窓を開けて
朝、目が覚めたとき、喉の痛みはもうほとんど残っていなかった。
熱っぽさもない。身体の奥に薄い疲れの膜みたいなものはまだあるけれど、昨日までの重さとは違う。起き上がってみると、世界が少しだけ軽い。布団の中の空気が、もう守りの殻ではなく、ただの温度に戻っている。
私はベッドの端に座り、しばらく何もせずに呼吸する。
こういう朝は、久しぶりだと思う。
元気でいることが当たり前だったのに、少し寝込んだだけで、「戻ってきた」と感じる。身体って、案外単純で、案外正直だ。
窓の方へ歩き、カーテンを開ける。
外は寒そうだった。空は淡い灰色で、冬の光が薄く滲んでいる。昨日までなら、その冷たさに身構えただろう。でも今日は違う。私は窓を少し開ける。
冷たい空気が、さっと部屋に流れ込む。
頬に触れる冷気は、痛いというより、清潔だ。鼻の奥がすっとして、胸の中にたまっていた湿ったものが抜けていく気がする。加湿器の音が、いつもより軽く聞こえる。窓から見える電線の向こうで、鳥が一羽、短く鳴いた。
私はその音を聞いて、少しだけ笑う。
生きてる。
大げさだけど、そういう感覚がある。
キッチンへ行き、やかんでお湯を沸かす。
いつものようにコーヒーにするか、一瞬迷って、今日は白湯にした。温かいものを胃に落としたくなる。ほんの少し、はちみつを垂らす。昨日までの「治すための甘さ」ではなく、今日は「味わうための甘さ」。
窓の隙間から入る冷気と、マグカップから立ちのぼる湯気が、部屋の中で混ざり合う。冷たいと温かいが同居すると、部屋の輪郭がはっきりする。私はその境目に立って、今日を始める気持ちになる。
机に向かう前に、今日やることを頭の中で並べる。
昨日進まなかった仕事がある。
締め切りが迫っているわけではないけれど、置いておくと心のどこかに引っかかる種類のやつ。体調が悪い間は、何も進まなかった。その「何もできなさ」が、少しだけ罪悪感になっている。
パソコンを開き、メールを確認する。
未返信がいくつかある。いつもならすぐ返す程度のものだ。短く返信を書いて送る。相手からの返事が来るよりも先に、自分の中の引っかかりが外れていくのがわかる。
資料を開く。
昨日まで文字が霞んで見えていたのに、今日はちゃんと読める。目が滑らない。画面の白が眩しいだけではなく、意味のある白になる。私はキーボードを叩き始める。小さな打鍵音が、部屋の静けさをほどよく埋める。
集中していると、時間は勝手に進む。
気づけば昼前になっていた。
ふと手を止めたとき、窓から入ってくる空気が少しだけ変わっている。冷たさの角が丸くなっていて、冬の中に微かな光が混じっている。
仕事の区切りがつく。
大きな達成感はない。
でも、昨日できなかったものが「できた」という感覚は、思ったよりも体の奥を温める。風邪を引いて、やっと回復して、まず最初に戻ってくるのは、この「ちゃんとできる」という自信なのかもしれない。
昼食は簡単に済ませた。
冷蔵庫の中には、レモンがまだいくつか残っている。蜂蜜レモンにしてもいいけれど、今日はやめておく。少しずつ、普通の暮らしに戻していきたい。薬みたいに頼るのではなく、季節の匂いとしてそこに置いておきたい。
午後になって、少し時間が空いた。
仕事は片づいた。急ぎの連絡もない。
こういう「空白」は、在宅ワークの特権だと思う。誰にも見られていない時間。誰にも評価されない時間。何をしてもいい時間。
私はしばらく、椅子に座ったままぼんやりしていた。
何かをしなければ、という焦りが一瞬だけ顔を出す。でも、今日はその焦りを撫でて、そっと引っ込める。病み上がりの日に無理をするのは、自分が嫌いだ。
それでも、何か「整えたい」と思った。
お風呂掃除を丁寧にするには、少し体力がいる気がした。湯気の中でしゃがんでゴシゴシするのは、もう少し元気になってからでいい。代わりに私は、キッチンへ向かう。
シンク。
毎日使うのに、毎日ほんの少しずつ汚れていく場所。
水垢、油の膜、細かな食べかす。気づかないふりをしていても、そこに必ず残ってしまうもの。
私はスポンジに洗剤をつけて、蛇口の根元から磨き始める。
金属の冷たさが指先に伝わる。水が流れる音が、少し気持ちいい。シンクの隅にたまった汚れを落とすと、そこだけが光を返す。
不思議なことに、掃除をすると心が落ち着く。
汚れを落とすだけなのに、自分の中の曖昧なものも一緒に流れていく気がする。
ゴシゴシ、という音。
水の音。
