1月上旬 2話
「よーし、模試の結果返すぞ〜」
「「「えー」」」
担当教科地理であり私の担任教師である池田先生の声に、クラス全体が不満の声をあげた。
「えーじゃないだろ。難しかったからって現実から目を逸らすな。ほら出席番号順に」
そうして出席番号一番、名字があ行の生徒が渋々立ち上がった。少しして私も順番が迫って前へ行く。
「はい、紫水さん。いつも通りだな、この調子で」
「ありがとうございます」
別段特別なリアクションもせず、さっさと受け取って自分の席へ向かう。その途中で茜が私を呼び止める。
「え、まりーいつも通り?」
「うん」
「マジ、あんなにムズかったのに⁉︎ 数Ⅰの問三とか」
「あれはちょっとの応用でしょ。平方完成と判別式でaを求めてから——」
「あ、頭がー痛いー」
そこであからさまに数学への拒否反応。それを見て私はもう説明せず自分の席へ。分かろうとする姿勢がない人に何を言おうと時間の無駄だ。馬の耳に念仏。
「……」
返されたテスト結果を開く。そこには年明け前に行われた全国模試の成績が記録されている。いくつか選んだ志望大学の欄にはもれなく大きくAという文字。英語が少し下がってるが、代わりに数学が少し上がっている。総合は横這い。本当にいつも通りだ。
この紙がどれだけいい成績が示そうと、いつも通り私の将来は記されていない。あるのは私の今現在の能力だけであり、私がどの方向へ進めばいいのかは依然不明だ。将来への道には霧が立ち込めている。
「えー前も言った通り、今自分がどれだけの学力を持っているのか、例え悪くても目を逸らさないように。あと三ヶ月で君達も三年生になる。まだ志望校、進路を決めていない人はそろそろ確定するようにしてください。時間は有限です。一分一秒を無駄にしないようにしてください。では以上。帰りましょう」
それを合図に生徒たちがガヤガヤと帰宅や部活へ動き出し、教室は喧騒に包まれる。中には「ゲーセン行こう!」などと先程の先生の話を理解できない生徒もちらほら。
私は周囲に壁を築くようにイヤホンをして、教科書を広げる。かける音源は耳かきのASMR。無声でただ耳かきの音が流れるものだが、これがまた勉強を捗らせてくれる。私が俗に言う音フェチであるからで、万人に効果があるのかは怪しいが。
ノートの罫線からはみ出さないようにシャープペンシルが軌跡を刻み始めた。
苦行の日だった例の聖夜はとっくに去り、日本はめでたく新年を迎えた。大晦日には今年もやはり紅白派か笑ってはいけない派か問題が争われていたが、例年通り私はどちらも見ていない。生物と化学の復習をしていて、年明けの一時間前くらいには床についていた。お正月には田舎の祖母の家に行ったが、私自身神は信じていないので初詣も行かず、やっぱり勉強。それと趣味の料理に関して新しい技術を祖母から伝授してもらった。
冬季休業はそれくらいでとりわけ華があるわけでもなく、あっという間にまた学校が始まってしまった。今日はその初日で課外授業もない。しかしながら帰ってもやることは大して変わらないので、学校で過ごすことにする。周りの雑音はすぐに消えるだろう。
「なーに聞いてんの、まりー」
耳かき棒の心地よい音の合間に私を呼ぶ声が聞こえた。音源を一時停止して顔を上げると、小榑茜が机を私と向かい合わせにしているところだった。
茜が……居残り?
