居場所がひとつ
その連絡は、夕方の仕事終わりに届いた。
「カフェ、開くことになりました」
大学時代の友人からのメッセージだった。
画面に表示された名前を見て、一瞬だけ時間が巻き戻る。
同じ校舎だったけれど、特別に親しかったわけではない。ゼミも違ったし、グループで集まるときに顔を合わせるくらいの距離。けれど、学内の小さなカフェスペースで、彼がいつもコーヒーを淹れていたことは覚えている。
あの頃、彼は理系の学部で、カフェとはまったく関係のない勉強をしていた。
それなのに、授業の合間には豆の話をして、アルバイト先のカフェのことを楽しそうに語っていた。
「将来は自分の店を持ちたいんだよね」
そう言って笑っていた顔を、ぼんやり思い出す。
メッセージには、店の名前と住所、それから「よかったらプレオープンに来てください」と書かれていた。
地図を見ると、今住んでいる場所から電車で二駅。遠すぎず、近すぎない。
私は少しだけ迷う。
特別に親しいわけではない。
久しぶりに会うのも、少し緊張する。
それでも、画面に並ぶ文字の端々に、静かな熱があるのが伝わってくる。
夢だったことを、本当に形にしたのだ。
「おめでとう。行くね」
そう返信すると、すぐに既読がついた。
プレオープンの日、私は少し早めに仕事を切り上げた。
春が近づいているはずなのに、空気はまだ冷たい。コートのポケットに手を入れながら、駅まで歩く。心の奥に、かすかな高揚がある。誰かの新しい始まりに触れることは、なぜか自分の背筋も伸ばす。
店は、小さな路地の角にあった。
白い壁に、木の扉。控えめな看板に、店の名前が丁寧な文字で書かれている。ガラス越しに、やわらかい灯りが見える。
深呼吸をして、扉を押す。
カラン、と小さなベルが鳴る。
店内は、思ったよりも静かだった。木のテーブルがいくつか並び、窓際には観葉植物が置かれている。新しい木材の匂いと、コーヒーの香りが混ざって、胸の奥が少しだけ温かくなる。
カウンターの向こうに、彼がいた。
「あ、来てくれたんだ」
エプロン姿で、少し照れたように笑う。
大学時代と変わらない笑顔。でも、その立ち方は少しだけ違う。ここが彼の場所だという自信が、静かに滲んでいる。
「おめでとう」
私はそう言って、花束の代わりに小さな焼き菓子の詰め合わせを差し出す。大げさなものは似合わない気がした。
「ありがとう。座ってて。コーヒー淹れるよ」
カウンター席に腰を下ろす。
店内には、他にも何人か客がいる。知り合いらしい人もいれば、たまたま立ち寄ったような人もいる。みんな、それぞれに静かだ。
豆を挽く音がする。
細かな粒が砕ける、やわらかな音。
お湯を注ぐと、ふわりと蒸気が立ち上る。
コーヒーの香りが、ゆっくり広がる。
私はその様子を、ただ見ている。
彼は、丁寧に、迷いなく手を動かす。
学生の頃、学内カフェで淹れていた姿よりも、少しだけ落ち着いている。時間が、ちゃんと積み重なっているのがわかる。
「はい」
差し出されたカップから、湯気が立ち上る。
一口飲む。
苦味が先に来て、すぐに柔らかな甘みが広がる。後味がすっと消えていく。深いのに重くない。
「おいしい」
自然に言葉が出る。
彼は少しだけ照れたように笑う。
「何回も失敗してさ。やっと、この味に落ち着いた」
その言葉の裏に、どれだけの時間があったのだろう。
在学中から、いろんなカフェでバイトをして、豆のことを勉強して、貯金をして、物件を探して。
夢を、少しずつ現実にしてきたのだ。
「パウンドケーキもおすすめだよ」
そう言って、ひと切れ皿にのせてくれる。
フォークを入れると、しっとりとした感触が伝わる。表面は少しだけ焼き色が濃く、中はきめ細かい。
口に運ぶと、バターの香りが広がる。甘さは控えめで、コーヒーによく合う。
「これ、絶品だね」
本気でそう思う。
彼は少し肩をすくめる。
「試作、何回もやったんだ。甘すぎるとコーヒーが負けるし、軽すぎると物足りないし」
その言葉を聞きながら、私は思う。
ああ、この人はちゃんと夢を育ててきたんだ、と。
特別に親しいわけではなかった。
でも、大学時代の断片的な記憶が、今目の前の現実と重なる。
「よかったね」
そう言うと、彼は少し真剣な顔になった。
「うん。でも、ここからだよ」
その言葉に、私は少しだけ胸が温かくなる。
成功した、というより、始まった。
店を出る頃には、空は夕方の色になっていた。
「また来るね」
そう言うと、彼は素直に頷く。
「いつでも」
その言葉が、軽くない。
私は路地を歩きながら、ふと気づく。
定期的に訪れたい店が、ひとつ増えた。
今までは、家と職場と、スーパーと、あの百貨店。
決まった場所を行き来する生活だった。
でも今日からは、あの小さなカフェが加わる。
そこには、丁寧に淹れられたコーヒーと、しっとりしたパウンドケーキがある。夢を形にした人が立っている。
孤独かどうかは、まだわからない。
でも、行ける場所がひとつ増えた。
それは、確かにうれしい。
電車の窓に映る自分の顔を、少しだけ見る。
一人でも平気そう、かもしれない。
でも、平気そうな顔の奥に、今日は少しだけ光がある。
家に帰っても、部屋は静かだろう。
それでも、あのコーヒーの香りが、まだ鼻の奥に残っている。
私はコートのポケットに手を入れ、ゆっくり歩く。
居場所が、ひとつ。
それだけで、今日の夜は少し違う気がした。




