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年齢のとなり

三連休の初日の朝、目が覚めたとき、部屋はやけに明るかった。

カーテンの隙間から、白い光が差し込んでいる。昨日の夜は、ワインを少しだけ飲んで、映画を流しながらうとうとしてしまった。目覚ましはかけていない。それでも、いつもの時間より少し遅いくらいで自然に目が覚めた。

静かな朝だ。

布団の中で天井を見ながら、今日は何をしようかと考える。予定は入れていない。洗濯をして、掃除をして、本を読んで過ごすのも悪くない。

でも、ふと、頭の中に浮かんだ。

「美術館、行こうかな」

理由は特にない。

SNSで誰かが展示の話をしていたわけでもないし、特別な企画展があるわけでもない。ただ、あの静かな空間に身を置きたい、と思った。

起き上がり、カーテンを開ける。空は澄んでいて、冷たい空気が窓の向こうにある。昨日よりも少しだけ、春に近い光。

コーヒーを淹れて、簡単にトーストを食べる。支度をして、バッグに財布とスマートフォンを入れる。特別なおしゃれはしない。歩きやすい靴を履く。

最寄り駅までの道を歩く。

休日の朝は、平日とは違う匂いがする。急いでいる人がいない。犬の散歩をする人、ベビーカーを押す家族、コンビニの前で立ち話をする学生たち。時間が少し、緩やかだ。

電車に乗る。

三連休だというのに、車内はそれほど混んでいない。座席に座り、窓の外を見る。見慣れた景色が流れていく。川を渡るとき、水面がきらりと光る。

三十分ほどで、目的の駅に着く。

駅前は小さなロータリーと、古い商店が並ぶ通りがあるだけ。大きな観光地ではない。だから、この美術館もいつも静かだ。

白い壁の建物が見えてくる。

入り口のガラス扉を押すと、ひんやりとした空気が肌に触れる。受付の女性が、小さな声で「いらっしゃいませ」と言う。

チケットを買い、展示室に入る。

足音が、わずかに響く。

白い壁に、絵が等間隔に並んでいる。

私は、絵画に詳しくない。技法の違いも、流派も、正直よくわからない。色がきれいだな、とか、少し怖いな、とか、そのくらいの感想しか持てない。

でも、たまに美術館に来たくなる。

この静けさが好きだ。

人がいても、みんな小さな声で話す。立ち止まり、ゆっくり見る。急かされない時間。

最初の絵の前に立つ。

風景画だ。柔らかな緑と、淡い空の色。

横にあるプレートを見る。

タイトル。

制作年。

そして、作家の生没年。

「二十三歳のときの作品」

その数字を見て、私は少しだけ驚く。

二十三歳。

大学を出たばかりの頃だ。

その年齢で、この色を選んで、この構図を描いたのか。

私は、その頃何をしていただろう。

就職して、慣れない職場に戸惑って、毎日をこなすだけで精一杯だった気がする。自分の感性なんて、ゆっくり眺める余裕もなかった。

絵に目を戻す。

二十三歳のこの人は、どんな気持ちで筆を持っていたのだろう。

未来が怖かったのか、それとも希望で満ちていたのか。

次の絵へ移る。

抽象画。大胆な赤と黒。

プレートを見る。

「四十五歳のときの作品」

四十五歳。

今の私より、ずっと先の年齢。

その頃の私は、どうなっているだろう。

この人は、四十五歳でこんな激しい色を使った。

人生の真ん中あたりで、こんなに強い線を引いた。

その年齢にたどり着いたとき、私はどんな色を選ぶのだろう。

絵を見るというより、描いた人の年齢を見る。

その数字のとなりに立って、想像するのが好きだ。

三十七歳の作品。

六十八歳の作品。

六十八歳で描いたという静かな花の絵の前で、私はしばらく立ち止まる。色は穏やかで、線は柔らかい。派手さはない。でも、どこかあたたかい。

六十八歳のこの人は、何を思っていたのだろう。

失ったものも、手に入れたものも、たくさんあったはずだ。その全部を抱えたまま、こんな静かな花を描いた。

私はまだ、そこまで生きていない。

でも、こうして他人の人生の断片を、静かに想像できる。

展示室をゆっくり回る。

足音が、控えめに続く。

自分の年齢を思う。

今の私は、二十代後半。

この年齢で、この人たちは何を描いていたのだろう。

焦りはない。

比べるつもりもない。

ただ、「この年齢で、こういう感性だったんだ」と思うだけ。

美術館を出ると、空気が少し冷たかった。

駅へ向かう途中、小さなお肉屋さんが目に入る。ショーケースの中に、揚げたてのコロッケが並んでいる。肉団子も、照りのあるタレに浸っている。

さっきまで、絵の中の色や年齢を考えていたのに、急に現実に引き戻される。

「コロッケ、二つと、肉団子もください」

店員が紙袋に入れてくれる。揚げ物の匂いが、ふわりと立ち上る。

紙袋越しに伝わる温かさが、なんだかうれしい。

電車に乗り、家に帰る。

部屋は朝と同じ静けさだ。

キッチンでコロッケを皿に出し、軽く温め直す。衣がカリッと音を立てる。肉団子は、そのままでも十分おいしそうだ。

テーブルに並べる。

さっきまで、二十三歳や四十五歳や六十八歳の感性を想像していたのに、今はコロッケの断面を見ている。

フォークを入れると、ほくほくとしたじゃがいもが見える。

一口食べる。

素朴な味。

派手ではない。

でも、安心する。

今日、私はいろんな年齢の隣に立った。

そして今、自分の年齢に戻ってきた。

何歳で、どんな色を選ぶのか。

何歳で、どんな線を引くのか。

まだわからない。

でも、今日という一日を、こうして過ごせた。

美術館の静けさと、揚げたてコロッケの温かさ。

そのどちらも、今の私のものだ。

孤独かどうかは、まだわからない。

でも、他人の人生を想像して、帰りにコロッケを買って、家でゆっくり食べる。

そんな休日がある。

それだけで、十分な気がした。


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