1月下旬 8話
電車に揺られること二十分程で目的地の上野に着いた。駅から劇場までは歩いて少しのところにある。雨も降っていないので、軽い散歩と行こうではないか。
ピンポーン。
「ふぎゃー! まりー!」
私が入場と同じように財布を改札機に当てて抜けた直後、すぐ後ろから茜の悲鳴が轟く。多分残高不足。
「ま、まりー、わわ、あ、すみません! 待ってて!」
周りのしかめっ面に詫びながら身振り手振りで私に訴えかける。あんなのではご自慢の洋服や髪も、都会でテンション上がって張り切って準備したけど、慣れない世界に失敗した田舎者にしか映らないだろう。
うわ、連れだと思われたくない。待たないで行っちゃおうかな。
と思いつつもなんだかんだ待ってやり、グーグルマップを開いて一緒に劇場を目指す。途中今度は今日のメイクについて語りだしたが、どこの民族の言語かってくらい専門用語が多過ぎて、もう何を言ってるのか分からず、内容は覚えていない。唯一記憶にあるのは「まりーはすっぴんなのに整い過ぎててズルい」という茜の羨望だけだった。
「……ここ、だね」
ガラスが多用された前衛的な外観は私達の目的地だ。スケルトン仕様で見通しがよく、開放感に溢れている。最近建設されたらしいので内部もさぞかし作り込まれて快適なのだろう。この劇場に来るのは初めてで、今までは街中でひっそりやってるような小劇場が多かったので思わず目を見開いてしまった。
マップと周りの様子を再度照らし合わせてからスマホの電源ボタンで画面を落とす。
意外と歩いた。多少息が上がってるのは見逃していただきたい。
「まりー、体力ないんだね」
「うっせ。憐れまないで」
日当たり良好な中に入り、カウンターでチケットを提示する。暖房が身に染みるいい室温。
「お越しいただきありがとうございます。二番ホールになります」
受付さんからの笑顔とパンフレットに会釈をしてから、指定された二番ホールへ。観音開きにされたその重厚な扉をくぐるとそこはぽっかりと広がる地中の大空洞だった。
「おー」
天井が高過ぎるのと、薄暗く設定された照明でさながら洞窟のようなのだ。これはついつい見上げずにはいられない。辺りを見渡すと真っ赤なシートが皆ステージを向いていた。少し目線をあげると二階席もあり、おそらく特等席だろう。カーテンの隙間から見下ろしている観客はテレビとかで見るヨーロッパのVIPルームを想起させる。
「結構人いるみたいだね」
「そうね」
余裕を持って上演開始二十分前に着いたのだが、既に椅子達の半分は今回の主人を擁しているような状態だった。
「席は……あそこ」
「ホールのど真ん中」
適度に見えやすいだろうと選んだ席だ。私は右、茜は左。それぞれ前席の背もたれフックにカバンをかけてから体を預ける。
「っふぅ〜」
赤いシートはラグジュアリーな柔らかさで雲のように、私のお尻から背中をふんわりと包み込んでくれた。ここまでの疲れを体内から吸収してくれているに違いない。
「寝れる」
「おいおい、来たいって言った本人が寝ちゃダメでしょ」
「寝れるっていうのはこのシートがいかに素晴らしいのかと私がここに来るまでにどれだけ疲れたのかを表す分かりやすい表現」
「マジレス乙。運動不足乙。あ! でも確かにすご」
「でしょ」
あ〜いい。流石に新築なだけはあるわ。
上演時間まで、この夢心地に酔おうと心に決める。
「ねね」
「ん? 何?」
茜の呼びかけに目を閉じたまま興味なく答える。
邪魔しないでもらいたい。
「手繋ご」
「やだ」
「繋ご」
「嫌」
「……無理矢理手とっちゃおうかな〜」
「このシート赤いから、少しくらい血飛沫飛んでも分からないよね」
「……」
左だけ開眼して、様子を見る。
……こいつ、マジで触ろうとしてるじゃん。
痴漢の如く私に腕を伸ばしている。どうやら茜は鮮血が迸っても構わないようだ。
やれやれ、母君からもらった体は大切にするべきだと思うがね。
私はキッと目を細めた。
鋭利なナイフのようになった私の手刀が目にも止まらぬ速さで茜の手首を別ち、赤い噴水が飛沫をあげる……わけもなく。
「あーもう」
「あ……」
私は受付さんから渡されていたパンフレットを開く。
面白そうだし、何よりこれで茜は手を握れまい。
さてさて……気になるのはやっぱり演劇部のほうなんだよなぁ。
「……むー」
ざまぁ。
「意地悪なんだね」
「まぁね」
「じゃあこっち」
すると腕に少しの重みを感じる。文字列から腕を辿ると茜は私のパーカーを摘んでいた。
顔を覗くと、茜はさも嬉しそうににへらっと笑う。
なんでそんなに幸せそうなのか……ま、いいか。
会話を弾ませる女子グループ、一人で来た理知的な男性。予定時刻に近づくにつれ、だんだんと人口密度が増えていく。五分前には既に観客席いっぱいに頭がひしめき合い、満員御礼状態になった。観客の数で、このショーの期待度が可視化されている。
早めに予約しておいてよかったわ。ペアだけど。
ビーッ!
開演のブザーが鳴らされた。
「ほら、始まるから、袖もういいでしょ」
「ん」
腕を引くと、茜の腕はポトっと支えを失ったように膝に落ちた。
緞帳がスローモーに上がり、その裏側に隠されていた高光度の光が溢れんばかりに拡散する。それは暗闇にいた観客の目を一瞬怯ませて、引き込んでいった。




