前編
ハードだけど、ポップ? 格闘&青春小説。中国の武侠ドラマや香港B級映画好きにオススメです─
夏静は十八歳。上海市に住み、中心街の北部に位置する普陀高級中学校に通っている。日本で言うところの高校三年生で、すらりと背が高く、顔立ちの整った美しい少女だ。
家族は父親が一人のみ。母と弟が居たが、夏静が十歳の時に大きな列車事故に巻き込まれて死んでしまった。彼女も頭や背中に大きな怪我をして死にかけたのだが、生還した娘に父親は言い放ったのだった。何でお前が生き残ったんだ、と。
警官をしていた父親は、妻と息子を失った悲しみを、酒と娘にぶつけるようになった。彼は跡取りが欲しくてたまらなかったのだが、酒浸りで娘に暴力を振るってばかりいる男に、嫁いでくるような女性は一人もいなかった。
夏静が普陀高中に進学した頃になると、父親は自分がどうあがいても再婚できないことを悟り、酒の量を日増しに増やしていった。ある日、深夜に帰宅した父親は突然、夏静を押さえつけ、園芸に使う枝切りバサミを持ち出して彼女の左手の人差し指を切断した。彼女が母の形見の指輪を身に着けていたことに腹を立てた結果であった。
──お前は一生、結婚しないで俺と一緒に滅びるんだ。
父親は、傷みに失神しかけた娘に吐き捨てるように言い捨て、娘の指を打ち捨てた。それを拾い上げた夏静は泣きながら、指輪と一緒に母の墓の前に埋めた。
翌日から、彼女は黒い手袋を嵌めて学校に通いはじめた。何事もなかったかのように。その事件の後、彼女の表情からは笑顔は一切消えていた。
# # #
そして、今。夏静は四人の後輩たちを伴い、足早に北京東路を歩いている。夕刻を迎えた空は赤く、橙オレンジ色の淡い光が、彼女たちの姿を影のように浮き立たせていた。
普陀高中には制服がないので、夏静はいつも黒い衣服に身を包んでいる。黒いブラウスに黒いロングスカート。両手には黒皮の手袋。長い黒髪を風になびかせながら、歩くその姿はファッションモデルさながらの凛々しさだ。
後ろの四人の少女も、全員黒尽くめ。一言も話さずに、ただ夏静の後ろを整列して歩いている。──その様子は、侍女を連れた宮中の姫か、進軍中の軍隊のどちらかにしか見えず、華やかな女子高生たちの下校風景には、とても見えなかった。
「仙姑」
脇から、また新たな黒尽くめの少女が現れ、夏静の側に寄ってきた。小柄でほっそりした可愛らしい感じの少女ではあったが、年齢に不相応な強い目線を持っている。
「首尾は?」
夏静は足を止め、問うた。すると少女はそそと夏静の側に寄り、耳元で囁くように言った。
「今、羅森から出てきたところです」
「そう。確保は?」
「抜かりはございません」
少女はニヤと笑った。「仙姑、この丁蘭に万事お任せくださいませ。……どうぞ、こちらへ」
少女、丁蘭は、うら若き姑娘が口にするには不似合いな言葉を並べると、恭うやうやしく夏静を案内するように、路地裏の影の中へと消えていった。
夏静も、無言でその後に続く。
日光の差さない狭い路地には、洗濯物を干した紐が幾重にも連なっている。その下を黒尽くめの少女たちは一言も言葉を交わさず、むしろ殺気立って歩を進めていく。
先頭を歩く丁蘭が、上から垂れ下がっていた白いシーツをバッと視界から取り去ると、そこには暴れている少年の姿が一人。離せ、離せと声を上げながら、背後から自分の両腕を締め上げている少女二人から、なんとか逃れようともがいている。
「徐」
彼の名を呼んだのは夏静。
少年はピタリと動きを止めた。目を見開き、ゆっくりと顔を上げる。
「“黒掌仙姑”……!」
高中で通っている二つ名で言葉を返され、夏静は笑みを浮かべた。視線に強い怒りを込めた、恐ろしい笑みを。
少年を押さえつけている少女二人に、彼を離すよう顎で指示して、続ける。
「徐、お前、黄楼飯店に行ったんだって?」
