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3月下旬 44話

 今年度も終わりが近づき、最上級生がいなくなった校舎は静かで落ち着いていた。廊下ですれ違う生徒の数も目に見えて少なく、私としては過ごしやすいことこの上ない。定期試験が終わった在学生といえば春休みと進級に向けて浮かれ気分の者と大学受験でナーバスな者とで二分していた。

 

 だが私はというとそのどちらでもない。学力でいえば懸念事項は少しもなく本番は見直しをしっかりしようという戒めが片隅にずっとあるだけだ。

 大学受験よりも心に波風立てるのは他のことだった。

 

「彗星の茜がいなくなっちゃうなんてね〜」

「この学校の強い部活減っちゃうんじゃない?」

 

 開けっぱなしの廊下からは生徒の雑談が聞こえてきた。

 茜の転校は今月上旬にはクラスメイトに発表されていたが、勇名轟く彗星のニュースは教室に収まらず、学校全体に知れ渡っていた。集会の表彰で幾度となく呼名されたバスケ部の主将が転校するとなれば、バスケや茜を知らない人でも気になるのだろう。私でも知ってる国民的アイドルグループが解散するあの感じだ。

 

 もう……なんだよね。

 

 パキッ。

 

「あ」

 

 シャー芯が砕けるように折れ、綺麗な白いノートに微量の鉛粉が飛び散った。

 いつも通り放課後に残って勉強しているが、イヤホンの耳かきASMRでも集中できないくらい騒ついている。ここ最近はずっとこんな感じだ。

 

「っふ〜。やめるか」

 

 やめだやめ。こんな心境で解いたってただの作業だし、頭に入らない。

 

 机上の筆記用具と書籍をカバンに詰める。最後の部活動に行った茜を待つために自習していたがもういい。時間潰しはスマホでニュースでも見る。

 サイドのフックに忘れ物がないことを確認して、机の中も……。

 

「あ」

 

 指先に当たったそれの正体はすぐに思い出せた。

 

「学級日誌、書いてねぇじゃん」

 

 取り出した冊子をパラパラめくると今日の日付と天気、朝のホームルームでのお知らせしか書いてない。ほとんど真っ白だ。私は今日日直だったのだが、教室移動が多く、休み時間も茜の対応や自習していたので己の仕事を失念していた。

 

「うわ、ぜんっぜん書いてないし」

 

 あーめんどくさ。

 

 学級日誌を生徒に書かせるのはどういう意図なのだろうか。意味ある活動とは思えない。出席確認はホームルームでしているのだから教師は把握しているだろうし、この『掃除はよくできたか』とかは書く人の主観判断である。日直になにか仕事させるためにとりあえずなんかそれっぽいことをやらせてるに違いない。

 

 『今日の気づき』? なに書きゃいいのよ。

 

 私は自分で考えるのがめんどくさくて、他人のをカンニングしようとページを左に進める。

 

 これは不正じゃないし〜。参考だし〜。

 

 すると見慣れた筆跡がある。私とあいつは五十音で出席番号も近いからすぐ見つかるのは当然だった。

 

『今日もまりーがかわいかったです! 以上! あと補修の課題多すぎませんかね……』

 

 人の目に触れるとこでなに書いてんだあいつ。

 

『それはよかったですね。末永くお幸せに。ご祝儀贈るので早く提出してください』

 

 池田先生そのコメントはいかがなものかと。

 

 自分のノートだったら整えて書くが、こんなものはおざなりに済ませてしまおう。当たり障りないことを〆に記して日誌を閉じる。あとはこれを職員室に届けるだけだ。

 教室を出て廊下へ。そのまま人気ひとけのない校舎を進んでいく。閉校時間も近くなってきているため、活動している部活もまばらだ。

 コンコンコン。

 

「失礼します。学級日誌を置きにきました」

 

 渡し先の池田先生はいないようなので、デスクに置いてさっさとお暇する。

 

「お疲れ、気をつけて帰ってね」

「はい、さようなら」

 

 コーヒー片手の学年主任に帰りの挨拶を済ませて来た道を戻る。

 

 やれやれ。ま、どーせ暇っだしいいけどさ。

 

「茜!」

 

 教室のドアを曲がる手前、聞き覚えのあるかすれた声に気づいた。

 ちらりと中を窺う。

 声の主は予想通り長谷川。対面しているのは呼ばれた張本人茜だ。

 

 なんか入りにくいんだけど。

 

 だがここで渋ったのが運の尽きだった。

 私は我が耳を疑う言葉を聞いてしまった。

 

「ウチと付き合ってください!」

 