洗剤の匂い。
それらはどれも、生活の音だ。
風邪を引いて寝込んでいた数日間、私は「生活」を少し手放していた。最低限のことだけして、あとは横になっていた。仕方ない。身体が言うことを聞かなかった。でも、手放したぶん、戻るときにこうして丁寧に触れ直せる。
蛇口をひねる。
水が勢いよく出て、泡を洗い流す。
ステンレスが、少しだけ鏡みたいに光る。
私は手を止めて、その光を見つめる。
この小さな光が、今の私にはちょうどいい。
夕方になり、仕事は完全に終わった。
窓は閉めた。部屋の空気は入れ替わって、少しだけ軽い。冷蔵庫の音も、さっきより静かに感じる。パソコンを閉じた瞬間、肩の力が抜ける。今日を一日として終えられることが、嬉しい。
外に出ることにした。
まだ寒いから、マスクをする。
病み上がりの自分を守るための薄い布。マスクをつけると、呼吸が少しだけ自分の中に戻ってくる。外の冷たい空気が直接喉に触れない。それだけで安心できる。
近くのスーパーまで歩く。
距離は短い。
でも、昨日までの私には遠かった距離。歩けることが、ちょっと嬉しい。街はいつもと変わらない顔をしている。コンビニの灯り、信号の青、通り過ぎる人たちの足音。私はその中を、少しだけ慎重に歩く。
スーパーの入り口の自動ドアが開くと、温かい空気と、惣菜の匂いが流れてくる。人の気配がある場所は、ほんの少し疲れる。でも今日は、その疲れも悪くない。自分が社会の中に戻っている感じがするから。
そして、やたらとうどんが食べたかった。
理由はわからない。
ただ、うどんの湯気を吸い込みたい。やわらかい麺を噛みたい。温かい汁が喉を通るのを感じたい。そういう欲求が、体の奥から上がってくる。
麺売り場へ行く。
うどんが何種類も並んでいる。冷凍のもの、茹で麺、乾麺。私は少し迷って、茹で麺を選ぶ。今日の私は、簡単な方がいい。余計な工程は省いて、すぐ食べられるものがいい。
だしのパックも買う。
ネギと、卵。
天かすも少し。
カゴの中にそれらを入れると、今日の夜が形になる。
これから何をするかが、具体的になる。生活はこういう小さな買い物で支えられている。
レジに並ぶ。
「袋、いりますか?」と聞かれて、「お願いします」と答える。
店員が淡々と商品をスキャンする音が、リズムみたいに続く。何気ないやり取りの中で、私はふと、自分が「普通」に戻っていることを実感する。
帰り道、空気が冷たい。
マスクの中で、息が少し温かい。
今日の冷たさは、昨日ほど刺さらない。私は買い物袋の重さを感じながら歩く。袋の中のうどんが、私の夕食になる。小さな確信がある。
家に戻り、コートを脱ぐ。
キッチンに立つ。
鍋に水を入れて火にかけ、だしをとる。湯気が立ち上がる。ネギを切る。まな板に包丁が当たる音が、心地よい。うどんの袋を開けると、ほのかに小麦の匂いがする。
鍋に麺を入れる。
少しだけほぐして、温める。
湯気が立ち上がって、窓ガラスが曇る。
私はその曇りを見て、妙に安心する。こういう当たり前のことが戻ってくると、心も戻ってくる。
器に盛り、ネギを散らし、卵を落とす。
天かすをひとつかみ。
湯気がゆらゆらと立ち上がる。
私はその湯気に顔を近づけて、息を吸う。だしの香りが鼻に広がり、胸の奥がふわりと緩む。
一口すすった。
温かい。
柔らかい。
身体の内側を、ゆっくりと撫でるみたいだ。
「やたらとうどんが食べたかった」という欲求は、正しかったのだと思う。体はちゃんと、自分に必要なものを知っている。私はそれに従うだけでいい。
食べ終わる頃には、指先まで温まっていた。
窓の外はもう暗い。
部屋の灯りが、テーブルの上に小さな島を作っている。
私は食器を洗いながら、ふと思う。
昨日の夜、私は「一人でも平気そうだよな」という言葉を思い出した。
あの言葉は、まだ心のどこかに残っている。
でも今日は、その棘が少しだけ丸くなっている。
一人で風邪を引いて、一人で回復して、一人で仕事を終えて、一人でうどんを作って食べた。
それは確かに、ひとりの生活だ。
けれど、そこにあるのは冷たさだけではない。
窓を開けたときの空気。
シンクの光。
スーパーの温度。
うどんの湯気。
小さなものが、ちゃんと私を支えている。
孤独かどうかは、今日もわからない。
でも、生活は戻ってきた。
そして私は、戻ってきた生活を、ちゃんと受け取っている。
窓の外は寒い。
でも部屋の中は、少しだけあたたかい。
それだけで、今日は十分だと思った。