そう問うと、少年は青ざめて首を横に振った。滑稽なほど素早く。
「や、やめてくれ、俺は何もしていない!」
「──わたしが質問してるんだよ、答えな!」
「ひぃっ」
徐は、身をひるがえしてその場から逃れようとした。しかし両脇の少女よりも素早く腕を掴んだのは夏静だった。
腕を引きながら、右腕の手刀を少年の首筋に打ちこむ。バランスを崩した少年は後ろに倒れそうになったが、背後にいた少女に背中を蹴られ、再度、夏静の前に無防備な身体をさらす。
笑う夏静。右手の掌でガッと少年の胸倉を掴むと、強い力で引き寄せる。
「黄楼飯店で、わたしの父さんに会ったんだろ?」
息を呑む少年に、黒掌仙姑は怒りを抑えた静かな声で尋ねた。
「ぐ、偶然会ったんだよ、たまたま近くに……」
「しらじらしいんだよ!」
夏静は手を離し、膝で彼の腹を蹴り上げた。グェッ、とうめくような声を上げる少年。
しかしその一瞬のスキをついて、除は、夏静の脇をすり抜けて誰も居ない方向へ、前のめりになりながら走り出した。
「逃がすか!」
夏静は舞うように跳んだ。垂直の壁にタタン、と二、三歩足をつき、空中でくるりと回転。そして少年の目の前に優雅に着地する。
「ウァッ」
少年は恐怖に駆られ、夏静にむかってめちゃくちゃに拳を突き出した。黒衣の少女は唇に笑みを浮かべたまま、両手をなめらかに動かし攻撃をすべて外側へとはじき出した。その美しい軌跡は、彼女が熟練した“八卦掌”──掌法に長けた柔の武術の使い手であることを如実に現していた。
少年が攻撃を繰り出した腕を掴んだ夏静は、その威力を生かして少年の足を払い、地面に投げ伏せた。
「父さんはわたしのこと何て言ってた?」
彼の上げた悲鳴を無視し、右足でその背中を踏みつけると、屈んで少年の髪をわし掴みにする。恐ろしい笑みを浮かべながら、彼の頭を持ち上げて自分の方を向かせる。
「何て言ってたんだ? 言えよ」
少年は地面で鼻をぶつけたようだった。鼻血をたらしながら、惨めな目で夏静を見る。
「ブ、ブタ女って……」
──ガンッ。言うか言わないかのところで、夏静は少年の頭をまた石畳に叩き付けた。
「嘘つくんじゃないよ、実の娘をブタ呼ばわりする父親がいるわけがないだろ? さあ、何て言ってたんだ、言ってみろよ」
もう一度髪を掴んで少年の顔を上げさせようとしたところで、仙姑、と声がかかる。それは彼女が一番信頼を置く、丁蘭の声だった。
何? と怪訝な目を向けると、丁蘭は夏静の後方を手で指し示した。それに従って振り返ると、路地の入口のところに赤いスーツを着た女が立っている。
「如ねえさん」
夏静は少年の頭を離し、立ち上がった。
「静、ちょっと付き合ってくれない。時間はある?」
よく通る透き通った声で女は言った。夏静はこくりとうなづくと、屈み込んで少年に、命拾いしたな、と声をかけてから丁蘭に目配せをした。
心得たというような丁蘭の笑みを見てから、夏静は手をパンパンと叩いて埃を払うと、赤いスーツの女の方に歩いていった。
「お待たせ」
夏静は路地裏から出て、光のまぶしさに目を細めた。見ると、出租車タクシーが一台とまっていて、運転手が煙草を吸いながらこちらを見ている。
「これから仕事なの」
夏静の視線を追って、女が言った。「車の中で話してもいい?」
言いながら、彼女は先に出租車に向かった。夏静もその後を追う。二人の乗った車が走り出した。
# # #
女の名前は朱如といった。
夏静よりも二歳年上の彼女は、先ほどのリンチの光景にも全く動じた様子もなく、車が走り出すのを待ってから、ラメ入りのハンドバックからシガレット・ケースを出した。ゆっくりとした動作で一本引き出す。その爪はスーツと同じ真っ赤に塗られている。
彼女の容貌を見たら、上海市民の八割がこう判断するだろう。いわゆる水商売の女だ、と。
「如ねえさん」
夏静は落ち着いた声で問いを発した。