 あいつの高音はよく目立つ。もちろん開け放たれた廊下にもよく通るわけで、ドア閉めてやれよと言いに行きたいが、それすらもどうでもよくなる信じ難い言葉に呆気あっけにとられる。

 そして私はなにを思ったのかその真意と動向が気になってしまい、廊下で聞き耳を立てた。

 

「……私がまりーと付き合ってることは知っての告白かな」

「そう! ウチはそれでも茜と付き合いたいって思ってる」

 

 それは長谷川の決意だった。

 

「理由……どうして私?」

「気になりだしたのは……高校一年の同じ部活になったとき。最初はめちゃくちゃ上手いなって思ってるだけだった。だけどペアになったりしてさ、バスケ的に周りからも相性いいって言われてたじゃん、ウチ達」

「うん」

「……ウチってさ見た目怖がられること多いんだよ。ヤンキーみたいって」

 

 壁に寄りかかる私は思わずうんうんと首を上下にしてしまった。

 

「そんなウチでも茜は分け隔てなくさ、ていうか一緒に練習する時間多かったから優しさを結構感じてさ。茜ってば面倒見いいから、ウチに良くしてくれたから……す、好きになってった」

 

 たどたどしい文章は容量を得ないがそれでも長谷川は自分の言葉で本音を吐き出す。

 

「でも悔しかった。ウチは茜の唯一無二の相棒としていくつもの試合に出てるって自負してたの。ウチは茜の隣に並び立ててるって。だけどそれは思い上がりだった。茜は……遠くに行っちゃうことを話してくれなかったから」

「それはごめん。でも前に言った通り——」

「大丈夫。今は納得してるから。時間はかかったけどね。茜はやっぱり優しい人だから」

「……」

 

 茜はなにも言わずその先を待っていた。

 

「でもね。どうしても思っちゃうんだよ。紫水には言えるのか……って。そりゃ立場だって違うしさ。あいつバスケ部関係ないし。……でもウチだって打ち明けられるくらい信頼されたくて……違うな信頼はされてるか。とにかくそんな関係になりたくて、そこに行きたくて。だけどあいつはもうそこにいるんだ。……それが分からない。ねぇどうしてあいつなの。ウチじゃダメ⁉︎」

「……付き合おうって言いだしたのは私なんだ。これはね期限付きの交際なの。私が転校するまでの」

「なにそれ」

 

 その声色には狼狽ろうばいが表れていた。

 当然の反応だ。困惑するのも無理はない。

 

「おかしな話でしょ。年明けにね、こんなふうに放課後、ボイスレコーダーでまりーから言質げんちとって始まったの。なんでもしてくれる? みたいな。つまりは……私のわがままなんだな」

 

 あれは、もう約三ヶ月前……なのか。

 

 私が昔を思い出している間にも会話は進む。

 

「でもあいつ嫌々付き合ってんだよ! 見てて分かる。茜にぶっきらぼうな物言いして……いつか絶対茜は傷つく。そんな意味分かんねぇことで悲しむ茜見たくないよ。私だったらそんなことしない! だいたいあいつは——」

「おーっとストップ」

 

 徐々に感情的にヒートアップする長谷川を茜は遮るように口を挟んだ。

 

「それ以上はナシね。まりーと希美ちゃんは馬が合わないってのは知ってるけど……いくら希美ちゃんでも、恋人を貶されたら嫌いになっちゃうよ?」

「っ……」

 

 茜……。

 

 彼女の言葉は少しだけ鋭くて、それでも普段の茜からは想像できない口調だった。

 私は空いたドアから盗み見るように中を窺う。

 

「まぁあの子は口悪いのは確かだよねぇ。おまけに自分が正義だーなんて思っちゃってる節もあるし。希美ちゃんの言う通り私泣いちゃったときもあるよ」

 

 お前までそう言うか。

 

「昔はもう少し柔らかかったんだけどね。子供っぽかった。いや、子供だけどしっかりしてた。一緒にやんちゃしながらも、私のブレーキ踏んでくれる感じ。そうそう、実はまりーってね外遊び大好きな元気っ子だったんだよ、信じられる?」

 

 突然の懐古に話の行き先は予想できない。

 

 なにが……言いたい?

 

「嘘でしょ」

「嘘じゃないよ。一番好きな公園遊びは砂場で泥団子」

「……似合わねぇ」

「なんかひたすら整った泥球体つくってた」

「それはやりそう」

「でもね。一回やらかしちゃったの」

「ぁ……」

 

 なにを語るのか。それを予想できた私は小さく顔を上げた。

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