一人でも平気
朝、目が覚めたときから、喉が少し痛かった。
乾燥しているだけかもしれない。そう思って、ベッドの中で一度咳をしてみる。胸の奥に小さなざらつきがある。体の芯も、どこか重たい。枕元のスマートフォンを手に取り、時間を見る。まだ始業まで余裕はある。
在宅ワークでよかった、とまず思う。
出社の日だったら、コートを着て外に出なければならなかった。満員電車に揺られて、冷たい風にさらされて、きっと今よりも少し無理をしていただろう。
布団から出ると、足の裏が冷たい。
部屋は静かで、加湿器の小さな音だけがしている。
キッチンでお湯を沸かし、マグカップに注ぐ。喉を温めるために、はちみつを少し垂らす。実家から届いたレモンも、薄く一枚切って入れる。湯気と一緒に、やわらかな香りが立ちのぼる。
一口飲むと、酸味が喉を通る。
少しだけ、ほっとする。
仕事はこなせる程度だ。
メールを返し、資料を確認し、オンライン会議に参加する。声が少し掠れているのが、自分でもわかる。
「大丈夫ですか?」
画面の向こうで誰かが言う。
「少し風邪気味で」と答えると、皆が軽く頷く。それ以上深くは踏み込まれない。その距離が、ありがたいような、少し寂しいような。
昼過ぎ、体のだるさが増してきた。
体温計を脇に挟む。数字がゆっくりと上がる。
37.8℃。
高熱ではない。
でも、平熱よりは確実に高い。
数字を見つめながら、私は少しだけ心細くなる。
部屋が、いつもより広く感じる。
冷蔵庫の音が、やけに大きい。
窓の外の車の走る音も、遠くで反響している。
布団に横になり、天井を見上げる。
体の重さが、そのまま心の重さに変わるような気がする。
こんなとき、ふと、過去の言葉が浮かぶ。
「お前ってさ、一人でも平気そうだよな」
元彼が言った言葉だった。
別れ話の最中でもなく、喧嘩のときでもなく、ただ何気ない会話の中で、ぽつりと落とされた言葉。
そのとき私は笑って、「どういう意味?」と返した。
彼は少し困ったように笑って、「いや、なんとなく。強そうっていうか」と続けた。
悪意はなかったのだと思う。
むしろ、褒め言葉のつもりだったのかもしれない。
でも、あの瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
一人でも平気そう。
それは、誰かがいなくても困らなさそう、という意味だろうか。
必要とされていないようにも聞こえる。
布団の中で、私はその言葉を何度も転がす。
私は、本当に一人でも平気なのだろうか。
ひとりで暮らして、ひとりで働いて、ひとりで季節を味わっている。実家から届いたレモンでドライフルーツを作り、風呂に浮かべて香りを楽しみ、飲み会では笑って帰ってくる。
それは、平気だからできているのか。
それとも、平気なふりをしているだけなのか。
喉が痛む。
少し咳が出る。
弱っているときは、考えなくてもいいことまで浮かんでくる。
あのとき私は、「別に、平気だよ」と言った気がする。
強がりだったのかもしれない。
本当は、「平気じゃないときもある」と言いたかったのかもしれない。
布団をかぶり直す。
加湿器の蒸気が、ゆっくりと部屋に広がる。
その白い煙を見つめながら、私は思う。
もし今、誰かがこの部屋にいたら。
額に手を当てて、「熱あるじゃん」と言われたら。
コンビニでポカリを買ってきてくれたら。
少しだけ、楽だろうか。
でも、その想像の中の私は、どこか落ち着かない。
人に弱さを見せることに慣れていない。
自分のペースを乱されることに、少し戸惑う。
私はゆっくり起き上がり、キッチンへ向かう。
小鍋に水を入れ、少量の米を入れて火にかける。お粥を作る。弱火でことことと煮る音が、静かに続く。
こうして、自分で自分を看病している。
濡れタオルを額にのせる。
枕元に水と薬を置く。
スマートフォンは伏せておく。
誰もいない部屋で、私はちゃんと自分の世話をしている。
一人でも平気そう。
その言葉は、今夜は少し違う響きを持つ。
平気“そう”に見えるのは、もしかしたら、平気でいようとしてきたからかもしれない。弱さを見せないように、ちゃんと生活を整えてきたからかもしれない。
それは、悪いことだろうか。
お粥を小さな茶碗によそい、ゆっくりと口に運ぶ。
味はほとんどない。でも、温かい。
体の中に、じんわりと広がる。
私は、ちゃんと生きている。
平気かどうかは、まだわからない。
一人でいることが得意なのか、ただ慣れただけなのかもわからない。
でも今夜、私は自分でお粥を作り、はちみつレモンを淹れ、布団に戻ることができる。
それは、弱さでも強さでもなく、ただの生活だ。
布団に横になり、目を閉じる。
喉の痛みはまだある。体も重い。
でも、加湿器の音と、遠くを走る車の音が、静かに重なっている。
「一人でも平気そうだよな」
あの言葉は、もう少しだけ柔らかくなる。
平気“そう”でいい。
本当に平気かどうかは、自分にしかわからない。
そして、今は少しだけ弱っている。
それも、悪くない。
私はゆっくりと息を吸い、吐く。
レモンの香りが、まだかすかに部屋に残っている。
明日の朝、少し熱が下がっているといい。
そう思いながら、私は眠りに落ちていく。
孤独かどうかは、今日もわからない。
でも、私はちゃんと、自分をあたためている。




