表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

一人じゃない夜(後編)

二軒目は、路地裏にある小さな店だった。

「ここ、気になってたんだよね」と同期の一人が言う。

細い階段を上がると、木の扉がある。看板には聞き慣れない料理名が並んでいる。

はじめて入る店は、少し緊張する。

扉を開けると、こぢんまりとした空間が広がっていた。カウンターと、テーブルがいくつか。照明はやわらかく、音楽は控えめだ。さっきの店よりも静かで、話し声が自然と落ち着く。

席に着くと、メニューを眺める。

知らない料理名がいくつも並んでいる。

知らないお酒の名前も。

「どうする?」と聞かれ、私は少し考える。

いつもなら、無難なものを頼ぶ。でも今日は、少しだけ違う気分だった。

「これ、頼んでみません?」

指差したのは、聞いたことのない料理。

名前からは味の想像がつかない。

「いいね、それ」と二人が笑う。

お酒も、普段は選ばないものを頼んでみる。

店員が丁寧に説明してくれる。香りが強いこと、後味がすっきりしていること。私はその言葉を聞きながら、少しわくわくする。

料理が運ばれてくる。

見た目も、普段見慣れたものとは違う。

香りも、少し異国的だ。

一口食べる。

思ったよりも軽い。

でも、後からじんわりと味が広がる。

知らなかった味が、舌の上で静かに存在を主張する。

「美味しい」

自然と声が出る。

同期の二人も頷く。

はじめての味を、誰かと共有すること。

その瞬間、私はふと気づく。これは一人では味わえなかったかもしれない、と。

一人で食べる新しい料理も悪くない。

でも、「どう?」と聞き合える時間は、やっぱり少し特別だ。

話題は、入社当時のことに移る。

慣れない仕事に戸惑っていた日々。

小さな失敗を笑い合った夜。

終電を逃しそうになって走ったこと。

「あの頃は若かったよね」と誰かが言う。

まだそんなに歳を重ねたわけでもないのに、その言葉が妙にしっくりくる。

時間はちゃんと流れている。

退職する先輩の話も、自然と出てくる。

「寂しくなるね」と言いながら、三人とも笑っている。

寂しさはある。でも、それだけじゃない。

人はそれぞれ、少しずつ別の方向へ進んでいく。

お酒が少しずつ回る。

店内の灯りがやわらかく滲む。

グラスの縁がきらりと光る。

知らない料理と、知らない酒。

知らなかった時間。

私はふと思う。

こんな夜も、あるんだ。

いつもは一軒目で帰る私が、二軒目にいる。

はじめての店で、はじめての味を試している。

同期と三人、肩を並べて笑っている。

小さなことばかりだ。

でも、その小さなことが重なって、夜が少し特別になる。

帰り道、三人で駅まで歩く。

空気は冷たいけれど、さっきまでの店の灯りがまだ目の奥に残っている。

「また行こうね」と誰かが言う。

「うん」と私は頷く。

約束がどれだけ守られるかはわからない。

でも、その言葉が交わされたこと自体が、もう十分だ。

一人になって、電車を待つホームに立つ。

さっきまでの笑い声が、少しだけ耳の奥に残っている。

孤独かどうかは、今日もわからない。

でも今夜、私は確かに、一人じゃなかった。

家に帰れば、また静かな部屋が待っている。

でもその静けさは、いつもより柔らかいだろう。

知らない料理の味。

知らないお酒の香り。

久しぶりに聞いた笑い声。

退職する先輩の穏やかな顔。

二軒目の小さな店の灯り。

一晩で、こんなにたくさんの小さな幸せを見つけられた。

コートのポケットに手を入れる。

冷たい空気の中で、私は小さく息を吐く。

今日は、少しだけ、世界が近かった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