「文卓のことでしょう? 何かあったの?」
彼女が口にしたのは、自分の恋人の名前だった。朱文卓。徐江高中に通う一つ年下の少年で、付き合うようになってから一年半が経っている。
「昨日、また怪我をして帰ってきたの」
細く、煙を吐きながら、朱如はチラと夏静の顔を見た。「両腕と顔に痣をつくってね」
「知らなかった」
夏静はその言葉を聴いて、彼女の血気盛んな恋人が、街の裏路地で喧嘩を繰り広げている様を思い浮かべた。そして、自宅アパートに帰り着いた怪我だらけの弟を、無言で迎える朱如の姿も。
「だと思ったわ。──ねえ、静」
朱如は煙草の火を消し、グッと顔を夏静に近づけた。
「あのコが心配なの。ずいぶん沈んでいるようだったわ。会いに行ってあげて」
「それはもちろんそうするけど……」
夏静は続けて言おうした言葉を飲み込んだ。朱如に、弟と話をしたかどうか聞きたかったのだ。しかし答えは分かっていた。彼ら姉弟は今やほとんど一言も言葉を交わさないのだ。だから問うのはやめた。
朱文卓はいつもこぼしている。二人は子どもの頃、仲の良い姉弟だったそうだ。郊外の農村にいたころ、二人はいつも畑を駆け回って遊んだり、見様見真似で武術ごっこをしたりしていたのだという。それは楽しい思い出の日々だった。
しかし文卓が初級中学校に通うようになってから状況が変わった。如は高級中学校に進学させてもらえず、上海市内の飲食店で働くように両親から言われた。弟が大学に行くまでの学費を稼ぐためだ。
飲食店といえば聞こえはいいが、いわゆる夜をまたぐ水商売だ。売春行為を強要されることはないとはいえ、金を稼ぐためには必要なことだった。朱如は持ち前の美貌を生かして何人もの男を渡り歩いて金を貯めていった。
如の服装が派手になるのと反比例するように、姉と弟の会話は減っていった。今では「おはよう」ぐらいしか交わさないそうだ。その原因が姉の方にあるのは言うまでもない。
「如ねえさんは、これから仕事でしょう?」
しばらく沈黙したあと、夏静は言った。「外灘に寄ってもらえる? 文卓がたぶんそこにいると思うから」
「静」
朱如は微笑んだ。真っ赤に塗られた唇が、ありがとう、と言葉をつむぐ。
「いいのよ、ねえさん」
彼女は素敵な女性だった。どんなに服装が華美になっても、その中身までは変わらない。
# # #
外灘というのは、清の時代に上海の港が外国に開放されてから出来た地区で、欧州風の荘厳な建物が今でも数多く残されている。上海の観光の一大スポットで、遊歩道や公園はいつも観光客で埋め尽くされている。
夏静が着いたころには、日は落ちて租界時代のビル群が照明の中に幻想的に浮かび上がっていた。カメラを手にした観光客たちが遊歩道を徘徊するように歩いている。みな視線を上へ、カメラも上へと向けているため、カメラのモニター画面がまるで蛍のように、人込みの中で淡い光を放っていた。
上海っ子の夏静が聞き取れない訛りのある言葉を話す観光客たち。それが出すゴミ目当ての屑拾い屋たちの間をすり抜け、彼女は恋人の姿を探した。
朱文卓は、この外灘が好きなようで、子分たちと一緒によくここに来る。夜景の美しさもさることながら、観光客の財布の中身も彼には同じぐらい魅力的なのだ。
しばらく歩いたところで、ようやく夏静はベンチに座っている朱文卓を見つけた。うなだれた様に首を垂れ、彼女が近づいてくることに気付く様子はない。脇に立っていた彼の子分の一人が、気付いて親分ボスの肩に触れる。
「文卓ウェンズォ」
「……静ジン!」
顔を上げた少年は、夏静の姿を見つけると、パッと一瞬に目を輝かせた。彼が朱文卓。長めの髪を茶色に染め、Tシャツ・ジーパン姿という典型的な不良少年的ルックスをしている。
跳ねるように立ち上がった朱文卓は、人目も憚らず、彼女の身体を抱きしめた。
「最近、どうしてたんだ? 一週間ぐらい姿見せなかったじゃないか」
