせることができるか。朱文卓や自分のことで余計なことを高中武林に触れ回られたら、たまったものではない。やはり先ほどのことはチャラにして、店を出たら、改めて喧嘩を売るべきか。
「それにしてもさ」
向かいに座った少女が物騒なことを考えているとは露知らず、方榮は一息ついてから続けた。
「お前も苦労してるよな。実のところ同情してるよ。アイツが……朱がもうちょっと気の利いた奴だったら良かったのにな」
「何だって?」
いきなり夏静は声を荒げた。こいつ聞き捨てならないことを、今──。
バン! 机を叩いて夏静は立ち上がっていた。
「今、なんて言った? おい」
「お、怒るなよ、そんな」
さすがの方榮も彼女の豹変振りに驚いた。椅子を揺らし仰けぞって少女を見る。
「まるで……まるで、文卓ウェンズォが、馬鹿で無能みたいな言い方しやがって!」
「言ってない、言ってない」
滑るような動きで、方榮も席を立った。「落ち着けよ、確かに今のは言葉が過ぎたよ。悪かった、謝る」
「文卓を侮辱したな!」
しかし夏静は拳を握りしめ、相手を睨みつけながら机の脇に踏み出す。方榮を追うような格好だ。
「文卓は、エリートぶったお前みたいな野郎とは違うんだよ! 文卓は、素直だし、優しいし──」
「そこまでだ、黒掌仙姑!」
その時突然、後ろから甲高い声とともに拳が飛んできた。
背後ではあったが、夏静は気配と殺気を一瞬のうちに読んでいた。サッと攻撃をかわし、闖入者の腕を掴んでそのまま引いて床に投げ倒す。
「痛ッ」
前のめりに倒れ込んだ襲撃者は一人の少女だった。高中生であろう、凛とした目を返し、こちらを振り返ると体制を立て直そうとした。夏静はそれを素早く打とうと掌を向け──。
しかし、サッと少女の姿を隠すように割り込んできた影があった。
それは、龍殺青眼こと方榮だった。
まさに龍を殺すような恐ろしい眼光を見せ、夏静を睨み付ける。この娘に手を出したら殺す、と言わんばかりだ。夏静は躊躇し、掌を引いて追撃を思い留まった。
すると、方榮は一瞬にして元のような穏やかな表情に戻った。フゥと息を付き、夏静に声を掛け直す。
「すまん、夏。彼女は俺の連れだ」
と、後ろの少女に視線を流す。
「梅。夏に謝れ」
「何でよ」
少女は不服そうに立ち上がった。彼女の名前は杜梅。肩まで髪を伸ばし、くりっとした大きな瞳を持つ、あどけない容貌の少女であったが、夏静を睨みつけるその目は、敵意丸出しである。
「榮兄に殴りかかろうとしてたじゃん」
「違うよ、俺たちは一緒に火鍋食ってただけだ」
方榮は杜梅の手を引き、彼女の頭をやんわり掴んで、夏静に向って下げさせた。
「分かったわよぅ。ゴメンナサイ」
杜梅は方榮の手を振り払うと、隣のテーブルから椅子を拝借して、サッと腰掛けた。
「何なのよ、この生意気な女は」
自分も座りながら、夏静は憎々しげに言った。最後に腰掛けた方榮の動きを目で追いながら、はたと気づく。
「ああ、そうか……女が出来たのね」
「そうよ!」
方榮より先に、杜梅が答えた。
「榮兄に何か良からぬことしようとしたら、わたしが承知しないからね!」
「何言ってんだよコイツ」
「梅、いいから火鍋でも食おう」
夏静は方榮に、お前の彼女の方がよっぽど頭が悪そうじゃないか、と憎まれ口を叩こうとして、言葉を飲み込んだ。
あの龍殺青眼が、すっかり険をなくし少女をなだめている。先ほどの鋭い眼が嘘のようだ。今の目つきでは龍はおろか蟻すら殺せないだろう。しまりのない笑みを浮かべて杜梅の手を握っている。
──ああ、そうか。男ってこういう生き物なのね。
