一人じゃない夜(後編)
二軒目は、路地裏にある小さな店だった。
「ここ、気になってたんだよね」と同期の一人が言う。
細い階段を上がると、木の扉がある。看板には聞き慣れない料理名が並んでいる。
はじめて入る店は、少し緊張する。
扉を開けると、こぢんまりとした空間が広がっていた。カウンターと、テーブルがいくつか。照明はやわらかく、音楽は控えめだ。さっきの店よりも静かで、話し声が自然と落ち着く。
席に着くと、メニューを眺める。
知らない料理名がいくつも並んでいる。
知らないお酒の名前も。
「どうする?」と聞かれ、私は少し考える。
いつもなら、無難なものを頼ぶ。でも今日は、少しだけ違う気分だった。
「これ、頼んでみません?」
指差したのは、聞いたことのない料理。
名前からは味の想像がつかない。
「いいね、それ」と二人が笑う。
お酒も、普段は選ばないものを頼んでみる。
店員が丁寧に説明してくれる。香りが強いこと、後味がすっきりしていること。私はその言葉を聞きながら、少しわくわくする。
料理が運ばれてくる。
見た目も、普段見慣れたものとは違う。
香りも、少し異国的だ。
一口食べる。
思ったよりも軽い。
でも、後からじんわりと味が広がる。
知らなかった味が、舌の上で静かに存在を主張する。
「美味しい」
自然と声が出る。
同期の二人も頷く。
はじめての味を、誰かと共有すること。
その瞬間、私はふと気づく。これは一人では味わえなかったかもしれない、と。
一人で食べる新しい料理も悪くない。
でも、「どう?」と聞き合える時間は、やっぱり少し特別だ。
話題は、入社当時のことに移る。
慣れない仕事に戸惑っていた日々。
小さな失敗を笑い合った夜。
終電を逃しそうになって走ったこと。
「あの頃は若かったよね」と誰かが言う。
まだそんなに歳を重ねたわけでもないのに、その言葉が妙にしっくりくる。
時間はちゃんと流れている。
退職する先輩の話も、自然と出てくる。
「寂しくなるね」と言いながら、三人とも笑っている。
寂しさはある。でも、それだけじゃない。
人はそれぞれ、少しずつ別の方向へ進んでいく。
お酒が少しずつ回る。
店内の灯りがやわらかく滲む。
グラスの縁がきらりと光る。
知らない料理と、知らない酒。
知らなかった時間。
私はふと思う。
こんな夜も、あるんだ。
いつもは一軒目で帰る私が、二軒目にいる。
はじめての店で、はじめての味を試している。
同期と三人、肩を並べて笑っている。
小さなことばかりだ。
でも、その小さなことが重なって、夜が少し特別になる。
帰り道、三人で駅まで歩く。
空気は冷たいけれど、さっきまでの店の灯りがまだ目の奥に残っている。
「また行こうね」と誰かが言う。
「うん」と私は頷く。
約束がどれだけ守られるかはわからない。
でも、その言葉が交わされたこと自体が、もう十分だ。
一人になって、電車を待つホームに立つ。
さっきまでの笑い声が、少しだけ耳の奥に残っている。
孤独かどうかは、今日もわからない。
でも今夜、私は確かに、一人じゃなかった。
家に帰れば、また静かな部屋が待っている。
でもその静けさは、いつもより柔らかいだろう。
知らない料理の味。
知らないお酒の香り。
久しぶりに聞いた笑い声。
退職する先輩の穏やかな顔。
二軒目の小さな店の灯り。
一晩で、こんなにたくさんの小さな幸せを見つけられた。
コートのポケットに手を入れる。
冷たい空気の中で、私は小さく息を吐く。
今日は、少しだけ、世界が近かった。