「ごめんなさい、ちょっと忙しかったから」
言葉を濁しながらも夏静は恋人の右目の下あたりにうっすらと痣が出来ていることを確認した。痛々しい痣の後だった。
「二人になれるところに行きましょう」
「静、静」
路地裏に入った途端、朱文卓は夏静の身体を引き寄せ、首筋にキスをした。そのまま彼女の唇へ、自分の唇を重ね合わせる。
「会えなくて、寂しかったんだぞ」
一度唇を離して、そう言うとまた激しく夏静の唇を吸う。片手は服の上から彼女の乳房を愛撫し始める。
「駄目よ」
夏静は朱文卓から顔を離すと、黒い手袋をした手をくるりと返し、相手の腕を内側からやんわりと弾いた。しかし、腕を押さえられた彼が小さく呻いたのを聞いて、慌ててその手を両手で握った。
「大丈夫? 怪我──してるのね」
「ああ、ちょっとな」
怪我の痛みか、夏静に拒絶されたからか。朱文卓は大いに不服そうにしながらうなづいた。
「ごめんなさい、文卓。今日は話をしにきたの。そういうことは……」
彼女が弁解するように言うと、朱文卓は拗ねたように、 「“また今度”だろ? いいよ、分かってる」
少年は一拍置いて、夏静を上目遣いで見るようにして言った。
「……話って?」
「また喧嘩したの?」
「何だよ、どうしてそんなこと聞くんだよ」
文卓は聞き返そうとして、あ、と声を上げた。「……姉さんに聞いたのか」
夏静は何も答えず、じっと恋人の目を見た。
見つめられて、朱文卓は目を伏せた。小さな声でつぶやくように言う。
「勝てると思ったんだけど──やられちまった」
「そう」
また自分から仕掛けたのか。
夏静は内心呆れてしまった。朱文卓は少林拳の使い手で、少年武侠を気取り、他の強い少年と決闘するのが好きという困った性格をしていた。
彼は確かに、喧嘩にはめっぽう強かった。並ぶ者のないほどで、通っている徐江高中が中心街の南部にあることから“南天無雙((ナンティェンウショアン))”と渾名されるほどだ。
向かうところ敵なし。一年前、まだ一年だったころに、当時、高中武林に名を轟かせていた“迅雷虎”を倒してからは、帝王とまで呼ばれるようになった。夏静が、ある事件をきっかけに彼と付き合うようになったのもこの頃だ。
喧嘩に勝っているうちはまだ良かった。しかし昨年、彼は浦東高中の少年武侠、同い年の“龍殺青眼”こと方榮に喧嘩を仕掛けて、逆に徹底的に叩きのめされた。帝王の地位も明け渡し、最強ではなくなったのに。それでも彼は喧嘩をやめなかった。
朱文卓は、強い少年たちと喧嘩する理由を、男の名誉だの面子だのと言った言葉で説明するが、夏静は、そんなもの糞食らえだと思っていた。
なぜ、負けるかもしれない勝負を挑むのかが夏静には理解できない。夏静が勝負を仕掛けるときは、八割方自分が勝つことが分かっている時だけだ。
勝たなくてどうする? 何て馬鹿なんだ男という奴は。夏静はその理不尽さに怒りを覚えながらも、恋人の顔をじっと見る。
「誰にやられたの? 教えて」
「静、いいんだ。俺のことは」
気にするな、そう言って朱文卓は愛おしそうな目で夏静を見た。彼女が自分に怪我を負わせた相手の名を聞いてきた、その意図を察したからだった。
恋人の手に視線を落とした朱文卓は、彼女の黒い手袋を片手ずつゆっくりと外した。路地裏に淡く差し込む街灯の光に、夏静の白い手が浮かび上がる。彼は目を細め、その手を──四本しか指のない左手を自分の頬に引き寄せ、かつて指があった場所に優しくキスをした。
「でも……」
途端に夏静は恥ずかしくなって俯いた。温かい手と頬。少年がこうした優しい表情を見せるのは、二人きりの時だけだ。自分の頬を桜色に染めながら、彼女は続けた。
「わたしの気が済まないわ。あんたをそんな目に遭わせた奴を八つ裂きにしてやりたい」
「静、本当にいいんだ。俺の問題だから」