「耳かき」
「またそれか〜よっと」
「あれ? バスケ部は?」
「んや、今日始業式だからナシ。明日から」
「じゃなんで残ってるの? いつもだったら早く帰ってるのに」
「いやーさっきのテスト結果がヤバいから、流石に勉強しようかな〜っと」
茜はさっき渡されたペラ紙をひらひらと振った。
「ふーん。稀有なこともあるもんだ」
「け、けう……?」
「珍しいっていう意味」
「なるほどなるほど、あいあんだーすたんど」
「あんたは本読んで語彙力つけな。だから成績悪いんでしょ」
「うい……すんません……」
茜はしょぼくれながら向かいにつき、結果表を机上に滑らせた。私はそれを盗み見る。
「うわ、あんた数学やったほうがいいよ、本当に」
「えー今日は数学の気分じゃないー」
「勉強しないんだったら何のために残ったのよ」
「今日はね——」
リュックからドシンと積まれた書物の山。
「地理をやります」
教科書、地図帳、資料集。
「ふーん、ま、あんたはどの教科も要復習だしね。いいよ、教えたげる」
「わーい、じゃね大問一の問一——」
「は? 三角州のやつ? 前に教えたじゃん。鳥趾状三角州ミシシッピ川、円弧状三角州ナイル川、カスプ状三角州テヴェレ川。これは頻出だからちゃんと覚えて——」
相手がただのクラスメイトだったらもちろんこんなに懇切丁寧に教えたりはしない。別にあいつらに何を教えたって私が得られるメリットなどあるはずもなく、時間が削がれるだけだ。ではなぜ他人に興味もない私が今こうしているのかというと、それは相手が小榑茜だからだ。
小榑茜とは幼馴染である。
付き合いは幼稚園の頃まで遡ることができ、小中とずっと一緒だった。
私は勉強専門のインドア派、茜はスポーツ専門のアウトドア派。
性格も慎重と楽観的。
ロジカルとエモーショナル。
左脳派、右脳派のようにキッパリと分かれている。
方向性が真逆にもかかわらず、未だに友人(茜曰く親友らしいが)でいるのはお互いを補い合っているからだと思う。今と関わらず私は群れるのが嫌いで、ずっと一人で過ごしてきた。けれでもやはり一人では難しいこともあり、どうしようもなく途方に暮れていると大抵、茜は来てくれる。対して、茜は基本的にアホなのでなにかにつけて道を誤ってしまう。彼女からしても自身を導いてくれる案内人が必要なのだ。
「ねぇねぇ、EUでユーロを導入していない国って」
「イギリス、スウェーデン、デンマーク。イギリスウェーデンマークって繋げて覚えな。あ、最近イギリスがEU脱退したとか……」
「あざっす」
窓ガラス越しに外を見やる。グラウンドでは寒空の下、野球部が高らかに掛け声を出しながら走っていくところだ。それを窓についている手垢が遮って邪魔をする。
「ガラスに素手でベタベタ触るなんて非常識でしょ。そう思わない?」
「綺麗なの汚すのは良くないよね〜。でもまりーもそんなに常識がある……」
「はぁ?」
「あるねー」
私は非常識じゃないし。
一般的な生活に事欠かないくらいの常識は身につけているつもりだ。特に受けた恩に関してだけは忘れずに報いている。
社会において金銭だけでなく、恩の貸し借りは均衡であるように努めねばならない。でないとどちらかが怠惰或いは過労などによる不調を来し、自壊する恐れがあるからだ。
だからその持論に従って、今のように茜に協力することが多いのだが、今までの人生を振り返ると貸し借りは7:3くらいであちら側に傾いている。
とても私の求める均衡とは言い難い。
それもそのはず、週に三回は体育の授業でペアになってもらってるし、授業のグループ学習なんかでは周りとのパイプ役になってもらっており、明らかに私のほうが助けられている。そんなこといちいち気にすんな、は耳にたこができる程聞いたが、私がもう少し大きくでないとこの差は是正できないだろう。
てか、そもそもグループ学習ってものがよく分からないんだけど。友人ならまだしも、まるで学習意欲のないやつらに足並み合わせてやらなければならない意味が分からん。実力社会である現代において、実力以前に意欲がないやつらは淘汰されて然るべきなのに。
スピーカーから午後5時を知らせるチャイムが流れる。放課から既に一時間程経ったということだ。もうクラスには私達以外誰もいない。太陽も大分傾き、ちょうど私達を西日が照らす。
「そう言えばあんた、志望校の合格判定はどうなの?」
さっき聞きそびれていたことを思い出した。
「えぇ⁉︎ えーと……上から数えて4番目のランクだよ!」
「それを世間ではD判定って言うんだよ」
「うぅ、はい……」
なんでそんな自信たっぷりに答えられたんだ。
「そんなことだろうと思ったけど……何系の学校だっけ? 運動?」
少なからず茜の進路が心配になり、目頭を揉みながら問う。
「スポーツ系だよ」
「推薦?」
「う、うん」
「茜がスポーツ万能なのは知ってるけど、推薦って言ったって、テストはあるでしょ? どうせ個別試験も必要だろうし」
