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箱の中の季節

宅配便のインターホンは、在宅ワークの一日の流れをいちどだけ乱す、小さな異物みたいな音がする。

画面の端でメールの受信通知が点滅しているのに、指先がすぐにはキーボードに戻らない。私は椅子から立ち上がり、玄関へ向かう。廊下は短いのに、部屋の外に出るだけで気持ちが少しだけ切り替わる。

「お届け物でーす」

ドア越しの声が、思ったより明るい。受け取った段ボールは、ずしりと重い。角に貼られた伝票の文字を見た瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなるのを感じた。

差出人は実家。

毎年この時期になると、同じように箱いっぱいの果物が届く。

連絡はほとんど取らない。電話もしないし、最近は年賀状さえ出していない。こちらから何かを頼んだわけでもないのに、それでも毎年、庭の果樹から採れたものを送ってくる。レモン、柚子、そして名前を知らない小さな柑橘。色が少し薄いもの、丸くころんとしているもの、皮がごつごつしたもの。季節が箱に詰められて、突然この部屋に運び込まれる。

私は段ボールを台所まで運び、テーブルの上に置く。

カッターでテープを切る。刃が紙を裂く音が、妙に静かな部屋に響く。

蓋を開けた瞬間、ふわっと香りが立ち上がる。柑橘の匂いは、鋭いのにやさしい。冬の空気の中に、陽の光だけを閉じ込めたみたいな匂い。私は無意識に息を深く吸い、少し笑ってしまう。箱の中は、ぎゅうぎゅうだ。果物同士が擦れ合った跡があり、ところどころ皮に小さな傷がある。たぶん枝にぶつかったのだろう。完璧じゃないのに、どれも生きている感じがする。

箱の片隅に、白い紙が一枚入っていた。

短いメモ。

「今年もできたから送る。寒いから身体に気をつけて。無理しないこと。」

それだけ。名前もない。

読み終えて、紙を指でなぞる。文字の癖だけが、妙に懐かしい。

私はその紙をすぐには捨てられず、コーヒー缶の横にそっと置く。

ひとりだと、こんなに食べきれないのに。

箱いっぱいの果物を前に、毎年同じことを思う。ジャムにするほど手の込んだことをする気力はないし、毎日柑橘を食べ続ける生活も、たぶん私には合わない。皮を剥いて、手を洗って、汁が爪の間に残る感じを気にして、また手を洗う。そんな動作を何度も繰り返すのは、少しだけ疲れる。

でも、せっかく届いた季節を、無駄にしたくない。

私はレモンを一つ手に取る。表面はつるりとして、皮が硬い。柚子を持ち上げると、レモンより少しゴツゴツしていて、香りがもっと複雑だ。ふたつを並べるだけで、テーブルの上が明るくなる。色って、それだけで気分を変えるものなんだと思う。モニターの白い光とは違う、自然な黄色と、少し濃い緑の混じった黄色。

そうだ、ドライフルーツにしよう。

この部屋で私が持っている、数少ない「季節の習慣」。

薄く切って、乾かす。時間がかかるけれど、その時間は急がないでいい。完成したドライフルーツは、在宅ワークの息抜きにちょうどいい。指先でつまめる小さな幸せ。甘すぎなくて、香りが残って、噛むとゆっくり酸味が広がる。

私はまな板を出し、包丁を研ぐわけでもなく、ただ水でさっと洗う。キッチンの窓を少し開けると、冷たい空気が頬に触れた。部屋の中に、冬が少しだけ入り込む。

まずレモン。

ヘタを落とし、薄く輪切りにする。刃が皮を切るとき、ぱちん、と小さな音がする。果汁がじわっと滲み、まな板がほのかに濡れる。断面は、思ったよりも瑞々しい。透明な粒がきらりと光って、そこに光の輪ができるみたいだ。

次に柚子。

包丁を入れた瞬間、香りが弾ける。苦味と甘さと、ほんの少し青い匂いが混ざって、鼻の奥がくすぐったくなる。柚子はレモンより皮が厚い。輪切りにすると、真ん中の白い綿が多くて、少し不格好になる。でも、その不格好さが好きだ。庭で育ったものは、こういう顔をしている。

箱の中には、みかんに似た小ぶりの柑橘もあった。手に乗るくらいのサイズで、皮が薄い。剥いたらそのまま食べてしまいそうになるのを我慢し、半分に切って、薄くスライスする。種が出てきて、指先で取り除く。面倒くさいはずなのに、なぜか心が落ち着く。こういう「ただの手作業」は、仕事の思考とは別の場所を動かすのだと思う。

在宅ワークは、頭を使う。

ずっと考えて、ずっと判断して、ずっと画面の文字を追う。疲れているのに、その疲れがどこに溜まっているのか分からない。身体はそんなに動いていないのに、気持ちだけがすり減っていく。