朱文卓は彼女の手を頬から離し、両手で包み込むように握ると、力無く首を横に振る。夏静はその様子を見て、おや? と思った。
「そんなことより、これからメシでも食いに……」
「分かった。“龍殺青眼”ね。あいつにやられたのね!」
夏静は察した。朱文卓が相手の名を言いたがらないのは、それが現在の高中武林の帝王だからだ。“龍殺青眼”こと方榮。少林拳と同じく打撃中心の武術──華拳を使いこなす強敵である。
朱文卓は返事に窮していた。その様子に夏静は自分の推測が正しいことを確信した。
夏静も、方榮とは一度だけ果し合いをしたことがある。朱文卓が半殺しにされた三ヶ月後、工事中のビルの中で一対一の勝負をした。事実上の“彼氏の敵討ち“である。方榮もそれを理解してか、勝負を避けなかった。
結果は引き分けだった。夏静は手を、方榮は足を痛め、勝負を続けられなくなったのだ。
夏静は、もう一度彼と勝負しても負けない自信があった。
「いいわ、文卓。すぐにあいつを見つけ出して、あんたの仇を討つわ。丁蘭に頼めばすぐに居場所が分かるから」
「駄目だ。お前だってあいつには敵わなかったじゃないか。お前まで酷い目に遭わされたら、俺は……」
彼女の手を、朱文卓は強い力で握った。夏静は恋人の目を見る。復讐計画を断念するつもりはなかったが、彼が自分の身を本気で心配してくれていることが分かり、この上なく嬉しかった。
気を取り直して微笑む夏静。
「ありがとう。そうね、あんたの怪我を治すのが先ね。そうしたら、またどうするか考えればいいわ。勝てるまで挑むのだって悪くないし」
「静……」
急に朱文卓は、頭を垂れて地面を見た。今、何かいけないことを言ったのだろうか。ハッとして夏静は相手の顔を覗き込む。
「俺もう駄目だよ……。だってこれで三回目だぜ? 昨日たまたま、福州路を自転車で走ってるあいつを見かけたから、人民広場で待ち構えて戦ったんだよ。けど、あの目。あの視線で睨まれたら、また前みたいに腕を折られるんじゃないかと思って──怖くなったんだ。“鳳凰跳脚”も無理だった。あの技を使ったら、また足をやられるんじゃないかと思って、俺、飛べなかった」
夏静は無言で、恋人の手を労わるように撫でた。
「俺、本当はあいつが怖くて仕方ないんだ。お前も敵わないような相手に挑むなんて、もう無理だよ」
「文卓」
「俺って、弱い奴なんだ」
お前みたいに強くなれないよ──。朱文卓はつぶやくようにそう言った。
「そんなことないわ」
夏静は優しく声を掛けたが、当の少年の耳には届いていないようだった。
「静だって、俺のこと嫌になるだろ?」
向けられたのは弱々しい瞳だった。彼女も朱文卓がこんな目をするのを見たのは初めてで、胸をギュッと掴まれるような思いに囚われた。
「こんな弱音ばっかり吐いてる俺のことなんか、嫌いだよな。な、そうだろ?」
もう一度、同じようなことを言い、同意を求めるように彼女の顔を見つめる朱文卓。
どう答えろというのだ。
夏静の心に一気に怒りが沸き上がった。こんなにも自分が想っているのに。嫌いになったといえば満足するのか。
「馬鹿!」
堪らず放った言葉に、朱文卓が目を見開いた。
「馬鹿! 文卓の馬鹿! あんたなんか知らない!」
夏静は恋人の手を振り払って、路地裏から駆け出した。静、静、と呼ぶ声が聞こえたが、無視した。
地下鉄の駅に飛び込んで、はぁはぁと息を切らしながら夏静は思った。この鬱積した気持ちにどう始末をつけてくれよう。答えは一つしかなかった。冷たい瞳を持った少年──方榮の顔を思い浮かべ、彼女は怒りに歯を軋らせた。彼女の大切な文卓を痛めつけた張本人に、彼と同じ気持ちを味あわせてやる。
夏静は凄みのある笑みを浮かべ、黒いスカートを翻して駅の階段を下りていった。
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