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この温度で今日は十分(前編)


夜の十時を過ぎると、この部屋は少し広くなる。

六畳とキッチンだけの、ありふれたワンルームなのに、灯りを落として間接照明だけにすると、壁の影がやけに遠く感じる。冷蔵庫の低い音が、規則正しく息をしているみたいで、それだけが生き物の気配のようだった。

テーブルに伏せたスマートフォンを裏返す。

通知はない。

さっき届いた仕事のメールが最後だ。

既読をつける相手も、今夜は特にいない。

私は、孤独なんだろうか。

そう思う夜が、月に何度かある。

在宅ワークという働き方は、私に向いていると思っていた。満員電車に揺られなくていいし、気を遣う雑談もない。画面越しの会議は必要なことだけを話して終わる。効率的で、無駄がなくて、静かだ。

静かすぎるだけで。

キッチンに立って、湯を沸かす。

電気ケトルが小さく震え始めると、部屋にわずかな緊張が走る。

コーヒーは、ドリップで淹れるのが好きだ。粉にお湯を落とした瞬間、ふわりと膨らむあの柔らかさを見ると、今日も一日はちゃんと終わるのだと思える。誰かに褒められたわけでもないのに、「お疲れさま」と言われたような気持ちになる。

マグカップを両手で包む。

この温度が好きだ。

少し熱すぎるくらいが、ちょうどいい。

ベランダの窓を少し開けると、夜風がカーテンを揺らす。隣の部屋から、テレビの笑い声が漏れてくる。誰かがそこにいる。料理をしている匂いも、かすかに漂ってくる。

私の部屋には、私しかいない。

でも、完全にひとりではないのだと、そういう音が教えてくれる。

親とは、何年も会っていない。喧嘩をしたわけでも、絶縁したわけでもない。ただ、連絡を取るきっかけを失って、そのまま時間が流れただけだ。親戚づきあいも、自然に消えていった。

友達も、いるにはいるのだと思う。誕生日に「おめでとう」とメッセージをくれる人は何人かいる。でも、今日の夕飯を報告する相手はいないし、「ちょっと聞いてよ」とすぐ電話をかけられる人もいない。

それは、孤独と呼ぶのだろうか。

洗濯機が止まった音がする。

立ち上がって、濡れたシャツを取り出す。

柔軟剤の匂いが、ほのかに甘い。

ベランダに干しながら、空を見上げる。都会の夜空は、星がほとんど見えない。それでも、雲の切れ間に小さな光がひとつだけ瞬いている。

あれが見えるだけで、今日は少し得をした気分になる。

私は、こういう小さなことで満足してしまう。

それでいいのか、時々わからなくなる。

もっと誰かを求めるべきなのか。

恋人をつくる努力をするべきなのか。

実家に電話をかけるべきなのか。

でも、考えているうちに、コーヒーが冷めてしまう。

冷めたコーヒーは、少し苦い。

その苦さも、嫌いじゃない。

孤独かもしれない。

でも、不幸ではない。

その違いを、うまく言葉にできないまま、夜は静かに深まっていく。



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