「そうだろうけど……」
茜は県内屈指である、うちの強豪バスケ部に籍を置いていて、過去にはアメリカへの三週間のバスケ留学や全国大会出場の経験を持つ。スモールフォワードとして、高身長と鮮やかな足捌きを生かし、チームの一番の得点源らしい。言うに及ばず体育の授業も技能、態度ともに完璧で、運動能力に関して言えば非の打ち所がない。
パラメータの振り方が極端なんだよな。私も人のこと言えないけど。
自分の手羽先みたいな腕を見つめる。
「今からもう本腰入れたほうがいいんじゃない? これじゃ間に合わないでしょ」
「うん……」
「英語も古典も数学も基礎の積み重ねなんだから、三年ゼロ学期と呼ばれるこの時点で基礎がぐらついてるとか、由々しき事態だよ」
「……」
「隙間時間に英単語、古文単語覚えるとかそういうのでもいいから」
「べ、別に私のことはいいから! まりーが気にしなくても、ね! それよりまりーだって志望校は決まってないんでしょ?」
突然、茜は私の言葉を千切るように一気に捲し立てた。その荒々しい勢いに私はたじろぐ。
「え……あ、私もそりゃ決まってないけど」
「まりーは私のことよりも自分のことを考えたほうがいいよ!」
「あー確かに一理あるけど……」
「でしょ」
茜は話はこれで終わりだと言わんばかりに、ノートを取り始めてしまった。黙々と進めるその姿には取りつく島もない。
茜が私の意見を聞かないなんて、これまた稀有な。
内心かなり驚いている。
茜は昔からアホでも、自分がアホだという自覚がある、まだ救いようのあるアホなので周りに真っ当な意見をちゃんと求め、聞き、それに従う性格だ。頭脳派と行動派をきっちり理解して区分できる。しかしさっきの言動は今までの彼女からはかけ離れたものだった。
「地中海性気候はサンフランシスコとケープタウンと……」
真剣に取り組む彼女を見ていると、顎に手を当てなにもしてない自分がサボっているように見えておかしいので、私も勉強を始めた。
ただ、茜が言っていることも正しいんだよな。
大学受験のために日々勉学に勤しみ、高成績を維持している。
しかし私には将来の夢というものはなく、志望する大学もない。
模試の志望校は家からの距離と世間の評価でテキトーに選んだ、なんの思い入れもないGMARCH。毎日数時間も机に向かっている理由は、別に志望校が難関であるとかそういうものでは全くなく、単にどこへでも行けるためだ。
数学はⅢまで修め、社会は二科目、理科も基礎なしを二科目取得。理系に身を置く理由はもしものときには文系への転換が容易だから。いずれの可能性に当たっても対処できるように練られた学習プランには、自分でもガッカリする程面白味がない。
文字や計算で満ち満ちているノートとは違って、私の将来は空っぽ。芥川龍之介の文を借りるなら、黒洞々《こくとうとう》たる夜があるばかりである。
チャイムが鳴った。
今度のは午後6時を報せるものだ。太陽はとうに沈んでしまい、辺りには冷たい冬の闇が漂う。そんな中でも人口の光の下、野球部は殊勝に練習を続けているようで、時折ボールを打つ甲高い音が飛び、スパンという音がグローブに突き刺さる。
野球って良い音鳴るし、観てる分には好きだな。やりたくないけど。
「ねーまりー」
少し前から手を休めていた茜が猫のように伸びをした。
「何?」
私は顔も上げずに答える。
「お喋りしよ」
「口だけでできる話題がいいな」
「……お喋りは口でするものでしょ?」
「脳を使わないテキトーで簡単な話題ってこと」
「あ、そいうこと。じゃあ……」
茜はガラリと椅子から立ち上がると、演技っぽく後ろ手を組み、ゆっくりと教室の徘徊を始めた。茜が足を下ろすたびにゴム底の上履きとフローリングがぶつかる、丸い音が聞こえる。
「一つお話をします」
私の視界から抜けると、茜は背中に向かって声をかける。
「なに?」
振り返ると、彼女は背面黒板を眺めていた。そこには『三学年まであと72日!』の文字。進級に向けて気合いを入れるべく、池田先生が健気に毎朝更新しているやつだ。
茜は『2』を指で丁寧に消し去ると、チョークで『1』に更新してしまった。
「ふふ、私ね……」
今度は教室前方へと向かう。
ただ歩く茜を、私はいつのまにか手を止めて注視していた。
なんだこいつ。
私は顔にかかるメガネを押し上げた。
まるで観客を魅了する主役俳優のように机の真ん中を進む。彼女自身を誇示するように、自身の姿を周りに見せつけるそんな雰囲気だ。
夜闇からカキンッと金属バットの小気味いい高音が聞こえた。
「よっと」
教壇にジャンプで飛び乗り、教卓に両手をつく。そして私だけでなく全員に、あたかも全ての席が埋まっているかのように一帯を見渡す。
「すぅ〜」
彼女の深呼吸が流れてくる。
そして数拍おいてようやくその口を開いた。
「私、小榑茜は四月から転校します」
「…………は?」