だから、こういう作業が助けになる。

刃の感触。果物の重さ。香り。断面の模様。指先に残る酸味。

「いま、ここ」に戻ってこられる。

私は切った果物をキッチンペーパーの上に並べ、表面の水分を軽く取る。薄い輪っかが、同じようで少しずつ違う。中心の星みたいな形も、種の位置も、皮の厚みも。人間みたいだな、と不意に思う。みんな少しずつ違うのに、同じ季節を生きている。

オーブンを低温に設定する。

天板にクッキングシートを敷いて、輪切りを丁寧に並べる。重ならないように。そこだけは几帳面になる。重なると乾き方がムラになるから。理由があると、人は几帳面になれる。理由がないと、途端にどうでもよくなるのに。

タイマーをセットして、私はまた机に戻る。

モニターの前に座ると、さっきまでの仕事が何事もなかったように待っている。メールの返信、資料のチェック、オンライン会議の準備。世界は遠慮なく進む。私の生活の都合なんて知らないふりをして。

それでも、キッチンで乾きはじめた果物がある、と思うだけで、心のどこかに小さな灯りがともる。

「今日は、ちゃんと別の時間もある」

そんなふうに感じられる。

会議が終わった頃、部屋の空気に香りが混ざってくる。

ほんのりと、柑橘が温まった匂い。甘くなった酸味の匂い。私は少しだけ背筋を伸ばす。タイマーが鳴る前に、もうそれだけで報酬を受け取ったみたいな気分になる。

ピピピ、と音がして、私はキッチンへ向かう。

オーブンの扉を開けると、湯気のような香りがふわっと出る。輪切りのレモンは、少し色が濃くなり、透け感が増している。柚子は皮がしゅっと縮んで、表面に細かな皺が寄っている。小さな柑橘は、飴みたいな光沢が出ている。

私はトングで一枚つまみ、皿に移す。

まだ熱い。指先に温度が伝わる。冷たい冬に届いた果物が、こうして温かいものになって私の手の中にある。不思議だ。

少し冷ましてから、ひとつ、口に入れる。

レモンは思ったより柔らかく、噛むと酸味が広がる。後から甘さが追いかけてくる。砂糖をまぶしていないのに、果物の甘さがちゃんとある。柚子は皮の苦味が最初に来て、次に香りが鼻に抜ける。苦いのに、嫌じゃない。むしろ、冬ってこういう味がする、と思う。

私は窓際に立って、外を見る。

夕方の空が少しだけ赤い。ベランダの手すりが冷たそうに光っている。遠くで誰かの子どもが笑っている声がする。隣の部屋の換気扇の音が、低く響く。私はひとりだ。たぶん、今日も誰とも深い会話はしていない。

でも、今、口の中に季節がある。

実家の庭の木を、私はもうはっきりと思い出せない。どんな位置に柚子の木があって、レモンの木がどれくらいの背丈で、どんな風に枝が伸びていたのか。あの庭で、私はどんなふうに立っていたのか。記憶は曖昧で、輪郭が薄い。

それでも、味だけは確かに届く。

連絡がなくても。

会話がなくても。

距離があっても。

箱の中の季節は、毎年きちんと私に触れる。

その触れ方が、押し付けがましくないのが、どこか救いでもある。

「元気?」とも「会いに来い」とも書いてない。

ただ、できたから送る。寒いから気をつけろ。無理するな。

それだけで、十分なのかもしれない。

私は残りのドライフルーツを瓶に入れる。

ガラス越しに見える輪切りが、少し誇らしげだ。瓶を振ると、からん、と乾いた音がする。小さな宝物みたいな音。

明日、仕事の合間にこれをつまもう。

うまくいかない会議の後に。

考えすぎて頭が固くなったときに。

何もしていないのに疲れたときに。

口に入れれば、酸味が私を現実に戻してくれる。

香りが、呼吸を深くしてくれる。

「ああ、今は冬だ」と思わせてくれる。

私はまた、箱の中の果物を見下ろす。

まだこんなに残っている。

一人には多すぎる量。

でも、時間はある。

切って、乾かして、少しずつ味わえばいい。

孤独かどうかは、今日もまだわからない。

ただ、季節をこんなふうに受け取れるのは、たしかに幸せだと思う。

箱の中の黄色と香りが、私の生活をほんの少しだけ明るくする。

私はテーブルの隅に置いたメモを、もう一度見る。

紙は薄いのに、そこに書かれた文字は、妙に重い。

無理しないこと。

私は小さく頷いて、メモをそっと引き出しにしまった。

そして、窓を少し開ける。

冬の空気の中に、柑橘の香りが混ざって、部屋は少しだけやさしくなる。



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