「えーっと、何の話してたっけ?」
「別に」
夏静はニヤニヤしながら答えた。いいことを思いついた。この杜梅とかいう女を、今度ひっ捕まえて痛めつけてやる。方榮へのいい嫌がらせになるだろう。
「梅、ホラ、これ食いな」
「わぁっ、榮兄ありがとう。榮兄にもいっぱいとってあげるね」
方榮が盛り付けてくれた皿を、杜梅は嬉しそうに受け取ると、今度は方榮の皿を奪い取って鍋の中の何かを山盛りに盛り付けて渡す。仲睦まじい様子である。
「はい榮兄」
「ありがとう」
「ね、榮兄、口開けて。あーんして、あーん」
「だ、ダメだよ」
海老を箸で掴み、方榮の口元へもっていこうとする杜梅。少年は恥ずかしそうに夏静に目をやる。武士の情け、自分の姿を見てくれるな、と瞳からメッセージが伝わってくる。彼女はフンと鼻を鳴らして、自分の皿に目を落とすと、そ知らぬ顔で箸をつけ始めた。
「えへ。ちゃんと着てきてくれたんだ、そのシャツ。わたしゼッタイ榮兄はピンクが似合うと思ってたの」
「そ、そうか?」
海老を強引に方榮に食べさせたあと、杜梅は椅子を寄せ、これ見よがしに方榮の腕に自分の腕を絡めさせた。ちらりと送ってくる視線は挑戦的だ。彼女も夏静に嫌がらせをする気満々のようだった。
と、その笑顔が、方榮の袖についた血により消え失せた。
「……って、それどうしたの? 榮兄、腕から血出てない?」
「ん、ちょっとな」
白菜を掴んだ箸から目を上げると、ちょうど杜梅と視線が合った。彼女は、お前がやったな、と目で詰問してきた。夏静は目で、そうだと返してやった。嫌味を込めた笑みと一緒に。
「ちょっと転んだだけだって」
「転んだだけでそんな怪我になるわけないじゃん!」
「なるって……。そんなことよりさ、梅。な、茸好きだろ? 茸」
苦し紛れに方榮は自分の皿にあった茸を箸で持ち上げる。「あーんしてごらん、あーん」
一転、杜梅は嬉しそうに口を開けた。パク、と茸を食べると大仰な仕草でもぐもぐして見せる。
「おいしいー。榮兄と一緒だとすっごく美味しい。もっと食べたいなー」
「え?」
方榮は鍋を見た。具はほとんど無くなってきている。それを見た方榮は追加の注文をしようと店員の姿を探したが、杜梅はテーブルの脇に退けてあった大皿に目を留めた。貝の入った皿である。
「あ、美味しそう。これ入れていい?」
杜梅はその大皿を迷うことなく手にとった。そして方榮と夏静が止める間もなく、ザラザラッと中身を鍋にぶちまける。
「あ……」
彼も、夏静もそれを呆然と見ていた。
「夏が貝は嫌いだって……」
「畜生!」
ダンッ、と椅子を蹴倒し夏静は立ち上がった。怒りからか顔が紅潮している。方榮が鍋を変えてもらおうなどと言いながら腰を浮かせたが、杜梅が素早くその袖を引っ張って思いとどまらせた。
夏静は皺だらけの五元札をテーブルに叩きつけた。
「勝負は預けといてやる、方。それにそこのお前、あとで絶対泣かしてやるからな」
などと捨て台詞を吐いて杜梅を睨みつける。対する少女は、べーと舌を出して応戦してきた。小さい子どもを怖がらせるような表情で、である。
ぷい、と顔を背けると、夏静は憤然とした様子で店の外へと出ていった。いつかこの二人に仕返しをしてやると心に誓いながら。
# # #
火鍋屋の硝子ガラス戸を開けて外へ出て、すぐだった。
ぬっ、と大きな手が脇から伸びてきて、夏静の腕を掴んだ。その強い力に驚くと同時に、彼女は腕の持ち主に気付いて、心臓をわし掴みにされたように縮み上がった。
「お父さん!」
次は最終話です。




