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6/15

レモンを浮かべる夜

今日は、とても寒い日だった。

朝、カーテンを開けた瞬間、窓の外の空気がいつもより白く見えた。東京でも雪がちらつくかもしれないと、ニュースが言っていたのを思い出す。画面の端に映る小さな雪だるまのマークが、どこか他人事みたいだったのに、実際に空から白いものが落ちてくると、それだけで街は少し緊張する。

今日は久しぶりに出社しなければならなかった。

在宅ワークに慣れた身体は、朝の支度だけで少し疲れる。コートを着て、マフラーを巻いて、いつもより厚手の靴下を履く。玄関のドアを開けた瞬間、冷たい空気が頬に刺さる。息を吐くと、白くなる。冬の匂いは、透明で、どこか金属みたいだ。

電車を使えば早いけれど、今日は歩くことにした。片道四十分。遠すぎず、近すぎない距離。歩いているあいだ、頭の中を整理できる。冷たい空気が、考えすぎた思考を少しだけ凍らせてくれる。

歩き始めてすぐ、小さな雪が舞いはじめた。

本当に、ちらつく、という言葉がぴったりだった。積もる気配はない。ただ、空から迷いながら落ちてくる白い粒が、街灯や信号の光に照らされて、ふわりと消えていく。

コートの袖に触れた雪は、すぐに溶ける。

儚い、という言葉を使うほど大げさでもない。

ただ、冬がそこにあると教えてくれるだけ。

通り過ぎる人たちは、皆少し足早だ。肩をすくめて、ポケットに手を入れて、目的地へ向かっている。私はその流れの中で、少しだけ歩幅を落とす。急がなくてもいい。会社は逃げないし、会議も時間通りに始まる。

道の途中で、パン屋の前を通る。温かい空気が漏れ出して、鼻先をくすぐる。立ち止まりたくなるけれど、今日は寄らない。レモンが家にあるから。あの黄色を思い出すだけで、心の中に小さな灯りがともる。

出社は、久しぶりなだけで、特別ではない。

オフィスの空気は少し乾いていて、暖房の匂いがする。パソコンの音、キーボードの打鍵、誰かの咳払い。人がいる場所の音は、重なり合って一つの膜になる。

「寒いですね」

同僚が言う。

「寒いですね」と、私も返す。

それだけの会話。でも、言葉を交わすという行為は、思ったよりも体温を持っている。

画面越しではなく、同じ空間で同じ温度を共有する。それが少しだけ新鮮で、少しだけ疲れる。

一日が終わる頃には、身体の芯が冷えているのを感じた。暖房の効いた室内にいても、どこか底のほうが冷たいままだ。帰り道、また歩くことにする。電車に乗れば早いのに、今日は街を見たかった。

夕方の空は灰色で、雪はもう止んでいる。

路肩にうっすらと残った白が、すぐに水に変わりはじめている。濡れたアスファルトは、街灯を映して光る。信号が変わるたび、赤と青が足元に広がる。

私はゆっくり歩く。

コートの中の空気は冷たくなり、指先の感覚が鈍くなる。手袋をしていても、寒さは少しずつ入り込む。けれど、不思議と嫌ではない。冬の冷たさは、どこか誠実だ。暑さのように容赦なくまとわりつかない。ただ、そこにあるだけ。

四十分の道のりは、考えごとをするにはちょうどいい長さだ。今日の会議のこと、言いそびれた一言、うまく返せなかった質問。頭の中で何度かやり直して、でも最後には、まあいいか、と小さく区切りをつける。

家が見えてくる頃には、体はすっかり冷え切っていた。

玄関のドアを閉めると、外の音が途切れる。

部屋の中は静かで、暖房をつける前の空気はひやりとしている。コートを脱ぎ、マフラーを外し、手袋をテーブルに置く。その一連の動作だけで、少しだけ安心する。

でも、今日には楽しみがある。

キッチンの隅に置いた箱から、レモンをひとつ取り出す。実家から送られてきた、あのレモン。手のひらに乗せると、ずっしりと重い。皮は冷たく、つるりとしている。指先で転がすと、ほのかに香りが立つ。

私はこのレモンを、お風呂に入れるのが好きだ。

特別な入浴剤よりも、ずっと好き。

輪切りにして、湯に浮かべるだけ。それだけで、浴室は小さな果樹園みたいになる。

浴槽にお湯をためるあいだ、私はレモンを薄く切る。

包丁が皮を通るときの、かすかな抵抗。断面が現れる瞬間の、鮮やかな黄色。果汁が指に触れ、ひんやりとした感触が広がる。

輪切りをいくつか作り、種を取り除く。

キッチンに、やわらかな香りが広がる。昼間の冷たい空気とは違う、丸みのある匂い。私はその香りを吸い込み、目を閉じる。

浴室に入ると、湯気が立ち上る。

湯面にレモンの輪をそっと浮かべると、黄色がゆらゆらと揺れる。白い湯気の中に、鮮やかな色が浮かぶ。その対比が、なんだか嬉しい。

服を脱ぎ、そっと湯に身を沈める。

冷え切った身体が、じわりと溶けていく。

最初は少し熱く感じるのに、すぐにそれが心地よさに変わる。足先から、ふくらはぎ、腰、背中へと、温かさが広がる。

レモンの香りが、湯気と一緒に立ち上る。

鼻から吸い込むと、胸の奥がすっとする。

今日一日の、細かな疲れが、湯に溶け出していく気がする。冷えた思考も、少しずつ解ける。

私は湯面に浮かぶレモンを指先でつつく。

輪が揺れて、水面に小さな波が広がる。黄色が揺れるだけで、浴室が明るく見える。

こんなふうに、季節を味わえることが、ただ嬉しい。

冬にレモンを浮かべる。

それだけのことなのに、今日という日が少し特別になる。

出社して、寒い中を歩いて、冷えた体を抱えて帰ってきた。そのすべてが、この湯の中で報われる。

私は目を閉じる。

外の雪は、もう溶けているだろうか。

明日の朝、路面は凍っているだろうか。

そんなことをぼんやり考えながら、湯に身を預ける。

孤独かどうかは、今日もわからない。

でも、今この瞬間、私はひとりで、ちゃんと温まっている。

誰かに見せるためでもなく、誰かと共有するためでもなく、自分のために、レモンを浮かべている。

それは、少し誇らしい。

湯の中で指先を伸ばし、レモンの皮を軽く押すと、さらに香りが立つ。

皮の表面から、目に見えない細かな油が広がって、湯の表面に淡い光の膜を作る。

私はその香りに包まれながら、ゆっくり呼吸する。

今日の寒さも、四十分の道のりも、同僚との短い会話も、雪の粒も、すべてがここにつながっている。冷えたからこそ、この温かさが深く感じられる。

湯から上がる頃には、体の芯まで温まっていた。

バスタオルで身体を包み、鏡を見る。頬が少し赤い。目の奥の疲れも、少し和らいでいる気がする。リビングに戻ると、部屋はまだ静かだ。でも、その静けさは、さっきまでとは少し違う。どこか柔らかい。

私はレモンの残りを、小皿にのせて窓辺に置く。

明日、紅茶に入れてもいい。蜂蜜を少し垂らして、また冬を味わうのもいい。

小さな楽しみがあるだけで、寒い日も悪くないと思える。

外では、また小さな雪が舞っているかもしれない。

でも、今夜の私は、レモンの香りの中で、あたたかい。

それだけで、今日は十分だと思う。



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