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一日一粒

二月に入ると、街の色が少しだけ変わる。

コンビニの棚に並ぶチョコレートの箱が増え、スーパーの入り口に小さな特設コーナーができる。デパートの広告には、普段は見かけないブランド名が並び、どこか浮き足立った文字が躍る。

バレンタイン。

誰かに想いを渡す日。

そんなふうに言われるけれど、私にとっては少し違う。

毎年この時期、私は仕事を少しだけ早く終わらせる。

「今日はここまでにします」とチャットに打ち込む。急ぎの案件は片づけてある。後回しにできるものは明日に回す。ほんの少しだけ、自分のための時間を確保する。

パソコンを閉じると、部屋は急に静かになる。

コートを羽織り、マフラーを巻く。

外はまだ明るい。冬の午後は短いけれど、完全に夜になる前の時間が好きだ。冷たい空気の中に、どこか甘い匂いが混じっている。

駅前の百貨店では、毎年バレンタインフェスが開かれる。

入り口の自動ドアが開くと、甘い香りが一斉に押し寄せてくる。カカオの匂い、砂糖の匂い、焼き菓子の匂い。色とりどりのパッケージが並び、人の流れがゆるやかに動いている。

私はその中を、ゆっくり歩く。

誰かのために真剣な顔で選んでいる人もいる。

友達同士で楽しそうに試食をしている人もいる。

スマートフォンで写真を撮りながら、はしゃいでいる声も聞こえる。

私はひとり。

でも、それが少しも寂しくないのは、この場所が「誰かのため」だけではなくなっているからかもしれない。

最近は、「自分へのご褒美」という言葉が、どこにでも書いてある。

私はその言葉に少し救われる。

誰かに渡す予定はない。

特別な相手もいない。

でも、チョコレートが好きな私は、毎年このフェスを巡るのを楽しみにしている。

一つひとつのブースを見て回る。

カカオの産地が書かれたカード。

職人の顔写真。

試食の小さな一粒。

「こちら、新作です」と店員が差し出してくれる。

小さな紙カップに乗ったチョコレートを口に入れると、ゆっくり溶けていく。苦味の後に、ほんのりとした甘さが広がる。

知らない味。

でも、嫌じゃない。

私は箱を手に取って、裏面の説明を読む。

カカオ70%。柑橘の皮を練り込んでいる、と書いてある。

レモンのことを思い出す。

実家から送られてきたあのレモン。ドライフルーツにしたり、風呂に浮かべたり、蜂蜜に漬けたり。季節の匂いを、私はあの箱から受け取った。

チョコレートと柑橘。

少しだけつながっている気がする。

私はその箱を買い物かごに入れる。

もう一周、会場を回る。

赤いハートの箱。

金色のリボン。

小さな缶に入った粒チョコ。

見ているだけで、心が少しだけ浮く。

バレンタインは、恋愛のための日だと思っていた頃もある。学生の頃、手作りのチョコレートを渡したこともあった。上手く固まらなかったり、甘さが足りなかったりして、渡す前から少し緊張していた。

あの頃は、「渡す」という行為に意味があった。

今は、「選ぶ」という時間に意味がある。

自分のために、丁寧に選ぶ。

それだけで、十分な気がする。

いくつかの箱を比べて、最終的に私は三つ選んだ。

一つはビター。

一つはナッツ入り。

もう一つは、見た目が小さな宝石みたいな詰め合わせ。

少し奮発した。

レジで支払いを済ませると、店員が「ありがとうございました」と微笑む。

紙袋を受け取ったとき、その重みが嬉しい。

外に出ると、もう夕方だった。

空は群青色に変わり始め、街灯がひとつずつ灯る。紙袋の中のチョコレートが、私の今日の目的だった。

家に帰り、コートを脱ぐ。

テーブルの上に紙袋を置き、ゆっくりと中身を取り出す。

箱を並べるだけで、部屋の空気が少し華やぐ。

私は紅茶を淹れる。

湯気が立ち上り、部屋にほのかな茶葉の香りが広がる。

箱のリボンをほどく。

包装紙を破らないように、丁寧に開ける。

中には、小さなチョコレートが整然と並んでいる。

一粒、指先でつまむ。

今日は一粒だけ。

毎年そう決めている。

急いで食べない。

一日一粒。

それが、私のバレンタイン。

口に入れると、ゆっくり溶けていく。

最初に苦味が広がり、次にほんのりと甘さが追いかけてくる。柑橘の香りが、ふっと鼻に抜ける。

私は目を閉じる。

静かな部屋。

遠くの車の音。

紅茶の湯気。

チョコレートの甘さ。

誰かと分け合うわけではない。

写真を撮って送るわけでもない。

でも、この一粒が、今日の私を満たしている。

「一人でも平気そうだよな」

ふと、あの言葉がよぎる。

もしあの人が今の私を見たら、やっぱりそう言うだろうか。

ひとりでフェスを巡って、ひとりで選んで、ひとりで食べている。

たしかに、平気そうに見えるかもしれない。

でも、私は知っている。

平気だからひとりでいるのではない。

ひとりでも、ちゃんと楽しめるようにしてきただけだ。

それは強さというより、工夫に近い。

一日一粒。

明日の私のために、甘さを残しておく。

今日の幸せを、少しだけ未来に預ける。

箱を閉じ、リボンを軽くかけ直す。

テーブルの上に置かれた小さな宝石箱みたいなそれを見て、私は思う。

孤独かどうかは、まだわからない。

でも、甘い。

それだけで、今日は十分だ。



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